Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

小説の値打ちと脱成長論の愚をめぐって

「新・山形月報!」、今回はまだ最終回ではないはずです!? 取り上げられたのは、リチャード・フラナガントマス・ピンチョンドン・デリーロ、バルガス・ジョサ、マーク・トウェインなどの作品……。さらにマイケル・ヤングの『メリトクラシー』、柿埜真吾の『自由と成長の経済学』にまで話は及びます。



だんだん終わりが近づいてきました。この「連載」は不定期もいいところで、一年半も間が空いたりとか、定期購読されていた皆様にはたいへん申し訳ございませんでした。いろいろ書きかけて、他の仕事にかまけているうちにタイミングを失ったような原稿は結構あって、今回はそういうのを少しお蔵出し。

前回の最後で、ウラジーミル・ソローキンの小説を紹介した。珍しく時事ネタとからめられたので書きやすかったけれど、通常だと小説はなかなか扱いがむずかしい。単独性が強くて、なかなか他の本と関連づけて紹介しづらくて、何かうまい見せ方があれば……と思っているうちにいろいろ過ぎて、タイミングというか、「これについて書きたい!」という気持の盛り上がりが衰えてしまう。

そうした中で、ずっといつか触れておきたいと思いつつ果たせていなかったのがリチャード・フラナガン『奥のほそ道』白水社)だ。 ぼくが読者としてすれっからしになってきたせいもあるんだろう。もう小説がなかなか単純に楽しめなくなってきている。このコラムでは、ウラジーミル・ナボコフの話をたくさんした。彼の小説は技巧的で冷酷で読者も登場人物も突き放して嘲笑する独特の距離感があって、とても好きな一方で、往々にして小説そのものよりもある種の表現技法の誇示と、そしてそれを駆使できる己の能力自慢ばかりが前面に出てきて、小説自体がいつのまにか、どうでもよくなっているような部分がある。

奥のほそ道

奥のほそ道

一方、ノーベル賞も含め最近評価されている「ブンガク」の多くでは、何かそのとき流行りの社会課題があって、それをうまくメロドラマにからめて、現代的な風俗(ブログとかネットとか)で味付けをすればいっちょあがり。小説そのものよりも、何か意識の高さを示すチェックリストで評価が決まるような、そんな安易さ。じゃあ「小説そのもの」って何? というのはむずかしくて、自分でもよくわからない。でも、この話が小説以外ではありえず、これが小説として書かれねばならなかった、という必然性が伝わってこないと。各種技巧も、それ自体のためにあるんじゃなくて、そういう書き方をしなければならない必然性がないと。そして、そこで描かれる中身が、ストーリーなり主題なりと分かちがたくからみあっていないと。

20世紀の特に後半には、こうした考え方自体があまり流行らなくなってはきた。もはや小説で書ける新しい中身なんかなくて、主題とか考える必要さえなく、もはや書き方とか技巧とかエログロのショックバリューだけしか小説はあり得ないような思想が幅を利かせていた。それはポストモダン的な皮肉と冷笑と衒学主義と「大きな物語の終焉」みたいな話と通じるものでもあり、同時に冷戦後の世界構造としてもはや軍事や経済的な豊かさなどを意に介するまでもないどころか足蹴にしてよく、環境とかLGBTQなどのような細かい主題を議論していれば世界はまわるのだ、といった発想ともつながっていたろう。

でも今や、それがそろそろ転回点を迎えているような気はする。みんなが軽視した軍事とか基本的なエネルギーといったテーマが世界全体に復讐しにきている。そして次第に、スティーブン・ピンカーなどを筆頭にかつての古い啓蒙主義的な思想を復活させねば、という機運も出てきたし、変なお題目のために経済発展を止める愚かさも見えてきた。つい数年前まで幅をきかせていた、21世紀はまったくちがう社会経済体制の新しい資本主義が生まれ、みたいなお題目も、目先の電力や食い物や安全保障が危うくなった瞬間に一気に崩れた。

今後21世紀の半ばまでは、20世紀の(特に前半から半ばの)教えを再認識し、復活させるのが人類の大きな課題になるだろう。そしてその中で、小説なども変わってくる。娯楽大作のはずの映画までずいぶん説教臭くなり、変なポリコレメッセージを必ず入れてどんどんつまらなくなり、『トップガン』続編のような、何も考えずひねらない(ように見える)ものがかえって新鮮に見えて純粋におもしろい---これは決して、この世界的な傾向と無関係ではないと思うのだ。

