Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

神殺し・社会主義モダニズム・ウクライナ

なぜかいきなり復活した「新・山形月報!」、今回はバルガス=ジョサ『ガルシア=マルケス論:神殺しの物語』、『ソビエトアジアの建築物』、小泉悠『ウクライナ戦争』です! 半世紀ぶりに刊行された幻の名著にリアルタイムの戦争分析と社会主義モダニズム建築についてあれやこれや。さて、どんな話になるでしょうか!

お久しぶり。2022年はじめ、この新・山形月報が終わるとき、なんとか間に合わないかなと思って待っていた本があって、それがこのバルガス=ジョサ『ガルシア=マルケス論:神殺しの物語』だった。

バルガス=ジョサ『ガルシア=マルケス論:神殺しの物語』

この本、知る人ぞ知る史上最初期 (1971年刊) にして最強のガルシア=マルケス論として名高い一方、その後バルガス=ジョサとガルシア=マルケスが特にそのキューバをめぐる政治的見解の相違から仲違いして、その後バルガス=ジョサがガルシア=マルケスをぶん殴る事件が起きたのを機に、翻訳も含め刊行が認められなくなり、半世紀にわたり名のみ高いがなかなか読めない伝説となっていた、曰く付きの本だ。

ところがそのスペイン語版がしばらく前に解禁となったようで再刊された。ぼくは軽薄なのでいそいそとそれを入手して (だって半世紀も世に出なかった伝説の本と言われると読んでみたいではありませんか) 翻訳ソフトの力を借りて (ごめん、スペイン語そんなに読めない) 読み始めたとたん、なんと日本語訳も許されたので近刊、という話を耳にしたのは、ウクライナ戦争開戦前だったはず。その後それが『街と犬たち』の訳者解説で予告されている話は、ここでも紹介した通り

が、この連載が終わった後も一向に音沙汰がない。また著者から物言いがついて、やっぱ出しちゃダメとかその手の話になったのか……と思っていたら、11月頃に出ました。が、ぶ、分厚い。二段組み500ページ以上。ただでさえ分厚い本ばかり書くバルガス=ジョサが、若くて体力の余っていたときに力任せに書いた本だからなおさら分厚くなります。

で、こんな本だから少しは話題になるだろうと思っていて、その後ときどきネット検索してみたんだが……まったく反応がない。あの伝説の本がやっと出たぜ、といった奇書愛好家の反応もない。賢しらなマニアや研究者が、一応は義務的に触れるくらいでもコメントあるはずだと思ったけれど、それもない。なぜ? ひょっとして、よっぽどつまんないの? 半世紀たってもう完全に陳腐化して、言わぬが花状態だったりする?

というわけで、ちょっと不安だったのでしばらく寝かしてあったが、やっとまとまった時間をとって通読しました。

いやあ、杞憂どころじゃない。なんだよ、やたらにおもしろいじゃん!

ガルシア=マルケスの個人的な伝記から入る本書は、小説は作者の体験をベースに構築される、という、ある意味で古くさい見方をする。 「作家がテーマを選ぶのではなく、テーマが作家を選ぶ」という、帯にある引用はそれを述べたものだ。ある体験を通じて得たイメージ、ビジョン、世界観その他なんでもいいが、そのテーマが作家に作品を書かせる、という。

これだけ聞くと、ある種のリアリズム宣言のような印象も受ける。現実の体験を受けて書く、ということなんだから。が、そうではない。そこに出てくるのが、本書の副題「神殺しの物語」だ。

神殺しというと、この半世紀でちんけなファンタジー小説の定番設定と化してしまった。この用語で検索すると、本当に (弱っちい) 神さまと勝手に自称している存在を、チート能力で殺すような話がやたらに出てきてしまい、誤解を招くかも知れない。こんな感じ。

が、この本での「神殺し」というのは全然ちがう。神の作ったものとは、このぼくたちが生きる現実だ。それに対して作家は異議をとなえ、現実にかわる別の世界を作り出す。だから作家はしばしば孤独で、ひねくれ者で、この現実を受け入れない偏屈な世捨て人にならざるを得ない。だがその作家が作り出す別の世界が完備性と完全性を備えれば、それはこの現実を否定し、ひいてはそれを作った神すら殺せる。それが神殺しということだ。

これは言わば、現実に対峙する虚構の世界、というような話ではある。ただ、かつてバブル時代に特にSF界隈で、筒井康隆の小説 (中でも『虚航船団(新潮文庫)』など) を中心に、虚構と現実との関わりがどうのこうの、といった議論が流行ったことがある。でもそうした議論は、実に安易にひ弱なポストモダン小説の正当化に使われることがあまりに多かった。というか、そういうポモ的虚構論が流行って、筒井がそれに便乗したというべきか。虚構性というのが何か、抽象性のことであるかのような誤解が生まれ、実際の物質世界を離れた語呂合わせや言葉遊びを「虚構」と言いたがる向きが多かった。何かこの「現実」とは関係ないもの、ということだ。

