Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

大分岐・石炭・世界経済史

今回の「新・山形月報!」は、ケネス・ポメランツ『大分岐』名古屋大学出版会)、アンガス・マディソン『世界経済史概観 起源1年~2030年』岩波書店)の2冊を中心にがっつりと論じます。歴史的な視野で文明を見渡す大著の読み解きをご一読ください。



お久しぶりです。今回は、めずらしく前回の予告どおりケネス・ポメランツをやりまーす。本当は、すでに翻訳されていた『グローバル経済の誕生』筑摩書房)を途中まで読んでいたんだけれど、どこかにやってしまったので、最近翻訳の出た『大分岐』名古屋大学出版会)のほうを。

大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―

大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―

で、これはなかなかとんでもない本だ。なぜ今の文明が生じたか、しかもなぜ今のような形で生じることになったのかを正面から説明しようというんだから。世界が18世紀から、ヨーロッパとその他の地域で大きく発展に差がついたのは、誰にも否定しようのないところ。でも、ヨーロッパなんて世界文明史上で言えば新参者だ。域内での小競り合いにばかり終始し、強大な中華帝国やインド文明やイスラム文明に比べたら長きにわたって僻地の田舎文明でしかなかったことも、やはり否定しづらいところ。

では、ヨーロッパ文明は、なぜ急に栄えたのか? しかもどうしてイギリスが中心だったのか? それまでの文明は、生産力が上がるとその分だけ人口が増えてその分を食いつぶし、生活水準があまり上がらないという、マルサスの罠と呼ばれる状況に陥っていたようだけれど、なぜイギリスを筆頭にヨーロッパはそこから逃れられたのか? そしてやがては世界全体を(無理矢理ひきずってでも)そこから引っ張り出したのか?

これに対する答えは、そもそも文明とは何か、文化とは何か、という大問題にも関わる話ではある。西洋文明なんか大したことない、実は真の人間の幸福をもたらしていない、物質的な豊かさだけを追い求めた心の貧しい空虚な発展でしかない、ってな能書きもいろいろある。が……そんなことをのんきに口走れるのは、 西洋文明の物質的な豊かさがあってのことなのも、ほとんどの人は知っている。

で、この問題への答えは様々だ。たとえば、ヨーロッパ人が優秀だから、という論外な話もある。前回紹介したクラークは、戦争せずに商売上手な遺伝子を持つ連中が何世代もかけて増えてきたからだと、一風変わった(が、証明しようがない)説を唱えている。ジャレド・ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』草思社文庫、上下)のように、各種の病原菌への耐性や文化の伝搬においてユーラシアやヨーロッパに優位性があった、とする議論もある。そして何よりもイギリスの産業革命が圧倒的な強みだったとする人は数多い。産業革命のすごさは、だれも否定しようがない。いまの機械文明、科学文明はほぼすべてその末裔だ。大半の人は、それで説明として納得する。

でも、よく考えるとそれだけでは問題に答えきったことにはならない。じゃあ、なぜ産業革命はイギリスでしか起きなかったんですか? なぜヨーロッパでそれが実現したんでしょうか? これに対して多くの説は、ヨーロッパにはあれがあった、これがあった、こんな条件があった、という議論に終始する。山本義隆『世界の見方の転換』みすず書房、1~3)などが述べるような、科学する文化と世界に対しての見方があったからだ、といった答えもある。あるいは市場社会が発達しており、工業製 品が流通できたから、とする答えもある。あるいは長期的に投資を回収するような金融制度があったからだ、とかね。確かに、産業革命が成立するにも必要な条件はたくさんあった。それらがヨーロッパにそろっていたのは事実だ。

でも……ここにポメランツの慧眼が出てくる。ヨーロッパにはそういうものが確かにあっただろう。でもそういう条件って、他のところにはなかったんですか?  これまでの論者の(暗黙の)想定はもちろん、なかった、ということになる。ところが、実際にいろいろ調べた結果、実はあった、というのがポメランツの主張。それどころか、そんな条件はヨーロッパより整っていたような地域もいろいろあったんだという。

そう言われると、ぼくも含め多くの人は驚く。え、そうなんですか? ケプラーやコペルニクスの科学革命をうんだ世界の見方の転換は? 蒸気機関の発明は? エンゲルスが描いた繊維産業は? あの数千倍の生産性上昇があればこそ、経済全体に行き渡る発展が実現されたんでしょ? 中国はいろいろ発明はしたけれど、それを科学として一般化できなかったので発展できなかったんじゃないの?