えーと、なんだっけ。そうそう。フラナガン。彼の作品は、そういう時代の変化にはまったく影響されていない。邦訳された『グールド魚類画帖』『姿なきテロリスト』(ともに白水社)、そして『奧のほそ道』。いずれも、強いて言うなら植民地主義や人種差別、テロリズムとか、ある種の現代的な意識の高いメッセージと関連しているとは言える。でも、いずれもそうしたものは、脇役でしかない。人々が、いまここで抱えている深い苦悩や諦め、そして日常---その背後にある歴史の広がり、それもまったくちがう探究の背後に見え隠れする別の時代の別の意識。フラナガンの本は、過去のそうした歴史的しがらみが現在に通じ、そしてそれが社会的なお題目にとどまらず、個人の意識のありかた、世界とのかかわりにまで浸透する。

技巧の面でも見事。でもその技巧はすべて、目的があり、必然性がある。社会的テーマやメッセージも、それを訴えるために登場人物たちが動くわけではない。彼らの行動の中からそうしたメッセージが読み取れなくもない---あるいはそれは、異常な状況における異常な人のふるまいにすぎないのかもしれない。世界も人の行動も、そんなわかりやすいものではない。ナントカ主義に背中を押されたら、決まった行動をするような、そんなものではない。

『奧のほそ道』は、かの映画『戦場にかける橋』で有名な泰緬鉄道の過酷な建設現場に戦争捕虜として駆り出された、著者の父親の地獄のような体験をもとにした物語だ。それに携わった様々な人々の運命、それが変えた運命と現代もなお続く傷痕と空虚、そしてその救済じみたもの/あるいは救われない様子を描き出す、きわめて重たい物語となる。 戦争は悲惨だとか、そういう話ですらない。ただ、人は、そして世界は、どうしようもない体験や異様な事件を抱えつつ、それをひたすら抱え込んだまま現在、そして未来へと続く---それだけの話だ。つらいとか苦しいとか、イヤだったとか謝罪をとか、そんな話を一切外に出すこともなく、出しても何もならないと知りつつ世界が流れ、いつのまにか歴史らしきものが生じるけれど、それは各個人と関係あるようで、実はないのかもしれない。これはそういう小説なのだ。そして、それは特定個人だけの話ではない。世界全体の話でもあり、読む者にもわずかながら関わりがある---そういう物語となる。

翻訳の渡辺佐智江は、いつもながらあまりに上手い。彼女はアルフレッド・ベスター『ゴーレム100』国書刊行会)やキャシー・アッカー『血みどろ臓物ハイスクール』河出文庫)などの超絶技巧翻訳が目についてしまうけれど、このフラナガンの翻訳で見せる、原文の重厚な抑制を見事に再現した訳文は、まったくケチのつけようがない。彼女がフラナガンのすべてを翻訳しているのは、日本の読者にとって実に幸運なことだ。たぶん今後、さっき書いたような世界の変化がさらに進んでも、彼女が訳したフラナガン諸作の価値は、一切下がることはないはず。簡単に読みなさいと奨めるのがためらわれる重厚な作品ではあるけれど、いつか、このコラムの読者だった人々は、気力と体力があるときに是非読んでほしい。

それに比べ……と落とす必要もないんだけれど、他に書きかけて放り出した原稿が、トマス・ピンチョン『ブリーディング・エッジ』 (新潮社)。これはかつて原著が出た際、「お前くらいならおもしろがれる」と言われたこともあって読んで、まあまあ楽しめたんだが……なんというか、その書評草稿でえらくほめるのに苦労している自分が見える。そして、その理由が今だとなんとなくわかる。ある時を境に、かつてあれほど世界文学の巨人に思えたピンチョンが、急速にローカル作家に変わっていったからだ。


トマス・ピンチョン全小説 ブリーディング・エッジ (Thomas Pynchon Complete Collection)

