Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

ナボコフ・美文・遠読

お久しぶりの「新・山形月報!」は、最近出たナボコフの関連書籍を徹底解説! 主に取り上げるのは、ウラジーミル・ナボコフ『記憶よ、語れ』『見てごらん道化師を!』『ナボコフの塊』(すべて作品社)、フランコモレッティ『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』みすず書房)、エレツ・エイデン、ジャン=バティースト・ミシェル『カルチャロミクス』草思社)です。



今年に入ってから、ウラジーミル・ナボコフの本が3冊出ていて、ファンとしてはありがたい限り。でもネットを見ても、なんかそれらについての言及がほとんどない。かわいそうに。でも、それは仕方ない面もある。ナボコフというのはなかなか論じにくい本を書く作家だからだ。そして今回出た3冊のうち2冊は、中でもちょっと特殊だからだ。

その最初の1冊は『記憶よ、語れ』(作品社)。ナボコフの半生記で、ロシア上流階級の贅沢で優雅な暮らしの思い出が、いささかの後ろめたさもなく全面肯定で描かれ、自分の家族は(弟はちょっと別にして)常に立派で美しく感受性豊かで高潔であり、それ以外の人々(奴隷ども)はみんな、多幸感に満ちた思い出のヴェールに覆われつつも、いちいちちくちく意地悪く嘲笑的に描かれる。その細部にわたる詳細な記憶にかかった、甘いヴェールのおかげで、この本を読むのはちょっと気恥ずかしいような体験でもある。そして、それを壊したレーニンスターリンボリシェビキに関しての恨み辛み、その後の亡命体験(ずいぶん優雅なものに思えるけれど)が彩りを添えている。そしてそのすべてが、ナボコフならではの詩情あふれる文章で描き出されている。

記憶よ、語れ――自伝再訪

記憶よ、語れ—自伝再訪

個人的にも、この本は思い出深い。以前、晶文社から出ていた本書の旧訳版(書名は『ナボコフ自伝』) は、ぼくがはじめて誤訳というものがこの世にあることを認識させてくれた本だからだ。子ども時代の本に、フード(フッド、頭巾)のつく本がいくつかある、という話をしている箇所で、ロビンフッドに加えて「頭巾をかぶった小さな馬上の騎士」とかなんとかいう下りが出てきて、「えー、それってLittle red riding hood?赤頭巾ちゃんじゃないの?」と思ったのだった。

ぼくはそれまで、誤訳なんてものがあり得るとすら思っていなかった。みんなが日本語を読むときみたいに、英語を読んだらそこに書かれた意味が自動的にわかるはずであり、そこに「解釈」なんてものが入り込む余地があるとは思っていなかった。だから、こうやってぼく(当時は中学生くらい)ですら推測できることをわからない人が翻訳なんかできるのか、と驚いて、それが気になってそこから先を読めなかったような記憶がある。今回の新訳はもちろん、そんなヘマはやっていない。そしてナボコフ自身によるこの本の偽書評(!)まで収録し、万全の仕上がりだ。

さて、ナボコフは作品の多くに、自分自身の体験や記憶を盛り込んだりする。その意味でこの『記憶よ、語れ』は、そのベースとなる情報を与えてくれるという意味で重要ではあるし、決してつまらない読み物ではない。というか、あまり深く考えなければうっとりしつつ読み進められる。でも、その感触は明らかにナボコフの他の小説とはちがっている。甘すぎるのだ。

ナボコフの小説はほぼすべて、ある種の意地の悪さが貫徹している。脇役に対してはもとより、だれよりも主人公に対して。ナボコフの小説は、その美しい文で描き出される世界の中で、全能の作者が登場人物たちを見下し冷笑しつつひどい目にあわせる、というのが基本線になる。ナボコフは、自分が文句なしの天才だと思っている度しがたいナルシストで、「言葉の魔術師」たる自分の作り出す美文に酔いしれている。でも、そのナルシシズムを救うのが、意地の悪さとそれに伴うときにブラックで、いじめっこが獲物をいたぶるようなユーモアだったりする。

ところが、この『記憶よ、語れ』は、 そうした部分がない。天才たる作者自身をナルシシズムのままに垂れ流していて、読み進めるうちにだんだん胸焼けしてくる。そしてぼくがピケティなんか訳して、格差問題に敏感になってきたからかもしれないけど、このロシア時代の甘ったるい美化がだんだんうっとうしくなる。ナボコフもそれを少しは気にしてか、いや父親たちも民主化運動とかしていたなどと弁解して、さらにはその後の社会主義の連中どもがいかにひどかったかを言い立てるんだけど、でもそれだけではねえ。そして社会主義に対する恨みというのは、別に財産と安楽な生活をぼったくられたことに対するものではないとか強弁するのは、嘘つけやといふのだ。この胸焼け感といいわけがましさは、いったん気がついてしまうとかなり萎える。

だけど、いまや日本のナボコフ軍団の親玉たる若島正は、訳者解説でそういう点にはまったく触れない。まあそれは仕方ないかもしれない。胸焼けするようなレトリックのテンコ盛りがむしろ大好きで、まったく気にならないという人は当然いるだろうし、いちいち社会正義の旗をふる必要もないんだから。では、その解説で何が書かれているのかといえば、あっちの話がこっちのこのネタとこうつながっていて、ここのほのめかしは実はこっちで種明かしがあって、という指摘だ。そして、そういう作者が隠していったなぞなぞをできるだけたくさん見つけることこそが、ナボコフの正しい読み方なのだ、といった話になっている。

さて、ぼくだってそういう読みの楽しさはわからないわけではない。作者が残したちょっとした小ネタに気がついたときには、得意になってにんまりしてしまう。でも——それがわからないといけないんですか? それを見つけないと、小説を本当に読んだと言えないんでしょうか?

ぼくはそんなことは全然ないと思っている。というか、本を——小説を——読むというのは、そういうつまらんRDB(リレーショナルデータベース)の管理作業まがいのものだとは思わない。いや、そんなものであってはいけないとすら思う。まあ、ぼくがおおざっぱな人間なので仕事ですらデータベースのクエリー書くのがいやだっつーのもあるんだろうけど。

作中のなぞを見つけるような読み方が無意味というのではないよ。『ドン・キホーテ』でも『ジキルとハイド』でも、そういう読み方をする意味はある。でも、それはその著者が、「へっへっへ、読者にわからないように小ネタを仕込んどいてやれ」とか思ってないからだ。だからこそ、細部の記述に見られるなにげない言及に深い意味が見つかって作品の見方が変わるというのが大きな衝撃性を持ったりする。

でもナボコフは、まず作中のなぞを探すような読み方こそ良いのだ、と読者にさんざんお説教を垂れて、読者を誘導してきている(ナボコフの各種文学講義などで)。そのうえで、自分の作品にそうしたネタを盛大にちりばめてみせる。結果としてナボコフのファンたちは、かれがばらまいたエサを、かれが教えたとおりに必死でつつき回すハトのような、貧相な奴隷根性に陥る。そして救われないことに、その貧相さに気がつかないどころか、自分の隷属ぶりを誇って見せて自慢し合うというつまらないゲームに精を出す。それどころか、たぶんナボコフが撒いていない餌まで、なにやらこじつけでほじくり出すことで、自分がいかに忠実な奴隷かを自慢してみせる。

以前どこかに書いたけれど、若島正ナボコフの小説で、長すぎるひもがヘビっぽく見えたというくらいの話を、すごいすごいと大騒ぎしていた。ぼくにはそれが、あまり楽しいお遊びには思えないのだ。イースターエッグ探しがおもしろいのは、みんなが楽しく探しているうちだ。でも、それを見つけられないヤツが見下されたり、それに追従しようとしてありもしない卵を見つけてみせて悦にいるのは、ぼくは不健全だと思う。

実はこの忠実な読者たちが置かれているこの構造は、ナボコフの小説と同じだ。ナボコフの小説では、登場人物たちはすごくイジワルされて、破滅させられたり、こきつかわれたり、こっけいな目にあわされたりする。そうした登場人物たちは実は、ナボコフが小説の中に用意してあげたいろんなヒントに気がつかないため、だんだん悲惨な方向に向かうことが多い。ナボコフは小説を通じ(そしてその読み方を強要することを通じ)まさに読者たちを、自作の登場人物たちと同じように右往左往させて喜んでいるのだ。それにちょっと乗っかってみるのは一興。でも読むってそれだけじゃないよね。ナボコフは、「創造的な読者」であれと言う。でもナボコフの用意してくれたナゾナゾを、ナボコフの意図した通りにほじくり出すのは、ぼくはちっとも創造的には思えないのよ。

そして、その見方をさらに強化してしまったのが、ナボコフの「ちょっと特殊」なもう1冊、かれの遺作『見てごらん道化師ハーレクインを!』(作品社)だ。この本、訳者あとがきを読むと、こんなことが書いてある。

見てごらん道化師(ハーレクイン)を!

見てごらん道化師(ハーレクイン)を!

「文体の面から見ても、マーティン・エイミスをはじめとした多くの批評家が指摘するように、荒削りで、これ以前のナボコフ作品中にあり余るほど見られた、うっとりするような美しさ、快感を覚えるような美しさを、若干失っているということは認めざるを得ない。(中略)長い文章のいくつかは美文であることをやめ、ほとんど悪文として読者の頭を煩わせてしまう。晩年のナボコフの、文章家としての衰えを指摘されても仕方がなかろう」(p.354)

そしてぱらぱらと拾い読みすると、確かにずいぶんぎくしゃくしている。『記憶よ、語れ』で見られた、甘ったるいような美文はない。そして読み始めると、なんかクソつまらない。主人公は、ナボコフと同じロシアから亡命してきた作家で、大学の先生も兼ねている。ナボコフ作品のパロディみたいな著作リストが冒頭にかかげられていて、これは明らかに自分自身の戯画化だ。そしてその人物はえらく俗物のくせにうぬぼれだけは強くて、なにやら自己満足に浸りきった自分語りを展開しつつ、己のドタバタした女性遍歴を(とんでもなく自己中心的に)語るといううんざりする代物なんだけれど——。

でも、すぐにわかるべきだけれど、いくら老いたりとはいえ、ナボコフがこの小説の文のノリの悪さに気がつかないわけがないのだ。そのダメさかげんは、衰えとかいうレベルではない。明らかにこれ、ナボコフはわざとやっているのだ。自分自身のパロディとして設定した主人公が、ナボコフ自身の文章のパロディで自伝を書いている——それがこの小説の基本的な構造だ。だからそれを読んで「晩年のナボコフの、文章家としての衰え」なんてものを指摘してしまうのは、そもそもこの小説がわかってないと告白するに等しいんじゃないかな。大丈夫か、マーティン・エイミス。大丈夫か、翻訳者。それがわからんところで細部の日付やら各種のもじりやら暗合をいくらほじくっても、ぼくは小説を読んだことにはならないんじゃないかと思うのだ。

が、それがわかるとこの小説がおもしろくなるかというと……そうでもない。それに気がついた最初のうちはニヤニヤできるけれど、いかにパロディ文体とはいえ、劣化版の金釘ナボコフを本1冊まるまる読まされるのは苦痛だ。そして本書をもっといやなものにしているのは、この人物の戯画化を通じてナボコフは例によって、別の形でナルシシズムに浸っているだけだということだ。本書にはそれを示す、こんな下りがある。

「私はその夜、そしてその次の夜、またいつだったかそれ以前に、私の人生はこの地球かまた別の地球に住む別の誰かの人生の、瓜二つというわけではない双子の片割れかパロディーか、あるいは質の劣った 異本 ヴァリアント なのではないか、という夢のような感覚に悩まされていたということを告白したい。 悪魔 デーモン がむりやりその別の人物のものまねをさせようとしているのを感じたのだが、その人物とは、それ以前もそしてその先も常に、きみの忠実なるしもべである私とは比べものにならないほど偉大で、健康的で、そして残酷だったし、そうあり続けるであろう、別の作家だったのだ」(p.111)

その「別の作家」というのはもちろん、ナボコフ自身だ。わざと自分の劣化版を設定してみせることで、自分を「比べものにならないほど偉大」と平然と呼んでしまう夜郎自大ぶりは、ナボコフが天才だと十分認めたうえでも、かなり鼻につく。ましてそれを本1冊にわたり続けられると……。

……という話を妹にしたところ、それだけではないよ、と指摘を受けた。ちなみにぼくは当然ながらナボコフの撒いた餌をほじくるだけの奴隷読者どもよりはずっとナボコフ読みとして優れているけれど、ぼくの妹は少なくともナボコフに関してだけは、そのぼくをもはるかに上回る。その妹の指摘では:

Vadim(この小説の語り手)は実は主役ではなく、vn(ウラジーミル・ナボコフ)のあらゆる作品のヒロインのアナログである女登場人物らのツマみたいなものです。女が主役。 最初の奥さんは、ada(『アーダ』のヒロイン)の生まれ変わり。この世では、健全な仲良し兄妹として幸せに暮らしている。二番目のタイピストは、the gift(『賜物』の真面目な融通のきかないヒロイン。(中略) 娘は当然ロリータの生まれ変わり。この世では、本当のお父さんと、心の通い合ういい親子に。詩なんか作ったりして、vadimを泣かせる。ボーイフレンドと家出してお父さんが探すとこもアナロジー。 まあ、原作で散々な人生を送らせてしまったお気に入りのヒロインを、別の世で生まれ変わらせて、こうだったら良かったという形で昇華させてあげてるとも言える。それが最後の作品だから、集大成としては、ふさわしいとも言えなくもない。