ポメランツは、ちがうという。中国、そして日本、インドやイスラム文明の一部は、少なくともそうしたものを開発できるだけの技術水準には達していた。中国や日本のほうが発達していた技術分野もたくさんある。でも、そうしたところでは、蒸気機関を発達させるような必然性がなかった。だからそれが発達しなかったらしい。そして、イギリスにあった第一の「必然性」は石炭にあった。石炭が密集して存在し、活用できたことで、イギリスは当時の自然環境がもたらす制約を突破できた。

どういうことか? ぼくたちは今の視点で見るからこそ、蒸気機関すげー、あれが出てきたらすぐ飛びつくのが当然でしょー、と思ってしまう。でも蒸気機関だって、最初は大したもんじゃなかった。そんなものを使わず、普通に人海戦術で対応したほうがよい場合がほとんどだった。中国にも石炭はあった。でも木がたくさんあったから、当時はまだ使途の確立していない石炭なんかをあまり真面目に採掘する意義もなかったし、地理的に散在しすぎていたので輸送費も高くついた。フランスとかでは、蒸気機関は使い道がなかったし、それだけリスクある投資をする意味もなかった。だから、蒸気機関があるからすぐに産業革命につながります、という話にはならない。他のところでは、だれもそんな怪しげなものに手を出そうとはしなかった。

ただ、イギリスにおいては、まず木がなくなりつつあって代替燃料確保が必須だった。さらにイギリスでは蒸気機関の最大の用途は炭鉱にたまった水のくみ出しだった(中国とかでは炭坑にそういう問題がなかった)。それを売り物にならないクズ炭で動かせたことで、へぼで効率の悪い蒸気機関でも石炭採掘の効率を改 善できて、それが他のところに波及した。そして蒸気機関は輸送の問題の解決にもつながった。このある意味で地理的、資源分布的な偶然が蒸気機関とうまく組み合わさったことこそが、産業革命の原因となった。技術が優れている、というだけではダメだ。それが活用される環境こそが必要だ。イギリスにはまさにそれがあった!

あるいは、消費社会の発達が需要を生み出し資本主義の発達を招いたという説もある。それがあればこそ、人々はいろいろ生活必需品以外に手を出す余裕が出てきたし、その中で文化的なお遊びや科学研究なんぞにうつつをぬかすゆとりも生じた、というわけ。

でも、ヨーロッパ程度の消費社会は、実は中国にはちゃんとあった。一般人が嗜好品をたしなみ、生活水準を向上させていた。日本はみんなやたらに字が読めたし、文化や科学もそれなりに発達していた。

じゃあ制度は? アセモグル&ジョーンズは『国家はなぜ衰退するのか』早川書房、上下)で、とにかく「制度」があればそこは発展して、そうでないところはいずれダメになる、という話をしてたよね? その「制度」ってのが何でもありで、結局民主的なら発展、というような安易な話になっていたとはいえ、ヨーロッパは法制度とかいろいろ発達していたのが有利だったのでは? 特に金融とか?

それについても、ポメランツは他の地域が決して遅れてはいなかったと述べる。ヨーロッパだけが有利というわけではない。ヨーロッパの石の文化に対してアジアの木の文化、なんて話があるけれど(石のほうが長持ちなのでそのための金融が発達し云々)、それもあまり実態に即していない。

結局、いろんなところはすべて、生態環境的な制約にとらわれている。土地の生産力、木材の量、人間の数、人間の労働力、産業ごとの人の配置、水、お金として流通する貴金属量—そしてそれは、不変ではないけれど、徐々にしか増やせない—少なくとも人がすでに住んでいるところでは。何かを増やそうと思えば、現在のバランスを崩して何かを減らすしかない。世界のあらゆるところで、人々はこの制約にぶちあたり、それを突破できずにいた。

が……その制約がないところがあった。アメリカの「発見」だ。綿の耕作面積はいくらでも増やせた。労働も奴隷を使うことで拡大できた。そして、新世界からの金銀が入ってくることで、お金の量も増えて金融拡大も起きた。さらに、嗜好品の中でも砂糖とタバコはとんでもない代物だった。中国の嗜好品—フカヒレとか鳥の巣スープとか—は、生産を増やしようがなかった。でも砂糖とタバコは需要にあわせて生産を拡大できた。そしてそういう拡大のために機械を改良する余地もできたのだ。

石炭とアメリカ「新世界」— この二つの存在が、ヨーロッパの爆発的な発展を可能にし、マルサス的な生態環境的な制約を突破させてくれた。ポメランツの本は、これをいろいろな方面から描き出す。要するに、世界はフルキャパシティで動いていたので、市場と生産力と金融とが同時に拡大するような事態が一気に出現しない限り、それ以上は(急速には)広がりようがなかった。でも、石炭とアメリカ「新世界」は、まさにそれを与えてくれた、というわけ。

うーむ。議論は多岐にわたるので、頭から律儀に読むと途中で迷子になりかねない。それぞれの部分の議論はかなり独立しているので、好きなところから読んでいってもあまり問題ない。世界各地での小ネタ満載だし、実に説得力ある。そして、本書を読んでどう感じるか?