1970年代の衝撃のデビュー作『V』から『競売ナンバー49の叫び』『重力の虹』のピンチョンは、すごかった。世界のすべてを巨大な小説に詰め込む力量と世界観を持っていたように思えた。いまにして思えば、それは単に時代のせいだったのかもしれない。当時から、彼はアメリカだけのローカル作家だったのかもしれない。でもその頃は、アメリカの話を書くことが、世界の問題につながった。彼の描く変な裏世界が表世界のアメリカをあやつる—それは世界に波及する話だった。

でもその後、印象が急に変わった。『ヴァインランド』以来の作品すべて、アメリカ人が米国ローカルな話を書いているだけとしか思えなくなってしまった。かつてこのコラムで彼の『メイスン&ディクスン』をほめたけれど、いま一つ歯切れが悪かったのはそのせいでもある。アメリカの奴隷制はよくなかった—はいはい、了解です。で? 『逆光』はがんばって読んだけれど、世界の謎を散りばめつつ、力点のかなりの部分はアメリカの労働争議での惨事。『LAヴァイス』はヒッピー文化のノスタルジーと幻滅。『ブリーディング・エッジ』も、ぼくはネット企業がらみで楽しめるけれど、ピンチョンに期待していたのはこんなローカルな話ではなかったはず。

それはおそらく、アメリカの存在感と先進性が世界的に薄れてきたせいなんだろう。ある時代のアメリカを書くことが、そのまま世界全体のあり方にもつながる、そんな時代が終わってしまったせいなのかもしれない。ある意味、世界に追い越された、とでも言おうか。

同じことは、ドン・デリーロでも感じる。『アンダーワールド』(新潮社) とか、9.11テロを予測していたと騒がれたりしたけれど、どの作品もテレビや新聞で現代的な「課題」を仕入れて、当事者意識なしに登場人物が自意識過剰のモノローグをする口実に使っているだけ。そしてその対象は、グローバルな事件にも触れてはいるけれど、アメリカから一歩も出てこないのだ。しかも、『マオII』(本の友社)などを見ると、小説家は革命家やテロリストにも似たご大層な存在だという思い上がった誤解をなにやらしているらしい。書き方も、ほのめかしと、ドラマに頼らず安易な結末を避けた曖昧性、結論をぼかすお上品さ、核心のまわりで展開される思わせぶりなモノローグ、どれもご立派なお文学の作法や修辞を教科書的に上手にこなしているけど、しょせん教科書。非常に安心できるし、たぶん大学の創作講座の教材にはしやすいんだろうけど…… 。

おそらくそういう現代的な意識とはまったく無縁に書かれたがゆえに、ずっと現代性を持ち続けているのがマーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』(研究社)。これはもう、読めとしか言えない。cakes用に昔書きかけていた草稿では、上で渡辺佐智江をほめたのと並んで、別のタイプの翻訳者として柴田元幸のこの翻訳を絶賛しかけている。いやホント、ちゃんと書き上げて出た時にほめるべきだった一冊。『ハックルベリー・フィンの冒けん』の何たるかをここで説明する気はないけれど、アメリカ小説、いやほとんどあらゆる小説にとっての一つの原点ともいうべき小説だし、他の翻訳で読んだ人も、原文のちょっと変な感じを再現した柴田元幸の翻訳(しかもそれが、わざとらしい読みにくいものにならず、普通に読める!)は絶品なので是非。


ハックルベリー・フィンの冒けん

小説っぽい話を一通り片づけてしまおうか。かなり最近書きかけていた草稿では、レイナルド・アレナスについて書こうとして、逡巡している。 アレナスはおそらく、映画化された自伝『夜になるまえに』(国書刊行会)で最も有名だろう。彼は、同性愛者で、そこからキューバの体制に迫害され、アメリカに亡命し、でもそこでもなじめずにアメリカ資本主義を呪い、孤独なままニューヨークのゲイシーンを徘徊するうちにエイズになり、ライフワークだった長編五部作をギリギリ書き上げて他界した。同性愛に対する偏見、全体主義政府からの迫害、西側での疎外、エイズで死亡という、被害者としての側面があまりにも多い作家ではある。

