Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

才能、意識、そして読書

2022年7月28日 
「新・山形月報!」、今回は高野文子『黄色い本』、マシュー・サイド『才能の科学』、谷淳『ロボットに心は生まれるか』などを取り上げ、考えることと読書をめぐって綴ります。そして、今回がついに最終回なんです。お名残惜しいけど、さようならー。皆さん、良い読書と人生を!
 
 

さて、今度こそ最後かな。

引っ越しで荷物整理をしていたら高野文子『黄色い本』講談社)が出てきた。そうそう、以前に『ドミトリーともきんす』中央公論新社)を扱ったときに、ついでに言及しようと思って、その準備として昔に読んだロジェ・マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』白水社、1~13)を少し再読して、ウゲッと思い、結局書かずじまいになってしまったんだった。


黄色い本 (KCデラックス)

『チボー家の人々』は、フランスのあるブルジョワ一家が二十世紀初頭の時代に翻弄される様子を描き、そしてそれを通じてある時代の様相とその変遷を描き出そうとした小説ではある。チボー家の二人の兄弟とその友人が中心として、その思春期、性的なめざめ、己の社会的地位(つまりは父親)への反発と葛藤、革命への憧れ、第一次世界大戦に向かう世界と反戦、といったテーマが扱われる。たぶん、多くの人はその中でも、ちょっと反抗的で、自分に敷かれたレールを拒み、作家になって革命運動だの反戦運動に身を投じ、というジャックくんに感情移入しつつ読んだんだろうとは思う。彼の部分だけをまとめた『チボー家のジャック』という本も出ている。

そして……いま読むと、それが非常に青臭い。しかも、あまりにありきたり。ジャックくんの悩みの、なんとぜいたくで、なんとお坊ちゃんで、なんと鼻持ちならないものか……と30年ぶりに読んだときにはそう思えてしまったのだけれど、たぶんそれはぼくの歳のせいなんだろう。たいがいの人のたいがいの若き日の悩み—それは各人にとっては実にユニークで深遠で迷いと恐怖に満ちた一回限りの重要なものなんだけれど、でもそのほとんどは、だれもが何らかの形で経験する、つまらない、どこにでもあるものでしかない。でも、まさにそれこそが『チボー家の人々』の流行った理由だったんだろうね。

みんな、本当はつまらないどこにでもある「悩み」を真剣に考え、そしてそれを (自分より社会地位のかなり高い)ジャックくんと、本当に個別のものとして分かち合えたような気持になる—そしてそれが時代の雰囲気にも呼応したからこそ、『チボー家の人々』は売れもしたんだろう。そしてその時代が変わったとき、もはやかつてほどの迫力を持たなくなった、ということなのだろうね。

『黄色い本』は、その本が日本の1960年代に持っていた力を描きだしたマンガだ。田舎の女子高校生・田家実地子が『チボー家の人々』を読みつつ育ち、就職して、そしてその中でときどきジャック・チボーに思いを馳せたりする。主人公は、ジャックくんのようなかっこいい革命運動や資本主義批判にあこがれつつ、自分が日常にとらわれていることを嘆き、むずかしげな革命思想を口走っては見つつ、就職して自分が普通の世界に活きるしかないことを悟り、でも最後にこの全5巻の本を買おうか考えつつ、図書館の中でそれが置かれた場所の重みが残り続ける—それだけ。

しかし、おそらく1960年代の多くの人は、まさにそういう気持を共有していたはず。うちの母親も、この全5巻を持っていいて本棚に並べていた。母もたぶん、和歌山から出てきて当時の60年安保時代の雰囲気を少し抱きつつ、共感とあこがれを抱いてこの本を読んだはず。母が、結婚してから—あるいはこどもが生まれてから—一度でもあの本を読み返したことがあるかは知らないけれど、ぼくが中学時代に好奇心で読んでみたときのホコリのかぶり具合からして、たぶんなかったんじゃないか。それでも、その本とそれを読んだときの自分の心が、物理的な場所として本棚にある—それが本を読んだり、買って(読みもせずに)すっと持っていたりする意味、でもあったりする。

そんなことを、いま引っ越しのために大量に本を処分しつつ思ったりするのは、本というものにそうしたセンチメンタルな意味が、少なくともこのぼくにとってはつきまとうから、ではある。

