Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

マッカーシー遺作、護身術バリツ、財政金融政策

ずいぶん間が空いた山形月報ですが、今回は文学好きの間では話題ながらも難物と言われるコーマック・マッカーシー遺作2部作を中心に、ホームズの格闘術と、財政金融政策の話。文学にネタのような真面目な格闘術、さらには経済話といつもながらバラバラですが、さて、どんな話になるでしょうか!

 

 

ずいぶん間が開いた (一年以上かよ!)。いつもながら、採りあげるつもり満々の本が一冊あって、それをどう料理しようか考えるうちに、ずるずる先送りになってしまうというありがちな話ではあります。

で、今回扱うのは、それではない。

コーマック・マッカーシーの遺作となる2部作『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』だ。

通り過ぎゆく者

マッカーシー『通り過ぎゆく者

 

コーマック・マッカーシーは、現代にあって、本当の意味での文学を書けた数少ない作家の一人だ。そして、それは文学というものの意義が変わってきた現代では、決して容易なことではない。

村上龍はかつて (14歳のナントカ、だっけ)、文学というのは基本的には社会経済の近代化に直面した人間のジタバタを描くものだ、と看破していた。ヨーロッパ、ロシア、米国、日本などはそれに応じて、一時は優れた文学を生み出した。村上龍自身もその一人だろう。ラテンアメリカ文学も、そうした環境の中で生まれてきたものだ。近代化がある程度いきわたったところで、たぶん「未来はすでにきているけれど、平等に行き渡っていないだけだ」というウィリアム・ギブスンの言葉のように、その各種分布のでこぼこ (つまりは格差) が主要な課題となるけれど、そのぶんだけ一般性は下がる。やがてそれすら均されてくると、むしろ「問題」を見つけて/捏造して何かお話をこじつける、最近の多くの小説みたいなものになるんだろう。そこに到る頃にはもはや、風俗小説の類でしかないんだけれど。

それ以外の道として、20世紀の文学は何を書くかという問題と並行して、どう書くかという技法追求に向かい、だんだんタコツボ化していった (それがもたらした成果は否定しようがないけれど)。でも、そうでない方向性もあった。近代化、資本主義との葛藤よりもさらに大きな、この世界とは何なのか、人間とこの世界そのものとの関わりとは、という問題を本気で考えるような役割も文学にはあった。そして、それをずっとストレートに展開してきた一人が、コーマック・マッカーシーだ。その意味で、彼の小説は、ある種のアナクロさすら漂わせる。が、一方でそのアナクロさこそが、彼の小説の持つ力の源泉でもあるのだ。

その彼は、2006年の名作『ザ・ロード』以来ずっと沈黙を続けていた。それが2022年に、この2部作を発表し……そしてその翌年に他界した。

そして遺作となったこの2部作は、いささか変わった小説だ、と言わざるを得ない。たぶんいま述べた、この世界とは何か、人間と世界の関わりは、というのを本気で考えようとして、普通の文学的な営為を超えたところに行こうとしているからだ。彼はこの2部作で、数学/物理学的な世界をもとにした、世界と人間の関係を描こうとしているのだ。

 

ステラ・マリス

マッカーシー『ステラ・マリス

 

ステラ・マリス』は、天才数学者アリシアが、自ら望んで入った精神病院で、医師の問診を小馬鹿にしつつも、数学的な現世否定の世界観、一方で現世への絆となる兄への報われぬ愛を語る。

『通り過ぎゆく者』は、その妹をめぐる自責に呪縛された兄が、墜落した飛行機のサルベージ作業をきっかけに政府に追われ、現世的なつながりを次第に絶たれる中、残された人々との絆をたどる放浪を通じて自分と世界との関係を思索しつつ、妹の呪縛に深くはまりこむ/脱出する物語となる。

さて、一般には (訳者も含め) この2部作のうち『通り過ぎゆく者』から読むのが常道のように紹介している。でも、ぼくは個人的にはそうは思わない。というのも『通り過ぎゆく者』はちょっと——いやかなり——わかりにくいからだ。

出版社による本書の営業コピーでは、墜落飛行機をめぐる謎の物語が主要なプロットとして紹介されている。サルベージダイバーである兄が調査した墜落飛行機は、ブラックボックスもない。さらに乗員一覧にいない人物が乗っていたらしい。それについて政府関係者を名乗る謎の男たちにつきまとわれるようになる一方で、その墜落自体も一切報道されない。