そして彼が優れた作家であるのはまちがいない。初めて読んだ彼の作品は『めくるめく世界』だったけれど、マジックリアリズムの後継者めいた異様な歴史遍歴物語のパワーとおもしろさには舌をまいた。だから彼がキューバ政府に弾圧されずにもっと自由に創作に励めていれば…… と書きかけたところで、ぼくの草稿はためらっている。というのも……彼が輝いたのは、まさにキューバ政府に弾圧されたおかげではないか、という気がしてならないからだ。というより、彼は自ら不幸と迫害を求めて突き進み、どこへいっても不満と独善を投げ散らかして、敢えて自分からつまはじきにされに行く、そんな作家に見えるのだ。彼はどこにいっても、落ち着いて心穏やかに創作などできない。いや、心穏やかでないことこそが、彼の創作力の根源だったりする。そして、その弾圧のおかげで何か社会派っぽいイメージすら少しあるんだけれど、実は社会なんか何も関係ない。彼の受ける弾圧はすべて個人的なものでしかない印象さえある。

それを示すのが彼の遺作『襲撃』水声社)。全体主義弾圧国家の走狗として検閲と弾圧に邁進する人物のほとんどコミカルな物語だ。が、それが最後にいきなり母親憎悪に完全にシフトしてしまう (ネタバレだけれど、これを知ったところで何がわかるわけでもない)。ストレートな全体主義批判に見えたものが、全然そうではない個人的な遺恨と執着の産物—そしてそれが見えてしまうと、彼の作品の多くが、急に矮小なものに思えてしまうのだ。 そうは言いつつ、アレナスを語るときにキューバの政治状況についての話を無視することはできないんだけれど。そして、その私的な部分がキューバでの弾圧も含めた社会状況とうまくからみあった『ハバナへの旅』(現代企画室)は本当にすばらしい作品集だと思う。が、これと『めくるめく世界』以外は、本当に読む人の感性次第のところがある。他のラテンアメリカ文学の諸作よりは、むしろ私小説っぽい雰囲気さえ持つ小説だとは思う。

あと、小説ネタの草稿ではコーマック・マッカーシーの話を書きかけているなあ。コーマック・マッカーシーは、感傷を排した淡々とした描写が常にすばらしい世界を創りあげる作家で、現代文学の軽薄な流行りとは無縁ながら、それ故に見事。映画化作品も多いし、読んだ方も多いと思う。なぜ彼の小説の話をしようかと思ったかといえば、確か彼の処女作の翻訳が出て、喜び勇んで読みつつ書き始めたが、いま一つだったから、だったように記憶している。そういえば最近は……と思ったら、彼の新作が今年2022年秋に二作まとめて出るらしい (なんだか今はサンタフェ研究所にいるとのことで、何をしてるのかさっぱりわからんけど)。翻訳もすぐ出るだろうし、楽しみ。このコラムで取り上げられるとよかったんだけれど。

そしてもう一つ、近刊ネタといえば、最近出たバルガス・ジョサ『街と犬たち』光文社古典新訳文庫)の訳者あとがきで、寺尾隆吉がさりげなく、バルガス・ジョサによるガルシア・マルケス論『神殺しの物語』が近々訳出されるという、驚きの話を書いている。これはバルガス・ジョサの博士論文であり最高のガルシア・マルケス論の一つと言われつつ、その後キューバ体制をめぐって二人が決裂し、以降は翻訳等の許可が一切出なかった、といういわくつきの代物。これは、今回のコラムまでに出るかと思って待っていたんだが、残念ながらもう少しかかる模様。出たら、どこかで感想を書くようにいたしましょう。

 

yamagatacakes.hatenablog.com

 

 

さて、ノンフィクション系の原稿がもっとあるかと思ったが、意外にない。いろいろあちこちでうまく再利用できているものがほとんどで、ここで改めて紹介することもない感じ。唯一、触れておきたいと思ったのがマイケル・ヤング『メリトクラシー』講談社エディトリアル)。 これはずいぶん古い本で、邦訳も60年代に出たっきり。それがなぜか2021年になって復刊された。マイケル・サンデル能力主義批判の文脈でかなり言及したから注目されたのかな、と思ったんだが、出版社も自費出版系だし、解説者の復刊に自ら手を尽くした話を見ても、どうも自費出版なんだよね。翻訳書の自費出版は珍しいし、まして他人が訳した本をわざわざ自費出版で復刊させるとは。


