Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

キューバ危機・組織論・決定の本質

今回の「新・山形月報!」は、グレアム・アリソン(&フィリップ・ゼリコウ)『決定の本質』日経BP社、Ⅰ~Ⅱ)を徹底レビューします。組織論の名著とされる本書の読みどころはもちろんのこと、初版と第2版の違いから考えるポイントなどもきっちりと紹介しています。



ご無沙汰です。今回はグレアム・アリソン(&フィリップ・ゼリコウ)『決定の本質』日経BP社、Ⅰ~Ⅱ)の話で、これをきちんと書くために間が空いてしまいました。本当だったら、もっとササッと流せたはずなんだけれど、それができなかった(怒)! なぜできなかったか、というのがまさに、今回のが長く&遅くなった理由でもありまして……。

1. アリソン&ゼリコウ『決定の本質』の概略

 この『決定の本質』の 噂くらいは聞いた人も多いかもしれない。いや、そういう言い方は失礼だろうか。わざわざこんなコラムを読んでいる知識人教養人諸賢であれば、ほぼ常識に属するはず。組織論とか国際政治学みたいな分野での分析の概念的な枠組みを、1960年代末にまとめた本 (出たのは1971年) として今なお必読書と言われつつ、1977年に中央公論社から出た訳書はなぜかもうずっと絶版が続いていた。

決定の本質 キューバ・ミサイル危機の分析 第2版 1 (日経BPクラシックス)

日経BPクラシックス 決定の本質 キューバ・ミサイル危機の分析 第2版 I

 そうこうするうちに原著は、1999年にかなり加筆されて第2版が出てしまった(第2版でゼリコウが加わり、共著となっている)。そして……15年ほど かかってやっと邦訳が日経BP社から出た次第。なんでこんなに時間がかかったのやら。が、ともあれ出たのはすばらしい。待望の、と言っていいだろう。

  1.1. 組織の決定:3つの分析モデル

 で、何の本かというと……題名の通り、物事がどうやって決定されるかについての理論的枠組みを論じた本だ。決定といっても、個人ではなく組織の話。組織が何らかの決定をして動いたとき、それをどのように分析したらいいだろうか? この本は1962年のキューバ危機を例に、その考え方の枠組みを3つ示した(公務員試験にも出るので、覚えておいて損はないよ!)。

●合理的行為者モデル
●組織過程モデル
●政府内政治モデル

 要するに、組織として何か目的や理念があって、それを実現するための合理的なステップとして各種の決断が行われたはずだ、という分析が合理行為者モデルだ。ほとんどの分析が通常は採用するのは、このモデルだ。でも、そこには難点がある。いま述べた「何か目的や理念」というのは、やり方次第ではいくらでも考えられる。だから後付けでどんな説明でもできてしまうし、仮定と結論が同じ(「合理的なA国がBという行動をとったのは、それが合理的だからだ」)で終わってしまう。

 これに対して、政府や国のレベルになると、いろんな組織があって、それぞれは大なり小なり硬直してきて、決まったことしかできなくなる。そういう組織ごとの融通のきかなさを考えると、それをあわせて行われる最終的な決断や行動は、合理性とはずれてくるよ、というのが組織過程モデルになる。

 そして、世の中そんなきれいごとじゃ決まらねーんだよ、あっちの局長はこいつに恨みがあって意趣返しの機会を狙ってるし、こっちは以前の借りがあるので他の組織に頭があがらないし、この団体はこの話を口実に自分の組織の予算を盛ろうと企んでるし、こっちは歴史的な経緯から発言力が弱すぎる……などなど。そういった組織(およびその中の個人)同士の力学や駆け引きがすべての決断と行動を左右するんだよ、というのが政府内政治モデルだ。

 こう書くと、どれも当たり前だろ、と思う人も多いだろうけれど、当たり前のことをきちんと定型化してみせるのも学問の重要な知見だ。こうした枠組みを明確にすることで、かみ合わない議論も避けられることが多い。