なるほどねー。ぼくはナボコフ読みとしては、たぶん優秀だけれどまちがいなくナマケモノなので、結構読んでないものがあるんだよね。でも読んだ範囲では確かに。そしてそう考えると、この『見てごらん道化師を!』は、 意地悪くいたぶってきた作品世界(の女性たち)と和解する小説であると同時に、現実世界との和解でもある。ナボコフはずっと、華麗な文章を通じて記憶を美化して描き出してきた。でもこの作品では、もはや華麗な「言葉の魔術師」としてのナボコフはいない。著者(のパロディ)はつまらなくてでこぼこした現実の中を、ぶざまに動き回る。

何度か書いたネタだけれど、かつて渋谷陽一が、キング・クリムゾン『ポセイドンのめざめ』かなんかのライナーで、なぜかれらが音質劣悪なライブ盤『アースバウンド』を出したか、という話を書いていた。それによると、バンドリーダーのロバート・フリップはあるインタビューで、「キング・クリムゾンの初期アルバムは、若者をだまして堕落させるような何かがあった」と自己批判していたそうな。『クリムゾン・キングの宮殿』などの荘厳な美しさを、かれはこけおどしの虚飾だと感じていたので、それを捨て去る意味で音の美しさを捨てた『アースバウンド』を出し、まさに地(アース)に足のついた(バウンド)ところに戻ろうとしたのだ、というのがその主張だったと思う。

『見てごらん道化師を!』も、 そんなところがある。ナボコフのこれまでの作品は、本当に若者(年寄りも)をその美文でだまして堕落させるようなところがあった。つーか、それこそナボコフ作品の醍醐味とされていた。でもここでは、ナボコフの記憶はもはやレトリックで美化されてはいない。それどころか本書の最後で、そのもはや華麗ではない 現実の中で死を目前にした主人公は(そしてその妻たる「きみ」は)時間の中で振り返ろうとするのを(つまり記憶に生きるのを)やめる—。

そう読むと、この本は最初のクソつまらない印象(そしてその後の、悪質な自己称揚という印象)とは少し変わってはくる。くるんだが— その変化は、あくまで「少し」でしかない。まさにこうした側面のおかげで、この本は、単独ではなかなか面白がれない代物になっている。本書の中にナボコフがまいた餌を律儀にほじくっている訳注によれば(そして、それは怠け者のぼくとしては多少はありがたい努力ではある)、「ナボコフとかれの他の小説への言及なしに『見てごらん道化師を!』を論じることはできるのか」というのはなにやら大問題なんだそうだけど、なんでそんなものが大問題なのか、ぼくにはわからん。どう見てもこれはナボコフ自身の世界との和解としてのみ意味を持つ本で、失敗作とされるのもむべなるかな。

さらに副作用もある。この本を読んでから『記憶よ、語れ』に戻ると、そのナルシスティックな記憶美化がなおさら鼻につくものにはなる。華麗なレトリックも、逆に気ぜわしくうっとうしくさえ思えてしまう。ある意味でそれは、ナボコフを読む楽しみを殺してしまう面さえあるのだ。本当にナボコフが好きなら、どこかの時点で本書に取り組むしかないんだろうとは思う。そこでどう感じるかは、ナボコフ読みとしての踏み絵にもなる。自分はナボコフの何に反応しているんだろうか?と。まあ、そういう人はわざわざ言われなくてもこの本を読むだろうとは思うけれど……。

そのナボコフの3冊目は秋草俊一郎編『ナボコフの塊』(作品社)で、『記憶よ、語れ』『見てごらん道化師を!』よ りはぐっと気楽な読み物となる。かれの各種のエッセイ集だ。これまた、ある程度ナボコフを知っている人が読んで楽しむものではあって、何も知らない人がこの1冊だけ読んでも楽しめるとは思いにくい。ナボコフは非常に独善的だし、いろんなこと(たとえば翻訳)についてえらく偏向した考え方を持っている。他の作家の悪口を言うときも、なでぎりにはするけれど、それをきちんと説明はしてくれない。それを痛快と思う人もいるだろう。が、そう思わない人もいるはず。 そしてそうした独善的な主張は、「あのナボコフだからねえ」と思えばニヤニヤできるけれど、たぶんナボコフのなんたるかを知らない人が、ストレートに納得できるような部分は限られているとは思う。でも名前は知っていてもわざわざ自分で探し出す手間をかける気はなかっためんどくさがりやの読者にとっては、名のみ高くて実物を目にする機会がなかったエッセイも収録されているので、是非どうぞ。

そのセレクションも、様々な時代やテーマに関するエッセイを編者が非常にバランスよく集めてくれている。ぼくはナボコフアルビン・トフラーと行った、まったく話のかみ合わない対談とか、もっとひねくれたものもすきなんだけれど、残念ながらそういうのは収録されていない。が、一風変わったおまけもあるし、楽しめると思うよ。

さて、目下、主流とおぼしきナボコフの読み方——ナボコフ様が用意してくださったネタを、その意図どおりにほじくりだして感心してみせるような精読——を罵倒した。他方、そういう読み方を嘲笑する立場もある。それを述べているのがフランコモレッティ『遠読—〈世界文学システム〉への挑戦』みすず書房)だ。

遠読――〈世界文学システム〉への挑戦

遠読—〈世界文学システム〉への挑戦

この本は、もっとちがう読みを提案している。それこそ、本をビッグデータとしてコンピュータにかけるようなやり方だ。たとえば、本の題名の長さとその中身はどう関係しているのか? 登場人物のネットワーク分析をすると何が見えてくるのか?などなど。そして、多少こじつけめいた部分もあるけれど、意外におもしろい結果が出てくる部分もある。

方向性はおもしろい。あまりに細部にこだわったり、ウェットな情感に耽溺したりしない、ドライな「読み」の可能性が出ている。ただしそういった反主流的なやり方をしたせいで、ひょっとしていじめられて性格が歪んだのかもしれないけれど、あちこちに見られる著者の無用にひねくれたイヤミや、あてこすりめいた物言いはつまんないだけで、この本の価値ある部分をじゃましていると思う。そして分析の結果の雑な部分(またはその分析をする前提の雑な部分)について精読派からいろいろ物言いがついた話は、訳者解説にも詳しい。それでも、作者様の置いてくれたヒントを律儀に読み解くにとどまらない文学分析のありかたとして、そこそこおもしろい。さらにその訳者がナボコフ研究者として知られる(そして『ナボコフの塊』編者の)秋草俊一郎だというのも、ナボコフ読みが精読のタコツボにハマった人ばかりではないのかも、という希望を少しはうかがわせてくれる。

が、正直いって、この程度の分析が珍重されるようでは、文学研究ってレベルが低いのね、とも思う。これなら『たかがバロウズ本。』(大村書店、現在PDFで読める) でぼくが構築したバロウズ小説の経済モデル化のほうがずっと水準が高いとおもうんだけどなあ。それ以外でも、グーグルブックスによる書籍の真の巨大データベースを元にビッグデータ解析した、「文化をビッグデータで計測する」という副題を持つ、エレツ・エイデン、ジャン=バティースト・ミシェル『カルチャロミクス』草思社)を見ると、すでに文学の外堀のほうからこうした方向性は急激に埋められていることもわかる。さて、文学どうする(ってどうもしないだろうけど)というところで今回はおしまい。

キューバ危機・組織論・決定の本質

今回の「新・山形月報!」は、グレアム・アリソン(&フィリップ・ゼリコウ)『決定の本質』日経BP社、Ⅰ~Ⅱ)を徹底レビューします。組織論の名著とされる本書の読みどころはもちろんのこと、初版と第2版の違いから考えるポイントなどもきっちりと紹介しています。



ご無沙汰です。今回はグレアム・アリソン(&フィリップ・ゼリコウ)『決定の本質』日経BP社、Ⅰ~Ⅱ)の話で、これをきちんと書くために間が空いてしまいました。本当だったら、もっとササッと流せたはずなんだけれど、それができなかった(怒)! なぜできなかったか、というのがまさに、今回のが長く&遅くなった理由でもありまして……。

1. アリソン&ゼリコウ『決定の本質』の概略

 この『決定の本質』の 噂くらいは聞いた人も多いかもしれない。いや、そういう言い方は失礼だろうか。わざわざこんなコラムを読んでいる知識人教養人諸賢であれば、ほぼ常識に属するはず。組織論とか国際政治学みたいな分野での分析の概念的な枠組みを、1960年代末にまとめた本 (出たのは1971年) として今なお必読書と言われつつ、1977年に中央公論社から出た訳書はなぜかもうずっと絶版が続いていた。

決定の本質 キューバ・ミサイル危機の分析 第2版 1 (日経BPクラシックス)

日経BPクラシックス 決定の本質 キューバ・ミサイル危機の分析 第2版 I

 そうこうするうちに原著は、1999年にかなり加筆されて第2版が出てしまった(第2版でゼリコウが加わり、共著となっている)。そして……15年ほど かかってやっと邦訳が日経BP社から出た次第。なんでこんなに時間がかかったのやら。が、ともあれ出たのはすばらしい。待望の、と言っていいだろう。

  1.1. 組織の決定:3つの分析モデル

 で、何の本かというと……題名の通り、物事がどうやって決定されるかについての理論的枠組みを論じた本だ。決定といっても、個人ではなく組織の話。組織が何らかの決定をして動いたとき、それをどのように分析したらいいだろうか? この本は1962年のキューバ危機を例に、その考え方の枠組みを3つ示した(公務員試験にも出るので、覚えておいて損はないよ!)。

●合理的行為者モデル
●組織過程モデル
●政府内政治モデル

 要するに、組織として何か目的や理念があって、それを実現するための合理的なステップとして各種の決断が行われたはずだ、という分析が合理行為者モデルだ。ほとんどの分析が通常は採用するのは、このモデルだ。でも、そこには難点がある。いま述べた「何か目的や理念」というのは、やり方次第ではいくらでも考えられる。だから後付けでどんな説明でもできてしまうし、仮定と結論が同じ(「合理的なA国がBという行動をとったのは、それが合理的だからだ」)で終わってしまう。

 これに対して、政府や国のレベルになると、いろんな組織があって、それぞれは大なり小なり硬直してきて、決まったことしかできなくなる。そういう組織ごとの融通のきかなさを考えると、それをあわせて行われる最終的な決断や行動は、合理性とはずれてくるよ、というのが組織過程モデルになる。

 そして、世の中そんなきれいごとじゃ決まらねーんだよ、あっちの局長はこいつに恨みがあって意趣返しの機会を狙ってるし、こっちは以前の借りがあるので他の組織に頭があがらないし、この団体はこの話を口実に自分の組織の予算を盛ろうと企んでるし、こっちは歴史的な経緯から発言力が弱すぎる……などなど。そういった組織(およびその中の個人)同士の力学や駆け引きがすべての決断と行動を左右するんだよ、というのが政府内政治モデルだ。

 こう書くと、どれも当たり前だろ、と思う人も多いだろうけれど、当たり前のことをきちんと定型化してみせるのも学問の重要な知見だ。こうした枠組みを明確にすることで、かみ合わない議論も避けられることが多い。

  1.2.キューバミサイル危機の分析

 本書はそれをキューバ危機という、悪い意味で非常にヤバかった事件にあてはめてみせる。1962年という米ソ冷戦のさなかに、ソ連がいきなりキューバに核ミサイル基地を設置しかけ、それに対してケネディ大統領下のアメリカが海上封鎖で応じてソ連に撤去を迫り、そして最終的にフルシチョフ書記長がギリギリのところで撤去に応じたという3週間ほどにわたる事件となる。どちらかが、ちょっとでもちがう対応をしていたら、第3次世界大戦、いや世界終末の核戦争になりかねなかった、世界史上の一大事件だ。

 でも、この事件はよく見ると、ちょっと変だった。なぜかというと、そもそもソ連にとって、キューバにミサイル基地を作るなんてあまりに挑発的でリスク高すぎだし、アメリカがそれに対して行った海上封鎖はかなりしょぼい対応だったし、それでも結局はミサイルは撤去され、核戦争回避が実現されるという大きな成果があがってしまったからだ。全体として見ると合理的に動いているようで、個別のアクションを見ると合理性モデルだけでは説明がつけにくい。他のモデルを使うと、それぞれの行動についてもう少し踏み込んだ説明ができる。

 こうした事件についてのありがちな「分析」は、肝心なところで「そこでケネディがリーダーシップを発揮し~」とか「フルシチョフが、ふと手に取ったレーニン全集の一節を読んで我に返り~」といった、個人のパーソナリティや体験に落とし込んで事足れりとしてしまいがちだ。でも、そんなのは裏付けも応用力もない単なるお話で、分析の名に値しないし、理論でもなければ学問でもない。もっとまともな検討できるようにしようぜ、普遍性のある話をしようぜ、というのが、そもそもの著者の出発点だ。本書は、そういう属人的なお話を超えた分析の枠組みを示した。そして、そこに書かれた内容が、いまや当たり前に思えることこそ、本書のえらさを物語っているとすら言える。

 

 ……というのがこの本の概要だ。たぶん、このくらいは知っている人も多いだろう。ただ、名著とか必読書とかの噂を聞いた人は多くても、前述のように初版が長らく絶版だったこともあり、実際に読んだ人は限られるはず。初版は古本価格も高騰していて、7,000~8,000円くらいしていたので、このぼくも実物を手にして読んだのはかなり最近だった。決して手軽に読める本とはいえない。学者のまじめな分析だし、それに長い。今回出た第2版の邦訳はとっても分厚くて、上下巻で900ページ。でも、非常に勉強になる本だし、機会があれば(いや積極的に機会を見つけて)是非読もう。

2. この解説は困ったもんだ。

 が……どうしても苦言を呈しておきたいのが、この本の「解説」と称する代物だ。

 30年ぶりに邦訳が出るとなれば、この本の位置づけとか評価について、それなりに充実した解説があるだろうと期待するのは人情だと思う。これはどういう本なの? なぜそんなに評価が高いの? 刊行当時から、その評価はどう変わったの? そしてなぜわざわざ1991年に第2版が出たの? その第2版って、初版とどう変わったの? このくらいは説明してほしいところだ。そして、それがあれば、ぼくはこんな長ったらしい説明を書く必要はなかった。

ところが……本書の解説は、これを何一つ説明しやがらないのだ。曰く、

「初版とこの第2版を比較してどこがどう変わったのかという観点からの詳細な論評は、別の機会、別の書き手に譲ることにしたいが、本書を手にする人は、初版とは別の全く新しい本として読んで差し支えない」(II巻pp.451-452)

譲るな〜〜〜!!