でもバルガス=ジョサが語っているのは、そんなふわふわした話ではない。この現実に対抗するだけの、別の強固な「現実」を構築しなければならない。吾妻ひでおが、「ウシのような強固な現実ですら一撃で倒す妄想力」を誇っていたが、むしろそれに近いかもしれない。そのためには、人も、場所も、政治も、歴史も、その他あらゆる要素を自ら構築し、徹底した具体性を持たせて、それを組み合わせることで本当の力を持った世界を作り上げねばならない!

そしてその一方でこれは、ファンタジー小説にありがちな「異世界構築」というものでもない。思いつきの設定/能力に何とか表面的なつじつまをあわせようと、変な設定を次々に塗り重ねるような話でもない。というか……それだけではない、とでも言おうか。現実世界とは別のある全体性、完全性が、その矛盾や亀裂も含める形で降臨する、とでも言おうか。すべての小説は、ある意味でそうした異世界を目指してはいるのかもしれない。でも、それが本当の形で実現する例は希有だ。たいがいの小説は、それを何かできあいのパターンに押し込めることで、ほどほどにつじつまをあわせるだけですませることが多い。

だがバルガス=ジョサは、ガルシア=マルケスがその小説世界において、いかにそれを実現しているかを詳細に分析する。まったく知らないこと、意外な視点、変わった分析、そういうものは必ずしもない。むしろガルシア=マルケスの小説に描かれる舞台、人物像、世界観や描かれ方について非常にストレートに、愚直といっていいほど説明してみせた本だ。そしてそれをバルガス=ジョサは、彼のデビュー以来 (いやそれ以前) のあらゆる小説についてやりはじめる。その詳細ぶりは、ちょっとうんざりしてしまうほどではある。アレは大した作品じゃないしそんなに詳しくやらんでも、と思うようなものについても、延々と説明が続くのは本当に体力勝負のバルガス=ジョサならでは、なんだけどね。

でも、それを我慢して読み進むと、第2部の第7章 (ものすごく長い)、ガルシア=マルケスの大傑作『百年の孤独』の話にやってきて……そしてそれまでのすべてが報われる。この傑作で、これまで他の作品で描かれてきた各種の要素がいかに統合され、歴史的にも地理的にも人物的にもすべてが融合しているかが細かく説明される。個別に作られてきた世界の部分が、信じられないほど周到に組み合わされ、その後進的、抑圧的な部分すべて含めて世界が一気に作り上げられる——そこで生まれた完全な一つの世界が『百年の孤独』であり、この世界の神を殺したかどうかはさておき、それに挑みおおせた偉大な作品となっている——バルガス=ジョサはそう主張する。

結局この本は、ガルシア=マルケス論ではあるが、何よりも『百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)』論ではあるのだ。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

個人的には、中でも420ページあたりの、『百年の孤独』最後の数ページにおける時間と話者の処理をめぐる話がすばらしい迫力。語り手が最後に作品の中に回収されて、時間も空間も物語も己自身の中で完結し、完全な世界が形成される様子の分析 (というかそれをまとめあげるバルガス=ジョサの語り口) は圧巻。

でもだんだん読んでいるうちに、バルガス=ジョサは『百年の孤独』を非常に理知的に分析解読して見せるけれど、これだけの変数をガルシア=マルケスが意識的にコントロールして作品を構築したわけがないのがわかってくる。彼は明らかに、直感にしたがって物語を紡いでいるだけで、たぶん意識的にこれを構築するのは無理だろう。ウラジーミル・ナボーコフは、インデックスカードに文章を書き付けつつそれを並べ替えて作品を構築したらしいけれど (『ローラのオリジナル』参照)、そういう作り方では『百年の孤独』は書けない。バルガス=ジョサは、もっと理知性に寄った作家で、彼が長大な作品を書けるのは、体力があって脳内の一時記憶のキャッシュが極度にでかいからだけれど、それでもガルシア=マルケスには及ばない。その自分にすら無理な作品構築のやり方に対する憧れと畏敬が本書にはあふれている。

そして何よりも本書でよいのは、これを読むと「あ、『百年の孤独』読み返さないと」と思ってしまうこと。ぼく自身の文章での反省でもあるんだけれど、ときどきうまい評論はその対象作品をうまくまとめすぎて、「あ、これならもう実物読まないでいいや」と思わせてしまうことがある。いま書いているこの書評も、そんなところがあるはず。でも『神殺しの物語』は、その神殺しの物語という主題をドンと打ちだしつつ、あれもある、これもあるの物量勝負で、「そんなのあったっけ、読まないと」と思わせてしまう。うまいなあ。