  1.2.キューバミサイル危機の分析

 本書はそれをキューバ危機という、悪い意味で非常にヤバかった事件にあてはめてみせる。1962年という米ソ冷戦のさなかに、ソ連がいきなりキューバに核ミサイル基地を設置しかけ、それに対してケネディ大統領下のアメリカが海上封鎖で応じてソ連に撤去を迫り、そして最終的にフルシチョフ書記長がギリギリのところで撤去に応じたという3週間ほどにわたる事件となる。どちらかが、ちょっとでもちがう対応をしていたら、第3次世界大戦、いや世界終末の核戦争になりかねなかった、世界史上の一大事件だ。

 でも、この事件はよく見ると、ちょっと変だった。なぜかというと、そもそもソ連にとって、キューバにミサイル基地を作るなんてあまりに挑発的でリスク高すぎだし、アメリカがそれに対して行った海上封鎖はかなりしょぼい対応だったし、それでも結局はミサイルは撤去され、核戦争回避が実現されるという大きな成果があがってしまったからだ。全体として見ると合理的に動いているようで、個別のアクションを見ると合理性モデルだけでは説明がつけにくい。他のモデルを使うと、それぞれの行動についてもう少し踏み込んだ説明ができる。

 こうした事件についてのありがちな「分析」は、肝心なところで「そこでケネディがリーダーシップを発揮し~」とか「フルシチョフが、ふと手に取ったレーニン全集の一節を読んで我に返り~」といった、個人のパーソナリティや体験に落とし込んで事足れりとしてしまいがちだ。でも、そんなのは裏付けも応用力もない単なるお話で、分析の名に値しないし、理論でもなければ学問でもない。もっとまともな検討できるようにしようぜ、普遍性のある話をしようぜ、というのが、そもそもの著者の出発点だ。本書は、そういう属人的なお話を超えた分析の枠組みを示した。そして、そこに書かれた内容が、いまや当たり前に思えることこそ、本書のえらさを物語っているとすら言える。

 

 ……というのがこの本の概要だ。たぶん、このくらいは知っている人も多いだろう。ただ、名著とか必読書とかの噂を聞いた人は多くても、前述のように初版が長らく絶版だったこともあり、実際に読んだ人は限られるはず。初版は古本価格も高騰していて、7,000~8,000円くらいしていたので、このぼくも実物を手にして読んだのはかなり最近だった。決して手軽に読める本とはいえない。学者のまじめな分析だし、それに長い。今回出た第2版の邦訳はとっても分厚くて、上下巻で900ページ。でも、非常に勉強になる本だし、機会があれば(いや積極的に機会を見つけて)是非読もう。

2. この解説は困ったもんだ。

 が……どうしても苦言を呈しておきたいのが、この本の「解説」と称する代物だ。

 30年ぶりに邦訳が出るとなれば、この本の位置づけとか評価について、それなりに充実した解説があるだろうと期待するのは人情だと思う。これはどういう本なの? なぜそんなに評価が高いの? 刊行当時から、その評価はどう変わったの? そしてなぜわざわざ1991年に第2版が出たの? その第2版って、初版とどう変わったの? このくらいは説明してほしいところだ。そして、それがあれば、ぼくはこんな長ったらしい説明を書く必要はなかった。

ところが……本書の解説は、これを何一つ説明しやがらないのだ。曰く、

「初版とこの第2版を比較してどこがどう変わったのかという観点からの詳細な論評は、別の機会、別の書き手に譲ることにしたいが、本書を手にする人は、初版とは別の全く新しい本として読んで差し支えない」(II巻pp.451-452)

譲るな〜〜〜!!

 おふざけでないよ、まったく。これを書いたのは、渡辺昭夫という国際政治学のそれなりにえらい人だそうな。本書のテーマや分析手法は、かれの専門分野の直球どまんなかのはず。その専門家が、本書の中身についてきちんと解説せずにどうするの? そして旧版とのちがいについて、数十年ぶりに出た第2版の解説で説明せずに、だれがどこでそれをやってくれるの? 編集者もまちがいなく、その作業をやるにふさわしい人材と見込んで、渡辺に依頼したはず。それをやらないなら、そもそも解説を引き受けないでほしい。

ちなみに、本書は「初版と別の全く新しい本」ではない。基本的な主張や提示されている枠組みはまったく変わっておらず、初版のインクリメンタルな更新でしかない。こういうミスリーディングな書きぶりは、ホントやめてほしい。