 おふざけでないよ、まったく。これを書いたのは、渡辺昭夫という国際政治学のそれなりにえらい人だそうな。本書のテーマや分析手法は、かれの専門分野の直球どまんなかのはず。その専門家が、本書の中身についてきちんと解説せずにどうするの? そして旧版とのちがいについて、数十年ぶりに出た第2版の解説で説明せずに、だれがどこでそれをやってくれるの? 編集者もまちがいなく、その作業をやるにふさわしい人材と見込んで、渡辺に依頼したはず。それをやらないなら、そもそも解説を引き受けないでほしい。

ちなみに、本書は「初版と別の全く新しい本」ではない。基本的な主張や提示されている枠組みはまったく変わっておらず、初版のインクリメンタルな更新でしかない。こういうミスリーディングな書きぶりは、ホントやめてほしい。

そして、こうしたいちばん求められる内容をまったく書かずに、この人はいまの3つのモデルについて、説明しかけてはうだうだした感想に堕するというしまりのない文章を続け、そして最後にこう述べる。

「それでもケネディ抜きでは、到底この物語は成立しないだろう。指導者個人の力量、見識などの重要さを改めて感じるという平凡な感想でこの解説を結ぶと、アリソンやゼリコウの意に沿わないのかもしれないが、それが、私の正直な感想である」(II巻p.458)

 あのさあ……この本はそもそも、そういう人物の印象論の域を出ない話が無力だという認識から出発しているんじゃないの? たとえば、まとめのII巻 pp.398-400に出ている記述は、フルシチョフなりケネディなりの「力量、見識」がどういう背景で出てきたかについて、第3のモデル(政府内政治モデル)的な枠組みで説明しているけれど、それでは不十分だと言いたいわけ?もしそうなら、そして結局はケネディ個人がすごかったというなら、それは本書の分析が不十分だということだろう。どこかが不十分だと判断したから、そういう感想が出てきたんだろうか? それがあれば、この本の分析の枠組みをどう発展させる可能性があるかについての示唆にもなるけれど、そんな説明もなし。

 結局「ケネディえらい」に戻ってしまうなら、そもそもこの『決断の本質』での検討はすべて無意味で役立たず、ということになってしまう。そういう立場もあるだろう。でもそれでいいの?そしてそれはこうした国際関係論や組織論という学問分野(ひいては渡辺自身のキャリア)すべてを否定するに等しいはずだけど、その覚悟があって言ってるの?

 やるべき作業をまったく果たさず、それに変わる知見を出しもせずに紙幅と機会を無駄にして、挙げ句の果てに、そもそもの出発点を踏みにじるちゃぶ台返し。もうちょっときちんと解説していれば、この本の価値をぐっと上げられたはずなのに、ないほうがいい代物になってる。

3. 初版と第2版の比較

 しかたないので、不詳ぼくが初版と読み比べてみると(はい、そんな面倒なことしてたもんで時間がかかりました)、非常に大きく拡充されているのはまちがいない。

  3.1.加筆改定部分の概要

 たとえば、最初の合理的アクターモデル解説の部分では、初版ではモーゲンソーのリアリズム論とシェリングハーマン・カーンの議論をざっとなぞって、従来の議論の解説としている。でも第2版ではここが大きく拡充され、既存の説明は合理的選択としてひとまとめにされて(I巻p.137)、その後出てきた多くの学説の要領のいい説明が並ぶ。ネオリアリズム(I巻p.104)、国際制度学派(I巻p.114)、リベラリズム(I巻p.125)。脚注では、進化論的なアプローチにも言及がある。 あるいは、組織過程モデルについても、制度学派と新制度学派の説明の対比が加わったり、政府内政治モデルについても、プリンシパル=エージェント問題への言及を加えたりなど、初版刊行後のさまざまな知見についての言及は多い。原著の書評を見ると、こういう学説整理の点で第2版を評価する声はそれなりにあ る。

 そして、もう一つ大きく変わっているのは、事例として扱われるものの広がりだ。初版は、基本的に冷戦下の話であり、したがってほぼあらゆる国際関係論は、しょせんは米ソ関係とその周辺、という構図だった。だから、事例は(もちろんこの本の中心的な分析対象となるキューバミサイル危機を筆頭に)すべては米ソ関係の話だ。だれそれのこういうソ連観は組織過程の見方だとか、こういう冷戦分析は合理エージェントの見方だとか。 でも第2版の出た1999年の時点では、冷戦は終わっている。だったらこの本の分析はもう古びたというべきなのか? この本は冷戦の分析だけで意味を持つものなのか?

 たぶん、第2版を出した最大の理由はここにあったんじゃないかとぼくは思っている。この本の枠組みは今も有効だし、他のものにも使えるだけの汎用性があるよ、というのを明確に打ち出したかったんじゃないかな。そのために、各種理論的枠組みの説明では、初版で使われていたソ連分析などの話が、イラク侵攻や ユーゴ爆撃、国連での駆け引きといった、20世紀末の新しい事例にたくさん差し替えられている。組織過程分析については国際関係論以外にも応用があることを示したかったんだろう、アポロ13号の危機とチャレンジャー号爆発におけるNASAの組織構造分析を、かなりの紙幅を割いて記述している。

 さらに、主要事例となるキューバミサイル危機についても、その後公開された当時の会議のテープ記録や新しい文書をもとに、かなり拡充されていて、分析自体も変わっている。合理的アクターモデルの分析は、初版では基本的には不十分であり不可解な部分が残ってしまうという結論となっていた。ところがその後、ソ連アメリカがトルコのミサイルとか西ベルリンの扱いをかなり気にしていて、キューバをそうした動きとのあわせ技で考えるともう少し合理的アクターモデルで説明しやすいのでは、という結論になったりしている。その他、組織過程や政府内政治による分析でも、多くの人々の要所要所の発言が明らかになったことで、分析に具体性が増している部分も見られる。ここらへんは、新たに加わったゼリコウの十八番ということらしい(ただし、それが基本的な分析の枠組みや結論を大きく変えるものではないので、これについてはあまりきちんと見ていない)。

 ということで、第2版は初版にくらべ、その後の理論的な発展について概観し、また冷戦以後の世界におけるさまざまな事例をちりばめることで、本書の記述や分析が今なお有効であることを裏付け、さらには新資料に基づく細部も更新された。ほぼあらゆる面が加筆改訂され、改訂新版の意義はとても大きいと言える。言えるんだが……それによりこの本は、初版より「よく」なっただろうか?

  3.2.  第2版の評価:議論の希薄化?

 これは本当に、何をもって「よい」かとするその人の価値観次第ではある。あるんだけれど、このぼく個人の価値観に基づいて言わせてもらうと、うーん、ぼくとしては初版のほうがよかったんじゃないかと思うのだ。なぜかというとこの各種の加筆が、初版の持っていた非常に強い問題意識と緊張感を、かえって薄れさせてしまって、本としての迫力とまとまりを損なってしまったように感じられてしまうからだ。

 1971年に出たこの本の初版は、理論的な枠組みの提示という側面と、継続中だった冷戦における一大事、キューバミサイル危機の分析という側面とが不可分になっていた。そして冷戦/ミサイル危機の切迫感が理論的な枠組みの重要性を浮き彫りにし、理論的な枠組みが時事的な状況分析に深みを与えるという、見事な相補関係がそこにはできていた。まさに、いまここの状況に直接かかわるものとして分析があり、そこから生まれてくる理論的な枠組みの切迫した意義が生じていた。現在でも、初版を読むとその感じはつたわってくる。

 ところが、1999年に出たこの第2版は、その両者がちょっと分裂してしまっている。まず、もうソ連はないし、冷戦も終わった。キューバミサイル危機の分析という部分は、かつてのような切迫感はなくて、はるか昔のできごとに関するアームチェア的な分析だ。当時の会議のテープ記録や新しい文書をもとに、キューバ危機の分析がかなり拡充されたのが特徴らしいと述べた。でも、その改訂は別に理論的な枠組みのほうに影響するわけではない。キューバ危機によほど関心がある人以外には、かなりどうでもいい。

そして、初版の出発点というのは、合理的アクターモデルでは不十分ですよ、ということだった。だからこそ、他の決定要因を考えよう、という話が重要性を持ってくる。ところが、ベルリンやトルコのあわせ技ならば合理的アクターモデルの説明力が高まる、という第2版の立場は、この論理展開を弱めてしまう。合理的アクターモデルでやっぱ十分ってことですか? もしそうなら、組織過程モデルとか政府内政治とか、あまり頑張って見なくてもよさそうじゃないですか。

 さらに加筆された1990年代のユーゴ爆撃やイラク侵攻は、第2版が出た1999年直後であれば時事性を高めることになっただろう。でも現在では、そうした細かい事件自体がすでに記憶の彼方になってしまっていて、むしろキューバミサイル危機や冷戦のほうが、まだ多くの人の意識(少なくともこんな本を読むような読者層の意識)には強く焼き付いているんじゃないか。2016年の今読むと、時事的な目新しさを回復させようというそうした試み自体が、かえって古くさく、あまり今日的ではない印象に貢献してしまっている観さえある。

決定の本質 キューバ・ミサイル危機の分析 第2版 2 (日経BPクラシックス)

日経BPクラシックス 決定の本質 キューバ・ミサイル危機の分析 第2版 II

 一方の理論のほうは、ネオリアリズムの説明とか勉強にはなります。でも、たくさん加筆したおかげで、本の論旨展開がぼやけてしまっている。新しい学説はいろいろあっても、それによって本書での合理的アクターモデルという分析の枠組みはまったく変わらない。その他の部分も同様だ。つまり、国際制度学派の話やプリンシパル=エージェント問題とかは、本書の論旨には貢献できていないのだ。むしろ余計な話がいろいろ出てきて、見通しを悪くしているように思う。

 ちなみに、進化論的な適応の話に脚注で触れていると述べたけれど、まずそれが合理的説明の放棄である、というとても変な認識になってるし、参照されているのはジャレド・ダイアモンドにスティーブン・J・グールド。ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』草思社文庫、上下)は1999年の時点では出たばかりなので仕方ないとはいえ、当時は大きく話題になったものの、その後だんだん突っ込みが入ってきたし、さらにスティーブン・J・グールドは、ポール・クルーグマンが揶揄しているように、進化論を通俗書でしか知らない素人さん向けの人なので、触れないほうがよかったんじゃないか。また、教科書として使うためにチェックリストとか整理表とかを入れたのは、まあ学生には有益なのかもしれないけれど……。

 そして、初版と第2版の持つ時代/問題意識の差を示している部分がもう一つある。いちばん最後の部分だ。まず初版では、「第7章 結論」の第3節「今後の展開」の部分は、基本的に「あまり合理性を過信して核戦争なんか起こらないと思い込んではいけないよ」という主張につきている。国は合理性から外れた行動をすることがある。組織過程や政府内政治は、その合理性からの逸脱を考えるためにあるのだ、というわけ。そして、その応用として、ベトナム戦争への適用についての言及がある。これが、「北ベトナムが合理的に見れば負けてるのに、なかなか降伏しないのはなぜか」という問いとして立てられているのは、今にして思えばほほえましい。

余談ながら、デイヴィッド・ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』二玄社、上中下)は、ある意味でベトナム戦争でのそうしたプレーヤーたちの「力量、見識」がそれぞれの人のどういう背景で生じたかを詳細に記述した、第3モデル分析の見事な実践だったことが本書を読むとよくわかる。その点は、以前にレビューで指摘もした。

 さらに「あとがき:今後の研究のために」という章が設けられて、この本での分析の不足部分、今後検討しなければならないテーマとその具体的な政策への応用について、非常に包括的なまとめが続いている。いままさに起こっている冷戦状況の分析にとって、いままさに必要な枠組みを自分たちが構築しなければならず、そしてそのために本当に現在進行形の学問的な努力が必要なんだという意識が、明らかにそこには働いている。

 それが第2版では、冷戦が終わって核戦争はもう起きないという見方は不十分で、ソ連崩壊後のメンテ不足や核拡散で核戦争の危機はいまだにあるよ、という主張が続くんだけれど、やはり迫力不足。そして最後に唐突に3ページほどにわたって、ケネス・ウォルツ批判が続くのは、なんだか実に場違いに見える。そしてなんと、それで第2版は終わってしまう! 以前の「あとがき」の部分は完全に削除されている。研究の不足、今後さらに追求すべきテーマについては何も言及がなく、その応用についても何も考察はない。30年たって、冷戦時における切実な状況分析と政策応用の組み合わせだったこの本が、もはや今後特に発展させるつもりもあまりない、大御所の地位に安住してしまっていることがうかがえる。もう現在進行形の中にはおらず、古典だけどまだ完全に古びてはいませんよというアピールだけで終わっているわけだ。「あとがき」で挙げた各種課題にその後の学問的な展開がどう対応しているのか、というのをまとめてくれたら、すごく有益だったんじゃないかと思うんだけど……。

 そんなこんなで、第2版はぼくとしては、全体に拡充した分だけかえって希薄化して、初版の迫力を失ってしまったように思う。これは、仕方ないことではある。でも、こういう形で加筆改訂するよりは、本文の改訂は最低限にとどめて、最後にその後の展開や現代的な評価などとまとめた章を2-3章ほど追加してくれたほうがよかったんじゃないかなあ。

