Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

大分岐・石炭・世界経済史

今回の「新・山形月報!」は、ケネス・ポメランツ『大分岐』名古屋大学出版会)、アンガス・マディソン『世界経済史概観 起源1年~2030年』岩波書店)の2冊を中心にがっつりと論じます。歴史的な視野で文明を見渡す大著の読み解きをご一読ください。



お久しぶりです。今回は、めずらしく前回の予告どおりケネス・ポメランツをやりまーす。本当は、すでに翻訳されていた『グローバル経済の誕生』筑摩書房)を途中まで読んでいたんだけれど、どこかにやってしまったので、最近翻訳の出た『大分岐』名古屋大学出版会)のほうを。

大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―

大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―

で、これはなかなかとんでもない本だ。なぜ今の文明が生じたか、しかもなぜ今のような形で生じることになったのかを正面から説明しようというんだから。世界が18世紀から、ヨーロッパとその他の地域で大きく発展に差がついたのは、誰にも否定しようのないところ。でも、ヨーロッパなんて世界文明史上で言えば新参者だ。域内での小競り合いにばかり終始し、強大な中華帝国やインド文明やイスラム文明に比べたら長きにわたって僻地の田舎文明でしかなかったことも、やはり否定しづらいところ。

では、ヨーロッパ文明は、なぜ急に栄えたのか? しかもどうしてイギリスが中心だったのか? それまでの文明は、生産力が上がるとその分だけ人口が増えてその分を食いつぶし、生活水準があまり上がらないという、マルサスの罠と呼ばれる状況に陥っていたようだけれど、なぜイギリスを筆頭にヨーロッパはそこから逃れられたのか? そしてやがては世界全体を(無理矢理ひきずってでも)そこから引っ張り出したのか?

これに対する答えは、そもそも文明とは何か、文化とは何か、という大問題にも関わる話ではある。西洋文明なんか大したことない、実は真の人間の幸福をもたらしていない、物質的な豊かさだけを追い求めた心の貧しい空虚な発展でしかない、ってな能書きもいろいろある。が……そんなことをのんきに口走れるのは、 西洋文明の物質的な豊かさがあってのことなのも、ほとんどの人は知っている。

で、この問題への答えは様々だ。たとえば、ヨーロッパ人が優秀だから、という論外な話もある。前回紹介したクラークは、戦争せずに商売上手な遺伝子を持つ連中が何世代もかけて増えてきたからだと、一風変わった(が、証明しようがない)説を唱えている。ジャレド・ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』草思社文庫、上下)のように、各種の病原菌への耐性や文化の伝搬においてユーラシアやヨーロッパに優位性があった、とする議論もある。そして何よりもイギリスの産業革命が圧倒的な強みだったとする人は数多い。産業革命のすごさは、だれも否定しようがない。いまの機械文明、科学文明はほぼすべてその末裔だ。大半の人は、それで説明として納得する。

でも、よく考えるとそれだけでは問題に答えきったことにはならない。じゃあ、なぜ産業革命はイギリスでしか起きなかったんですか? なぜヨーロッパでそれが実現したんでしょうか? これに対して多くの説は、ヨーロッパにはあれがあった、これがあった、こんな条件があった、という議論に終始する。山本義隆『世界の見方の転換』みすず書房、1~3)などが述べるような、科学する文化と世界に対しての見方があったからだ、といった答えもある。あるいは市場社会が発達しており、工業製 品が流通できたから、とする答えもある。あるいは長期的に投資を回収するような金融制度があったからだ、とかね。確かに、産業革命が成立するにも必要な条件はたくさんあった。それらがヨーロッパにそろっていたのは事実だ。

でも……ここにポメランツの慧眼が出てくる。ヨーロッパにはそういうものが確かにあっただろう。でもそういう条件って、他のところにはなかったんですか?  これまでの論者の(暗黙の)想定はもちろん、なかった、ということになる。ところが、実際にいろいろ調べた結果、実はあった、というのがポメランツの主張。それどころか、そんな条件はヨーロッパより整っていたような地域もいろいろあったんだという。

そう言われると、ぼくも含め多くの人は驚く。え、そうなんですか? ケプラーやコペルニクスの科学革命をうんだ世界の見方の転換は? 蒸気機関の発明は? エンゲルスが描いた繊維産業は? あの数千倍の生産性上昇があればこそ、経済全体に行き渡る発展が実現されたんでしょ? 中国はいろいろ発明はしたけれど、それを科学として一般化できなかったので発展できなかったんじゃないの?

