Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

ランチ・産業革命・1960年代

今回の「新・山形月報!」は、タイラー・コーエン『エコノミストの昼ごはん』(作品社)と山本義隆『私の1960年代』(金曜日)の二冊を中心に、アラン・マクファーレン『イギリスと日本』新曜社)や、E・L・ジョーンズ『ヨーロッパの奇跡』名古屋大学出版局)、グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』日経BP社、上下)などを論じます。過去に取り上げた『国家はなぜ衰退するのか』『銃、病原菌、鉄』『無限の始まり』『大分岐』にも改めて触れますよ!



前回、最後に取り上げたアマルティア・セン、ジャン・ドレーズ『開発なき成長の限界』明石書店)の訳者解説について、インドの開発(特に経済成長の役割)をめぐるバグワティとセンの論争に触れてほしかったと述べた。それに対して訳者の湊一樹からコメントをもらった。わぁ、こんな書評でもちゃんと読んでくれているんだ! ありがとうございます。

で、コメントの内容だけど、あの論争(「センとバグワティがけんかしとるでー。」)は、むしろ現地の政争に利用されるかたちでメディアにたきつけられたものだから、あまり真面目に取りざたすべきものではないんじゃないか、というもの。バグワティの批判に対するセンの対応もずいぶん嫌々な感じだし、論争として特筆すべきものではない、とするのが湊の見解だ。その傍証として各種の資料もご紹介いただき、非常にありがたかった。ぼくはインドで時々仕事があるので、状況はフォローしているけれど、常に携わっているプロジェクトがあるわけではない以上、関心が下がる時もあるし、とても系統的に調べているとはいえない。専門家の指摘は勉強になります。

ただ、ぼくはこの論争が、一時的にインドの政治状況やメディアが引き起こしたものだとは思わない。形式的にはそうであっても、内容はもっと根深い。最初にバグワティが書いた怒りの手紙では、かれが昔からセンの経済成長軽視(とバグワティ的には思えるもの)についてすごく不満を持っていたことがはっきり出ている。そして、これは経済成長に対するありがちな論争に直結する内容で、インドだけにとどまらないもう少し広い話でもあるとは思う。とはいえ、そこまであの本の訳者解説で大風呂敷を広げる必要がないのも事実だし、純粋に本の内容を周辺ノイズとはかかわりなく享受すべき、というのも立派な見識ではある。今後 も是非ご指導よろしくお願いします!読者が知るべきだと思ったらこのように公開しますので。

で、今回は何をおいてもタイラー・コーエン『エコノミストの昼ごはん』(作品社)。これ、確か昔、版権取得だか翻訳だかについての打診がぼくにきた記憶がある。でも、全体にネタがアメリカに偏っている内容に思えて、慎重なコメントをしたはず。でも、いま読んでみるとやっぱ面白くて、これなら自分で翻訳をやっておけばよかった、と後悔しきり。

エコノミストの昼ごはん――コーエン教授のグルメ経済学

エコノミストの昼ごはん—コーエン教授のグルメ経済学

いま考えると、原著を読むにあたって多少の偏見もあったかもしれない。「経済学者とは、あらゆるものの価格は知っているのに、あらゆるものの価値がわからん連中である」という意地の悪いジョークがある。が、あらゆるジョークの常として、これもある種の真実をついてはいる。別にそれは、経済学者どもが度しがたい味オンチであるという意味ではない。ついでに、本当の立派な経済学者は、価格と価値のちがいくらい、ちゃんと知っている。ただ、こうした悪口がそれなりに説得力を持つ程度にはニワカな人や付け焼き刃な人は多い。だから、ご飯についていかにも経済学っぽい話をしたがる浅はかな連中は、しばしば「原価厨」 に堕してしまう。

原価厨とは、「元を取る」ことばかりを重視して、とにかく原価の高いものを飲み食いするのが、もっともお得で賢明な消費行動だと思っている人を指す。それについては、別のところに書いたことがある。しばらく前に、『スタバではグランデを買え!』ちくま文庫)って本が流行ったけれど、これも基本的には原価厨の発想だ。ぼくは当初、経済学者の書くグルメ経済本なんて、それと同工異曲だろう、とたかをくくっていた。

でも、実際に読んでみると、本書はそういうものではない。いろいろなシチュエーションにおいて、もっともうまいご飯にありつくには、どうしたらいいのか? それを経済学的な原則に基づいてしっかり考えているのが本書となる。本書の基本原理は以下の通り。

「食は、経済的な需要供給の産物である。したがって、供給される品が新しく、供給者が創造的で、需要者に知識があるところを見つけるべし」(p.26ほか)

その店に適切な競争原理が働いているか? 新鮮な材料が調達できる環境ができているか(これは食品輸送技術の有無の話ではない。輸送技術が低いからこそ、近所での材料調達が必須となり結果的に新鮮な材料が得られることも多い)? 食品以外のものが重視されている店ではないか? 近くにいる連中が、その料理について知識のない(あるいは支払い能力のない)味オンチばかりではないか?