そして、こうしたいちばん求められる内容をまったく書かずに、この人はいまの3つのモデルについて、説明しかけてはうだうだした感想に堕するというしまりのない文章を続け、そして最後にこう述べる。

「それでもケネディ抜きでは、到底この物語は成立しないだろう。指導者個人の力量、見識などの重要さを改めて感じるという平凡な感想でこの解説を結ぶと、アリソンやゼリコウの意に沿わないのかもしれないが、それが、私の正直な感想である」(II巻p.458)

 あのさあ……この本はそもそも、そういう人物の印象論の域を出ない話が無力だという認識から出発しているんじゃないの? たとえば、まとめのII巻 pp.398-400に出ている記述は、フルシチョフなりケネディなりの「力量、見識」がどういう背景で出てきたかについて、第3のモデル(政府内政治モデル)的な枠組みで説明しているけれど、それでは不十分だと言いたいわけ?もしそうなら、そして結局はケネディ個人がすごかったというなら、それは本書の分析が不十分だということだろう。どこかが不十分だと判断したから、そういう感想が出てきたんだろうか? それがあれば、この本の分析の枠組みをどう発展させる可能性があるかについての示唆にもなるけれど、そんな説明もなし。

 結局「ケネディえらい」に戻ってしまうなら、そもそもこの『決断の本質』での検討はすべて無意味で役立たず、ということになってしまう。そういう立場もあるだろう。でもそれでいいの?そしてそれはこうした国際関係論や組織論という学問分野(ひいては渡辺自身のキャリア)すべてを否定するに等しいはずだけど、その覚悟があって言ってるの?

 やるべき作業をまったく果たさず、それに変わる知見を出しもせずに紙幅と機会を無駄にして、挙げ句の果てに、そもそもの出発点を踏みにじるちゃぶ台返し。もうちょっときちんと解説していれば、この本の価値をぐっと上げられたはずなのに、ないほうがいい代物になってる。

3. 初版と第2版の比較

 しかたないので、不詳ぼくが初版と読み比べてみると(はい、そんな面倒なことしてたもんで時間がかかりました)、非常に大きく拡充されているのはまちがいない。

  3.1.加筆改定部分の概要

 たとえば、最初の合理的アクターモデル解説の部分では、初版ではモーゲンソーのリアリズム論とシェリングハーマン・カーンの議論をざっとなぞって、従来の議論の解説としている。でも第2版ではここが大きく拡充され、既存の説明は合理的選択としてひとまとめにされて(I巻p.137)、その後出てきた多くの学説の要領のいい説明が並ぶ。ネオリアリズム(I巻p.104)、国際制度学派(I巻p.114)、リベラリズム(I巻p.125)。脚注では、進化論的なアプローチにも言及がある。 あるいは、組織過程モデルについても、制度学派と新制度学派の説明の対比が加わったり、政府内政治モデルについても、プリンシパル=エージェント問題への言及を加えたりなど、初版刊行後のさまざまな知見についての言及は多い。原著の書評を見ると、こういう学説整理の点で第2版を評価する声はそれなりにあ る。

 そして、もう一つ大きく変わっているのは、事例として扱われるものの広がりだ。初版は、基本的に冷戦下の話であり、したがってほぼあらゆる国際関係論は、しょせんは米ソ関係とその周辺、という構図だった。だから、事例は(もちろんこの本の中心的な分析対象となるキューバミサイル危機を筆頭に)すべては米ソ関係の話だ。だれそれのこういうソ連観は組織過程の見方だとか、こういう冷戦分析は合理エージェントの見方だとか。 でも第2版の出た1999年の時点では、冷戦は終わっている。だったらこの本の分析はもう古びたというべきなのか? この本は冷戦の分析だけで意味を持つものなのか?