人によっては、人類の現在の発展—そしてこれからの発展または滅亡— は大きな必然だったのだ、という印象を得るかもしれない。その一方で、人類の発展が、実は本当にちょっとした偶然の産物でしかなかった、という見方もできるだろう。たまたま石炭がイギリスにあり、たまたまアメリカが大草原と大森林のまま手つかずに残っていた、という僥倖がなければいまの世界は有りえなかったのか……。

冒頭には、2000年に刊行された本書をめぐって展開された様々な議論が紹介されているけれど、基本的な議論を否定するものはあまりないようだ。中国はもうちょっとえらかったとか、あるいは逆に本書が中国にあまりに好意的すぎるとか、あそこはもうちょっと可能性があったとか、こういう制度の果たす役割を重視すべきだとか、そういうマイナーな議論にとどまる模様。ググって見てもせいぜい見つかるのは、物質的な制約だけにこだわりすぎで、もっとアイデアとかの可能性を重視すべきだ、という批判くらいかなあ。が、ぼくが知らない批判とかもあると思うので、ご存じの方は是非教えてほしい。

とにかく抜群におもしろい本だ。そして、本当にいろんなことを考えさせてくれる。ぼくはSFファンなので、歴史改変ネタは結構好きだ。ちょっとした偶然で、中国で産業革命が起きていたら、というような話はよく考える。あるいはインド文明が急に勃興して世界支配、というような可能性は? でも、ポメランツ説によれば、それはあり得ないということなんだろうか。もちろん、ぼくたちはいまのこの世界しか知らない。本当にそれ以外の可能性がなかったのか、永遠に知りようがないんだけれど。ひょっとしたら、他の発明が、他の地域におけるほかの条件をうまく解決し、別の産業革命を起こす道はあったのかもしれない。なかったのかもしれない。そして、文中にも挙げた他のいろんな本ともからみあって、世界の新しい見方を教えてくれる。

さてもう1冊、これまた分厚い(しかも超長期の歴史の)本で恐縮だけれど、アンガス・マディソン『世界経済史概観 起源1年~2030年』岩波書店)。このアンガス・マディソンは超長期の経済推計における大御所。拙訳のピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)でも、紀元0年からの経済成長率だの資本収益率だのというとんでもないグラフが出てきたけれど、その典拠はこのマディソンの研究だ。本書は、かれの遺作になるそうな。

世界経済史概観 紀元1年~2030年

世界経済史概観 紀元1年~2030年

必ずしもまとまりのよい本ではない。いきなり冒頭はローマ帝国の経済史で、その後に西ヨーロッパ、アジア、アフリカの経済発展史が続く。西ヨーロッパ史は もちろん、なぜ西ヨーロッパが経済発展できたか、というポメランツ本と重なる問題意識で書かれているけれど、科学革命があり、市場があり、制度があり、と上で述べた通常の標準的な説明になっている。ちなみにマディソンがポメランツの主張をどう見ていたかだけれど、本書では単純に「悲観論」、つまりマルサス的な制約主義の一つとして片づけられている(p.394)。このあたりはもう少し詳しく聞きたいところだけど、故人なのでかなわないのが残念。

その後、マクロ経済分析の歴史みたいなのが続くんだが、これは経済統計論に興味のある人でないと、そんなにおもしろくないかな。ただ、p.409-410 で、ノードハウスとデロングによる技術進歩の数量化(とそれに基づくGDP推計)についての、ものすごく嫌みったらしい批判的紹介の部分は、このかなり生硬な翻訳でもご当人の性格の悪さが十分に伝わってきてニヤニヤできる。

そして一番おもしろいのは、何と言っても最後の部分。第3部「来たるべき事態の姿」で、2030年までの長期予測を行っている。うーん、アフリカについて悲観的なんだね。それと、温暖化対策についての非常に慎重ながらも前向きな評価は興味深いところ。

残念なのが、それぞれの想定についてあまり詳しい説明がなく、なんとなくマディソン自身の「エイヤ!」で決めているような感じがあるところ。本当はきちんとした裏付けがあると思いたいところだが……経済学者の斎藤修による「解説にかえて」での記述によると、ホントに「エイヤ!」で決めてるみたい。斎藤は、 それがすばらしい職人芸でありこれぞ達人の妙技と絶賛するんだが(「他の人には容易にまねできない特殊能力に依存している」んだって)、うーん、もちろん どこかで恣意的な判断は入るにしても、一応学問なんだから、「特殊能力」なんてものをヨイショするのはまずいんじゃないかな、と思うんだけれど。「結構い い加減なとこもあるから、まだまだ他の人たちも活躍して改善する余地がたくさんあるよ、それまでの参考値としては有用だけど鵜呑みにすべきじゃないよ」くらいの言い方をするべきじゃないかなあ。

この本も、全部通して読む必要はまったくない。取り上げられている各種の地域について、ポメランツ的な議論をもとに、マディソンの未来予測を改善する、なんてことも可能だし、またその逆もできるんじゃないか。ただ、『大分岐』ほど強くお薦めするものではない。興味があれば、というくらい。