だがこの謎が解決されることはない。主人公が政府らしき存在に追われるのは、何かこの墜落や謎の人物と関係があるようなんだけれど、途中からそれらはまったく出てこなくなる。彼はかつては物理学を志していたが途中で脱落し、レーシングドライバーとなるが事故で引退、その後はダイバーとして生計を立てていた。その主人公が己の過去をたどりつつ、あちこちうろうろして人と妙に哲学的な問答を繰り返すのも、あまり必然性が感じられない。それどころかしばしばその場面がどこで、話し相手がだれなのかもわからなくなる。日本語の役割語のおかげで、話しているのが男か女か、若いか年寄りかくらいはわかるため、翻訳のほうが場面は把握しやすいくらいだ。なんだか変な幻覚の小人さんと話をしたりしはじめるが、それも一読しただけでは、どういう存在なのかよくわからない。そして、それ以上のストーリー展開はない。彼の小説はもともと内面描写がなく、厳しい風景の中を極度に濃縮された会話や行動だけで話が進む。本作はそれがさらに強まっている。たぶん多くの人は、一読して煙に巻かれたような気持になるだろう。

その意味では、姉妹編『ステラ・マリス』のほうがわかりやすいはずだ。『通り過ぎゆく者』と比べこちらは場所も話し相手もまったく変わらないので、話の中身に集中しやすい。精神病院で医師相手に語られる中身は、数学的な世界の成り立ちをめぐる各種数学者の思想、その背後のプラトン主義的なイデア/観念の世界、それを告げる幻覚の小人さんとの対話、そして兄との関係だ。

各種の数学観念——そしてそこから派生する厭世主義——は、もちろん極度に観念的なものだ。でもその現実との関わり (またはその不在) という主題は、各種の哲学小説や、SFのルディ・ラッカーとかバリントン・J・ベイリーとか、あるいはイーガンやテッド・チャンなどになじみのある人なら (さらにゲーデルがどうしたとか通俗的な数学話がある程度はわかっていれば) そんなに違和感はないと思う。

さらにストーリー的にも、本書の最後が、『通り過ぎゆく者』冒頭の雪のシーンにそのままつながり、流れが少しわかりやすい (正直、二度目を読むまでこの冒頭の場面そのものがまったく意識に残らなかった)。そして、妹の兄に対する愛 (と兄による拒絶)  というテーマが意識しやすくなり、墜落機の行方不明の乗客というマクガフィンにあまり気をとられなくて住むようになる。幻覚の小人さんも、妹の抱いていた妄想が兄の世界に入り込んできているのだということがわかるので、そんなに戸惑うこともない。

で、これのどこに、世界とは何か、人間と世界の関係は、という問題があるのか?

それは読む人次第ではある。この兄と妹の父親は、かつて原爆製造と関連した研究に携わっていたという。それを重視する読み方もあるだろう (実際、ちょうどアカデミー賞を取った『オッペンハイマー』とあわせてそういう見方をする短評も見かけた)。

だが、ぼくはもう少し別の見方があると思う。それは、この遺作が2部作となっていること、そして兄と妹の、お互いに惹かれつつ結ばれない関係にポイントがある。

妹は数学的に世界を理解しようとする。その世界理解は、この世の物理的な実体を否定するものとなる。兄は物理学者として、この世の物理的な存在は否定できない。その一方で、現代の物理学がますます、妹の暮らす観念的な数学理論に支配されるようになっているのも充分承知している。

兄が物理学を捨てるのも、その違和感によるものだ。その後彼が就くのは、物理世界の実物に深く関わる仕事ばかり。だがそこに、次第に妹の世界の影が色濃くなる。謎の墜落サルベージをきっかけに、職場を追われ、パスポートが取り消され、銀行口座が凍結され、資産が差し押さえられる中、兄は次第に現実世界との関わりを希薄化させ、妹の幻覚小人までが彼の現実に入り込む。それは、数学的な世界観と物理学的な世界観との、相容れないようで依存し合う関係の表現でもあり、そしてそれらの世界観が持つある種の危うさを示すものでもある

でもその中で、二人がこの世界へのつながりとしてすがったのは、人間関係ではあった。妹は兄との関係、兄は、妹とその他多くの過去につながりのあった人々との関係。それは、無慈悲で人間など意に介さない世界の中の人間という、マッカーシーのこれまでのテーマの継続でもある。世界にいくら翻弄されても残る、人の心と絆と思いがある。こう書くと本当にやすっぽくなってしまうのだけれど、そこにこそ人間の最後のよすががあるのだ。

世界とは何か、世界と人間との関わりは——かつては神学や哲学がそれに応えようとしていた、とぼくが今手すさびで訳しているアーサー・ラヴジョイ『大いなる存在の連鎖』は1940年頃に述べている。それが20世紀の最初あたりに、神学が脱落し、哲学もその役目を放棄して、いまやその任は科学——特に数学と物理学に委ねられてしまった、と。それが当時の認識だった。

