Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

九龍城塞・スマートシティ・民主主義

復活も一時の思いつきかと言われていた「新・山形月報!」、さすがに2回目くらいは続く模様。今回は香港の魔窟と言われた九龍城砦をめぐる本とスマートシティ、さらにはプーチンの戦争と民主主義についてあれやこれや。さて、どんな話になるでしょうか!

 

以前は、毎年二、三回はでかけていた香港も、2019年からの逃亡犯引き渡し反対運動に端を発するデモの騒乱、さらにはその後のコロナで、もうまったく行かなく/行けなくなってしまった。最後に行ったのは2019年の末か……

そんな香港に、この4月あたりに久しぶりに行けそうなんだが、楽しみな一方で恐いような。2023年春のいまは、もう渡航制限は解除され、すでに完全に往き来できる状態になっているのだけれど (ただし入るときに抗原検査の結果は見せねばならない)、この数年でもう都市としての位置づけが完全に変わってしまった。かつては、香港というのはそれに隣接する深圳との対比で、制度がちがえば都市の形も雰囲気もここまでちがうのかという、民主主義対準専制政治の都市像の差というのを如実に示す場所だったけれど、いまやほぼ完全に中国本土に屈服させられてかつてのアイデンティティすら失ってしまい、その雰囲気まで変わってしまっているのでは……

 

その香港の中で、1997年の返還前にいつか行かないと、と思いつつ結局最後まで実物を見ずに終わってしまったのが、あの有名な九龍城砦。香港の啓徳空港近くにあった、コンクリートの塊とも言うべき異様な建物群だ。その中は昼も暗く、完全な治外法権で麻薬取引、売春、ギャング、その他ありとあらゆる違法活動が展開されていて、いったん入ったら出てこられない (迷子になって出てこられないか、あるいは切り刻まれて臓器販売に回されるとか) とか、いろんな伝説があった。

ぼくも1980年代末になんとなく噂には聞いていて、その頃ペヨトル工房から出た宮本隆治の写真集で「うわー」と思った。ちなみに、そのときに帯にあったウィリアム・ギブスンの販促コメントを電話で交渉したのはぼくでした (一行程度のコメントにお金なんかいらないから、出たらその写真集を五冊くらいよこせ、ということで交渉成立したはず)。当時大きく盛り上がっていたサイバーパンクの世界では、そうしたアウトロー集団のスラムじみた空間が非常に珍重されていたこともあり、ギブスンのコメントが求められたのもそういう文脈だ。そしてミーハーな貧乏旅行者として行こう行こうと思いつつ、ついにそのチャンスもなく……

九龍城砦
宮本隆司九龍城砦』リマスター版。
山形が交渉したギブスンの帯文句はこれではない。

いや、それはウソだな。もちろん空港がかつての恐怖の啓徳空港からいまの赤鱲角に移ってしまうと、近くを通ることさえなくなってしまったというのはある。でも、なんでもそうだけれど、いけなかった、というのはウソで、いかなかった、というのが正しい。

その理由の一つは、単純に何かおっかなそうだと思って尻込みしていたから。そしてもう一つは当時、写真を見て喜んではいたものの、ちゃんとその説明を読んでいなかったから。確かにすごいけれど、でも重慶マンションなど香港のいたるところにあるぐちゃっとした高層密集建築と、そんなにちがわないんじゃないかと思っていたのだ。九龍城砦の「城砦」というのは、単なるイメージでついたあだ名なんだと思っていた。

だが、九龍城砦は、本当に城砦/城塞だったのか! (そんなことも知らなかったのかバカめ、と言う人もいるだろう。はい、すみません) そしてここは、歴史的にも位置づけ的にも、香港のその他の部分とはまったくちがう。その歴史を、発端から取り壊し前夜まで解説したのが魯金『九龍城寨の歴史』(みすず書房) だ。