 たぶん、第2版を出した最大の理由はここにあったんじゃないかとぼくは思っている。この本の枠組みは今も有効だし、他のものにも使えるだけの汎用性があるよ、というのを明確に打ち出したかったんじゃないかな。そのために、各種理論的枠組みの説明では、初版で使われていたソ連分析などの話が、イラク侵攻や ユーゴ爆撃、国連での駆け引きといった、20世紀末の新しい事例にたくさん差し替えられている。組織過程分析については国際関係論以外にも応用があることを示したかったんだろう、アポロ13号の危機とチャレンジャー号爆発におけるNASAの組織構造分析を、かなりの紙幅を割いて記述している。

 さらに、主要事例となるキューバミサイル危機についても、その後公開された当時の会議のテープ記録や新しい文書をもとに、かなり拡充されていて、分析自体も変わっている。合理的アクターモデルの分析は、初版では基本的には不十分であり不可解な部分が残ってしまうという結論となっていた。ところがその後、ソ連アメリカがトルコのミサイルとか西ベルリンの扱いをかなり気にしていて、キューバをそうした動きとのあわせ技で考えるともう少し合理的アクターモデルで説明しやすいのでは、という結論になったりしている。その他、組織過程や政府内政治による分析でも、多くの人々の要所要所の発言が明らかになったことで、分析に具体性が増している部分も見られる。ここらへんは、新たに加わったゼリコウの十八番ということらしい(ただし、それが基本的な分析の枠組みや結論を大きく変えるものではないので、これについてはあまりきちんと見ていない)。

 ということで、第2版は初版にくらべ、その後の理論的な発展について概観し、また冷戦以後の世界におけるさまざまな事例をちりばめることで、本書の記述や分析が今なお有効であることを裏付け、さらには新資料に基づく細部も更新された。ほぼあらゆる面が加筆改訂され、改訂新版の意義はとても大きいと言える。言えるんだが……それによりこの本は、初版より「よく」なっただろうか?

  3.2.  第2版の評価:議論の希薄化?

 これは本当に、何をもって「よい」かとするその人の価値観次第ではある。あるんだけれど、このぼく個人の価値観に基づいて言わせてもらうと、うーん、ぼくとしては初版のほうがよかったんじゃないかと思うのだ。なぜかというとこの各種の加筆が、初版の持っていた非常に強い問題意識と緊張感を、かえって薄れさせてしまって、本としての迫力とまとまりを損なってしまったように感じられてしまうからだ。

 1971年に出たこの本の初版は、理論的な枠組みの提示という側面と、継続中だった冷戦における一大事、キューバミサイル危機の分析という側面とが不可分になっていた。そして冷戦/ミサイル危機の切迫感が理論的な枠組みの重要性を浮き彫りにし、理論的な枠組みが時事的な状況分析に深みを与えるという、見事な相補関係がそこにはできていた。まさに、いまここの状況に直接かかわるものとして分析があり、そこから生まれてくる理論的な枠組みの切迫した意義が生じていた。現在でも、初版を読むとその感じはつたわってくる。

 ところが、1999年に出たこの第2版は、その両者がちょっと分裂してしまっている。まず、もうソ連はないし、冷戦も終わった。キューバミサイル危機の分析という部分は、かつてのような切迫感はなくて、はるか昔のできごとに関するアームチェア的な分析だ。当時の会議のテープ記録や新しい文書をもとに、キューバ危機の分析がかなり拡充されたのが特徴らしいと述べた。でも、その改訂は別に理論的な枠組みのほうに影響するわけではない。キューバ危機によほど関心がある人以外には、かなりどうでもいい。

そして、初版の出発点というのは、合理的アクターモデルでは不十分ですよ、ということだった。だからこそ、他の決定要因を考えよう、という話が重要性を持ってくる。ところが、ベルリンやトルコのあわせ技ならば合理的アクターモデルの説明力が高まる、という第2版の立場は、この論理展開を弱めてしまう。合理的アクターモデルでやっぱ十分ってことですか? もしそうなら、組織過程モデルとか政府内政治とか、あまり頑張って見なくてもよさそうじゃないですか。

 さらに加筆された1990年代のユーゴ爆撃やイラク侵攻は、第2版が出た1999年直後であれば時事性を高めることになっただろう。でも現在では、そうした細かい事件自体がすでに記憶の彼方になってしまっていて、むしろキューバミサイル危機や冷戦のほうが、まだ多くの人の意識(少なくともこんな本を読むような読者層の意識)には強く焼き付いているんじゃないか。2016年の今読むと、時事的な目新しさを回復させようというそうした試み自体が、かえって古くさく、あまり今日的ではない印象に貢献してしまっている観さえある。

