Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

ナボコフ・美文・遠読

お久しぶりの「新・山形月報!」は、最近出たナボコフの関連書籍を徹底解説! 主に取り上げるのは、ウラジーミル・ナボコフ『記憶よ、語れ』『見てごらん道化師を!』『ナボコフの塊』(すべて作品社)、フランコモレッティ『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』みすず書房)、エレツ・エイデン、ジャン=バティースト・ミシェル『カルチャロミクス』草思社)です。



今年に入ってから、ウラジーミル・ナボコフの本が3冊出ていて、ファンとしてはありがたい限り。でもネットを見ても、なんかそれらについての言及がほとんどない。かわいそうに。でも、それは仕方ない面もある。ナボコフというのはなかなか論じにくい本を書く作家だからだ。そして今回出た3冊のうち2冊は、中でもちょっと特殊だからだ。

その最初の1冊は『記憶よ、語れ』(作品社)。ナボコフの半生記で、ロシア上流階級の贅沢で優雅な暮らしの思い出が、いささかの後ろめたさもなく全面肯定で描かれ、自分の家族は(弟はちょっと別にして)常に立派で美しく感受性豊かで高潔であり、それ以外の人々(奴隷ども)はみんな、多幸感に満ちた思い出のヴェールに覆われつつも、いちいちちくちく意地悪く嘲笑的に描かれる。その細部にわたる詳細な記憶にかかった、甘いヴェールのおかげで、この本を読むのはちょっと気恥ずかしいような体験でもある。そして、それを壊したレーニンスターリンボリシェビキに関しての恨み辛み、その後の亡命体験(ずいぶん優雅なものに思えるけれど)が彩りを添えている。そしてそのすべてが、ナボコフならではの詩情あふれる文章で描き出されている。

記憶よ、語れ――自伝再訪

記憶よ、語れ—自伝再訪

個人的にも、この本は思い出深い。以前、晶文社から出ていた本書の旧訳版(書名は『ナボコフ自伝』) は、ぼくがはじめて誤訳というものがこの世にあることを認識させてくれた本だからだ。子ども時代の本に、フード(フッド、頭巾)のつく本がいくつかある、という話をしている箇所で、ロビンフッドに加えて「頭巾をかぶった小さな馬上の騎士」とかなんとかいう下りが出てきて、「えー、それってLittle red riding hood?赤頭巾ちゃんじゃないの?」と思ったのだった。

ぼくはそれまで、誤訳なんてものがあり得るとすら思っていなかった。みんなが日本語を読むときみたいに、英語を読んだらそこに書かれた意味が自動的にわかるはずであり、そこに「解釈」なんてものが入り込む余地があるとは思っていなかった。だから、こうやってぼく(当時は中学生くらい)ですら推測できることをわからない人が翻訳なんかできるのか、と驚いて、それが気になってそこから先を読めなかったような記憶がある。今回の新訳はもちろん、そんなヘマはやっていない。そしてナボコフ自身によるこの本の偽書評(!)まで収録し、万全の仕上がりだ。

さて、ナボコフは作品の多くに、自分自身の体験や記憶を盛り込んだりする。その意味でこの『記憶よ、語れ』は、そのベースとなる情報を与えてくれるという意味で重要ではあるし、決してつまらない読み物ではない。というか、あまり深く考えなければうっとりしつつ読み進められる。でも、その感触は明らかにナボコフの他の小説とはちがっている。甘すぎるのだ。

ナボコフの小説はほぼすべて、ある種の意地の悪さが貫徹している。脇役に対してはもとより、だれよりも主人公に対して。ナボコフの小説は、その美しい文で描き出される世界の中で、全能の作者が登場人物たちを見下し冷笑しつつひどい目にあわせる、というのが基本線になる。ナボコフは、自分が文句なしの天才だと思っている度しがたいナルシストで、「言葉の魔術師」たる自分の作り出す美文に酔いしれている。でも、そのナルシシズムを救うのが、意地の悪さとそれに伴うときにブラックで、いじめっこが獲物をいたぶるようなユーモアだったりする。