九龍城寨の歴史

魯金『九龍城寨の歴史』(みすず書房

このように、全くの認識不足で手に取ったぼくが当初期待していたのはその怪しい魔窟としてもてはやされるようになった時代の話だったのだけれど、それはあまり出ていない。博打場、ストリップ劇場、ポルノ小屋の発展経緯についてはちょっと出ているけれど。ポルノビデオがストリップ衰退の引き金だったんですねー。でもそこは最後のほうの、ほんの数ページになる。

むしろこの本は、本当に九龍という名前の発端から始まる、もっと長い歴史の話だ。かつて香港がいまほど埋め立てられていない頃には、ここは監視台であり砲台として使われていた。まさに海を見下ろす絶好の立地だったからだ。そしてここにはずっと中国の官吏も駐在していて、この地域における一つの拠点だった。その後、香港がイギリスに租借されるときにも、その戦略的な立地のためにここだけは租借対象外として、中国の一部ということになり続けた。

つまり、中国の中の、香港という治外法権的な場所の中の、さらに治外法権という変な場所が、この九龍城塞だった。治外法権入れ子構造! そしてそれはこの場所が持つ軍事的な位置づけによるものだった。

だからここが無法地帯になったのは、成り行きでギャングが縄張りを作って警察が怖がって手を出さなかった、という話ではない。そうなった歴史的、制度的な理由があった。だからこそ、本土からの逃亡者がここに逃げ込めば、イギリス配下の香港政庁は手が出せないという状況になっていた。このために違法滞在者の集まりと化し、犯罪の巣窟となった。そしてそうなる以前の植民地列強の白人たちですら、自分たちの支配地では禁止されている決闘や博打をやりにここにきていた、といったエピソードは、いまとなっては微笑ましいというべきか。

全体としては写真や図なども限られ、淡々とした歴史書で、書き方も地味。だが、九龍城砦の写真集などを見て、一見さん以上の興味を持っていた人々は、一読して損はない。あの変な固まりにこめられた歴史、制度の重なりなどが如実に感じられると思う。

ちなみにみんなおどろおどろしいイメージで印象づけようとするけれど、実際にはここも普通の生活の場ではあった。そこらへんに関してはジラード/ランボット『九龍城探訪』(イーストプレス) や九龍城探検隊 『大図解九龍城』(岩波書店) を見るとわかるだろうか。

九龍城探訪
ジラード/ランボット『九龍城探訪』(イーストプレス) 。これも原題は「City of Darkness」で、おどろな雰囲気で売りつつ、中を見ると結構ふつうに一般生活している感じが出ていて、コントラストがおもしろい。

もはやここも取り壊されて公園になってしまっているのだけれど、こうしてかつてあった変な場所を回想するという行いが、いまや香港そのものにも次第にあてはまりそうな雰囲気になりつつあるのは、歴史の皮肉なのか必然なのか。

 

さて都市の話といえば、しばらく前までは何かとスマートシティというのがもてはやされていた。日本もインフラ輸出の目玉の一つとしてスマートシティをやたらに挙げていた。ただ、正直いって具体的に何をしたいのか、というとまったくピンとこなかったように思う。実際に日本の先進事例と称するものを見学にいったときも、かなりやっていることがショボく思えた。その不満については、「スマートシティって結局何なのよ」(2018) に書いたことがある。

その一方で、一時はやっていた完全自動運転を通じてモビリティが完全にサービスと化して (MooSだっけ←ちがうわ、MaaSだ)、都市のありかたが変わるとかいう一時聞かれた話も、最近はあまり聞かれなくなった。エストニア電子政府的な取り組みも、もてはやされたけれどその後あんまり聞かない。都市のデータプラットフォーム化みたいな期待もあったが、その後の様子はよくわからない。そうしたあまりにでかい大風呂敷に対しては、まあそれなりに反動も出るはずで、そのあたりのバランスを知りたいと思って手に取ったのがベン・グリーン『スマート・イナフ・シティ: テクノロジーは都市の未来を取り戻すために』(人文書院) だったんだが……

