Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

太平天国・世界史・ケイパビリティ

2016年最初の「新・山形月報!」は、マクニールの『世界史』読み比べがメインです。ウィリアム・H・マクニール『世界史』(中公文庫、上下)とウィリ アム・H.・マクニール、ジョン・R・マクニール『世界史』(楽工社、Ⅰ・Ⅱ)の読みどころは!? また、アマルティア・セン&ジャン・ドレーズ『開発な き成長の限界』(明石書店)も論じられています。



新年あけましておめでとうございます、と言うのも今さらの感はありますが。正月は本棚に前世紀から置いてあるリンドレー『太平天国』平凡社東洋文庫、全4巻)なんかを消化しておりましたよ。アヘン戦争前に清朝中国を震撼させた、かのキリスト教系集団による一大反乱である、太平天国の乱。それを太平天国軍に追随したイギリス人が見た、密着ルポ。高潔で有能な太平天国首脳部に対し、無能で堕落した清朝満州人どもを罵倒し、それに肩入れしたイギリスの節操のなさをとことん批判していて、おもしろいんだけど、いささか冗長。まあちょっとマニアックすぎる本なので、ここではこれ以上は触れないでおこう。

かわりに、マクニール『世界史』を。ウィリアム・H・マクニール『世界史』(中公文庫)は、なんだか去年の4月あたりに丸善本店でベストセラーかなんかになっていた。たぶん、どこかで新入生や新入社員向けの基礎教養本として紹介されたのだろうと思う。確かに、非常に網羅的で読む価値は十分……なんて利いた風な口をききたかったところだが、実はこの本、買っただけで、読んでなかったんだよね。有名な本だし、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』草思社文庫、上下)の参考文献にも挙がっていたから、いつか読むつもりではあった。でも世界史のおさらいで、斬新な観点とかもあるわけじゃなさそうだったし、積ん読状態になっていた。

世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)

世界史(中公文庫)

ところが、昨年末、同じマクニールによる、同じ題名の『世界史』という本が出た。なに、増補版とかなの? どう変わったの? そう思って、いい機会だから両方を読み比べてみたのが今回のメインテーマ。

では、まず文庫版のほうから。文句から言うと、翻訳は固有名詞のカタカナ表記がやたらにオリジナルにこだわりたがるのでちょっと辟易。ニクソン大統領を「ニクスン」にしなくてもいいんじゃないでしょうか。しかも必ずしも原音表記というわけじゃなく、むしろ英語圏に偏った発音優先になっている。これはマイナス。その他訳文としてはバリ硬で、改善の余地はある。が、何を言ってんのか、まったくわからなくなるような部分はない。

そして本としての内容はすばらしい。世界史を一つの流れとして捉えようという試みで、予想通り新しい視点や分析は特にない。別に「実はピラミッドは、うちゅーじんが~」なんてことは書いてない(あたりまえだけど)。でも、いろんなできごとをバランス良くとらえ、相互の関係も押さえつつ断片的な事象の散漫なコレクションに終わっていないのはすごい。世界史の教科書の多くは無味乾燥だけれど、本書はきちんと読み物になっている。

そして、その中でもちゃんと何が「世界の」歴史を形成してきたか、という視点があり、全体の構成にしっかりした枠組みを与えている。たとえば、本書は日本についての記述が異様に多い。昨今は、ネトウヨのにわかナショナリストたちが、日本こそなんでも世界一と讃えるようなウリナラ(我が国)史観を平然と振りかざす。だけど、世界史の流れから見れば、日本なんて基本は偉大な中国文化の周縁辺境文化の一つでしかない。そしてまた世界史において、西洋近代化の恐るべきパワーは歴史形成の最大の力だし、世界の既存文化がそれにどう応えたかが、近現代史のすべてと言っても過言ではない。

日本は世界のあらゆる非西洋文化圏の中で、西洋文明の受容を最も見事に実現してしまった希有な文化だ。その背景には、それに先立つ時代に恐るべき中国文明の影響を受けつつ、吸収してきた文化的な経験がある。だからこそ、この数百ページに及ぶ上下巻の著作の中で、タイ(シャム)は数行、朝鮮はないも同然なのに、日本だけは数ページ割いて詳しく記述する価値があるわけ。

また、アマゾンのレビューの話でアレだけど、本書について、あるレビュアーは日本の記述の中で、町人文化と武家文化があまり明確に区別されていない点をあげつらい、いい加減だと言っている。でも、この本はそういう粒度では書かれていない。それを無視して重箱の隅をつついても意味はない。