はじめて感情移入というものを教えてくれた『ないたあかおに』、自分の知らない遠くの世界に思いを馳せることを教えてくれた『エルマーとりゅう』、SFと民主主義を教えてくれた『ノーチラス号海底二万哩』と『十五少年漂流記』、おっかない謎の世界があるのだと教えてくれた(でも実はほとんどウソだった)真樹日佐夫『世界怪奇スリラー全集 世界の謎と恐怖』、ゴミ置き場から拾ってきて以降SFの主要作品を読む際のアンチョコになった半村良『亜空間要塞』、少女漫画の世界を一気に拓いてくれた萩尾望都『精霊狩り』と『十一人いる!』、そこから光瀬龍萩尾望都百億の昼と千億の夜』、それを現代社会とからめて論じることがそもそも可能なんだ、ということを教えてくれた橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』、受験勉強しているはずの図書館で見つけて、いまの自分と全然ちがう世界と生き方があり、それを自分で体験することもできると教えてくれた清水潔『インド・ネパール旅の絵本』、高校時代の青臭い世間への斜に構えた(誤用なのは知ってます)態度を肯定してくれるように思えた岸田秀『ものぐさ精神分析』と、それに影響されて伊丹十三が始めた雑誌『モノンクル』、村上龍コインロッカー・ベイビーズ』……

いまにして思えば、大したことないもの、インチキだったもの、もっといい本があったもの、その他いろいろで、他の人に「あんたもこれを読め」と薦められるわけではない。でもそのとき、そのタイミングで、たまたま出会ってぼくにとっては重要だった本ではあり、そうしたものについてチマチマ書いてみたいような気もするものの、他方で、高野文子『黄色い本』ほど、個別的であり、その人だけのものでありながらも普遍的な読書体験というものを描き出すのは、たぶん不可能だろうとは思う。

その一方で……そういうのにこだわっているばかりだと、懐古趣味になるばかり。それはゴミ屋敷の人々が捨てられない理由でもある。

カンバーバッチ主演の『シャーロック』を観たり、ハリス『ハンニバル』なんかを読んだりした人ならご存じの通り、記憶をある物理的な場所と対応させることで体系づけ、大量に記憶を行う記憶術がある。本の多く、物理的なモノの多くは、そうした物理的なプレースホルダーとしても機能している。だからこそ、紙の本というのはなかなか捨てがたい。そして、あらゆる場所その他と同じく、それはどこでも何でもいいわけじゃない。やっぱりよく使うものの場所、アクセスしやすい場所というのはある。記憶のよい場所を占拠しているものを放置しておくと、他のものの入る場所はどうしても減ってくる。だからどこかでそういうのを適度に整理しつつ、捨てるものはあっさり捨てる必要はあるし、それをしないと新しいもの—新しい知識、新しい技能—の場所がどんどんなくなる、というのをぼくは信じてはいるのだ。というわけで最後はちょっと宣伝になるけれど、最近の訳書を二冊ほど。

一冊目は、マシュー・サイド『才能の科学』河出書房新社)。これは昔出ていた『非才!』の改訳/改題版だ。この中心的な話は、天才というものはなく、すべては訓練時間次第、というもの。マルコム・グラッドウェルが普及させた、「何かに熟達するには一万時間(説によっては二万時間)の練習さえすればいい」という話の敷衍でもあるし、その他サイドの他の本で扱うテーマがいろいろ見られるので、お得ではある。どんな名人、達人、天才も、調べて見ると人知れず (あるいはまったく自分で意識することなく)たくさん練習しているし、また練習のない人でそういう達人の域に到達できた人もいない、という。反対に才能とかがあると思ってしまうと、練習の成果が見えなかったりすると自分は才能がないからと思ってあきらめたりする。失敗を認めたら才能がないと思われてしまうのでは、と恐れて、失敗を認めてそれを改善するという効果的な練習に必要なプロセスが機能しなくなってしまうのだ、というわけ。


才能の科学;人と組織の可能性を解放し、飛躍的に成長させる方法

これはむちゃくちゃおもしろい本だ。がんばりさえすればなんでもできる、と元気が出るのはまちがいない。が、ある意味でいやな主張ではある。ぼくやあなたがオリンピックに出られないのもアベンジャーズに入れないのもショパンコンクールで優勝できないのも、ダイエットできないのも英語の成績があがらないのも、すべては努力が足りない、練習不足、というわけ。そして、1万時間というのはどう考えても、かなり高いハードルではある。1万時間やればできる、という一方で、1万時間もやらないとモノにならないのか!