ところが、この『記憶よ、語れ』は、 そうした部分がない。天才たる作者自身をナルシシズムのままに垂れ流していて、読み進めるうちにだんだん胸焼けしてくる。そしてぼくがピケティなんか訳して、格差問題に敏感になってきたからかもしれないけど、このロシア時代の甘ったるい美化がだんだんうっとうしくなる。ナボコフもそれを少しは気にしてか、いや父親たちも民主化運動とかしていたなどと弁解して、さらにはその後の社会主義の連中どもがいかにひどかったかを言い立てるんだけど、でもそれだけではねえ。そして社会主義に対する恨みというのは、別に財産と安楽な生活をぼったくられたことに対するものではないとか強弁するのは、嘘つけやといふのだ。この胸焼け感といいわけがましさは、いったん気がついてしまうとかなり萎える。

だけど、いまや日本のナボコフ軍団の親玉たる若島正は、訳者解説でそういう点にはまったく触れない。まあそれは仕方ないかもしれない。胸焼けするようなレトリックのテンコ盛りがむしろ大好きで、まったく気にならないという人は当然いるだろうし、いちいち社会正義の旗をふる必要もないんだから。では、その解説で何が書かれているのかといえば、あっちの話がこっちのこのネタとこうつながっていて、ここのほのめかしは実はこっちで種明かしがあって、という指摘だ。そして、そういう作者が隠していったなぞなぞをできるだけたくさん見つけることこそが、ナボコフの正しい読み方なのだ、といった話になっている。

さて、ぼくだってそういう読みの楽しさはわからないわけではない。作者が残したちょっとした小ネタに気がついたときには、得意になってにんまりしてしまう。でも——それがわからないといけないんですか? それを見つけないと、小説を本当に読んだと言えないんでしょうか?

ぼくはそんなことは全然ないと思っている。というか、本を——小説を——読むというのは、そういうつまらんRDB(リレーショナルデータベース)の管理作業まがいのものだとは思わない。いや、そんなものであってはいけないとすら思う。まあ、ぼくがおおざっぱな人間なので仕事ですらデータベースのクエリー書くのがいやだっつーのもあるんだろうけど。

作中のなぞを見つけるような読み方が無意味というのではないよ。『ドン・キホーテ』でも『ジキルとハイド』でも、そういう読み方をする意味はある。でも、それはその著者が、「へっへっへ、読者にわからないように小ネタを仕込んどいてやれ」とか思ってないからだ。だからこそ、細部の記述に見られるなにげない言及に深い意味が見つかって作品の見方が変わるというのが大きな衝撃性を持ったりする。

でもナボコフは、まず作中のなぞを探すような読み方こそ良いのだ、と読者にさんざんお説教を垂れて、読者を誘導してきている(ナボコフの各種文学講義などで)。そのうえで、自分の作品にそうしたネタを盛大にちりばめてみせる。結果としてナボコフのファンたちは、かれがばらまいたエサを、かれが教えたとおりに必死でつつき回すハトのような、貧相な奴隷根性に陥る。そして救われないことに、その貧相さに気がつかないどころか、自分の隷属ぶりを誇って見せて自慢し合うというつまらないゲームに精を出す。それどころか、たぶんナボコフが撒いていない餌まで、なにやらこじつけでほじくり出すことで、自分がいかに忠実な奴隷かを自慢してみせる。

以前どこかに書いたけれど、若島正ナボコフの小説で、長すぎるひもがヘビっぽく見えたというくらいの話を、すごいすごいと大騒ぎしていた。ぼくにはそれが、あまり楽しいお遊びには思えないのだ。イースターエッグ探しがおもしろいのは、みんなが楽しく探しているうちだ。でも、それを見つけられないヤツが見下されたり、それに追従しようとしてありもしない卵を見つけてみせて悦にいるのは、ぼくは不健全だと思う。

実はこの忠実な読者たちが置かれているこの構造は、ナボコフの小説と同じだ。ナボコフの小説では、登場人物たちはすごくイジワルされて、破滅させられたり、こきつかわれたり、こっけいな目にあわされたりする。そうした登場人物たちは実は、ナボコフが小説の中に用意してあげたいろんなヒントに気がつかないため、だんだん悲惨な方向に向かうことが多い。ナボコフは小説を通じ(そしてその読み方を強要することを通じ)まさに読者たちを、自作の登場人物たちと同じように右往左往させて喜んでいるのだ。それにちょっと乗っかってみるのは一興。でも読むってそれだけじゃないよね。ナボコフは、「創造的な読者」であれと言う。でもナボコフの用意してくれたナゾナゾを、ナボコフの意図した通りにほじくり出すのは、ぼくはちっとも創造的には思えないのよ。

そして、その見方をさらに強化してしまったのが、ナボコフの「ちょっと特殊」なもう1冊、かれの遺作『見てごらん道化師ハーレクインを!』(作品社)だ。この本、訳者あとがきを読むと、こんなことが書いてある。

見てごらん道化師(ハーレクイン)を!