4. 原著の変化と世界の変化:第2版の意義とは

 なんだかずいぶんきつい言い方になった。でも、これはあくまで初版との比較の話。そしてもう一つ、このぼくの評価の理由として、たぶんぼくが冷戦時代(とその崩壊)をリアルタイムで見ている歳寄りだということがあるんだろう。このぼくが、かつての米ソ関係とか、核戦争一歩手前とか、そのゲーム理論的な物言いとかにそれなりに触れてきて、そっちのほうに強いリアリティをすり込まれてしまっているために、初版の問題意識のほうが強く心に迫ってくるんじゃないか。ぼくはもちろんこれについて客観的な見方はできないけれど、でもそういう側面はあるにちがいないとは思う。

 第2版は発散して当事者意識が薄れたような印象を抱いてしまうのも、実は単に世界の国際関係的な構図が発散してわかりにくくなった反映でもある。さっきも書いたように、かつての国際関係論は、米ソの腹の探り合いがすべてだった。でもいま、それがもはや通用しない。いろんなプレーヤーがいろんな利害をもって交渉をするようになっている。本書の前提となる環境自体が発散しているし、第2版はその状況をなるべく反映しようとしている。ぼくが批判的に言及してきた部分は、実はそうした努力の結果でもある。

 そしてそのために本書のキモである理論的枠組みがまったくダメになったということもない。というより、むしろその重要性は高まっているかもしれない。いま、世界のいろんな勢力の様々な動きは、単なる「合理性」だけでは語れない。イスラム国をごらん。難民問題をごらん。ロシアの立ち回りをごらん。本書では、 合理アクターモデルだけではだめで、組織過程や政府内政治も見る必要がある、というのが強い主張だった。そしてマクロレベルの合理性を確定しにくくなった現在(だれの、どういう状況における、どういう意味での合理性か、というのがいまや実に複雑だ)、組織過程や政府内政治(政府内でなくてもいい。世界に群れるさまざまな小勢力でもいい)的な見方のほうが重要、というかそういう見方以外には何も理解できないケースも増えている。本書の第2版の加筆は、それを早い時期に指摘できている。これは評価すべき重要なポイントだ。

 もちろん1971年の本の改訂ということで、これらの部分の加筆には限界がある。そして第2版が出た1999年は、もはや冷戦が終わったことにだけみんなが歓び、今後は大きな国際紛争なんかなくなるような見通しを、一部の人々は平然と出していた時代だ。ぼくがいま述べたことは、いまなら当然のこととして自然に受け取れるだろう。でも当時は、そうしたことが問題だという話そのものが、重要な指摘だった。たぶんいまの人々は、その指摘を受け止めつつ、自分たちでこういうテーマや分析を広げるにはどうすべきかを考えねばならない。それを念頭に読むと、この第2版は「キューバミサイル危機の分析」以上の意味を持ち得る。このコラムの読者諸賢も、米ソ冷戦時代なんか噂でしか知らない人も多いはず、その人には、むしろこの第2版のほうがリアリティを持って迫ってくる可能性も十分ある。

 そしてもちろん加筆された部分だってとても勉強になる。だからこれまで題名だけ知っていた人も、この第2版の邦訳を機に実際に読んで見る価値は十分にある。そして、「それでも上下巻900ページはきつい……」という向きは、この第2版が出たおかげで、初版の日本語訳の古書価格が大幅に下がったので、基本的な主張の理解のためにはそっちを読んでもまったく問題ないと思う。むしろそっちのほうがいい面さえあるというのは上に書いた通り。それに短めだし、解説もずっとましだし。

 今回はこれにて終了。これを読んで書いているうちに、他の本もいろいろたまってきたので、次回はもっと早めに出せるとよいのだけれど。ではまた。

日本人の起源・大航海・ビーグル号

今回の「新・山形月報!」は、日本人の起源を探る大胆な一冊、海部陽介『日本人はどこから来たのか?』文藝春秋)を皮切りに、トール・ヘイエルダール『コン・ティキ号探検記』河出文庫)とチャールズ・ダーウィン『ビーグル号航海記』平凡社、上下)という冒険に満ちた本を扱います。ぜひ、ご一読を~。



今回は掲載の間隔が、やや詰まっております。少し遅れ気味だったのを挽回ということで。さて今回は、まず人類学者・海部陽介『日本人はどこから来たのか?』文藝春秋)。これは、もうタイトル通りの本。

日本人はどこから来たのか? (文春文庫)

日本人はどこから来たのか?

日本人の起源という話は、非常に興味深い話である一方で、変なイデオロギーに支配されがちなので、きな臭くなりがち。また、ジャレド・ダイアモンドのたいへんおもしろい(が、いろいろ批判も出てきている)『銃、病原菌、鉄』草思社文庫、上下)の原著に、実は「日本人とは何者だろうか?」という章が、後日出た増補版では追加されている(ぼくが勝手に訳したので、そちらを参照あれ)。つまり、この問題が日本人だけの関心ではなく、世界的にネタとして興味深いこともわかる。

そして、この日本人の起源については、イデオロギーと絡んで面倒だという事情がそこでも触れられている……。のだけど、その章では、なぜか日本で最も人気があるのが、日本人は古代氷河期の原人たちが独自に進化してきたという説とされている(その他怪しげな日本がらみのネタも多い)。えー、そんな変な説を唱 える人をあんまり知らないんだけれど。ウジ虫じゃあるまいし湧いて出てきたわけじゃないんだから、どっかから来たことくらいさすがにだれでも認めるんじゃないのかな。だいたい、上から来た説、下から来た説、真ん中の朝鮮半島からきた説、そのごった煮説くらいじゃないの? でも、確かに一部のネトウヨ諸氏 は、いまの韓国の人々と日本人とが遺伝的に近いのが我慢ならないので、あれやこれやとあやしげな話をたくさん持ち出している。

この『日本人はどこから来たのか?』は、 必ずしもこのネトウヨとかの変な妄想に貢献するものでも、否定するものでもない。というのも、扱っているのが数万年前の話、おもに新石器時代の話となる。 まあ、縄文時代以前、ですよね。その後、縄文人弥生人に追われておそらくアイヌとかに残っているだけになってしまったので、いまの日本人の先祖がどうのこうの、という話には直接続かないのだ。それでも、たいへんにおもしろい。何がおもしろいって、古代日本人というのが、アフリカを出てユーラシア大陸を一 万年かけて東へ向かってきた人類が、再び出会った存在かもしれないという可能性を示唆している点。

いまの人類がアフリカ起源とするのはだいたい定説で(つまりジャワ原人とか北京原人とかはどっかで死滅してしまい、いまの人類にはつながってないということ)、しかもアフリカを出てきたのはかなり少人数だったらしい。でも、いままでの定説では、その連中はずっと沿岸づたいに移動してきたとされるんだって。 ところが、著者が遺跡の年代測定を見るとちがう可能性が出てくる。内陸部の遺跡を見ても、同じくらい古いやつが出てくる。どうも、内陸部をつたって東にき た一派もいるらしい。そして沿岸一派と内陸一派が出会ったのが、日本も含む東アジアあたりらしい。

一つ、ぼくが驚いたのはこの日本人起源の議論であまり他分野の成果が使われていなかったという話。実はかつては台湾から細い半島が延びていて沖縄が地続きだったので、別に航海なんかせず歩いてきた、というのがこの分野では定説だったそうなんだが、他の分野の成果を見ると、地質学を見ても生物学を見てもぜんぜんそんな説は裏付けがないんだとか。え、そんなこと、とっくにわかってたんじゃないの、と思ったけれど、意外とみんな他分野の成果を参考にしたりはしな いらしい。

本書は、そうした他分野の成果も活用しつつ、遺伝学の分析、遺跡の年代測定、石器の技術など文化面での証拠を多面的に集めて、古代日本人の起源を検討している。そして特に伊豆諸島の神津島から出る黒曜石の分布から、元日本人が数万年前に高い航海技術を持っていたことがわかっている。著者は、その技術が存在 したのは南方の島伝いに、船で台湾、沖縄を経て日本にきた連中がいて、それが北や対馬からきた人々とまざりあっていったからでは、という説を出している。

いろんな話が多面的に絡み合いながら答が出てくる様子は、非常にスリリングでおもしろい。さらにこの説を証明するために、海部はいま、クラウドファンディング昔の人々の船を再現して、実際に航海しようという計画をたてている。おもしれー。ぜひとも応援してあげてください。ちなみに、まだ現時点で目標額二千万円の半分もいってない……。なんとか実現してほしい!

こういう人類の移動仮説を、自分で船作って検証しました、といえば、これは何といっても、かのトール・ヘイエルダールによるコン・ティキ号のお話。南太平洋の島々に残る神話伝承をもとに、この地域の人々が船で南米からやってきたという仮説をたて、あらゆる人の反対を押し切って自分でバルサという木材を使っ て筏を組み立てて、本当にペルーからそれらの島に渡ってしまったという話は、単純に冒険譚としても抜群に面白い。

コン・ティキ号探検記 (河出文庫)

コン・ティキ号探検記 (河出文庫)

(余談ながら今の部分、元の原稿では単に「バルサを使って筏を~」となっていたんだけど、編集さんが「バルサが何だかわからない人が多いかも」と意見をくれて、それが木材だというのを加筆した。でもバルサ工作って今の小学生とかはやらないのかな?が、それはさておき……)

本人が書いたそのお話が、トール・ヘイエルダール『コン・ティキ号探検記』河出文庫)。実はしばらく前に、出張先のテレビでこれを元にした映画(『コン・ティキ』)を流していた。2013年にこの本が文庫化されたのは、その映画公開にあわせてのものだったみたい。ジュブナイル(子ども向け読み物)でしか読んだことがなかったので、映画を観た懐かしさもあって初めて本物を読んで見ました。

で、やっぱおもしろいわ。突然思い立って、こういう冒険人類学とでも言うべき分野に乗り出す様子もあまりに唐突でインパクトあるし、実際の航海の描写も活き活きしていて楽しい。そして着いてからの歓待ぶりや、いきなり即席医師になってしまう様子も。翻訳も、ずいぶん前のものなのに全然古びていないのは立派。あと、昔読んだジュブナイルは、そんなに端折ってなかったことをを確認できた。

一つだけ不満がある。結局、このヘイエルダールの説は今では否定されている。南太平洋の人々は、アジアのほうからインドネシアをつたってやってきた人たちであり、南米からやってきたとするのは、他のいろんな証拠から見てないらしい。航海できた、というのと昔の人が実際にそれをやった、というのとでは話がちがうのだ。そこらへんの事情を、だれかに(それこそ海部陽介あたりに)解説で書いてもらうほうがよかったと思う。これだけ読むと、ヘイエルダールの勝利宣言だけで終わるので、「あれ、やっぱりこの人の説が正しいってことになったんだっけ」と読者が混乱してしまうんじゃないかな。ぼくも、この説について調べ るのにずいぶん時間をかけてしまったよ。

そして、同じ航海記として名高いチャールズ・ダーウィン『ビーグル号航海記』平凡社)。これも、ジュブナイルではかつて読んでいたけど、ここしばらく航海記づいているので読んで見ようと思った次第。いやあ、楽しいね。これまた若きダーウィンが、まだ進化論を考える前の時点でビーグル号に乗って世界一周をして、見るものきくものすべてめずらしく、それらを丁寧に書き記した本だ。地 理、地形、気候、動物、昆虫、植物、そしてジュブナイルでは飛ばされていた、各地の人間観察。理論化は考えずにとにかくあれもこれもと詰め込まれている。 それでも、今にして思えば進化論につながりそうな疑問もあちこちに記されている。なぜこの生物がここに広がったのか、なぜいろいろ鳥の種類がちがうのか? そういうところを見るのも興味深いもの。

翻訳は、荒俣宏による非常に読みやすいもの。荒俣宏はもともと名翻訳家だし、かつてジュール・ヴェルヌ海底二万マイル』の翻訳に登場する魚の和名がまちがっていると憤っていたこともあり、生物系にはきわめて詳しい。本書のような各種生物が乱舞する著作の訳者としてはうってつけだ。さらに詳しい訳注もあり がたい。

そして人間観察の部分で、たびたび奴隷制の糾弾や、現地人たちを奴隷、または奴隷まがいに扱う西洋人たちに対する憤りが述べられているのは、非常に感動的 ではある。同時に、人々の生活、理解力、労働などについての観察もきわめて詳細だ。読んで、何かすごい知見が得られるとか、まったく新しい発見があるとい う本ではないけれど、その観察力やすべてに「なぜだろう?」と科学する心の発露ぶりは実に爽快。古い本にありがちな、古くさい読みにくさも皆無で、非常に現代的に読める。

というところで、年度末のいろんな仕事が追いかけてきて、月末までにもう一本書けるかどうか。予告していた経済系の本はなかなか進まない状態でして……まあどうなりますやら。ではまた。

ランチ・産業革命・1960年代

今回の「新・山形月報!」は、タイラー・コーエン『エコノミストの昼ごはん』(作品社)と山本義隆『私の1960年代』(金曜日)の二冊を中心に、アラン・マクファーレン『イギリスと日本』新曜社)や、E・L・ジョーンズ『ヨーロッパの奇跡』名古屋大学出版局)、グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』日経BP社、上下)などを論じます。過去に取り上げた『国家はなぜ衰退するのか』『銃、病原菌、鉄』『無限の始まり』『大分岐』にも改めて触れますよ!