 うーん。

スマート・イナフ・シティ: テクノロジーは都市の未来を取り戻すために
ベン・グリーン『スマート・イナフ・シティ: テクノロジーは都市の未来を取り戻すために』(人文書院)

言いたいことはわかるんだ。これは、一時グーグルがどこかの町や開発を完全に請け負って人流、物流、データ、環境、その他のデータを常に見つつ最適化し〜、といった能書きに対する疑問として書かれた本だ、というのはわかる。ハイテク企業の安請け合いにだまされてはいけない、自動運転とかビッグデータによる犯罪捜査の合理化とか、そう簡単にできるもんじゃない。いろいろ細かい落とし穴がある。きちんと考えつつ市民的な合意を形成しつつ導入しないと。はいはい、その通りだとは思う。

が……

本書はそれだけで終わってしまうんだ。

あれもだめ、これもダメ、これもこんな問題がある。決して簡単ではない。はいはい、それはわかります。でもそれなら、あなたの考える「イナフ」の部分って何なの? スマートも、ちゃんと使い物になる十分 (イナフ) なところまで進めればいいのだ、と本書は言う。ではその十分なところって何?

ちゃんと組織の間の協力体制を確立してからデータを考えましょうとか、市民参加の都市計画において求められるデータをきちんと提供しましょうとかいう話は出てくる。でもそれは、既存の仕組みを前提として、そいつらにとって便利なものを作ってそれでおしまい、ということだ。

でも、それだけなんですか? それではいままでの都市計画や運営に毛が生えた程度のものでしかない。結局のところ、これだけ情報機器もあり、データも取れていろんな可能性が出てきたように見えるのに、それがすべて無意味で、会議の資料が電子化されましたといった程度の話しか使い物にならないんですか?

自動運転などは、まだ発展途上で問題が残っているのはわかる。が、本書に出てくる取り組みの一つに、市民の要望にすぐ応えるためのアプリを作る、かつて日本で話題になった「すぐやる課」みたいな試みがあった。市民は何か問題 (道路の陥没とかゴミの回収とか) をアプリで伝えてそれが素早く対応されるというわけ。

さて、これは結構いいのでは? 行政が市民の要望にすぐ対応できるようになって、いいんじゃないの……と思うと、本書はそれもダメという。アプリを使いこなせる豊かで知的能力ある人だけに有利で、しかも対応が近視眼的になって、これまでのグズグズした行政プロセスで生じていた、総合的な見方や他の問題とのからみあいの視野が失われるから、なんだって。

あのさあ……

それってほとんど揚げ足取りの域に達してない? 政が市民の要望にきちんと対応するのは、決して悪いことじゃない。これまでだって、行政リソース活用して施策を実現させるなんて、どのみち豊かで頭のいい人たちに偏ってしまうのだ。アプリなら少しはそれが改善すると思わない? そして総合的な見方とやらも、いずれそのアプリで拾った問題の分布を分析したりして、対応する道筋も出てくるんじゃないの?

確かにいろいろ電子化や自動化することで、負の面も出てくるだろう。おっしゃる通りです。スマートシティと称して行われているのが、実は総監視社会みたいな恐ろしい代物というのもありがちなこと。

でも一方で、まったく可能性がないはずもない。自動運転だって、部分的には導入されて、変な事故が発生したりする一方で、少しは使い物になりそうだ。犯罪の話だって、即応を可能にしたうえでもとのデータの人種的な歪みを矯正するにはどうすべきかを考えるほうが生産的じゃないの? テクノロジーは都市の未来を取り戻すために」と副題にある。オッケー。でも本書は、その都市の未来を取り戻すテクノロジー利用について、ほとんど教えてくれない。仕組みも形も完全にいまのまま……いやもうちょっと能書きあるはずだと思うんだ。