本書は、さまざまなケースを挙げて、こうした課題についてどう考えればいいかを説明してくれる。タイ料理はタイ移民が作るのがいちばん美味しい場合が多いけれど、客がタイ料理の何たるかを知らない連中ばかりなら、すぐにその地元の嗜好にあわせた大味でぬるい代物になってしまう。移民政策やその居住地は、美味しいご飯にありつくには重要な情報だ。そして、こうした一般的な理論と並んで、コーエンは各地での具体的な話を語る。なぜパリの飯はどんどんまずくなっているのか。アメリカの最近の屋台料理の優秀さについて。アメリカの日本料理屋はなぜ高いところばかりなのか、などなど。

書かれている内容は、おおむねぼくも納得がいくものばかり。いくつか明らかに趣味が異なる部分はあって、コーエンはフィリピン料理がお気に入りだけれど、ぼくはどこで食ってもフィリピン料理はまずいと思う。それはまあ嗜好の問題かもしれない(が、コーエンの味覚について多少の疑問符がわいたのは否定できない)。あと、5章のバーベキューの話は、ぼく(そして多くの非アメリカ人)には、あまりピンとこないだろう。ソースがどうした、その成立事情が云々とは言うんだが、それ自体にあまり思い入れがなければ、共感はむずかしいんじゃないか。うまいとされるバーベキューも食ったけれど、ぼくはついぞなじめなかった もんで。

そうそう、かつてぼくが本書の打診を受けた際には、この5章が本書のアメリカ偏向を懸念する主材料になったのだった。でも、全体としてそういう部分は少ない。ガイドとしてはとても適切。知らない場所にでかけて、何がうまいかわからない——そんなときに、本書で得た知識を少しでも覚えていれば、たぶん最悪の事態は避けられるだろうし、ひょっとすると素晴らしい食事体験にありつくことだって不可能ではない。そして最後は、自炊のガイドだ。

ちなみに、本書には載っていないぼくからのアドバイスも書いておこう。途上国にでかけたら、なるべく現地の人がたくさん入っている店を選ぶこと。西洋人がたくさん入っている店は、西洋流に(つまりはぬるい大味に)味を変えている場合が多い。ぼくの日本人同僚は、各地でお気に入りの店に西洋人がやってくるとすごい形相で「ファランタイ語で西洋人を指す侮蔑表現。「ガイジン」以上に悪いニュアンス)、ゴーホーム」とブツブツ言い続けるので閉口するけれど、その気持ちはよくわかる。

それ以外にも、本書はスローフードなんて代物が、実は何の役にもたたないどころか、おそらく土地の伝統的な食文化を見直そうとか、大量消費を廃した地球や社会や環境に優しい健康的な食生活をといった基本的な狙いに逆行するものにすぎず、地産地消も単なる金持ちの自己満足であることなども、きちんと説明されている。『美味しんぼ』とかのいい加減なスノッブ情報を受け売りするより、本書の汎用性のある知識を身につけたほうが、グルメ談義もずっと奥深いものになる……はず。経済学者・田中秀臣の解説にある餃子の話もなかなか勉強になります。

あとは、最近だと産業革命の説明みたいな本を少し見ているのだけれど、どれもぱっとしない。以前、イギリスではたまたま石炭がいい具合に出てアメリカが植民地になったので成功したんだ、と指摘するケネス・ポメランツ『大分岐』名古屋大学出版会)は取り上げた。おもしろい本なんだけど、その後少し読み返すうちに、この議論だとあまりに偶然に支配されすぎて、二度と起きないし他の国も絶対真似できないことです、という話になってしまって、楽しい読み物以上にならず、不満が出てくる。

でも、他に何かよい分析はというと……とにかく制度が大事なんです、と主張するアセモグル&ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』早川書房、上下)についても前に紹介した。産業革命も制度のおかげだ、とこの本は論じていた。でも、この本は、だったらその制度ってのはどうやっていいほうに向かうんですか、という説明が一切できない。歴史的な偶然でございますってだけだ。これも、かなりがっかり。

そして、読み物としては抜群に面白いジャレド・ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』草思社文庫、上下)。本書だって、ユーラシア大陸の発展はユーラシア大陸が横長だったからです、だから、家畜も病原菌も知識も伝わりやすくて発展したんです、と主張する。わかりやすいし楽しいけれど、最近ではな本書に対する批判も出てきて(それと、その後のダイアモンドの著作や発言がトホホなこともあって)どんどん評価が下がっている。それを度外視したとしても、やはりまた大陸の発展や産業革命は地理決定論で、結局他の可能性はまったくなかったという話で終わってしまう。