ポメランツは、ちがうという。中国、そして日本、インドやイスラム文明の一部は、少なくともそうしたものを開発できるだけの技術水準には達していた。中国や日本のほうが発達していた技術分野もたくさんある。でも、そうしたところでは、蒸気機関を発達させるような必然性がなかった。だからそれが発達しなかったらしい。そして、イギリスにあった第一の「必然性」は石炭にあった。石炭が密集して存在し、活用できたことで、イギリスは当時の自然環境がもたらす制約を突破できた。

どういうことか? ぼくたちは今の視点で見るからこそ、蒸気機関すげー、あれが出てきたらすぐ飛びつくのが当然でしょー、と思ってしまう。でも蒸気機関だって、最初は大したもんじゃなかった。そんなものを使わず、普通に人海戦術で対応したほうがよい場合がほとんどだった。中国にも石炭はあった。でも木がたくさんあったから、当時はまだ使途の確立していない石炭なんかをあまり真面目に採掘する意義もなかったし、地理的に散在しすぎていたので輸送費も高くついた。フランスとかでは、蒸気機関は使い道がなかったし、それだけリスクある投資をする意味もなかった。だから、蒸気機関があるからすぐに産業革命につながります、という話にはならない。他のところでは、だれもそんな怪しげなものに手を出そうとはしなかった。

ただ、イギリスにおいては、まず木がなくなりつつあって代替燃料確保が必須だった。さらにイギリスでは蒸気機関の最大の用途は炭鉱にたまった水のくみ出しだった(中国とかでは炭坑にそういう問題がなかった)。それを売り物にならないクズ炭で動かせたことで、へぼで効率の悪い蒸気機関でも石炭採掘の効率を改 善できて、それが他のところに波及した。そして蒸気機関は輸送の問題の解決にもつながった。このある意味で地理的、資源分布的な偶然が蒸気機関とうまく組み合わさったことこそが、産業革命の原因となった。技術が優れている、というだけではダメだ。それが活用される環境こそが必要だ。イギリスにはまさにそれがあった!

あるいは、消費社会の発達が需要を生み出し資本主義の発達を招いたという説もある。それがあればこそ、人々はいろいろ生活必需品以外に手を出す余裕が出てきたし、その中で文化的なお遊びや科学研究なんぞにうつつをぬかすゆとりも生じた、というわけ。

でも、ヨーロッパ程度の消費社会は、実は中国にはちゃんとあった。一般人が嗜好品をたしなみ、生活水準を向上させていた。日本はみんなやたらに字が読めたし、文化や科学もそれなりに発達していた。

じゃあ制度は? アセモグル&ジョーンズは『国家はなぜ衰退するのか』早川書房、上下)で、とにかく「制度」があればそこは発展して、そうでないところはいずれダメになる、という話をしてたよね? その「制度」ってのが何でもありで、結局民主的なら発展、というような安易な話になっていたとはいえ、ヨーロッパは法制度とかいろいろ発達していたのが有利だったのでは? 特に金融とか?

それについても、ポメランツは他の地域が決して遅れてはいなかったと述べる。ヨーロッパだけが有利というわけではない。ヨーロッパの石の文化に対してアジアの木の文化、なんて話があるけれど(石のほうが長持ちなのでそのための金融が発達し云々)、それもあまり実態に即していない。

結局、いろんなところはすべて、生態環境的な制約にとらわれている。土地の生産力、木材の量、人間の数、人間の労働力、産業ごとの人の配置、水、お金として流通する貴金属量—そしてそれは、不変ではないけれど、徐々にしか増やせない—少なくとも人がすでに住んでいるところでは。何かを増やそうと思えば、現在のバランスを崩して何かを減らすしかない。世界のあらゆるところで、人々はこの制約にぶちあたり、それを突破できずにいた。

が……その制約がないところがあった。アメリカの「発見」だ。綿の耕作面積はいくらでも増やせた。労働も奴隷を使うことで拡大できた。そして、新世界からの金銀が入ってくることで、お金の量も増えて金融拡大も起きた。さらに、嗜好品の中でも砂糖とタバコはとんでもない代物だった。中国の嗜好品—フカヒレとか鳥の巣スープとか—は、生産を増やしようがなかった。でも砂糖とタバコは需要にあわせて生産を拡大できた。そしてそういう拡大のために機械を改良する余地もできたのだ。

石炭とアメリカ「新世界」— この二つの存在が、ヨーロッパの爆発的な発展を可能にし、マルサス的な生態環境的な制約を突破させてくれた。ポメランツの本は、これをいろいろな方面から描き出す。要するに、世界はフルキャパシティで動いていたので、市場と生産力と金融とが同時に拡大するような事態が一気に出現しない限り、それ以上は(急速には)広がりようがなかった。でも、石炭とアメリカ「新世界」は、まさにそれを与えてくれた、というわけ。

うーむ。議論は多岐にわたるので、頭から律儀に読むと途中で迷子になりかねない。それぞれの部分の議論はかなり独立しているので、好きなところから読んでいってもあまり問題ない。世界各地での小ネタ満載だし、実に説得力ある。そして、本書を読んでどう感じるか?