この本の訳者解説では、この説がちょっと言い過ぎで、やっぱ天才はいるらしいし、またこの本のもとになっているデータも一部疑問視されているという話は書いた。が、それ以外に書き損ねたことだけれど、1万時間というのは、最初の研究でもオリンピック級の超一流トップになるための必要時間ではある。それがグラッドウェルらにより「熟達するためには」「うまくなるには」「身につけるには」という伝言ゲームを経て、一万時間やらないと何もモノにはならない、みたいな話になってしまっているのは、やや誤解のもとになっている。

別に多くの人は世界チャンピオンになろうとしていろんな活動をするわけじゃない。そこそこ楽しめる程度になりたいだけだ。将棋でも、テニスでも、ダンスでも、楽器でも語学でも。それには一万時間なんか必要ない。それに、収穫逓減の法則もある。1万時間の5千時間以降の進歩は微々たるものだ。一方で、最初のうちはかなり急速な進歩が期待できる。だからツボさえ押さえてやれば、20~30時間くらいで普通に楽しめる水準には到達できるという説もある。そして自分の経験からしても、そんなものかもしれない。

ただみんな、最初のうちはつまらないし思い通りにならず、その程度の時間もやらずに終わってしまう。逆にその最初のうちのフラストレーションさえ乗り越えれば何でもできる、と主張する人もいる。その程度なら、だれでもできるはず。そして楽しくなれば練習も改善も容易になる。というわけで、この本に書かれていることをきっかけとしつつ、それに縛られずに、もっともっと多くの人がいろんなことに気軽に挑戦できるようになってくれれば……

というところで、次の本が谷淳『ロボットに心は生まれるか』(福村書店)。この本は、英語版を山形が日本語化したものを、著者がかなり加筆や改訂を行ったもので、だからぼくは翻訳協力という形になっている。


ロボットに心は生まれるか 自己組織化する動的現象としての行動・シンボル・意識

で、これはめっぽう面白い本だ。ぼくたちが持っている意識というものの本質を、ロボットの実験を通じて解明するという、何とも野心的な本だ。それによると、意識というのは単純にトップダウンで命令をこなしているときには必要ない。一方で環境の刺激に反応するだけの生命体/システムにも意識は必要ない。意識は、その両者が一致しないときに決断を下すために生じるのだという。

この考え方は、同じく拙訳のアントニオ・R・ダマシオ『自己が心にやってくる』早川書房)の結論とまったく同じもので、それ自体としてきわめておもしろい。そして谷淳のすごいのは、哲学や脳科学、計算機科学、ロボット工学など様々な分野の検討から得られたその仮説を、ロボットにより実際に検証し、意識の実際の「形」ともいうべきものを実証してみせるところだ。

それによると、意識や決断というのは決定論的カオスとして生じる。決定論ということはつまり、少なくともこのロボットたちに関する限り (でもひいてはひょっとするとこのぼくたちにも)、自由意志というものはない。すべては外部のインプットと肉体的な条件にあわせてあらかじめ決まっている……のだけれど、それはカオスでもあるので、具体的にそれがどう決まっているのかはだれにも予測できない。当人たちにも突然、どこからともなく決断が生じたように感じられてしまう。その意味で、自由意志は幻想だ、というすごい結論が実証的に得られてしまう!

意識なんて、かなり複雑なシステムじゃないと生まれようもないし、本書で使われている非常に単純なレベルのロボットなんかで実証的に検討しようがないのではと思いこんでいたので、本書のあらゆる部分が驚きの連続ではある。そして、その結論をどうとらえるか—自由意志は、あるように見えるだけで実際にないと言われたとき、あなたはどうするだろうか? すべては決まっているんだから、努力なんかするだけ無駄、といったことを言う人もいるし、また努力するかどうかも決まっているんだからそもそも自分からがんばる必要もないという人もいるし、その一方で決まっているのがどんなことなのかはわからないのだから、やるだけやってみよう、と考える人もいる。そしてこれをどう考えるか、ということすらあらかじめ決まっているのだから……

それを考え始めると無限後退に入ってしまい、自分が結局何をするかはわからない。何が決まっているのかを考えるだけ無駄で、やれること、やりたいことをやるしかない、というつまらない結論になってしまうのだけれど。このコラムでも、ぼくは自分がおもしろいと思った (またはつまないと思った)本をひたすら紹介し続けてきたけれど、あなたが何を読むかは—そして何を読まないかは—実はあらかじめ決まっている。それでも、その決定論的カオスに使われる刺激として、ぼくの書いた入力が少しでも役に立ったら—あるいは足を引っ張っていたら—書き手としては幸甚。

前回も述べたように、このコラムのバックナンバーはすでにこちらに移転した。このコラムも、ここcakesが消えると同時に、そちらで読めるようにするつもり。

一応はこれでおしまいのこのコラム、ひょっとして気が向けば、そこで勝手に続きをやることもあるかもしれない。では、またどこかで!