見てごらん道化師(ハーレクイン)を!

「文体の面から見ても、マーティン・エイミスをはじめとした多くの批評家が指摘するように、荒削りで、これ以前のナボコフ作品中にあり余るほど見られた、うっとりするような美しさ、快感を覚えるような美しさを、若干失っているということは認めざるを得ない。(中略)長い文章のいくつかは美文であることをやめ、ほとんど悪文として読者の頭を煩わせてしまう。晩年のナボコフの、文章家としての衰えを指摘されても仕方がなかろう」(p.354)

そしてぱらぱらと拾い読みすると、確かにずいぶんぎくしゃくしている。『記憶よ、語れ』で見られた、甘ったるいような美文はない。そして読み始めると、なんかクソつまらない。主人公は、ナボコフと同じロシアから亡命してきた作家で、大学の先生も兼ねている。ナボコフ作品のパロディみたいな著作リストが冒頭にかかげられていて、これは明らかに自分自身の戯画化だ。そしてその人物はえらく俗物のくせにうぬぼれだけは強くて、なにやら自己満足に浸りきった自分語りを展開しつつ、己のドタバタした女性遍歴を(とんでもなく自己中心的に)語るといううんざりする代物なんだけれど——。

でも、すぐにわかるべきだけれど、いくら老いたりとはいえ、ナボコフがこの小説の文のノリの悪さに気がつかないわけがないのだ。そのダメさかげんは、衰えとかいうレベルではない。明らかにこれ、ナボコフはわざとやっているのだ。自分自身のパロディとして設定した主人公が、ナボコフ自身の文章のパロディで自伝を書いている——それがこの小説の基本的な構造だ。だからそれを読んで「晩年のナボコフの、文章家としての衰え」なんてものを指摘してしまうのは、そもそもこの小説がわかってないと告白するに等しいんじゃないかな。大丈夫か、マーティン・エイミス。大丈夫か、翻訳者。それがわからんところで細部の日付やら各種のもじりやら暗合をいくらほじくっても、ぼくは小説を読んだことにはならないんじゃないかと思うのだ。

が、それがわかるとこの小説がおもしろくなるかというと……そうでもない。それに気がついた最初のうちはニヤニヤできるけれど、いかにパロディ文体とはいえ、劣化版の金釘ナボコフを本1冊まるまる読まされるのは苦痛だ。そして本書をもっといやなものにしているのは、この人物の戯画化を通じてナボコフは例によって、別の形でナルシシズムに浸っているだけだということだ。本書にはそれを示す、こんな下りがある。

「私はその夜、そしてその次の夜、またいつだったかそれ以前に、私の人生はこの地球かまた別の地球に住む別の誰かの人生の、瓜二つというわけではない双子の片割れかパロディーか、あるいは質の劣った 異本 ヴァリアント なのではないか、という夢のような感覚に悩まされていたということを告白したい。 悪魔 デーモン がむりやりその別の人物のものまねをさせようとしているのを感じたのだが、その人物とは、それ以前もそしてその先も常に、きみの忠実なるしもべである私とは比べものにならないほど偉大で、健康的で、そして残酷だったし、そうあり続けるであろう、別の作家だったのだ」(p.111)

その「別の作家」というのはもちろん、ナボコフ自身だ。わざと自分の劣化版を設定してみせることで、自分を「比べものにならないほど偉大」と平然と呼んでしまう夜郎自大ぶりは、ナボコフが天才だと十分認めたうえでも、かなり鼻につく。ましてそれを本1冊にわたり続けられると……。

……という話を妹にしたところ、それだけではないよ、と指摘を受けた。ちなみにぼくは当然ながらナボコフの撒いた餌をほじくるだけの奴隷読者どもよりはずっとナボコフ読みとして優れているけれど、ぼくの妹は少なくともナボコフに関してだけは、そのぼくをもはるかに上回る。その妹の指摘では:

Vadim(この小説の語り手)は実は主役ではなく、vn(ウラジーミル・ナボコフ)のあらゆる作品のヒロインのアナログである女登場人物らのツマみたいなものです。女が主役。 最初の奥さんは、ada(『アーダ』のヒロイン)の生まれ変わり。この世では、健全な仲良し兄妹として幸せに暮らしている。二番目のタイピストは、the gift(『賜物』の真面目な融通のきかないヒロイン。(中略) 娘は当然ロリータの生まれ変わり。この世では、本当のお父さんと、心の通い合ういい親子に。詩なんか作ったりして、vadimを泣かせる。ボーイフレンドと家出してお父さんが探すとこもアナロジー。 まあ、原作で散々な人生を送らせてしまったお気に入りのヒロインを、別の世で生まれ変わらせて、こうだったら良かったという形で昇華させてあげてるとも言える。それが最後の作品だから、集大成としては、ふさわしいとも言えなくもない。

なるほどねー。ぼくはナボコフ読みとしては、たぶん優秀だけれどまちがいなくナマケモノなので、結構読んでないものがあるんだよね。でも読んだ範囲では確かに。そしてそう考えると、この『見てごらん道化師を!』は、 意地悪くいたぶってきた作品世界(の女性たち)と和解する小説であると同時に、現実世界との和解でもある。ナボコフはずっと、華麗な文章を通じて記憶を美化して描き出してきた。でもこの作品では、もはや華麗な「言葉の魔術師」としてのナボコフはいない。著者(のパロディ)はつまらなくてでこぼこした現実の中を、ぶざまに動き回る。

何度か書いたネタだけれど、かつて渋谷陽一が、キング・クリムゾン『ポセイドンのめざめ』かなんかのライナーで、なぜかれらが音質劣悪なライブ盤『アースバウンド』を出したか、という話を書いていた。それによると、バンドリーダーのロバート・フリップはあるインタビューで、「キング・クリムゾンの初期アルバムは、若者をだまして堕落させるような何かがあった」と自己批判していたそうな。『クリムゾン・キングの宮殿』などの荘厳な美しさを、かれはこけおどしの虚飾だと感じていたので、それを捨て去る意味で音の美しさを捨てた『アースバウンド』を出し、まさに地(アース)に足のついた(バウンド)ところに戻ろうとしたのだ、というのがその主張だったと思う。

『見てごらん道化師を!』も、 そんなところがある。ナボコフのこれまでの作品は、本当に若者(年寄りも)をその美文でだまして堕落させるようなところがあった。つーか、それこそナボコフ作品の醍醐味とされていた。でもここでは、ナボコフの記憶はもはやレトリックで美化されてはいない。それどころか本書の最後で、そのもはや華麗ではない 現実の中で死を目前にした主人公は(そしてその妻たる「きみ」は)時間の中で振り返ろうとするのを(つまり記憶に生きるのを)やめる—。

そう読むと、この本は最初のクソつまらない印象(そしてその後の、悪質な自己称揚という印象)とは少し変わってはくる。くるんだが— その変化は、あくまで「少し」でしかない。まさにこうした側面のおかげで、この本は、単独ではなかなか面白がれない代物になっている。本書の中にナボコフがまいた餌を律儀にほじくっている訳注によれば(そして、それは怠け者のぼくとしては多少はありがたい努力ではある)、「ナボコフとかれの他の小説への言及なしに『見てごらん道化師を!』を論じることはできるのか」というのはなにやら大問題なんだそうだけど、なんでそんなものが大問題なのか、ぼくにはわからん。どう見てもこれはナボコフ自身の世界との和解としてのみ意味を持つ本で、失敗作とされるのもむべなるかな。

さらに副作用もある。この本を読んでから『記憶よ、語れ』に戻ると、そのナルシスティックな記憶美化がなおさら鼻につくものにはなる。華麗なレトリックも、逆に気ぜわしくうっとうしくさえ思えてしまう。ある意味でそれは、ナボコフを読む楽しみを殺してしまう面さえあるのだ。本当にナボコフが好きなら、どこかの時点で本書に取り組むしかないんだろうとは思う。そこでどう感じるかは、ナボコフ読みとしての踏み絵にもなる。自分はナボコフの何に反応しているんだろうか?と。まあ、そういう人はわざわざ言われなくてもこの本を読むだろうとは思うけれど……。