メリトクラシー

が、これはとてもおもしろい本ではある。本の中身はもちろん一度商業出版されたものだし、まったく危なげない。かつて元の邦訳を出した至誠堂の流れを汲んだとでも言うべき一冊。至誠堂は、『パーキンソンの法則』の大ヒットに気をよくして、皮肉っぽい嫌みなイギリスユーモアの社会評論本をいくつか続けて出した。そのうちの一冊がこの本だ。中身は題名通り、イギリスが社会主義アメリカの影響を受けて、階級社会から脱して能力主義メリトクラシーを導入したら、とんでもないことになりました、というのを未来から振り返って語るという、一種の歴史改変小説みたいなものだな。

そして、そこでの主張は、能力主義の導入によってかえって階級分断が進む、というもの。昔は世襲の階級があったおかげで、貴族でもバカという連中がたくさんいたし、賢い平民も労働者もそれなりにいた。だから場合によっては、階級を超えて頭良い連中が連帯したり、ということも起こった。それにより社会の一体性と秩序が保たれていた。 でも、能力主義になったら、トップの連中はとにかく有能、そうでない連中はあらゆる面で無能で恵まれないという状況がますます強化される一方となり、それに耐えかねてイギリスで大暴動が起きましたよ、というもの。

この本に気がついたのは、現在鋭意翻訳中のトマ・ピケティ『資本とイデオロギー』で大きく採り上げられていたから。ピケティはサンデル同様に本書について、現在のメリトクラシー/能力主義なるものの欺瞞をいちはやく指摘した慧眼の書だと持ち上げている。が、その書きぶりだとこの本が、能力主義の偽善を指摘してあるべき平等社会の方向性を示しているように読めてしまう。でも実際にはむしろピケティとは正反対で、かつてのイギリス階級身分社会を懐かしむ非常に反動的な本だ。真の平等に到る方法を考えようとした本ではない。この再刊に尽力したらしき解説の人は、むしろそうした反動的な物言いの部分に感動したようで、うーん。でもおかげで、おもしろい本が復刊されたのはよしとすべきかな。

あと最後に柿埜真吾『自由と成長の経済学』PHP新書)の紹介を書きかけた原稿が出てきた。これはとてもよい本で、あのどう見てもろくなものとは思えない、斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書)をこと細かに批判し、そこで展開されている議論がいかにトンチキな世迷い言かをきっちり説明した本。個人的に斉藤本は、まったく読む気が起きなかったが、なんだか人気があるみたいだし、それを真面目に読んで、真剣に批判するという報われない仕事を他の人がやってくれるのは、本当にありがたいことだ。

本書を読めば、斎藤本なんか読む必要がなくなるし、またその他の各種「人新世」だの脱成長論だのといった主張の愚かしさはよくわかる。話は冒頭で述べたところに戻ってくるけれど、おそらく現在のウクライナ侵攻や、それに伴う資源、食料などのリスク顕在化により、これまでのお気楽な脱成長論の愚かしさははっきり見えてきたと思う。そして特に環境を掲げて脱成長を論じる人たちが、ウクライナ侵攻で温暖化問題が忘れられるのが心配といった、スケール感も時間感覚も、距離感もまったくない発言をすることについての違和感も、だんだん出てきたはず。その意味で、こうした脱成長論も当分はなりをひそめてくれるのかもしれない。

でも、必ずこうした議論は蒸し返される。そのときに、それに対する反論ができるようになっておくのは重要なこと。そのためにも、この『自由と成長の経済学』にざっと目を通しておくのは、決して損にはならないはず。20世紀の教訓を再び学び直し、みんなが当然と思って忘れていた、安定した成長ある社会とその基盤を実現するためにはどうすべきか—そんなことを考えるためにも、是非ともどうぞ。

なお、このコラムのバックナンバーは、8月末をもって見られなくなってしまうそうなので、こちらでバックアップを作りました。デザインもそれっぽく再現してみました。これまで有料だから読まなかったケチなみなさんも、是非ともどうぞ。こうして改めてまとめて読み直すと、自分が結構鋭いまともなことも言っている一方で、バカなこともあれこれ書いていて、皆さんがこれをどういうふうに読んだのやら。でも、決定的にまちがったことは書いていない、とは思う。

あと一回、ひょっとしたらあるかな、ないかな。気が向けば、ということで、期待しないでお待ちを!