前回、最後に取り上げたアマルティア・セン、ジャン・ドレーズ『開発なき成長の限界』明石書店)の訳者解説について、インドの開発(特に経済成長の役割)をめぐるバグワティとセンの論争に触れてほしかったと述べた。それに対して訳者の湊一樹からコメントをもらった。わぁ、こんな書評でもちゃんと読んでくれているんだ! ありがとうございます。

で、コメントの内容だけど、あの論争(「センとバグワティがけんかしとるでー。」)は、むしろ現地の政争に利用されるかたちでメディアにたきつけられたものだから、あまり真面目に取りざたすべきものではないんじゃないか、というもの。バグワティの批判に対するセンの対応もずいぶん嫌々な感じだし、論争として特筆すべきものではない、とするのが湊の見解だ。その傍証として各種の資料もご紹介いただき、非常にありがたかった。ぼくはインドで時々仕事があるので、状況はフォローしているけれど、常に携わっているプロジェクトがあるわけではない以上、関心が下がる時もあるし、とても系統的に調べているとはいえない。専門家の指摘は勉強になります。

ただ、ぼくはこの論争が、一時的にインドの政治状況やメディアが引き起こしたものだとは思わない。形式的にはそうであっても、内容はもっと根深い。最初にバグワティが書いた怒りの手紙では、かれが昔からセンの経済成長軽視(とバグワティ的には思えるもの)についてすごく不満を持っていたことがはっきり出ている。そして、これは経済成長に対するありがちな論争に直結する内容で、インドだけにとどまらないもう少し広い話でもあるとは思う。とはいえ、そこまであの本の訳者解説で大風呂敷を広げる必要がないのも事実だし、純粋に本の内容を周辺ノイズとはかかわりなく享受すべき、というのも立派な見識ではある。今後 も是非ご指導よろしくお願いします!読者が知るべきだと思ったらこのように公開しますので。

で、今回は何をおいてもタイラー・コーエン『エコノミストの昼ごはん』(作品社)。これ、確か昔、版権取得だか翻訳だかについての打診がぼくにきた記憶がある。でも、全体にネタがアメリカに偏っている内容に思えて、慎重なコメントをしたはず。でも、いま読んでみるとやっぱ面白くて、これなら自分で翻訳をやっておけばよかった、と後悔しきり。

エコノミストの昼ごはん――コーエン教授のグルメ経済学

エコノミストの昼ごはん—コーエン教授のグルメ経済学

いま考えると、原著を読むにあたって多少の偏見もあったかもしれない。「経済学者とは、あらゆるものの価格は知っているのに、あらゆるものの価値がわからん連中である」という意地の悪いジョークがある。が、あらゆるジョークの常として、これもある種の真実をついてはいる。別にそれは、経済学者どもが度しがたい味オンチであるという意味ではない。ついでに、本当の立派な経済学者は、価格と価値のちがいくらい、ちゃんと知っている。ただ、こうした悪口がそれなりに説得力を持つ程度にはニワカな人や付け焼き刃な人は多い。だから、ご飯についていかにも経済学っぽい話をしたがる浅はかな連中は、しばしば「原価厨」 に堕してしまう。

原価厨とは、「元を取る」ことばかりを重視して、とにかく原価の高いものを飲み食いするのが、もっともお得で賢明な消費行動だと思っている人を指す。それについては、別のところに書いたことがある。しばらく前に、『スタバではグランデを買え!』ちくま文庫)って本が流行ったけれど、これも基本的には原価厨の発想だ。ぼくは当初、経済学者の書くグルメ経済本なんて、それと同工異曲だろう、とたかをくくっていた。

でも、実際に読んでみると、本書はそういうものではない。いろいろなシチュエーションにおいて、もっともうまいご飯にありつくには、どうしたらいいのか? それを経済学的な原則に基づいてしっかり考えているのが本書となる。本書の基本原理は以下の通り。

「食は、経済的な需要供給の産物である。したがって、供給される品が新しく、供給者が創造的で、需要者に知識があるところを見つけるべし」(p.26ほか)

その店に適切な競争原理が働いているか? 新鮮な材料が調達できる環境ができているか(これは食品輸送技術の有無の話ではない。輸送技術が低いからこそ、近所での材料調達が必須となり結果的に新鮮な材料が得られることも多い)? 食品以外のものが重視されている店ではないか? 近くにいる連中が、その料理について知識のない(あるいは支払い能力のない)味オンチばかりではないか?

本書は、さまざまなケースを挙げて、こうした課題についてどう考えればいいかを説明してくれる。タイ料理はタイ移民が作るのがいちばん美味しい場合が多いけれど、客がタイ料理の何たるかを知らない連中ばかりなら、すぐにその地元の嗜好にあわせた大味でぬるい代物になってしまう。移民政策やその居住地は、美味しいご飯にありつくには重要な情報だ。そして、こうした一般的な理論と並んで、コーエンは各地での具体的な話を語る。なぜパリの飯はどんどんまずくなっているのか。アメリカの最近の屋台料理の優秀さについて。アメリカの日本料理屋はなぜ高いところばかりなのか、などなど。

書かれている内容は、おおむねぼくも納得がいくものばかり。いくつか明らかに趣味が異なる部分はあって、コーエンはフィリピン料理がお気に入りだけれど、ぼくはどこで食ってもフィリピン料理はまずいと思う。それはまあ嗜好の問題かもしれない(が、コーエンの味覚について多少の疑問符がわいたのは否定できない)。あと、5章のバーベキューの話は、ぼく(そして多くの非アメリカ人)には、あまりピンとこないだろう。ソースがどうした、その成立事情が云々とは言うんだが、それ自体にあまり思い入れがなければ、共感はむずかしいんじゃないか。うまいとされるバーベキューも食ったけれど、ぼくはついぞなじめなかった もんで。

そうそう、かつてぼくが本書の打診を受けた際には、この5章が本書のアメリカ偏向を懸念する主材料になったのだった。でも、全体としてそういう部分は少ない。ガイドとしてはとても適切。知らない場所にでかけて、何がうまいかわからない——そんなときに、本書で得た知識を少しでも覚えていれば、たぶん最悪の事態は避けられるだろうし、ひょっとすると素晴らしい食事体験にありつくことだって不可能ではない。そして最後は、自炊のガイドだ。

ちなみに、本書には載っていないぼくからのアドバイスも書いておこう。途上国にでかけたら、なるべく現地の人がたくさん入っている店を選ぶこと。西洋人がたくさん入っている店は、西洋流に(つまりはぬるい大味に)味を変えている場合が多い。ぼくの日本人同僚は、各地でお気に入りの店に西洋人がやってくるとすごい形相で「ファランタイ語で西洋人を指す侮蔑表現。「ガイジン」以上に悪いニュアンス)、ゴーホーム」とブツブツ言い続けるので閉口するけれど、その気持ちはよくわかる。

それ以外にも、本書はスローフードなんて代物が、実は何の役にもたたないどころか、おそらく土地の伝統的な食文化を見直そうとか、大量消費を廃した地球や社会や環境に優しい健康的な食生活をといった基本的な狙いに逆行するものにすぎず、地産地消も単なる金持ちの自己満足であることなども、きちんと説明されている。『美味しんぼ』とかのいい加減なスノッブ情報を受け売りするより、本書の汎用性のある知識を身につけたほうが、グルメ談義もずっと奥深いものになる……はず。経済学者・田中秀臣の解説にある餃子の話もなかなか勉強になります。

あとは、最近だと産業革命の説明みたいな本を少し見ているのだけれど、どれもぱっとしない。以前、イギリスではたまたま石炭がいい具合に出てアメリカが植民地になったので成功したんだ、と指摘するケネス・ポメランツ『大分岐』名古屋大学出版会)は取り上げた。おもしろい本なんだけど、その後少し読み返すうちに、この議論だとあまりに偶然に支配されすぎて、二度と起きないし他の国も絶対真似できないことです、という話になってしまって、楽しい読み物以上にならず、不満が出てくる。

でも、他に何かよい分析はというと……とにかく制度が大事なんです、と主張するアセモグル&ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』早川書房、上下)についても前に紹介した。産業革命も制度のおかげだ、とこの本は論じていた。でも、この本は、だったらその制度ってのはどうやっていいほうに向かうんですか、という説明が一切できない。歴史的な偶然でございますってだけだ。これも、かなりがっかり。

そして、読み物としては抜群に面白いジャレド・ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』草思社文庫、上下)。本書だって、ユーラシア大陸の発展はユーラシア大陸が横長だったからです、だから、家畜も病原菌も知識も伝わりやすくて発展したんです、と主張する。わかりやすいし楽しいけれど、最近ではな本書に対する批判も出てきて(それと、その後のダイアモンドの著作や発言がトホホなこともあって)どんどん評価が下がっている。それを度外視したとしても、やはりまた大陸の発展や産業革命は地理決定論で、結局他の可能性はまったくなかったという話で終わってしまう。

そのダイアモンドを批判しているのが、デイヴィッド・ドイッチュ『無限の始まり』(インターシフト)。なんだけれど、その批判は「人間の創意工夫は無限であって地理ごときに縛られるもんじゃない!」という代物。かけ声としては勇ましいし勇気が出るけれど、創意工夫もそれなりに環境とかに縛られるし、それだけじゃ何も言ってないに等しいではありませんか。

それらに続いてこの数週間で読んだのが、アラン・マクファーレン『イギリスと日本』新曜社)。これはイギリスと日本がどっちも戦争がなく、衛生状態がよかったのと、子作りをそこそこ抑える文化的な要素があったから人口圧力に打ち勝って、産業が発展したとするのが主な主張だ。うん、そういう面はあるだろう。でもそれが決定的か? それだからこそ産業革命が起きた、というところまで話を持っていっていいものか? 決してつまらない本ではないんだけれど。

さらに古い本だけど、E・L・ジョーンズ『ヨーロッパの奇跡』名古屋大学出版局)も読みました。これも大物経済学者によるいい本なんだけど、ヨーロッパの産業革命と大発展が起こるまでの経緯を細かく調べて……結局、それが様々な偶然に支配された奇跡でした、ってことになってしまう。

うーん、どれを読んでも、なんだか見通しがはっきりした感じがしないし、また他に応用できるものが全然ない。歴史って細かくきちんと調べれば調べるほど、些末な1回限りの出来事や条件が次々に出てきて、他の可能性の余地がどんどんなくなってきてしまう。その数多くの出来事や条件の中で、どの要因を重視するかは論者による。でも、真面目に調べた本はすべて、他に可能性はなく、そうなるしかなかった、という結論に行き着いてしまうような。なんか、あまり外的な条件に頼らず内生的に産業革命を説明した話として、イギリス人が産業革命を起こしやすい価値観を受け入れるように進化したから産業革命ができた、というグ レゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』日経BP社、上下)の説明に最近ではもっとも説得力を感じてしまうようになってきたんだけど……。

さて、最後は山本義隆『私の1960年代』(金 曜日)。かれが書いている、15世紀、16世紀のヨーロッパにおける科学の発達と、それを可能にした社会の分析はここでも他でも何度も絶賛している。前世紀の学生運動全盛期に、あの安田講堂にたてこもった過去を持ちながら、これまで東大学園紛争については語らなかった山本義隆が、初めて当時の様子を語った本だ。とても貴重な記録だし、かれが非常に真面目かつ誠実に、この世の不正と思ったものと取り組むなかで、あの行動も生じたことや、その後もかれが同じ義憤にかられて活動を続けてきたことがよくわかる。さらに、大量に収録されているガリ刷りビラ(あの独特の書体の!)も、今やなつかしいくらいの雰囲気をだしてる。

私の1960年代

私の1960年代

でも、その一方で、それがあまりにナイーブに思えるのも事実。本書では。しきりに原発反対論が登場する。それはそれで一つの見方だろうけれど、山本はこう述べるのだ。

ちなみに、福島の原発事故ののち、ドイツとイタリアは「脱原発」を表明しました。これは将来的に核武装をすることはないという国際的メッセージなのです。 それにたいして日本政府は事故後も原発固執する姿勢を崩していません。そのことは、外国からは、日本が核武装の野心を棄ててはいないと見られることであ ります。(p.28)

ぼくは、これがかなり変な物言いだと思う。核武装原発とはレベルがちがう話で、別の止めようもある。日本が核武装しかねないと思っている外国の人はいるだろうけれど、それは原発の有無で判断されるもんじゃないだろうし。そんなことで(それだけではないにせよ)、反原発を主張するならずいぶんピントはずれじゃないだろうか。

本書は講演録であり、その講演の最後で山本は原発を止められない自分の無力感を述べている。しかし、その無力感は、こうしたピントはずれぶりも関係しているようにも思う。歴史的資料としては興味深いものの、読んですごく新しい見方が得られた感じはない。科学と大量消費社会が、環境問題を引き起こした、と指摘する際も、レイチェル・カーソン『沈黙の春』有吉佐和子『複合汚染』な ど、いまやかなり論駁された古い話を平気で持ち出してくる。山本にとって、時間は1960~70年代で止まってしまったんじゃないかという印象さえ受ける。ある時代の記録としては、貴重なものだけれど、あの時代を間接的にでも感じたことのない人々にとってどこまで意味を持つんだろうか。

なんだか今回は、コーエン以外にあまりポジティブにおすすめする本がなくて申し訳ない。でも、次回はアーヴィング・フィッシャーとかダグラス・ノースとかコルナイ・ヤノーシュとか、おもしろそうな経済学の本もいろいろあるようだし、楽しみなところ。では、また。

太平天国・世界史・ケイパビリティ

2016年最初の「新・山形月報!」は、マクニールの『世界史』読み比べがメインです。ウィリアム・H・マクニール『世界史』(中公文庫、上下)とウィリ アム・H.・マクニール、ジョン・R・マクニール『世界史』(楽工社、Ⅰ・Ⅱ)の読みどころは!? また、アマルティア・セン&ジャン・ドレーズ『開発な き成長の限界』(明石書店)も論じられています。