そのナボコフの3冊目は秋草俊一郎編『ナボコフの塊』(作品社)で、『記憶よ、語れ』『見てごらん道化師を!』よ りはぐっと気楽な読み物となる。かれの各種のエッセイ集だ。これまた、ある程度ナボコフを知っている人が読んで楽しむものではあって、何も知らない人がこの1冊だけ読んでも楽しめるとは思いにくい。ナボコフは非常に独善的だし、いろんなこと(たとえば翻訳)についてえらく偏向した考え方を持っている。他の作家の悪口を言うときも、なでぎりにはするけれど、それをきちんと説明はしてくれない。それを痛快と思う人もいるだろう。が、そう思わない人もいるはず。 そしてそうした独善的な主張は、「あのナボコフだからねえ」と思えばニヤニヤできるけれど、たぶんナボコフのなんたるかを知らない人が、ストレートに納得できるような部分は限られているとは思う。でも名前は知っていてもわざわざ自分で探し出す手間をかける気はなかっためんどくさがりやの読者にとっては、名のみ高くて実物を目にする機会がなかったエッセイも収録されているので、是非どうぞ。

そのセレクションも、様々な時代やテーマに関するエッセイを編者が非常にバランスよく集めてくれている。ぼくはナボコフアルビン・トフラーと行った、まったく話のかみ合わない対談とか、もっとひねくれたものもすきなんだけれど、残念ながらそういうのは収録されていない。が、一風変わったおまけもあるし、楽しめると思うよ。

さて、目下、主流とおぼしきナボコフの読み方——ナボコフ様が用意してくださったネタを、その意図どおりにほじくりだして感心してみせるような精読——を罵倒した。他方、そういう読み方を嘲笑する立場もある。それを述べているのがフランコモレッティ『遠読—〈世界文学システム〉への挑戦』みすず書房)だ。

遠読――〈世界文学システム〉への挑戦

遠読—〈世界文学システム〉への挑戦

この本は、もっとちがう読みを提案している。それこそ、本をビッグデータとしてコンピュータにかけるようなやり方だ。たとえば、本の題名の長さとその中身はどう関係しているのか? 登場人物のネットワーク分析をすると何が見えてくるのか?などなど。そして、多少こじつけめいた部分もあるけれど、意外におもしろい結果が出てくる部分もある。

方向性はおもしろい。あまりに細部にこだわったり、ウェットな情感に耽溺したりしない、ドライな「読み」の可能性が出ている。ただしそういった反主流的なやり方をしたせいで、ひょっとしていじめられて性格が歪んだのかもしれないけれど、あちこちに見られる著者の無用にひねくれたイヤミや、あてこすりめいた物言いはつまんないだけで、この本の価値ある部分をじゃましていると思う。そして分析の結果の雑な部分(またはその分析をする前提の雑な部分)について精読派からいろいろ物言いがついた話は、訳者解説にも詳しい。それでも、作者様の置いてくれたヒントを律儀に読み解くにとどまらない文学分析のありかたとして、そこそこおもしろい。さらにその訳者がナボコフ研究者として知られる(そして『ナボコフの塊』編者の)秋草俊一郎だというのも、ナボコフ読みが精読のタコツボにハマった人ばかりではないのかも、という希望を少しはうかがわせてくれる。

が、正直いって、この程度の分析が珍重されるようでは、文学研究ってレベルが低いのね、とも思う。これなら『たかがバロウズ本。』(大村書店、現在PDFで読める) でぼくが構築したバロウズ小説の経済モデル化のほうがずっと水準が高いとおもうんだけどなあ。それ以外でも、グーグルブックスによる書籍の真の巨大データベースを元にビッグデータ解析した、「文化をビッグデータで計測する」という副題を持つ、エレツ・エイデン、ジャン=バティースト・ミシェル『カルチャロミクス』草思社)を見ると、すでに文学の外堀のほうからこうした方向性は急激に埋められていることもわかる。さて、文学どうする(ってどうもしないだろうけど)というところで今回はおしまい。