今回はこんなところで。どっかにいってしまった『グローバル経済の誕生』が出てきたら、取り上げるつもりだけど、『大分岐』を読んで中国の技術水準についても改めて興味が出てきて、これまた15年積ん読状態のジョゼフ・ニーダム『中国の科学と文明』思索社)を引っ張り出しているもんでどうなりますやら……。

格差・遺伝・IQテスト

今回の「新・山形月報!」は、グレゴリー・クラーク『格差の世界経済史』日経BP社)、ジェームズ・フリン『なぜ人類のIQは上がり続けているのか』太田出版)、アンガス・ディートン『大脱出』みすず書房)の3冊を集中的に論じます。教育、遺伝、家庭環境、格差……重要な論点がてんこ盛りですよ。



実は最近、本棚の整理をはじめようと思い立ちまして、もう二度と読まないであろう本を(最後にできれば読み返して)処分している。で、かなり快調にとばして50冊くらい減らしたところで、ソルジェニーツィン収容所群島』(新潮社、現在はブッキング)全6巻の再読にとりかかったら……もう気分がひたすら暗澹で、全然先に進まない。ちゃんと読むの、20年ぶりくらいだもんなあ。その合間にいろいろ他の本をはさむにも限界がございまして……というわけで少々遅 れてしまい申し訳ない。合間を縫って読んでいる本も分厚いものを優先しているため、なかなか冊数が稼げず、今回は3冊だけ。

前回、ヘックマンの本を 紹介した。就学前の幼児教育は効果あることが長期の追跡実験で実証されたから、もっと公共のお金をがんばって突っ込もう、という本だった。その後今月になって別の本を読んでいたら、まさにこのヘックマンの話が出てきて、ちょっと驚いた。しかも好意的ではあるが、かなり眉にツバをつける感じの紹介となっていてさらにびっくり。その本が、グレゴリー・クラーク『格差の世界経済史』日経BP社)だ。

格差の世界経済史

格差の世界経済史

分厚くて白くて、さらに中身も格差(の一部)を扱ったものということで、拙訳のトマ・ピケティ『21世紀の資本』みすず書房)を連想するのは人情だと思うし、明らかにそれを意図して作っている(帯でもモロに言及しているし、本書の内容を一応まとめた式 (でも正直言ってまとめになってないので、b=0.75とかにしたほうが適切だと思う) をそこに配したりしているし)。ただ、読むのに時間がかかりそうだと覚悟して開くと、『21世紀の資本』よりずっと文字は大きく、またゆったりした組版なので、思ったよりすばやく読める。というか、やろうと思えば、この半分くらいの厚みにできたんじゃないのかなあ。

そして、その中身なんだけれど、社会的な地位—教育水準だろうと資産だろうと— はかなり世襲で決まってしまう、というもの。かつては身分制もあったので、農民の子は農民で、貴族の子は貴族。技能も財産も大きく世襲で決まっていた。でも近代社会の到来により、いまや人は能力次第でいくらでも社会階層など関係なく活躍できるとするのが、いまの主流なイデオロギーになっている。だからこそ、みんな頑張って出世しようとし、親はお受験に血道をあげる。そして、20世紀になって各種の社会流動性が上がったという調査もいろいろある。その一方で、最近になってそうした流動性が下がってきたという研究も多い。東大卒の親は収入も高く、子供にお受験させる余裕もあり、するとその子も東大に行っ て……という具合。すると社会階層が固定化されてしまってまずい! 格差が固定化する! 民主主義成立の前提が崩れる! ピケティの本もまさにそう主張していた。

でも、本書はどうもそうじゃないらしい、という。昔の社会的地位はかなり世襲で決まっていた。だいたい75パーセントくらいの相関があるらしい。それは事実。ただ、この数字は、20世紀に特に改善したわけではない。社会流動性は相変わらず低い。そして最近になってそれが悪化したとか、格差が固定されるよう になったとかいうこともあまりないようだ。

本書は、それを(ピケティと同じく)かなり長期にわたって調べる。その手法は、主に名前を使った調査。ちょっと珍しい姓などをたどることで、その一族がどんな地位になっているか、その地位にどのくらい継続性があるかがかなりわかる。へーえ。そして、やはりピケティ本と同じく、その範囲がすごい。英米やヨーロッパはもちろんのこと(北欧とか、こういう調査をやりやすい資料がかなりある)、日本やフィリピン、果てはかの共産主義革命と文革下放の吹き荒れた中国でも調べている。そして、その中国ですら、文革などであれだけエリート弾圧をやりまくっても、やはり世襲の力は強い。そしてたまに例外的に家族の「実力」とでも言うべきものを超えて上昇した一家があっても(または没落する一家があっても)、いずれ、やがてその一家として実現可能な平均水準に戻ってくるのが通例だ。だから社会的地位は、実の両親よりも叔父さんとか祖父母とかのほうと相関が深いんだって。

では、そもそも家族の「実力」とは? それは遺伝だ、とクラークは言う。その遺伝は、生物学的な遺伝もあるし、また家庭環境みたいなものもあるけど、どっちかといえば生物学的な遺伝みたい。養子の成績を調査すると、幼い頃には養父母の成績と相関が高いんだけど、中高生くらいからだんだん実の両親の成績との相関が圧倒的に増えてくる。