愚かでだらしなくて怠惰でうっかりものの市民たちを、少しはサポートしてくれるようなスマートシティを考えることはできるはずだと思う。それは最終的には「あんたらプライバシーは少し妥協しろよ、そうすればこんないいことできるぜ」といったものになってしまうかもしれない。「自動運転いいだろ、ただし交通ルールにしたがわない人間はちょっと犠牲になるけど、それを認めたらこんなのできるぜ」といった提案になるかもしれない。あるいは、「スマートシティって結局何なのよ」で書いたような、人の接触を細かいナッジでコントロールする話も、技術的にはできるのかもしれない。自動車が都市のあり方を変えたように、情報環境が人の動きと都市の形をどう変えるのか、みたいなことを考えねばならないと思うし、スマートシティを考えるというのはいつかそこに行き着かねばならないと思ってはいるんだが……

 

さて、2023年春となれば、どうしてもウクライナ侵略をめぐる話題にやってきてしまう。で、いくつか見て前回も少し触れたんだが、悪い意味で気になったのが原田泰『プーチンの失敗と民主主義国の強さ 自由を守るウクライナの戦いを経済学から読む』 (PHP新書)だった。

プーチンの失敗と民主主義国の強さ 自由を守るウクライナの戦いを経済学から読む (PHP新書)
原田泰『プーチンの失敗と民主主義国の強さ 自由を守るウクライナの戦いを経済学から読む』 (PHP新書) 

この本の主張は、まあ題名通り。プーチン弱いぞ、それはロシアが民主主義じゃないからだ。軍事にお金をつっこんでも、それを効率的に運用できないから弱いぞ。民主主義の国は経済発展するし強いぞ。汚職もなくせるぞ! あれもできるぞ、これもできるぞ!プーチン専制主義だからウクライナごときを倒せないし、今後も勝てないぞ!

うーん。

いや気持はわかる。ぼくも西側民主主義の手先ではあるので、こういう議論には賛成したくなる。そして確かに、特にリーマンショック金融危機以降、プーチン専制的な運営が軍事的にも経済的にもロシアの発展の脚を引っ張ってきた面はある。

でも正直、民主主義だから成長します、民主主義だから軍事も強いです、というほど単純であるわけはない。

たとえばコロナ初期などにはまったく逆の議論がたくさん見られた。中国その他、専制的な国はコロナに対してすぐにロックダウンなどの対策が取れたし、人権など無視したトラッキングも実施した。それによりコロナの死者数がかなり抑えられた。これを受けて、マリアナ・マッツカートは政府主導で産業政策するのがいいのだ、と言い出したし、歳寄りは切腹して自殺しろと言ってのけて2023年初頭に有名になった成田悠輔はそれをネタに「民主主義の呪い」なる論文も書いて、その結果をコラムなどに使っていた。民主主義指数と経済成長や初期のコロナ死者数の相関をとっただけという、安易極まる代物ではある。が、そういう議論はできなくはない。

が、その後民主主義国のほうもワクチン対応などで盛り返し、一方でかつて旗色のよかったところが、かえってそのためにその後の対応が遅れてオミクロン株にやられてしまったりして、状況は一変している (ちなみのその民主主義の旗色が悪かったころに書かれた各種の本が2022年あたりに出てきて、アナクロ感満載になっていて主張もボロボロなのは、可哀想ながら自業自得)。成田の説も、その論文の話を単行本に入れるときには言い逃れが加筆されて、ごまかされている。

この本も、言いたくはないけれど、逆の主張とはいえそれと大差ない議論になっているのではないかと思う。本書で言われている成長とか軍事的強さとか、本当に民主主義のおかげと言って良いんだろうか?そして本書で挙げられているような個別の事例をいくつか並べただけで、そこまで一般化できるんだろうか?