ちなみに、『百年の孤独』はあまりに名作なので、なんか自分の中ではまず『百年の孤独』(1967)が突然あらわれ、それに刺激されて他のラテンアメリカ文学の傑作が花開いたようなイメージがあったんだが、実はフエンテスアルテミオ・クルスの死 (岩波文庫)』(1962) やコルタサル石蹴り遊び (フィクションの楽しみ)』(1963)のほうが先なのか! 言及があることにすら気がつかなかった。

本書の分析の一つの大きな特徴は、徹底して書かれたものの分析に終始しているということ。何かの表現の裏の意味を読もうとか、書きぶりの背後にある意図を読み取ろうといったものは一切ない。とにかく、表層に書かれているものだけ。蓮実重彦がかつて『表層批評宣言 (ちくま文庫)』なるもので、表層だけにこだわるんだー、と言いつつも普通の意味での表面よりは、むしろ言葉尻にこだわるような批評を展開していたけれど、そういう表層ではない。本当にもっと普通の意味で、こんな比喩が使われている、あんな話が出てくる、といった羅列になっている。そしてそれが、この本が半世紀たってもいまだに力を持ち得ている理由でもある。依拠している思想や手法の流行り廃りには影響されない分析になりおおせているからだ。

これに対しては、新しい文芸批評手法を無視しているとか、あと社会問題的な言及がないといった批判があったそうなんだけれど、むしろガルシア=マルケス的な作風についてはむしろそういう分析が向いていない、というのを本書が明らかにした、というのが真相じゃないかとは思う。細い単一の理知的な分析では太刀打ちできない作品はある。また社会問題について、何か文明批判をしろとか、女性差別を批判しろとか、そういうわかりやすい話ではどうにもならないこともある。それがまさに、この世界とは別の完成した世界を作る、という話ではあるのだ。完成した、というのは完璧とか欠陥がない、ということではない。それはひどい、残酷な世界で、それでもその世界としてのまとまりが衝撃をもたらす。別に虚構の世界は、こっちの神さまが作った現実世界を批評するものではない。倉橋由美子ならそんな考え方を「奇跡的な誤解のなさりようですわね」と嘲笑するだろう。それでも、その世界はある——それが存在しているすごさは、むしろ本書のような泥臭いところさえある分析が有効だし、そうした読み方が未だに力を持つことを教えてくれるのも、ガルシア=マルケス作品の醍醐味ではあるし、本書の教えでもある。

一つだけ不満。ぼくは、本書が半世紀出なかった原因の、バルガス=ジョサがガルシア=マルケスをぶん殴った事件について、もうちょっと種明かしがあると期待していたんだが、それは真相はわからないとのこと。政治的な対立とも言われ、不倫の怒りともいわれ、もっとゴシップ的な話が聞きたかったとは思う……が、それはないものねだりか。そのあたりは以前の『疎外と叛逆ーーガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話』で詳しかったので (そうそう、自分でもその話は書いてるじゃないか)、それ以上のネタはないってことなのかね。あと、中にいっぱい該当ヶ所のページ番号が書いてあるが、これはどのバージョンのページ (原著? 邦訳? それでも何種類かあるからどの版?) なのか、どこに説明されてるんだ?

ということで、もっともっとみんな、この本を読んでほしい。決して無駄にはならないし、泥臭いストレートな感想文的批評の持つ力も改めてわかるはず。なんでもっと絶賛コメントがネット上に出てこないんだい。サボってるんじゃないよ。文芸関係者はこれを読まずにどうする! もっと話題にせずにどうする!

 

さて全然脈絡なしに、本屋でたまたま見つけて実におもしろかった本がコンテ/ベレゴ『ソビエトアジアの建築物 ソ連時代の中央アジアを巡る記録』(グラフィック社)。

ソビエトアジアの建築物 ソ連時代の中央アジアを巡る記録

ソ連社会主義圏には、実にソ連っぽい各種の建築群がある。本書は、旧ソ連のアジア各地に残る、そうしたソ連モダニズム様式ともいうべき建築を集めた写真集。

たぶん、その独特の愚直な感じすらする力強い意匠は、次のレーニン像なんかでは顕著だけれど、それ以外でもいろいろ懐かしい感じ。

こうした様式は旧ソ連やそのアジア諸国に限ったものじゃない。かつて社会主義圏はどこにでもあった。東欧にもたくさんあるし (テレビ塔みたいなのはまだ結構残っている) ぼくが開発援助ででかけた、ベトナムやモンゴルやキューバ、さらにはカンボジアラオスにも、これとそっくりの建物がたくさんある。以下の写真をツイッターにあげて「これってカンボジア中央市場だよねー」と書いたら、「あそこにもあった」「ここにもあった」と懐かしむ声がかなり聞かれた。そうなんだよー。どこにでもあった。