そしてもう一つ、紀元千年くらいの世界となると、世界史上で最も重要なのはイスラムの爆発的な拡大と、それへの対応だ。多くの文明はイスラムの軍事的な猛攻に必死で抵抗した。そして何とかそれに耐えられた場合には、イスラムとの対比で己自身の存在意義を考え直し、宗教的にも文化的にも己の独自性とは何かを必死で考えて位置づけようとした。それがいまのヨーロッパ文明の基盤を形成し、現在のインドにつながる問題の原因ともなっている。

ところが、当のイスラムはそういう機会がなかった。いや、あったけれど、イスラム世界は毎回それを内省の機会とせずに、変なタコツボに入り込み、つまらない排外主義と内ゲバと知的硬直で応じただけだった。そしてジリ貧になってやがて自滅する。軍事的に勝っていれば、ほらコーランの言う通りだアラーは偉大だと騒ぐけれど、負けはじめたとたんにその立場が維持できなくなって、グダグダになり、いじけ、分裂をはじめる。

たぶん、これは現代の状況にも通じるものだとは思う。イスラム国はまさに、自分たちの正しさを軍事的な勝利でのみ正当化し得る。だからどっか集中的に叩いて大敗北をあらわにしてやれば、イスラム国は一気に崩れるんじゃないかと……が、これはまた別の話。でも本書は、そういう重要な歴史の力にも十分な指摘を行ってくれる。

そして歴史的な話をしつつ、技術はもとより文化芸術との関わりまできちんと描き出す。著者の非専門分野であっても優れた理解が随所に見られる。たとえばケインズ経済学の意義について触れた一行は、公共投資大きな政府こそケインズ経済学というありがちな誤解に陥らず、信用とお金の供給こそがその本質だということをきちんと理解している。

確かに、噂にたがわぬ名著だと思う。世界史なんか興味ないという人も、何でも知ってるつもりの人も、得るものがあるはず。本書が西洋中心の視点だという批判を聞いたことはあるけれど、現代にいたる流れを考えたとき、ぼくはそれが当然だと思う。過去数世紀の世界では、西洋がいかに台頭し世界を席巻したか、というのが歴史の変化の最大の原動力なのだから。同時に本書は、最近までヨーロッパが世界文明の中では辺境の僻地の野蛮人集団でしかなかったことも明確に書いている。

さて、これと比べて今度の新しい楽工社の単行本版のほうはどうだろうか。まず、同じ題名がついているけれど、これは文庫版『世界史』の増補版というわけではない。マクニール息子(ジョン)が何やら簡単な世界史本を書こうとして、手に負えずにマクニール父(ウィリアム)に泣きついてできた本で、基本的には別物。現題は「ヒューマン・ウェブ」となる。

世界史 I ── 人類の結びつきと相互作用の歴史

世界史 I ── 人類の結びつきと相互作用の歴史(楽工社)

そして題名通り、旧世界のウェブとかユーラシアのウェブとか、いろんなウェブが出てくる。人間の活動のつながりが生み出す網の目というわけね。そして、各種の事象がそのウェブを広げたりつなげたりする。そうした歴史のとらえ方が、本書で提示された新機軸ということになっている。

言いたいことはわかる。でも、通読してぼくは、「ウェブ」という概念を持ち出すことで何か新しい発見があるとは思えなかった。ウェブのかわりに「文明」と言ってもまったく同じだったと思う。エピローグでマクニール(父)は、バクテリアが地球環境を変えた様子を人間と対比させていて、いわば生物学的な歴史観みたいなものを持ち出す。いい視点だし、これを貫徹してくれたらおもしろかったかもしれない。でも、本書ではそこまでは踏み込んでいない。

その(ちょっと効果は疑問のある)新機軸を除けば、本書は基本的にはしごくまっとうな世界史のおさらいだ。だから文庫版の『世界史』とそんなにちがった話が出てくるわけではない。ときどき、思い出したように「ナントカのウェブ」が出てくるけれど、それが全体的な記述や分析にあまり貢献してないのはすでに述べた通り。

とはいえ、新機軸を打ち出そうとして変に奇をてらった構成になっていないのは、一方で長所でもある。文庫の『世界史』と同じく、本書でも非常にまとまりのよい世界史の通史が描かれる。全体的なとらえかたは、文庫版と大きくは変わらないが、近現代の比重が高まっている。それと、分量的には文庫版より少なめなのかな。ピカソジェイムズ・ジョイスの世界史的位置づけにまで触れた文庫版の幅広さはないけれど、その分だけ簡潔な印象だ。そして、翻訳は単行本のほうがずっとスムーズで読みやすい(ただし造本は、なんだか本の「のど」のところまで活字を詰め込んでいて、ちょっと読みにくい部分もあるのが難)。

両者を比較すると、どっちもありだ。値段的には(中古じゃないなら)あまり変わらない。読みやすさでいえば、訳文的にも分量的にも楽工社の単行本がおすすめ。詳しさを求めるなら、文庫版かな。いずれにしても、手に取って世界の通史について見通しを得ておくのはとても有益だと思うので是非。そういう下地なしに、佐藤優とかに手を出すと、収拾がつかなくなって大変だから。