じゃあ、各種教育とかは全然効かないってこと? うん。ゼロではないが、効きは悪い。ヘックマンの業績、つまり就学前教育にドーンと投資するといいよ、という話についても、一応評価はしつつも、それがどこまで一般化できるかについてはかなり疑問を提示している(その一部については、ヘックマンの本で反論が出ていたので、気になる人は読み返そう)。もちろん、子供の栄養状態とか基礎的な学力とかの改善は重要だ。でも、それがある程度のところまできたら、あとは何をしようと差は出ない。生まれつきの素質ですべて決まってしまう。

えー、ではもう生まれですべて決まっちゃうってことですか? もうどうしようもないってことですか? この疑問に対してクラークは、「いやそんなことないよ、100パーセント決まるってわけじゃないし、個人の努力の余地もあるし、10階級ぶちぬきの出世はなくても一つ上の階層にあがるくらいはできるよ!」 と明るいそぶりを一瞬みせたあとで、「でも努力できるかどうかもかなり素質や世襲で決まるのよねー」と、容赦なく希望を叩き潰す。そして、結局は子供の社会的地位をあげたいなら、がんばっていい家庭の相手と結婚しろ、とのこと。うー。

さすがに少しは希望のある見通しや今後の改善策とか出るんだろうと思って読み進めてきたら、とにかくラストでダメ押しに落としてきて、読み終えてぼくは頭を抱えてしまいましたよ。どうしろってのよ……。って、どうしようもないって言ってるんだけどね。そして、こういう傾向があるからこそ、社会制度とかでそれを補って平等に近づけるような仕組みが必要何だろうけど、本書はそっちの道もかなり周到に議論して潰しているので、何と言っていいやら。

クラークは前の本『10万年の世界経済史』日経BP社、上下)でも、イギリスの産業革命は支配階級が子だくさんだったから、という主張をして、さらにいまの格差は貧乏な国や人が怠けてるだけだから仕方ないんだ、というかなりひどい、というか救いのない主張をしていたっけ。本書もその救いのなさという意味では共通はしてるんだけど。ただこういう結論や 処方箋をどう思うかはさておき、分析としてはおもしろいので、機会があったら読んで損はない。特に本書、ピケティと同じで、様々な国について同じ分析をして同じ結論に達しているので、最初の数ヵ国を読んだら、あとは細かく読まなくてもかまわないし。

このクラークの本での「氏か育ちか」的な議論(クラークは圧倒的に氏派)に関連した本を最近もう一冊読んだ。それがジェームズ・フリン『なぜ人類のIQは上がり続けているのか』太田出版)だ。

なぜ人類のIQは上がり続けているのか? 人種、性別、老化と知能指数

なぜ人類のIQは上がり続けているのか?—人種、性別、老化と知能指数

この書名と著者名を見て、ピンとくる人もいるんじゃないか。そう。これはかのフリン効果の発見者によるフリン効果の発見だ。フリン効果というのは、IQテストの成績が世界中でどんどん上がってきている、というもの。ぼくたちが目にする知能テストの結果は、平均点をもとに補正されていることが多いけれど、実際の試験の生データを見ると、確実に上がっている。なぜだろう? これはいろんな議論の的になってきた。

本書は、このフリン効果について発見者が解説し、その原因についての考察、そして知能が実際の生活や、国ごとの知能差、人種ごとの知能差、男女の知能差、加齢による知能変化などについてどういう意味を持つのかを検討した本だ。ただ、あんまりはっきりしたことはわかんない、という結論がほとんどで、結局何なのよ、という印象はぬぐえない。

知能テストの結果が上がっているのは、知能テストで使うような知性の部分が、社会生活においてどんどん重要になってきているせいらしい。ただ……そこらへんの理屈だてはかなり怪しげ。実はこのフリン効果と、最近のゲームやテレビドラマの複雑化(たとえば『24-TWENTY FOUR-』とか)を根拠に、今の子たちは複雑なゲームをしてややこしいテレビドラマを見ているから知能が上がっているんだと言わんばかりの主張をした、 拙訳のスティーブン・ジョンソン『ダメなものはタメになる』翔泳社)がある。でもこれは実証的な研究でもなんでもなく、単なる通俗ライターの思いつきだ。ところが、本書はそれをまともな研究と並べて、自分の主張の傍証に使う。それはダメじゃないかなあ。

それ以外の部分は、知能はある程度は栄養状態とかに左右されるので、今後途上国はどんどん先進国との間合いをつめてくるだろう、とのこと。また人種は、差があるのは事実だが原因はわからないし、差が縮まりつつあるのも確か。性別や加齢の話は、いろいろ考え方はあるんだが、決定的にどうこういうことではないみたい。あと、一時フリン効果はもう止まった、という結果が出ていたんだが、本書によるとそれは一時的だったそうな。いままでだれも知らなかった知見が どーんと出てくる本ではないけれど、知能(の一側面)の様々な変化や集団ごとの差についていろいろわかる点ではおもしろい。