ぼくが開発援助の業界にいるので、この手の議論に少し苦渋を飲まされている恨みもあるんだろう。1990年代から2000年代初頭にかけて、世界銀行ダラーやイースタリーといった経済学者がこの手の相関をちゃちゃっと取って「就学率と経済成長は相関あります!」「民主主義と(同上)」「汚職と(同上)」「ジェンダーと(同上)」とか安易な論文が山ほど出た。そのたびに「だから途上国発展戦略ではXX重視を!」みたいなのが多発して現場は大迷惑。

いずれも、関係なくはないんだろう。少しは貢献するだろう。でもだからといって、民主主義/ジェンダー平等/教育水準上昇さえあれば、すぐに経済成長しますというほど世の中単純じゃない。特に民主主義について言うなら、なんだかんだで時間軸や場所の取り方次第で何とでも言えてしまう、というのが実情だ。

いろいろ見ると結局のところ、民主主義だとよくも悪しくも決めごとに時間かかるので、即応性は弱いけど独裁者ご乱心で急に悪い方に行く危険も低めで、極端によくも悪くもならないのが強み、という程度の話になるんじゃないかとは思う。

さらに民主主義と法治が強いのは、ある種の自由や権利が恣意的に侵害されにくいという保証があるので、新しい試みや事業に安心して取り組めるという面もある。それは、意志決定に手間がかかって遅いという前の話の裏返しだ。逆に、何か既得権ができてしまい、古い仕組みが固定して新しい動きの余地が狭まると、なかなかそれを変えられない。

その一方で、専制主義は上昇期には膠着した仕組みを破壊することで自由度を高め、社会や経済の発展を生みやすくなる。その意味で、専制が成長やその他よいことに貢献する場合もある。まさにそうした既得権破壊によるポピュリズムこそが、専制主義の基盤なんだし。が、体制がやがて固定してしまうと、その硬直ぶりがヘタな民主主義とは比べものにならないくらいひどくなり、ついでに独裁者が恣意的な運用をして、人の物を横取りしたり投獄したりしはじめると、どうしようもなくなる——なんかその程度の一般化しかできないのでは、とは思うのだ。

だから結局はどんな体制もやがては硬直して停滞し、次の体制はその停滞を打破しようとするから最初はよいが、またやがて……の繰り返しになるという。なんか中国の五行説まがいですな。そして専制と民主をそれぞれ平均するとどっちがいいか、という議論は……個別性が強すぎてとても一般化できない。したところで意味がない、という話になりそうだ。

ちなみに別の論文によると、民主主義が経済成長をもたらすのは、民主主義化したときに成長のためのインフラがすでにできていた場合だけで、そうでないときには影響しない、とのこと。これまた、単純な「民主主義はいい/悪い」よりは納得感があるものの、成長のインフラがあれば成長する、という同語反復でしかない気はする。

すると、民主主義は〜、みたいなあまりに振りかぶった議論はつらいので、もうちょっと個別に見て、この環境においては民主主義も貢献しているね、とかこの環境では民主主義が裏目に出ているよね、というふうな言い方をするしかないんじゃないだろうか。

その意味で、この本の主張はちょっと乱暴すぎだと思う。民主主義だからウクライナ勝ちます、なんていう安易な話であるわけがない。もしそうなら、頑張って支援するまでもない。むしろ、プーチンを勝たせるわけにはいかない、専制的な侵略は勝てないという実績を作るために西側は一生懸命支援しているというのが実際のところだ、とぼくは思っているんだが。本当に、それがうまくいってくれるといいんだけれど。

 

香港も、理性的に考えるなら、その制度が変わったからといってすぐに都市の雰囲気が変わったりはしないだろうとは思う。行けば、あの店はあるだろう。スターフェリーも動いている。人々はふつうに生活しているだろう。民主主義だから発展します、それが危うくなったのでもう経済は停滞するしかありません、などという話ではない。それは、頭では十分にわかっているのだ。が、それでもねー。まあ、実際に見ればそういう印象もたぶん変わるとは思うんだけれど。次回、そんな話もできるかもしれない。ではまた。