新年あけましておめでとうございます、と言うのも今さらの感はありますが。正月は本棚に前世紀から置いてあるリンドレー『太平天国』平凡社東洋文庫、全4巻)なんかを消化しておりましたよ。アヘン戦争前に清朝中国を震撼させた、かのキリスト教系集団による一大反乱である、太平天国の乱。それを太平天国軍に追随したイギリス人が見た、密着ルポ。高潔で有能な太平天国首脳部に対し、無能で堕落した清朝満州人どもを罵倒し、それに肩入れしたイギリスの節操のなさをとことん批判していて、おもしろいんだけど、いささか冗長。まあちょっとマニアックすぎる本なので、ここではこれ以上は触れないでおこう。

かわりに、マクニール『世界史』を。ウィリアム・H・マクニール『世界史』(中公文庫)は、なんだか去年の4月あたりに丸善本店でベストセラーかなんかになっていた。たぶん、どこかで新入生や新入社員向けの基礎教養本として紹介されたのだろうと思う。確かに、非常に網羅的で読む価値は十分……なんて利いた風な口をききたかったところだが、実はこの本、買っただけで、読んでなかったんだよね。有名な本だし、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』草思社文庫、上下)の参考文献にも挙がっていたから、いつか読むつもりではあった。でも世界史のおさらいで、斬新な観点とかもあるわけじゃなさそうだったし、積ん読状態になっていた。

世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)

世界史(中公文庫)

ところが、昨年末、同じマクニールによる、同じ題名の『世界史』という本が出た。なに、増補版とかなの? どう変わったの? そう思って、いい機会だから両方を読み比べてみたのが今回のメインテーマ。

では、まず文庫版のほうから。文句から言うと、翻訳は固有名詞のカタカナ表記がやたらにオリジナルにこだわりたがるのでちょっと辟易。ニクソン大統領を「ニクスン」にしなくてもいいんじゃないでしょうか。しかも必ずしも原音表記というわけじゃなく、むしろ英語圏に偏った発音優先になっている。これはマイナス。その他訳文としてはバリ硬で、改善の余地はある。が、何を言ってんのか、まったくわからなくなるような部分はない。

そして本としての内容はすばらしい。世界史を一つの流れとして捉えようという試みで、予想通り新しい視点や分析は特にない。別に「実はピラミッドは、うちゅーじんが~」なんてことは書いてない(あたりまえだけど)。でも、いろんなできごとをバランス良くとらえ、相互の関係も押さえつつ断片的な事象の散漫なコレクションに終わっていないのはすごい。世界史の教科書の多くは無味乾燥だけれど、本書はきちんと読み物になっている。

そして、その中でもちゃんと何が「世界の」歴史を形成してきたか、という視点があり、全体の構成にしっかりした枠組みを与えている。たとえば、本書は日本についての記述が異様に多い。昨今は、ネトウヨのにわかナショナリストたちが、日本こそなんでも世界一と讃えるようなウリナラ(我が国)史観を平然と振りかざす。だけど、世界史の流れから見れば、日本なんて基本は偉大な中国文化の周縁辺境文化の一つでしかない。そしてまた世界史において、西洋近代化の恐るべきパワーは歴史形成の最大の力だし、世界の既存文化がそれにどう応えたかが、近現代史のすべてと言っても過言ではない。

日本は世界のあらゆる非西洋文化圏の中で、西洋文明の受容を最も見事に実現してしまった希有な文化だ。その背景には、それに先立つ時代に恐るべき中国文明の影響を受けつつ、吸収してきた文化的な経験がある。だからこそ、この数百ページに及ぶ上下巻の著作の中で、タイ(シャム)は数行、朝鮮はないも同然なのに、日本だけは数ページ割いて詳しく記述する価値があるわけ。

また、アマゾンのレビューの話でアレだけど、本書について、あるレビュアーは日本の記述の中で、町人文化と武家文化があまり明確に区別されていない点をあげつらい、いい加減だと言っている。でも、この本はそういう粒度では書かれていない。それを無視して重箱の隅をつついても意味はない。

そしてもう一つ、紀元千年くらいの世界となると、世界史上で最も重要なのはイスラムの爆発的な拡大と、それへの対応だ。多くの文明はイスラムの軍事的な猛攻に必死で抵抗した。そして何とかそれに耐えられた場合には、イスラムとの対比で己自身の存在意義を考え直し、宗教的にも文化的にも己の独自性とは何かを必死で考えて位置づけようとした。それがいまのヨーロッパ文明の基盤を形成し、現在のインドにつながる問題の原因ともなっている。

ところが、当のイスラムはそういう機会がなかった。いや、あったけれど、イスラム世界は毎回それを内省の機会とせずに、変なタコツボに入り込み、つまらない排外主義と内ゲバと知的硬直で応じただけだった。そしてジリ貧になってやがて自滅する。軍事的に勝っていれば、ほらコーランの言う通りだアラーは偉大だと騒ぐけれど、負けはじめたとたんにその立場が維持できなくなって、グダグダになり、いじけ、分裂をはじめる。

たぶん、これは現代の状況にも通じるものだとは思う。イスラム国はまさに、自分たちの正しさを軍事的な勝利でのみ正当化し得る。だからどっか集中的に叩いて大敗北をあらわにしてやれば、イスラム国は一気に崩れるんじゃないかと……が、これはまた別の話。でも本書は、そういう重要な歴史の力にも十分な指摘を行ってくれる。

そして歴史的な話をしつつ、技術はもとより文化芸術との関わりまできちんと描き出す。著者の非専門分野であっても優れた理解が随所に見られる。たとえばケインズ経済学の意義について触れた一行は、公共投資大きな政府こそケインズ経済学というありがちな誤解に陥らず、信用とお金の供給こそがその本質だということをきちんと理解している。

確かに、噂にたがわぬ名著だと思う。世界史なんか興味ないという人も、何でも知ってるつもりの人も、得るものがあるはず。本書が西洋中心の視点だという批判を聞いたことはあるけれど、現代にいたる流れを考えたとき、ぼくはそれが当然だと思う。過去数世紀の世界では、西洋がいかに台頭し世界を席巻したか、というのが歴史の変化の最大の原動力なのだから。同時に本書は、最近までヨーロッパが世界文明の中では辺境の僻地の野蛮人集団でしかなかったことも明確に書いている。

さて、これと比べて今度の新しい楽工社の単行本版のほうはどうだろうか。まず、同じ題名がついているけれど、これは文庫版『世界史』の増補版というわけではない。マクニール息子(ジョン)が何やら簡単な世界史本を書こうとして、手に負えずにマクニール父(ウィリアム)に泣きついてできた本で、基本的には別物。現題は「ヒューマン・ウェブ」となる。

世界史 I ── 人類の結びつきと相互作用の歴史

世界史 I ── 人類の結びつきと相互作用の歴史(楽工社)

そして題名通り、旧世界のウェブとかユーラシアのウェブとか、いろんなウェブが出てくる。人間の活動のつながりが生み出す網の目というわけね。そして、各種の事象がそのウェブを広げたりつなげたりする。そうした歴史のとらえ方が、本書で提示された新機軸ということになっている。

言いたいことはわかる。でも、通読してぼくは、「ウェブ」という概念を持ち出すことで何か新しい発見があるとは思えなかった。ウェブのかわりに「文明」と言ってもまったく同じだったと思う。エピローグでマクニール(父)は、バクテリアが地球環境を変えた様子を人間と対比させていて、いわば生物学的な歴史観みたいなものを持ち出す。いい視点だし、これを貫徹してくれたらおもしろかったかもしれない。でも、本書ではそこまでは踏み込んでいない。

その(ちょっと効果は疑問のある)新機軸を除けば、本書は基本的にはしごくまっとうな世界史のおさらいだ。だから文庫版の『世界史』とそんなにちがった話が出てくるわけではない。ときどき、思い出したように「ナントカのウェブ」が出てくるけれど、それが全体的な記述や分析にあまり貢献してないのはすでに述べた通り。

とはいえ、新機軸を打ち出そうとして変に奇をてらった構成になっていないのは、一方で長所でもある。文庫の『世界史』と同じく、本書でも非常にまとまりのよい世界史の通史が描かれる。全体的なとらえかたは、文庫版と大きくは変わらないが、近現代の比重が高まっている。それと、分量的には文庫版より少なめなのかな。ピカソジェイムズ・ジョイスの世界史的位置づけにまで触れた文庫版の幅広さはないけれど、その分だけ簡潔な印象だ。そして、翻訳は単行本のほうがずっとスムーズで読みやすい(ただし造本は、なんだか本の「のど」のところまで活字を詰め込んでいて、ちょっと読みにくい部分もあるのが難)。

両者を比較すると、どっちもありだ。値段的には(中古じゃないなら)あまり変わらない。読みやすさでいえば、訳文的にも分量的にも楽工社の単行本がおすすめ。詳しさを求めるなら、文庫版かな。いずれにしても、手に取って世界の通史について見通しを得ておくのはとても有益だと思うので是非。そういう下地なしに、佐藤優とかに手を出すと、収拾がつかなくなって大変だから。

もう一冊ふれておこう。アマルティア・セン&ジャン・ドレーズ『開発なき成長の限界』明石書店)だ。アマルティア・センといえば、それはそれは偉大なインド系経済学者だ。経済成長だけじゃなくて、人々のケイパビリティ(潜在能力)の拡大と、その発揮こそが経済開発・経済発展においては重要で、その発想からすると従来の経済学が想定する合理的な人間は、実にナンセンスで不十分な代物だよ、と一貫して主張してきた学者だ。

開発なき成長の限界――現代インドの貧困・格差・社会的分断

開発なき成長の限界—現代インドの貧困・格差・社会的分断(明石書店)

かれの主張はきわめてごもっとも。センの発想はぼくの仕事である開発援助の分野でも、きわめて重要となっている。援助においても、単純に経済成長だけを見るのではなく、人々のケイパビリティをどう伸ばすか、つまり教育とか権利拡大とか身体能力とかも重要なんだ、という議論は、センの研究に多くを負っている。援助業界でしょっちゅう引き合いに出される、人間開発指標というのはまさにそれを受けて作られた。また、センによる現代経済学の過度の合理性批判は、いまの経済学——ひいては資本主義——にケチをつけたい多くの人々が嬉々として引用するものだ。

そのアマルティア・センが、インド経済を分析してかなり厳しい批判を行ったのが本書。最近のインドは、経済成長の数字がかなりよい。おかげで、絶対的貧困から多くの人が脱出できて、世界の貧困撲滅に大きく貢献している。でも、その他の指標、つまり人々のケイパビリティとその発揮を示す指標を見ると、大きく立ち後れている。教育面でも、医療面でも、衛生面でも、インフラでも、食事でも、メディアでも。それが、今後インドにとって大きな課題となるから、経済成長でふんぞりかえらず、もっと政府ががんばって人々の公的な支援を改善しようぜ、とセンは述べる。

で……それだけ。これを、各種の統計を活用して繰り返し主張したのが、この本なのだ。訳者あとがきは、本書がインドだけでなく他の国にとってもいろいろ示唆に富む、と書くけれど、ぼくはちょっと無理筋だと思う。やっぱり本書は、インドのためのインドについての本であり、インドに関心ない人が読んでも、得るものは限定的だろう。

ただ、インドはこれから日本が、がんばってつきあおうとしている国でもあり(原発や新幹線も輸出することになったし)、今後仕事でもその他の面でも関係してくる人は増える。だから、この国に興味持つ人も増えるんじゃないかな。そういう人にとっては、読んで損はないだろう。たぶんこれを読むと、きわめて発展しているインドの一面と、それに対してまるで発展していない(一部の人が「悠久のインド」とかいってもてはやすけど、実は単に貧乏なだけの)側面とのギャップについて、かなり理解が進むと思う。

が、それとあわせて、やっぱり訳者などがきちんと指摘しておくべきだった点がある。本書やそれ以前からなされていたアマルティア・センの主張が、すでにインドの前政権 (UPA[統一進歩同盟])の政策でかなり重視されてきたということ、そしてそれがかえって状況を悪化させたという批判もあることだ。センは、ケイパビリティが重要だし、それを活用するための各種権利や自由が重要だと述べる。でも、それを受け入れてインドでやたらに権利の大安売りをやってしまったがために、各種の不安定さが生じ、地方政府に余計な負担がかかってしまった。それにより政府の力が弱まってしまい、政策的に身動きがとれない状況が生じてしまっている、という。権利は重要だし、再分配は重要なんだけれど、まずパイを拡大してその権利が活かせる状況を作り、再分配するリソースを確保しないと、そんなケイパビリティは絵に描いた餅にもならない。

たぶん、ここには経済発展と国民の権利とかみたいなものの関係について、かなり重要かつ、つらい教訓がある。パイを拡大して再分配できるだけの力をつけよう、と言い過ぎると、開発独裁万歳みたいな話になっちゃって、それはそれでまたよくないんだが……。そして本書の原著が出たときに、まさにこの点について、やはりインド系の大物経済学者であるジャグワシュ・バグワティとアマルティア・センとの間で、『The Economist』のお便り欄で、かなり熾烈な応酬があり、非常におもしろかった。それについては、以前に紹介したことがある(「センとバグワティがけんかしとるでー。」 ) 。この本を読む人は、そういう背景についても少しふまえておくと、もっと深い読みができると思う。

ではまた~。今月2回できるかと思ったけど、ちょっとつらそう。2月初旬にもう一発くらいできるかどうか、見守っていただければ幸い。

宇宙基地・ステーキ・新々貿易理論

2015年最後の「新・山形月報!」は、経済から宇宙まで幅広い本をご紹介。ラルフ・ミレーブズ『バイコヌール宇宙基地の廃墟』三才ブックス)、マーク・シャッカー『ステーキ!』(中公文庫)、ジョン・V. グッターグ『Python言語によるプログラミングイントロダクション』近代科学社)、田中鮎夢『新々貿易理論とは何か』ミネルヴァ書房)、飯田泰之田中秀臣麻木久仁子『「30万人都市」が日本を救う!』藤原書店)などです。



はい、約束通り年内にもう一本です。今回、真っ先に取り上げたいのは、ラルフ・ミレーブズ『バイコヌール宇宙基地の廃墟』三才ブックス)。書店の店頭で見かけて、思わず「うわー」と声をあげてしまいましたよ。だってこの表紙に出てるの、あのブランじゃん!