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でもいまや、その数学と物理学も、世界の完全な記述や万物理論だの究極素粒子だのといった遠大な目標を本気では考えていないようだ。ぼくが大学生くらいの頃は、クォークと四つの力と統一場理論で、この物理世界のすべてが説明できるんじゃないかといった説明が、通俗解説書レベルでは一般的だった。それがだんだんややこしくなり、超ひも理論だのM理論だのは、何やら11次元の亀の子だわしのお化けのような代物と化し、それでもまだケリがつかない。それは、世界/宇宙は人間の美意識などおかまいなしに存在する、という実例でもあるのだけれど。では結局、人は世界のなんたるか、そしてその世界との関わりをどう考えればいいのか? 答はもちろん出るはずがないのはわかっている。が、それにどう取り組めばいいのだろうか?

 

(その後一ヶ月ほどしてからの加筆。まったくの余談になるが、この妹=数学的観念的/異世界的世界観、兄=物理学的現世的世界観という対立と相互関係というのは、このラヴジョイ本で言われている、プラトン以来西洋哲学を捕らえてきた二つの世界観をなぞるものでもある。完璧な他に何も必要としない神様 (異世界) と、現世の不完全でダメな各種存在を作らずにはいられない神様 (この世性)。この両者は、どっちも同じ神様に基づいているはずで、どちらも相互に依存していてずーっと、何とか両立させようと学者どもが必死の努力と詭弁を重ねてきたけれど、最終的には相容れることがあり得ない。この二部作は、ある意味でそれを引きずったものでもある)

 

ザ・ロード』の後の長い沈黙期間に、マッカーシーはあの複雑系研究などで有名な、サンタフェ研究所にフェローとして在席していた。本書の数学理論や素粒子理論の話は、その成果ではあるのだろう。それにもともと、物理系を志していたが挫折して作家に転身したそうだし、決してこの分野に暗いわけでもなかったらしい。そして、それを自分の小説世界に取り込んで、「世界とは何か」という思索に正面切って取り込んで自分のテーマを拡大しようとしたのはすごい。かつてトマス・ピンチョンが「エントロピー」や『重力の虹』で理系作家と言われたときには、彼がこうした物理学や数学的な世界観を含めた文学的な世界を切り拓いてくれるのでは、という期待があった。そのピンチョンがもはやローカル作家に堕す一方で、そんな試みとはまったく縁遠い印象すらあったマッカーシーが、90歳近くになってここまで野心的に取り組んでみせるとは! 

その一方で……

万人に勧められる小説ではない。つらい小説だとさえいえる。まだ材料を並べただけ、という感じは否めない。数学理論や物理学理論はあまりにむき出しだ。数学や物理学の世界観を、もっとうまく小説の中に取り込むこともできたんじゃないか、とは思う。最後も、単に泣いておしまいかぁ……

その一方で、マッカーシー自身も自分の寿命を悟っていたのだろう。未消化でも、とにかくまとめておかねば、と思ったのかも知れない。あと5年あったら、もう一段まとまった作品もあり得たかも……とはいえ、それは無い物ねだりだ。

同じマッカーシーでも、初めて読むなら、『ザ・ロード』や『すべての美しい馬』のほうがいいだろう。でも、主要作品を読み終わったら、本書を読んでマッカーシーがどこへ向かおうとしていたのかを考えて見るのも一興。それはひょっとしたら劉慈欣『三体』シリーズみたいなものになった可能性も……いやそれはないか。そしてもちろん、本書はこんな読み方以外にもいろんな解釈があるはず。他の人は本書をどう受け止めるんだろうか (と書いたけど、この本をまともに書評できそうな人って、ほかに数えるほどしか思い浮かばないんだよなー。円城塔藤井太洋なら、本書をどう読むだろうか?)

 

 お次の本は、そんな遠大な文学とは全然関係ない本。シャーロック・ホームズのファンならご存じの——というかホームズのファンしかご存じないと言うべきか——格闘術バリツの公式解説書、バートン=ライト『シャーロック・ホームズの護身術バリツ』だ。

シャーロック・ホームズの護身術バリツバートン=ライト『シャーロック・ホームズの護身術バリツ

 

ホームズが、宿敵モリアーティ教授と対決するライヘンバッハの滝で、もともとは相打ちにしてホームズを打ち止めにしようと思っていたコナン・ドイルだが、その後読者の要望に負けてホームズを復活させるにあたり、「日本の護身術バリツでモリアーティを投げ飛ばした」という苦しい説明をくっつけた。本書はそれを本気で解説した本 (というか雑誌記事集) の翻訳となっている。