タシケントのマーケット建築

でもこういう、コンクリ打ちっぱなしではないにしても、そのままパネルとかを貼らずに使うモダニズム建築は、安藤忠雄黒川紀章でもそうだけれど、できたてのときは本当に力強くて美しいけれど、メンテ費用をけちるとすぐに劣化していきなりみすぼらしくなる。そして旧社会主義圏は、どこもメンテにお金かけないんだよ、これが。

さらに、同じことだけれど、モダニズム建築の常としてピカピカの状態だとかっこいいけれど、掃除を怠ってゴミがたまったり、薄汚れたり、さらには用途を変えたりして生活感が出てきたりすると、とたんにダメになる。次の写真でも、実にかっこよかったはずの集合住宅入り口ホールの空間が、左の洗濯物干し一本に負けて、なんだか濁った空間になっているのがわかる。

洗濯物に負けるモダニズムのエントランス空間

この写真集は、単に建物を撮るだけでなく、どこまで意識的かわからないけれど、その現状のもの悲しさ、時代錯誤な感じまでうまくとらえていて、非常に楽しい。そのうちこういうのも、伝統的建築物みたいな話になって、保存対象とかになるのかねー。建築が好きで、旧社会主義圏にでかける予定がある人は、是非眺めていくと「お、これ出てたよね!」という楽しい経験がいろいろできるはず。楽しいよ。

ちなみにかつて社会主義に力があった頃は、こうした様式もある種のあこがれの的だったはずだ。1970年の大阪万博の各種パビリオンを見ると、こうしたデザインの影響があちこちに見られる。いまはちょっとアナクロな過去の遺物的な雰囲気でも、かつてはまったくちがった意味合いを持っていた。黒川紀章なんか、若き日にモスクワ詣でしてこの手の建築を参考にしてたはず。そういう影響は、たぶんだれかがちゃんと調べていると思う。

最後はちょっと時事ネタで、小泉悠『ウクライナ戦争 (ちくま新書)』(ちくま新書) だ。

ウクライナ戦争 (ちくま新書)

もちろん、題名通りウクライナ戦争に関する本。今をときめく小泉悠だし、そこらのいい加減な粗造濫造本をけちらす、ウクライナ戦争についての決定版だと期待していたんだが……うーん、むしろ今回の侵攻についてだけの、リアルタイムの動向整理、という感じ。決定版とはいえない。まあ仕方ないか。現在進行形の戦争についての本だ。それについて距離を置いた分析と評価をするには、まだはやいのかもしれない。

きわめておもしろいのは確かだし、客観的ではある。いまや世界のヒーローのようなゼレンスキー大統領だけれど、実は開戦前までのゼレンスキーは、まさに東部のドネツクとルアンスク州への対応をめぐってかなり右往左往でロシアに転がされ、国内ではすごく低評価だったとか、ミリオタならではの詳細な兵器能力解説とかはたいへん勉強になるし、各種の人事が持つ意味についての説明は非常にわかりやすい一方で、まだはっきりしない部分が多すぎて、憶測レベルにとどまっている印象も一分にはある。

こっちの期待を勝手に押しつけてもアレなんだけれど、クリミア併合とのつながりとか、長期的な視点は薄い。というか、そういうつながりは見ないらしい。クリミアについては以前に書いたから繰り返さないという話と、あとどうもクリミア併合はプーチンがワンチャンでやった単発の事象として完結しているという位置づけが結構主流らしいのよ。そうなのかなあ。今回の侵略があったことで、かつてのクリミアの評価も見直す必要がどうしてもあると思うんだけど。まあ、現時点 (というか執筆時点) ではまだそういう風潮になっていない、ということなのかもしれない。

戦争はもうしばらく続きそうだし、今後「ウクライナ戦争2」とか「ウクライナ戦争3」とかも出ることになるんだろう。そこでの記述はどうなっているのか、引き続き注目はしたいところ。いずれ、当然ながら戦争が終わったときにすべてを振り返って、これがどういう評価になるのか、そしてそのときウクライナもさることながら、ロシアとプーチンがどうなっているかも気になるところ。

 

連載が終わって、読んだ本についてきちんとまとめる場がなくて自分でも少し困っていたところ。やはり本を読んだら、それについて自分なりに整理して評価を書いておきたいよね。今後、2、3か月に一度くらいでも、こんなふうに読んだ本についてまとめていけたら、とは思って下ります。まあどうなりますやら。