決定の本質 キューバ・ミサイル危機の分析 第2版 2 (日経BPクラシックス)

日経BPクラシックス 決定の本質 キューバ・ミサイル危機の分析 第2版 II

 一方の理論のほうは、ネオリアリズムの説明とか勉強にはなります。でも、たくさん加筆したおかげで、本の論旨展開がぼやけてしまっている。新しい学説はいろいろあっても、それによって本書での合理的アクターモデルという分析の枠組みはまったく変わらない。その他の部分も同様だ。つまり、国際制度学派の話やプリンシパル=エージェント問題とかは、本書の論旨には貢献できていないのだ。むしろ余計な話がいろいろ出てきて、見通しを悪くしているように思う。

 ちなみに、進化論的な適応の話に脚注で触れていると述べたけれど、まずそれが合理的説明の放棄である、というとても変な認識になってるし、参照されているのはジャレド・ダイアモンドにスティーブン・J・グールド。ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』草思社文庫、上下)は1999年の時点では出たばかりなので仕方ないとはいえ、当時は大きく話題になったものの、その後だんだん突っ込みが入ってきたし、さらにスティーブン・J・グールドは、ポール・クルーグマンが揶揄しているように、進化論を通俗書でしか知らない素人さん向けの人なので、触れないほうがよかったんじゃないか。また、教科書として使うためにチェックリストとか整理表とかを入れたのは、まあ学生には有益なのかもしれないけれど……。

 そして、初版と第2版の持つ時代/問題意識の差を示している部分がもう一つある。いちばん最後の部分だ。まず初版では、「第7章 結論」の第3節「今後の展開」の部分は、基本的に「あまり合理性を過信して核戦争なんか起こらないと思い込んではいけないよ」という主張につきている。国は合理性から外れた行動をすることがある。組織過程や政府内政治は、その合理性からの逸脱を考えるためにあるのだ、というわけ。そして、その応用として、ベトナム戦争への適用についての言及がある。これが、「北ベトナムが合理的に見れば負けてるのに、なかなか降伏しないのはなぜか」という問いとして立てられているのは、今にして思えばほほえましい。

余談ながら、デイヴィッド・ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』二玄社、上中下)は、ある意味でベトナム戦争でのそうしたプレーヤーたちの「力量、見識」がそれぞれの人のどういう背景で生じたかを詳細に記述した、第3モデル分析の見事な実践だったことが本書を読むとよくわかる。その点は、以前にレビューで指摘もした。

 さらに「あとがき:今後の研究のために」という章が設けられて、この本での分析の不足部分、今後検討しなければならないテーマとその具体的な政策への応用について、非常に包括的なまとめが続いている。いままさに起こっている冷戦状況の分析にとって、いままさに必要な枠組みを自分たちが構築しなければならず、そしてそのために本当に現在進行形の学問的な努力が必要なんだという意識が、明らかにそこには働いている。

 それが第2版では、冷戦が終わって核戦争はもう起きないという見方は不十分で、ソ連崩壊後のメンテ不足や核拡散で核戦争の危機はいまだにあるよ、という主張が続くんだけれど、やはり迫力不足。そして最後に唐突に3ページほどにわたって、ケネス・ウォルツ批判が続くのは、なんだか実に場違いに見える。そしてなんと、それで第2版は終わってしまう! 以前の「あとがき」の部分は完全に削除されている。研究の不足、今後さらに追求すべきテーマについては何も言及がなく、その応用についても何も考察はない。30年たって、冷戦時における切実な状況分析と政策応用の組み合わせだったこの本が、もはや今後特に発展させるつもりもあまりない、大御所の地位に安住してしまっていることがうかがえる。もう現在進行形の中にはおらず、古典だけどまだ完全に古びてはいませんよというアピールだけで終わっているわけだ。「あとがき」で挙げた各種課題にその後の学問的な展開がどう対応しているのか、というのをまとめてくれたら、すごく有益だったんじゃないかと思うんだけど……。