いやあ、あんなのドイルが思いつきで書いただけで、そんなものがホントにあるわけないじゃん、と最初はあくまでホームズファンのネタ本だろうと思っていた。いやそれ以前に、最初はありがちなインチキ本で訳者がねつ造したんじゃないかとさえ思った。でも、もとになった雑誌記事はちゃんと実在するようだ。恐れいりました。そしてその記事をかつて書いた、バートン=ライトも実在し、本当に日本の柔道を学んでそれを応用した独自武術を開発していたとのこと。うひょー。そのあたりの事情は、監修者の解説にとても詳しい。

この拍子にあるイラストを含め、杖を使った戦いだのスーツを着ての対決方法だの、英国紳士の護身術として、マジですか、という感じだが本当に大真面目で書かれている。本当にこんなので護身ができるのかはわかりませんが、ビジュアル的におもしろいし、ネタとして読むもよし、本気で練習してみるもよし。

ちなみに、この手のネタが大好きなマシュー・ヴォーンの映画『キングズマン』の冒頭パブでの戦いにも、このバリツ/バーティツが採り入れられているとか (いや本当ですかね)。一読しておくと、ホームズだけでなく、こんな映画を見るときの味わいも深まる、かもしれませんぞ。

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さて、最後は飯田泰之財政・金融政策の転換点-日本経済の再生プラン』 (中公新書 2784)だ。

財政・金融政策の転換点-日本経済の再生プラン (中公新書 2784)

飯田泰之財政・金融政策の転換点-日本経済の再生プラン』

 

……と書きかけているうちに、日本銀行がYCCをやめ (というか幅を広げ) るにとどまらず、マイナス金利を解除して、本当に金融政策の実質的な転換に着手してしまった。が、本書で述べている「転換点」とはそういうことではない。いま、日本の経済が決して悪くはない状況にあり、いろんな部分であと一歩ではある。あと一押しで日本経済を停滞させてきたデフレを脱し、やっと失われた数十年を脱出できそうな希望が出てきた。そういう意味での転換点だ。そこで、確実にいいほうに転換させるにはどうしたら良いのか? 本書は財政、金融の両面でそれを検討した本となる。

本書のいいところは、財政政策と金融政策の基礎からきちんと教えてくれることだ。多くのネット論者 (いやマスコミに識者と称して出てくるあちこち企業子飼いの経済評論家も) は、そもそも財政金融政策の中身や、それをめぐる主流理論なんか知らない。本書はそのレベルから、簡潔に教えてくれる。

そして本書はフェアだ。財政破綻論だのハイパーインフレ、子孫にツケを残すな、といった主張はよく耳にする。ぼくも含め多くの論者は、ついそういうのをバカにして一周一蹴してしまいがちだ。でも本書はそれをいちがいに否定せず、そこにある理と適用条件をていねいに説明する。一方で、リフレ派にありがちな、日銀と政府を統合政府で扱えば国の借金なんか消えるから無問題、といった乱暴な議論も諫める。日銀の政策についても、YCCの幅の拡大の背景を説明してくれるし、また本書が出てから起きたマイナス金利解除についても、本書を読めば意味合いはわかる。

そして本書の基本的な結論は、財政と金融が変な独立性のポーズにこだわらず、協調性を持って政策運営しなければならないというものだ。そしていま日本経済が転換するためには、あと一歩、財政と金融の両方が大きな一押しをしなくてはならない。そしてそれにより、本書は今後の日本が目指すべき高圧経済について述べる。需要を高め、失業が消えて賃金が上がるだけでは足りない。人が積極的に転職することで、経済や産業全体の構造まで変わる状況を作ろう! 過去の停滞がもたらした安定が息詰まっている現在、新しい仕組みを作り上げよう!

本書の枠組みから考えて、植田日銀の方針は決してこうしたよいほうの転換に資するものではなく、むしろ逆行するもの。ちょっとよくなったらすぐブレーキを踏み、いつまでも本当の転換点を迎えられないという日本経済に対するこれまでに批判を、むしろ裏付けるものとなってしまっている。日本経済が少し調子よさげだとはいえ、そこまで強気に出るほどではなく、むしろここは慎重になってほしかったところではあるんだが……財政と金融が協調しろというのも、協調して引き締めろなんて話ではないんだがなあ。

 

といったあたりで今回はおしまい。他にもあるけど、あれこれ入れるとまた遅れる一方だ。書きかけだったレビューも、たぶん近々まとまるんじゃないかとは思う。ではまた!