そのダイアモンドを批判しているのが、デイヴィッド・ドイッチュ『無限の始まり』(インターシフト)。なんだけれど、その批判は「人間の創意工夫は無限であって地理ごときに縛られるもんじゃない!」という代物。かけ声としては勇ましいし勇気が出るけれど、創意工夫もそれなりに環境とかに縛られるし、それだけじゃ何も言ってないに等しいではありませんか。

それらに続いてこの数週間で読んだのが、アラン・マクファーレン『イギリスと日本』新曜社)。これはイギリスと日本がどっちも戦争がなく、衛生状態がよかったのと、子作りをそこそこ抑える文化的な要素があったから人口圧力に打ち勝って、産業が発展したとするのが主な主張だ。うん、そういう面はあるだろう。でもそれが決定的か? それだからこそ産業革命が起きた、というところまで話を持っていっていいものか? 決してつまらない本ではないんだけれど。

さらに古い本だけど、E・L・ジョーンズ『ヨーロッパの奇跡』名古屋大学出版局)も読みました。これも大物経済学者によるいい本なんだけど、ヨーロッパの産業革命と大発展が起こるまでの経緯を細かく調べて……結局、それが様々な偶然に支配された奇跡でした、ってことになってしまう。

うーん、どれを読んでも、なんだか見通しがはっきりした感じがしないし、また他に応用できるものが全然ない。歴史って細かくきちんと調べれば調べるほど、些末な1回限りの出来事や条件が次々に出てきて、他の可能性の余地がどんどんなくなってきてしまう。その数多くの出来事や条件の中で、どの要因を重視するかは論者による。でも、真面目に調べた本はすべて、他に可能性はなく、そうなるしかなかった、という結論に行き着いてしまうような。なんか、あまり外的な条件に頼らず内生的に産業革命を説明した話として、イギリス人が産業革命を起こしやすい価値観を受け入れるように進化したから産業革命ができた、というグ レゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』日経BP社、上下)の説明に最近ではもっとも説得力を感じてしまうようになってきたんだけど……。

さて、最後は山本義隆『私の1960年代』(金 曜日)。かれが書いている、15世紀、16世紀のヨーロッパにおける科学の発達と、それを可能にした社会の分析はここでも他でも何度も絶賛している。前世紀の学生運動全盛期に、あの安田講堂にたてこもった過去を持ちながら、これまで東大学園紛争については語らなかった山本義隆が、初めて当時の様子を語った本だ。とても貴重な記録だし、かれが非常に真面目かつ誠実に、この世の不正と思ったものと取り組むなかで、あの行動も生じたことや、その後もかれが同じ義憤にかられて活動を続けてきたことがよくわかる。さらに、大量に収録されているガリ刷りビラ(あの独特の書体の!)も、今やなつかしいくらいの雰囲気をだしてる。

私の1960年代

私の1960年代

でも、その一方で、それがあまりにナイーブに思えるのも事実。本書では。しきりに原発反対論が登場する。それはそれで一つの見方だろうけれど、山本はこう述べるのだ。

ちなみに、福島の原発事故ののち、ドイツとイタリアは「脱原発」を表明しました。これは将来的に核武装をすることはないという国際的メッセージなのです。 それにたいして日本政府は事故後も原発固執する姿勢を崩していません。そのことは、外国からは、日本が核武装の野心を棄ててはいないと見られることであ ります。(p.28)

ぼくは、これがかなり変な物言いだと思う。核武装原発とはレベルがちがう話で、別の止めようもある。日本が核武装しかねないと思っている外国の人はいるだろうけれど、それは原発の有無で判断されるもんじゃないだろうし。そんなことで(それだけではないにせよ)、反原発を主張するならずいぶんピントはずれじゃないだろうか。

本書は講演録であり、その講演の最後で山本は原発を止められない自分の無力感を述べている。しかし、その無力感は、こうしたピントはずれぶりも関係しているようにも思う。歴史的資料としては興味深いものの、読んですごく新しい見方が得られた感じはない。科学と大量消費社会が、環境問題を引き起こした、と指摘する際も、レイチェル・カーソン『沈黙の春』有吉佐和子『複合汚染』な ど、いまやかなり論駁された古い話を平気で持ち出してくる。山本にとって、時間は1960~70年代で止まってしまったんじゃないかという印象さえ受ける。ある時代の記録としては、貴重なものだけれど、あの時代を間接的にでも感じたことのない人々にとってどこまで意味を持つんだろうか。

なんだか今回は、コーエン以外にあまりポジティブにおすすめする本がなくて申し訳ない。でも、次回はアーヴィング・フィッシャーとかダグラス・ノースとかコルナイ・ヤノーシュとか、おもしろそうな経済学の本もいろいろあるようだし、楽しみなところ。では、また。