ただ、その知能を現実世界に適用する部分の話は、結構しょぼい、というよりひどい。特に知能向上により道徳的議論の質が上がったという主張の根拠はあまりにトホホ。優しいのがいいとか他人を思いやろうとかいうお題目がのさばってきたから道徳的議論の質があがったというんだけど、それって知能のせいなの、それとも単に社会が豊かになって甘いこと言ってる余裕ができたせいなの? そういう考察まったくなし。さらに何よりがっかりしたのは、知能向上と政治的議論との関係を論じた部分。19世紀末の政治家が、金本位制なんかやめようぜ、という非常に優れた演説を行った。ところが著者はそれを「分別に欠けた」議論だ と述べて (p.106)、それに比べれば最近はましになったかもしれない、なんてことを言うんだが……それじゃあいま世界のどこも金本位制をやってないのは、ぼくたちみんな愚かになったせいなんですね、フリン先生! 金本位制を野蛮な遺物呼ばわりしたケインズは低知能のバカだったんですね! ……って、そんなわけないでしょ。金本位制はまったくダメだし、いまヨーロッパがギリシャ問題で大変なことになっているのだって、ユーロ体制が金本位制をさらにひどくした代物 になってしまったせいなんだから。

これに限らず、フリンは政治的(または経済的)な議論のよしあしを見分ける能力があまり高くない。実力主義に関する議論も非常に不明瞭。また、父親が人種差別に鈍感で、自分が黒人になったらどんな気分か、という質問すらまともに答えられなかったというのを持ち出して、昔の人は他人に対する想像力がなく、いまのほうが抽象思考能力があるというんだが、そうかねえ。だから社会的な意味合いに関する本書の議論は、ちょっと眉に唾をつけたほうがいいかも。たぶんこういう勝手な思いこみの多さと関連しているんだろうが、書き方が全体にへたくそで、しばしば主張が不明瞭になる。斎藤環が最初と最後に少し解説をつけてくれてはいるが、知能指数そのものの解説以外は付加価値が低いのが残念。

さて、もう一冊、アンガス・ディートン『大脱出』みすず書房)。これも、格差に触れているという点で上の2冊と関係しているというべきか。この本の基本的な議論は、世の中どんどんよくなってきたよ、というもの。人類は、早死に飢えと貧困から脱出し、格差からも脱出した。ひょっとしたら映画『大脱走』みたいに、脱出したけどまた捕まることになるのかもしれないけれど、でも現状がすさまじい成果を挙げ、以前は考えられなかったほどの大脱出を実現したのはまちがいない。本書は、この点で拙訳の二冊、ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』文藝春秋)やマット・リドレー『繁栄』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)と共通していると思う。『大脱出』の議論はすべてしっかりしたデータに基づいていて、まったくあぶなげないし、また書きぶりもきわめて安定している。翻訳のよさもあって、読みやすいよ。

大脱出――健康、お金、格差の起原

大脱出—健康、お金、格差の起原

そして、この本の特徴は、特に途上国援助について大きく取り上げていること。格差を減らすために行われているはずの援助は、役にたつんだろうか。ぼくは開発援助関係者なので、役に立っていると言って欲しいけど、決してそう断言できないのは知っている。本書もそれをしっかり指摘しつつ、その改善策をいろいろ考えてくれる。もちろんその一環として、ぼくたちが経済成長をしっかり実現しなくてはならない、ということも含め。そして、いま世界が直面するいろいろな問題について懸念はしつつも、希望的な論調で終わってくれる。今一つ将来展望の面で暗い、あるいは要領を得ないクラークやフリンの本に比べ、非常に明るい読後感があるし、勉強にもなるし、とってもいい本。人類の文明発展史概観として是非どうぞ。

で、そういう発展史の本が次に控えているのよね。ケネス・ポメランツ『大分岐』(名古屋大出版会)。なぜ中国は一時は世界に冠たる大文明国だったのにしょぼくなり、ヨーロッパ文明は急発展をとげて世界を覆うにいたったのかを述べた古典的な本で、原著は持っているんだけど冒頭だけで止まっていた。邦訳が出たので、今度こそ読まないと! ではまた。

幼児教育・意志力・コールハース

お待たせしました、「新・山形月報!」の今回のラインナップは、ジェームズ・J・ヘックマン『幼児教育の経済学』東洋経済新報社)、ウォルター・ミシェル『マシュマロ・テスト』早川書房)、ロイ・バウマイスター『WILLPOWER 意志力の科学』(インターシフト)、イエスタ・エスピン=アンデルセン『平等と効率の福祉革命』岩波書店)、レム・コールハース『S,M,L,XL+』ちくま学芸文庫)です。教育から建築まで多岐にわたる本を徹底レビューです。