バイコヌール宇宙基地の廃墟

バイコヌール宇宙基地の廃墟(三才ブックス)

「ブラン」と聞いて、知っている人がどのくらいいるのかはわからない。かのソ連スペースシャトル……と書いたところで、このコラムの読者には、すでにソ連といってもピンとこない人もいるのかも、と思い当たった。まあそこらへんはググってください。で、このブランはソ連が国の威信をかけて開発し、あまりに外見が似ているのでアメリカ版スペースシャトルの完全コピーとも揶揄された代物。実際に飛んだことあったっけ、と思って調べたら、無人飛行で実際に飛んだそうだ。しかも1号機だけでなく、2号機まであったとは。

本書は、そのブランが数十年にわたり、完全に放置されたまま腐っている様子を写した写真集だ。もちろんその格納庫も、さらには打ち上げ用のロケットも。すごいね。極限環境にも耐えられる天下のスペースシャトルだから、数十年放置されたくらいでは平気かと思っていたけど、やっぱり劣化するんだ。それをこうやって間近に見られるというのは、感動です。

しかし、バイコヌールっていつの間にこんな廃墟になってたの? まだ打ち上げに使われてると思ってたけど……。確認すると、いまもちゃんと使われている。さらに、ウィキペディアとかの記事を見ると、もっと全体が博物館としてちゃんと整備されているとのことで、ブランも模型が表に置かれているとか。なぜ本書に載っている場所は、こんな廃墟になっているんだろう? それとも、同じバイコヌール宇宙基地でも広いから、場所によってちがうのかな? そこらへんの周辺状況の説明が本書にまったくないのはとても残念。

でも、宇宙開発にご興味のある向きは、ぜひぜひご覧あれ。いまの中国の宇宙進出も、かっぱらってきたソ連の技術あればこそ(中国の宇宙技術はほぼ旧ソ連のものが元になっている。映画『ゼロ・グラビティ』で最後にサンドラ・ブロックが乗り込んだ中国の宇宙船が、ソユーズの完全コピーだったのはその反映だ)。もうちょっといろんなタイミングがずれていれば、中国がこのブランで飛んでいたかもしれないと思うと、いろいろ感慨深い。

さて、お次はちょっと古い本になる。「世界一の牛肉を探す旅」の副題を持つ、マーク・シャッカー『ステーキ!』(中公文庫)。もともと2011年に出た単行本の文庫化だ。その中身は、タイトル通り、世界中をわたりあるいてステーキを食うという代物。でも単なるグルメ紀行じゃない。最近のステーキは味気ない、という問題意識から始まっていろんな牛肉を食い歩き、挙げ句には自分で牛を飼育して屠畜も行う内容だ。そして、その中でうまいステーキとは何かをきちんと追及する。

ステーキと言えば、2ちゃんねるあたりで見かけるネトウヨ国粋系コピペにこんなのがある。アメリカ人のレポーターが日本にきて和牛を食い、それまでさんざんバカにしていたのに一口ほおばった瞬間、「おれがこれまでステーキだと思っていたものは靴底だった!」と呆然とする、というもの。でも実は、こんなのデ タラメ。

昔、ナショナルジオグラフィックチャンネルで「日本に究極のステーキがあるそうだ! 食いに行く!」という一言から始まる、神戸牛の紹介番組をやっていた。その番組のホストは、日本にきて牛の飼育所に出かけて畜牛農家にインタビューして、あれやこれやと一通りやり、神戸牛とはなんであるか、それがいかに手塩にかけて育てられるか、いかに高価か、いかに貴重かをあれやこれやと強調する。そして最後に神戸牛のステーキが目の前に出てきて「おお、これぞ夢に見たあの究極のステーキ!ようやくそれが我が口に~」とさんざん引っ張り、最初の一口をほおばったところで……突然ナレーションが入る。

「食ったけどさ、全然気に入らなかった。ステーキってこういうもんじゃないよ。いや、やりたいことはわかるよ。あんたら、フォアグラみたいなものがやりたいんだろ? でもそれはステーキとはちがうものなんだよねー。が、ぼくはこの得意満面の日本人たちの前で正直にそう言うだけの度胸はなかった」

そして、画面では「おお、口の中でとろけるようですよ!」とか、心にもないおべんちゃらを連ねているその番組ホストの顔が映っている。その後、画面は暗転して、アメリカに戻って巨大なリブロースを前にするホスト。「これだぜ……」で、おしまい。

ぼくはこの番組を見て大笑いした。ここで言いたかったことは非常によくわかるのだ。そして本書でも、和牛(松阪牛)についての評価は必ずしも高くない。確かに霜降りのサシはすごい。でも、肉そのものの風味はどれも似たり寄ったりで、大したことないというもの。この著者はあれこれ試行錯誤した末に、牛肉で重要なのは風味だと述べる。そして風味を良くするには、草を食わせること。穀物合成飼料の牛は、急速に育てて1年未満で屠畜してしまい、エサのバリエーションも少ないために風味が足りない、と。脂肪は食感に重要だし、また脂肪自体の持つ満足感もあるけれど、それだけではだめなんだ、と。ついでに、最近はやりの乾燥熟成も、肉本来の風味に比べればあまり重要でないそうな。

むろん、この見方が絶対ではない。好みはいろいろだ。なぜこの本を手に取ったかというと、出張の機内で『ステーキ・レボリューション』という映画を観たから。これもまた、究極のステーキを探して監督と精肉店のおやじとが世界中をまわる映画。その中に、この本の著者も登場するのだ。でも、そこに出てくるニューヨークのステーキハウスの経営者おねえさんは「グラスフェッド(草育ち)の牛肉はウチでは使わない、味にクセがあるから」と断言していた。一方で、「草育ちこそ未来!」と断言する人も出てくる。

ちなみにこの映画には、本書をはるかにこえた異様な牛が登場するので、もし機会があればどうぞ(なぜかDVDも2016年3月にならないと出ないし、アマゾンのレンタルでもバカ高いけど)。これを見てぼくは、死ぬまでにポルトガルだかシチリアだかの10年ものの牛(そんなのがホントに出てくる)を食わずになるものか、と決心してしまいました。

そのときの出張で、MIT Pressのアウトレット本屋に寄ったとき、Python入門書が安売りされていたので買ってきたんだけれど、帰国してから邦訳版があることに気がついた。ジョン・V. グッターグ『Python言語によるプログラミングイントロダクション』近代科学社)だ。

これは、なかなかすごい本ではある。この手のプログラミング言語の解説書って、入門書の多くは、本当に入り口だけで終わってしまう。ぼくがプログラミング言語を学ぼうとするとき、それは言語そのもののお勉強もあるけれど、むしろそれを使って何かしたい、という目的がある。入門書だと実際に何かを作れるところまでいかない場合が多々あるのだ。

でも、本書は本当に初歩の初歩から始めて、最後は各種の数学問題(ナップザック問題とか)から、機械学習の初歩までやり方を示してみせる。すげえ。その分、進み方ははやいけれど、他のプログラミング言語の知識があればたぶん置いてけぼりになることはないと思う。ただ、数学問題が中心となっており、グラフィックな処理のほうにはいかない。この点は、自分が何をしたいかを踏まえて手に取ってみて。

ただ……日本語版で残念なのは翻訳。とにかく訳者たちは生硬で生真面目な訳に徹していて、冗談まみれの気楽な原文の持ち味はほぼ壊滅。どのくらい生真面目かというと、ミック・ジャガーにわざわざ注をつけるくらい。ミック・ジャガーを知らない人は、ローリング・ストーンズと言っても知らないと思うなあ。あと、調べがつかなかったとおぼしきネタは飛ばしてるようで、ぼくの大好きな映画『ヘザース』に触れた部分はカットされちゃってる。うーん。もっと原文は楽しくて軽いのに。まあ、硬いだけでまちがっているわけではないし、慣れれば読める。お正月のお勉強にはいいかもしれない。

で、その出張というのは、あるお役所の依頼を受けて、新々貿易理論の論客たちにあれこれ話をきくというもの。えーと、新々貿易理論てなあに? これは、今世紀に入って生まれた、経済学における貿易理論の新しい分野なんだけれど、これまであまりよい解説書がなかった。それを説明してくれる本が出ました。田中 鮎夢『新々貿易理論とは何か』ミネルヴァ書房)。

新々貿易理論とは何か: 企業の異質性と21世紀の国際経済

新々貿易理論とは何か(ミネルヴァ書房)

そもそもなぜ貿易なんてものがあるのか? 実は経済学は、いまだにこの問題をきちんとは説明できていない。でも、いくつかのブレークスルーがあって、だんだんその説明力が高まってきている。まずは、もちろんお互いに作れないものを取引するのが基本中の基本となる。日本でバナナを無理に温室で作るより、フィリピンで作ったものの輸入し、かわりに日本の自動車をフィリピンに輸出したほうが、お互いに幸せだ。この段階では、経済学なんていう理屈の出る幕はない。

でも、あらゆるものがまともに作れない国はどうする? バナナも自動車もろくに作れない国は、貿易できないんじゃないの? そんなことはない、と看破したのが、リカードの比較優位理論。どの国も、絶対的な優位性の有無にかかわらず、自分が最も得意とするものの生産に専念すると、それを貿易できるし、さらに経済全体としての効率もあがる。

が、実際の国を見てみると、みんな得意なものだけ作ったりはしていない。それどころか、日本もアメリカもドイツも車や電気製品を作り、そしてお互いにそれらを取引している。明らかに貿易は、比較優位だけで動いてない。この現実を説明するために出てきたのが、クルーグマンヘルプマンが中心に作り上げた新貿易理論。車にも電気製品にもいろいろな種類があって、貿易は利用者にとって多様性を増してくれる。一方、貿易により市場が広がり規模の経済が働いてコストダウンによるメリットも出る、と主張したのだ。

さて、ここまでは国レベルでの話だった。でも実際に貿易をするのは国じゃない。各国の中の企業だ。そして、輸出できる企業というのはどの国でもかなり少な い。そこに注目したのが、メリッツ(という現ハーバード大の学者)が考案した新々貿易理論だ。企業はそれぞれちがっている。この分野のジャーゴンで言えば、異質性があるのだ。そして輸出するにはかなりのハードルがあり、それを越えられるのはかなり力のある生産性の高い企業だけだ。でもそれを超えて輸出すると、輸出された側は高い生産性の製品を享受できるようになる。そして輸出先の業界の中で生産性の低い企業が淘汰され、経済全体の生産性が上がる—つまりなぜ貿易が起こるか、という理由として、比較優位や規模の経済と商品多様性に加え、経済(またはその産業分野)全体の生産性向上による厚生改善が登場したことになる。

これは貿易理論の枠組に大きく影響する。そしてそれ以上にやっとやっと、この新々貿易理論の発達で経済理論は貿易を語るのに企業とその異質性(あるいはその多様性)に注目できるようになった。もちろんこれまでだって、個別の産業であれこれ企業を見ていた人はたくさんいる。輸出するのが手間だ、なんてこともみんな知っている。でも、それがどんな影響をもたらすかをきちんと定式化できず、これまではかなり定性的な扱いしかできなかった。でもこうしたモデル化で、企業が下請けを使うか自社で外国に工場移転するか、知的財産権はどう影響するか、なんていうこともモデルによる分析が可能となった。企業のサプライチェーンの影響もある程度は検討できる。というわけで、この分野は最近、なかなかの活況を見せているのだ。

で、やっと本の話。著者の田中鮎夢は、新々貿易理論の日本における有力な研究者で、これまでもウェブに新々貿易理論の解説とかを載せていたけれど、それをきちんとまとめて本にしてくれました。そして新々貿易理論以外にも、貿易理論方面で最近旬な話題を、薄い本に要領よくいろいろまとめてくれている。まあ、 一般人向けというよりは、かなり経済学の素養のある人向けの専門書だけれど、興味ある方はぜひ。出張では、この新々貿易理論が本当に貿易政策に影響を与え得るのか、というのが一つの焦点で、それについてはそのうち、報告書が公表されることでしょう。

最後は、飯田泰之田中秀臣麻木久仁子『「30万人都市」が日本を救う!』藤原書店)。これは……ぼくの最大の関心は、タイトルにある30万人都市の話だったんだけれど、そこに触れてるのは全体のごく限られて部分で、数十ページしかない。これは残念だった。現政権の地方創生をどうすべきかは、最近ぼくの関心でもあるので。

日本の地方は衰退しているところばかりじゃない。実は県庁所在地クラスの都市は人口が増えたりしている。そして30万人いれば都市としての多様性やおもしろさも保てる。だからそういうところには希望があるので、そこに集中的に投資しろ、という本書の主張はおっしゃる通りだと思う。それ以下のところにあまり投資しても、いまの人口減の状況と高齢化のもとでは支えきれない。無駄金をあまり注ぎこむわけにもいかない。そこらへん、どうメリハリをつけるか?それが本来は地方創生でまじめに考えるべき点ではあるはず。けど、こういう議論はしばしば、過疎地切り捨てとかいって石を投げられたりするのだ。

個人的には、この30万人都市の部分をもっともっと充実させてほしかった。が、それ以外の部分も今年の時事問題の復習としてとっても勉強になる。まず消費増税のマイナスの影響が本格的に出てきた分析。さらに集団自衛権をめぐる(かなりピントはずれな)各種議論についての整理、さらには中国経済崩壊の懸念に対するコメント。今年の9月に出た本だけれど、現状のおさらいとして、いま読んでも有益だと思う。

こんなところで、年末年始も読む本には事欠かないかとは思う。では、また来年。2ヵ月休載した分のキャッチアップを、1月にもやろうとは思っていますがどうなりますやら。

ムハンマド伝・監獄実験・時間術

お久しぶりの「新・山形月報!」は、『預言者ムハンマド伝』岩波書店、1~4)、フィリップ・ジンバルドー『ルシファー・エフェクト』(海と月社)と『迷いの晴れる時間術』ポプラ社)を中心とした書評です。ごっつい大著を山形さんはどう読んだのでしょうか?