もう一冊ふれておこう。アマルティア・セン&ジャン・ドレーズ『開発なき成長の限界』明石書店)だ。アマルティア・センといえば、それはそれは偉大なインド系経済学者だ。経済成長だけじゃなくて、人々のケイパビリティ(潜在能力)の拡大と、その発揮こそが経済開発・経済発展においては重要で、その発想からすると従来の経済学が想定する合理的な人間は、実にナンセンスで不十分な代物だよ、と一貫して主張してきた学者だ。

開発なき成長の限界――現代インドの貧困・格差・社会的分断

開発なき成長の限界—現代インドの貧困・格差・社会的分断(明石書店)

かれの主張はきわめてごもっとも。センの発想はぼくの仕事である開発援助の分野でも、きわめて重要となっている。援助においても、単純に経済成長だけを見るのではなく、人々のケイパビリティをどう伸ばすか、つまり教育とか権利拡大とか身体能力とかも重要なんだ、という議論は、センの研究に多くを負っている。援助業界でしょっちゅう引き合いに出される、人間開発指標というのはまさにそれを受けて作られた。また、センによる現代経済学の過度の合理性批判は、いまの経済学——ひいては資本主義——にケチをつけたい多くの人々が嬉々として引用するものだ。

そのアマルティア・センが、インド経済を分析してかなり厳しい批判を行ったのが本書。最近のインドは、経済成長の数字がかなりよい。おかげで、絶対的貧困から多くの人が脱出できて、世界の貧困撲滅に大きく貢献している。でも、その他の指標、つまり人々のケイパビリティとその発揮を示す指標を見ると、大きく立ち後れている。教育面でも、医療面でも、衛生面でも、インフラでも、食事でも、メディアでも。それが、今後インドにとって大きな課題となるから、経済成長でふんぞりかえらず、もっと政府ががんばって人々の公的な支援を改善しようぜ、とセンは述べる。

で……それだけ。これを、各種の統計を活用して繰り返し主張したのが、この本なのだ。訳者あとがきは、本書がインドだけでなく他の国にとってもいろいろ示唆に富む、と書くけれど、ぼくはちょっと無理筋だと思う。やっぱり本書は、インドのためのインドについての本であり、インドに関心ない人が読んでも、得るものは限定的だろう。

ただ、インドはこれから日本が、がんばってつきあおうとしている国でもあり(原発や新幹線も輸出することになったし)、今後仕事でもその他の面でも関係してくる人は増える。だから、この国に興味持つ人も増えるんじゃないかな。そういう人にとっては、読んで損はないだろう。たぶんこれを読むと、きわめて発展しているインドの一面と、それに対してまるで発展していない(一部の人が「悠久のインド」とかいってもてはやすけど、実は単に貧乏なだけの)側面とのギャップについて、かなり理解が進むと思う。

が、それとあわせて、やっぱり訳者などがきちんと指摘しておくべきだった点がある。本書やそれ以前からなされていたアマルティア・センの主張が、すでにインドの前政権 (UPA[統一進歩同盟])の政策でかなり重視されてきたということ、そしてそれがかえって状況を悪化させたという批判もあることだ。センは、ケイパビリティが重要だし、それを活用するための各種権利や自由が重要だと述べる。でも、それを受け入れてインドでやたらに権利の大安売りをやってしまったがために、各種の不安定さが生じ、地方政府に余計な負担がかかってしまった。それにより政府の力が弱まってしまい、政策的に身動きがとれない状況が生じてしまっている、という。権利は重要だし、再分配は重要なんだけれど、まずパイを拡大してその権利が活かせる状況を作り、再分配するリソースを確保しないと、そんなケイパビリティは絵に描いた餅にもならない。

たぶん、ここには経済発展と国民の権利とかみたいなものの関係について、かなり重要かつ、つらい教訓がある。パイを拡大して再分配できるだけの力をつけよう、と言い過ぎると、開発独裁万歳みたいな話になっちゃって、それはそれでまたよくないんだが……。そして本書の原著が出たときに、まさにこの点について、やはりインド系の大物経済学者であるジャグワシュ・バグワティとアマルティア・センとの間で、『The Economist』のお便り欄で、かなり熾烈な応酬があり、非常におもしろかった。それについては、以前に紹介したことがある(「センとバグワティがけんかしとるでー。」 ) 。この本を読む人は、そういう背景についても少しふまえておくと、もっと深い読みができると思う。

ではまた~。今月2回できるかと思ったけど、ちょっとつらそう。2月初旬にもう一発くらいできるかどうか、見守っていただければ幸い。