遅くなって申し訳ない。6月はあれやこれやと珍しく余裕がありませんで。それと、前回の続きで記憶術とか錬金術とか薔薇十字とかカバラとか、これまで本棚にあっても読んでなかった本を片づけておりまして、あまりふつうのまともな本に手がまわりませんで……。

その中で読んだまともな本として、まずジェームズ・J・ヘックマン『幼児教育の経済学』東洋経済新報社)。帯に「脳科学との融合でたどりついた、衝撃の真実!」なる惹句があるので、なんかすごい衝撃的なことが書いてあるのかと思ったんだが…… そんな大それた話は書いていない。でも、中身は重要。要するに、就学前の教育投資がものすごく効くということ。それを、二つの対照実験の結果からヘックマンが述べている。就学前の児童に対して、放課後に先生が家庭訪問して追加の指導をした場合としない場合を比べ、しかもその子たちのその後の出来を、40年にわたって追跡したというのがこの実験だ。

幼児教育の経済学

幼児教育の経済学

すると、おもしろいことがわかる。最初は試験で測れる、いわゆる学力に差が出るんだけれど、これはその後、だんだん差が縮まってしまう。だけれど、それよりも非認知的な能力—忍耐力とかやる気とか感情を抑える能力とか— のほうが重要で、これが後々まで尾を引き、人生で成功するかどうかを大きく左右してしまうんだと。そして脳の発達を見ても、幼い頃にふれあいや刺激を与えないと脳の成長が遅れることが生理学的に示されている。ここからヘックマンは、就学前の5歳までの非認知的な能力面での指導はとても重要ですさまじい成果をもたらすから、特に貧困世帯に対してこれを公的に実施しろ、と主張する。

たぶん、これを読んで衝撃的だと思う人はそんなにいないんじゃないか。しごくもっともな話だと思う。本書は、これを述べた短い(40ページほどの)論説に対し、各界の識者による反論やコメントがあり、それに対するヘックマンの再反論が掲載される構成になっている。ただ、正直いって各界の識者のコメントは相当部分が揚げ足取りに終始していて、あまり有益でないように思う。だから再反論もあまりおもしろくない。

そして有益な部分が、第1部の40ページほどしかないので、そこの記述不足が非常にもどかしい。たとえば非認知的な能力のほうが重要だというんだが、それってどうやって測ってるの? またその二つの実験では、放課後に先生が家庭訪問して指導したり親にトレーニングとかをしたそうなんだけれど、その中身はなんだか自主性を重視した遊びをさせた、というくらいしかわからない。具体的にどういうことをやっているの? それがイメージしにくいので、「幼児教育」 とか「就学前指導」とかいうのがきわめて抽象的で、結局何をすればいいのかもピンとこないのだ。

また、翻訳もまちがってはいないけど全体に愚直で、英語の慣用表現をそのまま訳したせいで主張がわかりにくいところが散見される。たとえばこんなの。

ネイティブアメリカンの居住区がカジノの開設でにわかに経済的にゆたかになった事例は、子供が置かれた環境を測るための従来の目安が不確かであることを裏づけている。この研究によれば、子供たちの破壊的行動の基準値がかなり向上した。介入による有益効果は家族内の変化によってもたらされた。(p.28)

 

「破壊的行動の基準値がかなり向上した」というのはどういう意味? 基準が厳しくなって、破壊的行動が減ったということ? それとも基準値が上がったので、これまでは破壊的だとされていた行動も平気でやるようになったということ? この後の記述から見てどうも前者らしいんだけど、この翻訳だとそれが明確にわからない。

あるいはこんなところ。

複雑なスキルを分割することは、教育に悲惨な結果をもたらしうる。たとえば、子供のためのプログラムはソフトスキルに重点をおき、認知的な内容を最小限にするだろう。思春期の子供や成人のためのプログラムは、つまらない作業や訓練を中心に構築されるだろう。(p.50)

えーと、なんで子供向けには認知的な内容を最小限にするんですか? なぜ大人向けはつまらない作業ばっかになるんですか? ここの文章はおそらく、幼少時の総合的な学習という複雑なスキルを、たとえばヘックマンの区別に対応する形で、学力中心のものと非認知中心のものという具合に分割して考えるようになったら(ちなみにヘックマンはそんなことをしろとは言っていない。この引用は、ある有識者の「反論」の一部)、「たとえば」以下のような現象が起こりかねない、そういう方向に向かう可能性がある、という内容なんだろう。たぶん原文にはそのニュアンスを示すために、 may とか could とかが使われていたはず。使われてなかったとしても、このままでは意味が通らないから、ぼくは翻訳で補うべきだと思う。

経済学者の大竹文雄が解説を書いていて、ヘックマンの業績とかについてはわかるし、また日本での貧困と教育の関係についての整理とかもありがたい。でも上で挙げた具体的な指導の中身とか、非認知能力としてどんなやり方で何を見ているかとか、この話に関心を持つ人が抱くであろう疑問については説明してくれていない。この分野の関係者には常識なのかもしれないけれど、一般の読者に対してはちょっと不親切だ。重要な内容なだけに、惜しいな。大竹は、わかりやすい 一般向けの文章も上手いだけに、あと一歩頑張ってほしかったところ。ともあれ、少なくとも就学前の教育がいかに重要かについては、十分にわかるはず。