ご無沙汰です。ここ数ヵ月、仕事が異様に忙しかったのと(あれこれ締め切りが重なったところへ、細切れの短期の出張がいっぱいあるという、最悪のパターン)、あと読む本が義務的な消化とはずればっかりだったので、書くネタに事欠いておりました。が、まあそれでいつまでも書かないのもどうかと思うし、イマイチだった本も含めてお蔵出ししておきましょうか。

中でも池内恵にだまされて(というのはアレだが)読んだ、『預言者ムハンマド伝』岩波書店、1~4)。イスラム圏では常識以前の代物だけど、日本でイスラムについて聞いた風な口をきく人の多くは、この程度の基礎文献すら読んでいないという池内の批判は至極もっともだとは思ったし、その意味では読んでよかった。が、決しておもしろいものではない。

預言者ムハンマド伝(1) (イスラーム原典叢書)

預言者ムハンマド伝(岩波書店)

ムハンマドが生まれる以前の話で、第1巻の半分くらいが使われ、生まれてから啓示を受けるまでもいろいろな徴を示して、その後啓示を受けて布教をはじめる んだけど総スカンを食らい、さらには自分の一族の伝統的な信仰を公然とけなしてまわり、一族内の穏健派が「そっちの信仰はまあ勝手だけど、他の人の信仰にケチつけてもめごと起こすのはやめようぜ」と諭しても聞く耳持たず、迫害されまくる。そして最初のうちは、言葉だけで布教して批判や迫害は無視しろという お告げに従っているんだけれど、ある時点で神様が暴力行使を正当化してくれて、その後はもうひたすら他界するまで戦いの日々。

そして読み物としては、異教徒にとってはむろんつまらないこと限りない。基本、預言者はこんなにすごい徴を持っていました、その教えを聞いて誰某はこのようにして改宗しました、別の誰某は、預言者をこのように虐げたら天罰があたりました、という話がひたすら続く。そして、文書としての主な関心は預言者自身の教えや言行より、だれが(そしてどの部族が)最初から信徒だったか、というイスラム教団内での序列構築のほうにある感じ。だから、イベントごとに延々と 参加者名簿が続く。

ちなみにイスラムの世界では、何かの事実性というのは客観的な証拠や裏付け、という形で担保されるよりは、「その事件を実際に見たというA氏の話をB氏が きいてその人に会ったCさんがそれを聞きそれをさらに聞いたDさんが書き留めた」みたいな伝聞の連鎖があるかどうかでかなり決まるらしい。なもんで、だれがその場にいたかという記録はその意味でも重要ではある。が、その理屈は正直いってぼくたち異教徒どもにはさっぱり説得力がない。昔ここで紹介したテンプル騎士団の本でも、エルサレムに関するイスラム側の主張が一応紹介されているんだが「この話って、他の記録ではまったく裏付けがないし物証もないしその後の研究成果ともまるで一貫性がないし、でも連中はそれがまちがいないと主張するし、困ったもんだ」という苦言が述べられている(その主張の内容はまったく知る必要なし)。その途中の人の記憶ちがいとかウソとかないのかなー、と思うんだけど、そういうのは考えない。このムハンマド伝でも、話のバージョンがいくつかあると両論併記で「どっちが正しいかは神のみぞ知る」で終わってしまう。

当然、「おもしろいからぜひ読もう!」とは言えない。そもそも、図書館にもまずないし古本でもあまり出回っていないから、気軽に手に取れないのは残念。でも、これくらいでも読んでおくだけで、イスラム関連教養のレベルは日本でトップ1%には入れるようだし、挑戦者はぜひ!

今回もう一つ紹介しておきたかったのが、フィリップ・ジンバルドー『ルシファー・エフェクト』(海と月社)。これは有名なスタンフォード監獄実験についての本だ。スタンフォード監獄実験って何? うん、これは被験者をランダムに囚人役と看守役に割り 振って模擬刑務所にぶちこみ、それぞれの行動がどう変わるかを実地に調べた、1971年の有名な実験だ。そしてほんの数日で、看守役はすさまじいサディス トと化して囚人役の連中に虐待の限りを尽くすようになり、そのあまりのエスカレートぶりのために中止に追い込まれたといういわくつきのものなのだ。

ルシファー・エフェクト ふつうの人が悪魔に変わるとき

ルシファー・エフェクト(海と月社)

もちろん、これは看守役が異常なサイコパスぞろいだったということではない。環境次第で人はなんでもする、それも無理強いせず自主的にやるようになる、ということを実証した実験として知られる。この本について、ぼくは完全に純粋な読者じゃない。実はこの本の翻訳権をめぐって海と月社以外のある出版社が応札し、翻訳権を取れたら訳してくれという依頼をそこから受けていたのだ。ぼくは、似たようなテーマを扱ったスタンレー・ミルグラム『服従の心理』河出文庫)を訳しているから、このテーマに興味もあった。だから落選したときにはがっかりしたし、出たら翻訳の出来も含めチェックしてやろうといささか意地の悪いことも考えていた。で、今年の夏にそれが出版されたんだけれど…… ぶ、分厚い。なんという長さ。本全体で800ページ、厚さ5センチ! こんなすごい分量だったのか! 落ちてよかった! こんなのやっていたら、トマ・ピケティ『21世紀の資本』みすず書房)の翻訳なんかとても仕上げられなかっただろう。

そして肝心の中身なんだが、うーん。まず800ページのうち、前半300ページ以上はスタンフォード監獄実験そのものの説明。しかも、簡潔な解説じゃない。第1章であれこれ能書きを並べてから、その後はだれがどうして、そのとき囚人役のこいつがこう反抗し、それに対して看守役はこんなことをして、すると囚人は泣き出してしまい、でも看守役はそれをあざ笑って懲罰を命じあーだこーだ。細かい個別のできごとを1日ごとにこと細かに記述する。1日あたり、丸一章使っている。ドキュメンタリーとしてもかなり冗長だと思う。実は、これはもとの映像がYouTube で公開されているし、これをめぐるドキュメンタリー番組もネット上にあるし、さらに『es[エス]』をはじめ、これを脚色した映画もいくつかある。研究者でなければ、そういのを見ればおおむね用は足りるんじゃないか。

そして不満は、やりっ放しだと言うこと。ミルグラムの実験は、学習実験だと称して被験者に、被害者がテストに間違えたときに電撃ショックを与えさせ、被験者の苦悶(実はただの役者の演技)を見せつつどんどん電圧を上げるよう命じる、というものだ。この場合、どういう命令に対して、どのくらいの比率の人が処罰の電撃ショックを何ボルトまで上げたか、などの定量的なデータがまがりなりにも得られている。それを人々の事前予想と対比したり、インタビューでその背景を探ったり、という分析がある。ところがこちらは、やったら看守役が残虐になっちゃいました、というだけ。確かに事象としては衝撃的だけれど、定性的な話で終わってるんじゃないか?

さらに、この実験の仕組み全体に抗議して立ち上がった女性が一人だけいたという話をして、それがいかに英雄的な行為で云々と述べてから、実はその子は当時自分の愛人で……といった話を平気でするにいたっては、ちょっとぼくは研究としての信用度をかなり割り引いて読まざるを得ない。だって、その女性はつまり 実験中の権力構造の中でまったく別の立場にいたってことだから、権威への抵抗事例としてはまったく不適切でしょうに。

そして次の200ページほどは、こうした権威や環境的な要因で人が残酷なことを平気でしてしまうことを示した各種研究の紹介。たとえば、ミルグラムの電撃ショック実験とか、キティ・ジェノヴェーゼ事件とかね。キティ・ジェノヴェーゼ事件というのは、高密な住宅街の真ん中で女性が襲われ殺害されていたのに、助けを求める叫び声に誰も応えず、だれも警察に通報しなかったというもの。

さて……知っている人は知っていると思うんだけれど、このキティ・ジェノヴェーゼ事件、後できちんと追跡調査が行われた結果、どうも捏造くさいことがわかってきた。警察への通報もちゃんと行われていたし、助けようとして飛びだしてきた人だっていた。ところが、本書はそれに触れない。もちろん、この捏造検証が出てきたのは比較的最近で(有名になったのは、レヴィット&ダブナー『超ヤバい経済学』東洋経済新報社〕に掲載されてからだろう)、原著刊行(2007年)時にはまだ定説になっていなかったのかもしれない。でも今日出る訳書なら、注意書きくらいはあってしかるべきじゃないだろうか。

そこからちょっとうかがえるのは、この監獄実験やミルグラム実験によりそうした人々の冷たさ、残酷さを嘆いてみせるような論調が一般受けすることがわかってしまい、その後それに迎合するような代物が作り出されるようになった、ということ。もちろんそれでここに挙がった多くの研究の結果全てを否定できるものではないけれど、そういうバイアスがあることは、たぶん特に本書の読者であれば警戒すべきだと思う。

さらに次の200ページほどは、著者が実態調査や被告の弁護および更生などに深く関与した、イラクアブグレイブ収容所での捕虜虐待の話。この事例をジンバルドーは、拷問をした個別の兵員が悪いのではなく、かれらの置かれた環境や、各種改善提言を実施しなかった連中が悪い、と説明する。うん、そういう部分 はあるだろう。でも、そういう環境があってもあらゆる場所で拷問や虐待が出るわけではない。すべて戦争が悪いんだ、とするのは結局話をうやむやにするだけ ではないのか?さらには、この理屈から著者は、当時の大統領や国防長官こそが主犯格だ、大統領や国防長官を被告席につかせろ(だから現場の兵員たちの責任は限定的だよ)と言い出す。この章は、ジンバルドー自身がこの関係者の裁判で証人となったときの経験がもとなので、法廷戦術としてはそういうのもありだろう。でもそれを、アブグレイブ収容所から得られる知見というべきなのか?だいたい、それを言っちゃったらその大統領さんや国防長官さんだって、当時置かれ ていた環境の中でそういう決断を下すことになってしまった、という理屈になって、結局は全員無責任への無限後退になるだけじゃないの?

そして最後の章が、ぼくたちみんながどうやって、環境の重圧にめげずに善行をするか、という部分。書いてあることはまっとう。ただ、すごく意外なことや目からウロコの提言が書いてあるわけではない。権威を盲信せず、自分の心に耳を傾け、日頃から不正や悪行には手を染めず、といった具合。はい、それはおっしゃる通り。でも800ページ読んで得られる結論がそれだけだと、読者としては徒労感に襲われてしまう。うーん。

ミルグラムの実験に比べて進歩はある。ミルグラムの実験では、被験者は電撃ショックを与えつつ、冷や汗をかいてそれを本当に苦痛に感じていた。嫌々ながら権威に従った、というわけ。でもジンバルドーの実験だと、被験者はちょっと背中を押されただけで、自主的に大喜びで残虐な拷問に精を出す。人間の柔軟性 (悪い意味で)はミルグラム実験に見られたものよりも大きい。その意味では、有意義な実験だろう。

でもそれは一方で、著者の主張、つまりだれでも環境に逆らって正義を行う「英雄」になれるという主張を弱めてしまうんじゃないか。環境次第でここまで人間が変わってしまうなら、それは無理じゃないの? ジンバルドーの実験って最終的には、すべて社会や環境が悪いのであって個人に責任はないという結論にまでつながってしまうんじゃない? ジンバルドー自身はそうじゃないと言っているけれど、ぼくはかれのこの主張にまったく説得力を感じない、というか実験が示唆する結論は正反対なんじゃないかとすら思うのだ。だいたいアブグレイブ監獄の捕虜虐待も、当事者の責任はあまりなくて、アメリカ大統領や国防長官が悪いんでしょ?

(2018.06.13 付記。この実験の録音テープが出てきて、実はそのサディスト的になった看守役は、自主的にそうしたわけではなく、そう行動するよう演技指導されていたことが判明したとのこと。つまりこの実験の示唆とされているものが実はまったくのウソであり、ほとんど捏造とすらいえるものらしい。ここでのぼくの批判をはるかに超えてダメな代物だった可能性が高まってきている)

ちなみに、これを読む前に同じ著者の『迷いの晴れる時間術』ポプラ社)も読んだ。こちらは時間管理術の話、というよりは時間に対する態度についての本。過去にこだわりすぎると身動きとれなくなり、現在ばかりを重視し ていると面倒を先送りにしてしまい、長期的な計画が成り立たない。あまり先のことばかり考えていると今ここでの出来事がおざなりになり、極端な場合はジハード自爆テロリストみたいになってしまう。これらをバランスよく配合するのが重要、というもの。『ルシファー・エフェクト』でも見られた無用な饒舌さが、いささか鼻につく部分はある。が、こちらは言っていることがよくわかる。一読して損はないんじゃないかな。

というわけで、今回は絶賛すべき本がなくて恐縮です。ちょっとこれまでの補填で、もう少し短い間隔で年内にもう一本くらいは書くのでご堪忍を。ではまた。