人によっては、人類の現在の発展—そしてこれからの発展または滅亡— は大きな必然だったのだ、という印象を得るかもしれない。その一方で、人類の発展が、実は本当にちょっとした偶然の産物でしかなかった、という見方もできるだろう。たまたま石炭がイギリスにあり、たまたまアメリカが大草原と大森林のまま手つかずに残っていた、という僥倖がなければいまの世界は有りえなかったのか……。

冒頭には、2000年に刊行された本書をめぐって展開された様々な議論が紹介されているけれど、基本的な議論を否定するものはあまりないようだ。中国はもうちょっとえらかったとか、あるいは逆に本書が中国にあまりに好意的すぎるとか、あそこはもうちょっと可能性があったとか、こういう制度の果たす役割を重視すべきだとか、そういうマイナーな議論にとどまる模様。ググって見てもせいぜい見つかるのは、物質的な制約だけにこだわりすぎで、もっとアイデアとかの可能性を重視すべきだ、という批判くらいかなあ。が、ぼくが知らない批判とかもあると思うので、ご存じの方は是非教えてほしい。

とにかく抜群におもしろい本だ。そして、本当にいろんなことを考えさせてくれる。ぼくはSFファンなので、歴史改変ネタは結構好きだ。ちょっとした偶然で、中国で産業革命が起きていたら、というような話はよく考える。あるいはインド文明が急に勃興して世界支配、というような可能性は? でも、ポメランツ説によれば、それはあり得ないということなんだろうか。もちろん、ぼくたちはいまのこの世界しか知らない。本当にそれ以外の可能性がなかったのか、永遠に知りようがないんだけれど。ひょっとしたら、他の発明が、他の地域におけるほかの条件をうまく解決し、別の産業革命を起こす道はあったのかもしれない。なかったのかもしれない。そして、文中にも挙げた他のいろんな本ともからみあって、世界の新しい見方を教えてくれる。

さてもう1冊、これまた分厚い(しかも超長期の歴史の)本で恐縮だけれど、アンガス・マディソン『世界経済史概観 起源1年~2030年』岩波書店)。このアンガス・マディソンは超長期の経済推計における大御所。拙訳のピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)でも、紀元0年からの経済成長率だの資本収益率だのというとんでもないグラフが出てきたけれど、その典拠はこのマディソンの研究だ。本書は、かれの遺作になるそうな。

世界経済史概観 紀元1年~2030年

世界経済史概観 紀元1年~2030年

必ずしもまとまりのよい本ではない。いきなり冒頭はローマ帝国の経済史で、その後に西ヨーロッパ、アジア、アフリカの経済発展史が続く。西ヨーロッパ史は もちろん、なぜ西ヨーロッパが経済発展できたか、というポメランツ本と重なる問題意識で書かれているけれど、科学革命があり、市場があり、制度があり、と上で述べた通常の標準的な説明になっている。ちなみにマディソンがポメランツの主張をどう見ていたかだけれど、本書では単純に「悲観論」、つまりマルサス的な制約主義の一つとして片づけられている(p.394)。このあたりはもう少し詳しく聞きたいところだけど、故人なのでかなわないのが残念。

その後、マクロ経済分析の歴史みたいなのが続くんだが、これは経済統計論に興味のある人でないと、そんなにおもしろくないかな。ただ、p.409-410 で、ノードハウスとデロングによる技術進歩の数量化(とそれに基づくGDP推計)についての、ものすごく嫌みったらしい批判的紹介の部分は、このかなり生硬な翻訳でもご当人の性格の悪さが十分に伝わってきてニヤニヤできる。

そして一番おもしろいのは、何と言っても最後の部分。第3部「来たるべき事態の姿」で、2030年までの長期予測を行っている。うーん、アフリカについて悲観的なんだね。それと、温暖化対策についての非常に慎重ながらも前向きな評価は興味深いところ。

残念なのが、それぞれの想定についてあまり詳しい説明がなく、なんとなくマディソン自身の「エイヤ!」で決めているような感じがあるところ。本当はきちんとした裏付けがあると思いたいところだが……経済学者の斎藤修による「解説にかえて」での記述によると、ホントに「エイヤ!」で決めてるみたい。斎藤は、 それがすばらしい職人芸でありこれぞ達人の妙技と絶賛するんだが(「他の人には容易にまねできない特殊能力に依存している」んだって)、うーん、もちろん どこかで恣意的な判断は入るにしても、一応学問なんだから、「特殊能力」なんてものをヨイショするのはまずいんじゃないかな、と思うんだけれど。「結構い い加減なとこもあるから、まだまだ他の人たちも活躍して改善する余地がたくさんあるよ、それまでの参考値としては有用だけど鵜呑みにすべきじゃないよ」くらいの言い方をするべきじゃないかなあ。

この本も、全部通して読む必要はまったくない。取り上げられている各種の地域について、ポメランツ的な議論をもとに、マディソンの未来予測を改善する、なんてことも可能だし、またその逆もできるんじゃないか。ただ、『大分岐』ほど強くお薦めするものではない。興味があれば、というくらい。

今回はこんなところで。どっかにいってしまった『グローバル経済の誕生』が出てきたら、取り上げるつもりだけど、『大分岐』を読んで中国の技術水準についても改めて興味が出てきて、これまた15年積ん読状態のジョゼフ・ニーダム『中国の科学と文明』思索社)を引っ張り出しているもんでどうなりますやら……。