 そんなこんなで、第2版はぼくとしては、全体に拡充した分だけかえって希薄化して、初版の迫力を失ってしまったように思う。これは、仕方ないことではある。でも、こういう形で加筆改訂するよりは、本文の改訂は最低限にとどめて、最後にその後の展開や現代的な評価などとまとめた章を2-3章ほど追加してくれたほうがよかったんじゃないかなあ。

4. 原著の変化と世界の変化:第2版の意義とは

 なんだかずいぶんきつい言い方になった。でも、これはあくまで初版との比較の話。そしてもう一つ、このぼくの評価の理由として、たぶんぼくが冷戦時代(とその崩壊)をリアルタイムで見ている歳寄りだということがあるんだろう。このぼくが、かつての米ソ関係とか、核戦争一歩手前とか、そのゲーム理論的な物言いとかにそれなりに触れてきて、そっちのほうに強いリアリティをすり込まれてしまっているために、初版の問題意識のほうが強く心に迫ってくるんじゃないか。ぼくはもちろんこれについて客観的な見方はできないけれど、でもそういう側面はあるにちがいないとは思う。

 第2版は発散して当事者意識が薄れたような印象を抱いてしまうのも、実は単に世界の国際関係的な構図が発散してわかりにくくなった反映でもある。さっきも書いたように、かつての国際関係論は、米ソの腹の探り合いがすべてだった。でもいま、それがもはや通用しない。いろんなプレーヤーがいろんな利害をもって交渉をするようになっている。本書の前提となる環境自体が発散しているし、第2版はその状況をなるべく反映しようとしている。ぼくが批判的に言及してきた部分は、実はそうした努力の結果でもある。

 そしてそのために本書のキモである理論的枠組みがまったくダメになったということもない。というより、むしろその重要性は高まっているかもしれない。いま、世界のいろんな勢力の様々な動きは、単なる「合理性」だけでは語れない。イスラム国をごらん。難民問題をごらん。ロシアの立ち回りをごらん。本書では、 合理アクターモデルだけではだめで、組織過程や政府内政治も見る必要がある、というのが強い主張だった。そしてマクロレベルの合理性を確定しにくくなった現在(だれの、どういう状況における、どういう意味での合理性か、というのがいまや実に複雑だ)、組織過程や政府内政治(政府内でなくてもいい。世界に群れるさまざまな小勢力でもいい)的な見方のほうが重要、というかそういう見方以外には何も理解できないケースも増えている。本書の第2版の加筆は、それを早い時期に指摘できている。これは評価すべき重要なポイントだ。

 もちろん1971年の本の改訂ということで、これらの部分の加筆には限界がある。そして第2版が出た1999年は、もはや冷戦が終わったことにだけみんなが歓び、今後は大きな国際紛争なんかなくなるような見通しを、一部の人々は平然と出していた時代だ。ぼくがいま述べたことは、いまなら当然のこととして自然に受け取れるだろう。でも当時は、そうしたことが問題だという話そのものが、重要な指摘だった。たぶんいまの人々は、その指摘を受け止めつつ、自分たちでこういうテーマや分析を広げるにはどうすべきかを考えねばならない。それを念頭に読むと、この第2版は「キューバミサイル危機の分析」以上の意味を持ち得る。このコラムの読者諸賢も、米ソ冷戦時代なんか噂でしか知らない人も多いはず、その人には、むしろこの第2版のほうがリアリティを持って迫ってくる可能性も十分ある。

 そしてもちろん加筆された部分だってとても勉強になる。だからこれまで題名だけ知っていた人も、この第2版の邦訳を機に実際に読んで見る価値は十分にある。そして、「それでも上下巻900ページはきつい……」という向きは、この第2版が出たおかげで、初版の日本語訳の古書価格が大幅に下がったので、基本的な主張の理解のためにはそっちを読んでもまったく問題ないと思う。むしろそっちのほうがいい面さえあるというのは上に書いた通り。それに短めだし、解説もずっとましだし。

 今回はこれにて終了。これを読んで書いているうちに、他の本もいろいろたまってきたので、次回はもっと早めに出せるとよいのだけれど。ではまた。