ある意味でこれを補う本が、ウォルター・ミシェル『マシュマロ・テスト』早川書房)だ。このテスト自体はご存じかもしれない。幼い子供の目の前にマシュマロを1個置いて、「これを食べずに5分我慢できたら、2個あげるよ」と言って部屋を離れる。さて、子供は我慢できるだろうか? 多くの子はできない。目先の誘惑に負けてしまう。でも、様々な手を使って我慢できる子もいる。そして その子たちを追跡してみると、我慢できた子はその後もいろいろな場面での自制心が発達し、成績も高く、成功する確率も高いという。

本書は、このテストの考案者たちによる一般向けの解説書だ。でもそれだけじゃない。マシュマロ・テストというと、育児の話だと思われることが多いし、またこの実験の話をきくと、何か忍耐力が生得的なものだとか、子供のときのちがいがその後の人生すべてを決めてしまうという印象を持つ人も多いようだ。でも実際には、本書はそういう本ではない。子供に限らず、忍耐力だけでない意志力全般についてのものであり、それを(大人になってからも!)のばす方法についても述べると同時に、同じようなテーマの類書の議論についても、多少批判も加えつつ、まとめてコメントしている。

たとえば、前にちらっとだけ触れたロイ・バウマイスター『WILLPOWER 意志力の科学』(インターシフト)は、意志力が筋肉と同じで使うと疲れるけれど、でも筋肉と同じように小さな我慢を積み重ねれば鍛えて強化できる、と述べる。が、本書はその後の研究に基づいて、その結果を疑問視する。むしろ、意志力が疲れると思っている人は投げ出し、やる気次第だと思っている人は投げ出さない!(とはいえ、この『WILLPOWER 意志力の科学』は、意志力の鍛え方を具体的に説明したとてもよい本なので、本書での批判を念頭に置きつつも是非読んでほしい)

また、意志力は目先の誘惑のことをなるべく考えないようにすることで実現される場合も多い。これは、つらくてどうしようもない現実に直面したときにも有効なテクニックだ。気をそらし、直面を避け、先送りできる人は絶望や恐怖に潰されずにすむ。それができないと押し潰されてしまう。またあることについては几帳面で辛抱強い人が、別の作業ではまったくダメなことも多い。「本当の」自分なんてものはなく、いかにその人が自分を造り上げるかで多くのことが左右されるのだ。

むろん、子育てのヒントもある。甘やかしてもだめ、怒るだけでもだめ。子供は、大人のやることをよく見ている。だらしない、自分に甘い大人が指導していれば、子供はそのだらしなさ、甘さを真似する。その一方で、我慢しすぎてもよくない。ときには自分の心のままに楽しむことも必要だ。自分の中の、感情的で ホットな部分と冷静でクールな部分とでどうバランスを取るか? それは本当に、その人自身の選択だ。

さらに、就学前に多くのことが決まるのは事実だが、大人になってからだってやる気次第では変われる。本書はそれを教えてくれるし、その具体的なやり方についても示唆をくれる。ちなみに、『幼児教育の経済学』の解説をしていた大竹文雄が本書の帯に推薦文を寄せている(帯にいるもう一人の推薦は、何の役に立つかよくわからないけど)。ヘックマンの本との関連性がここにも出ているわけだ。

マシュマロ・テスト 成功する子、しない子 (早川書房)

マシュマロ・テスト:成功する子・しない子

(2022.04.27付記:なお、その後このマシュマロテストについては、かなり疑問が出てきたことは書いておくべきだろう。我慢できるのは、後からでもマシュマロもらえるのをよく知っている豊かな家庭の子で、すぐに食べないとマシュマロが取られる貧しい家庭の子は我慢しようとせず、 結局これは社会資本とか家庭環境とかの影響が大きいのでは、とのこと。だからここの記述は鵜呑みにしないでほしい)

ついでに、就学前教育の重要性と、それが経済や社会全体に与える影響の分析としてはイエスタ・エスピン=アンデルセン『平等と効率の福祉革命』岩波書店)を。これはなぜかフェミニズム系の学者が訳したこともあって、その文脈で読まれがちかもしれない。でも、本書の半分以上はまさに就学前の教育の重要性にあてられており、それが格差の再生産と拡大につながることも示している。政策的な提案もきわめて具体的なすばらしい本なので、是非読もう。アンデルセンは、ホントは子供を全員、国として召し上げてキブツみたいな共同育児施設にぶちこんで育てたほうがいいかも(!!)というとんでもない提案までしていて、でも親どもが嫌がるから無理だろうと主張。こういう極論は嫌いじゃない。この本についてのぼくの書評はサイトに載せてあるのでどうぞ。

さて、ぼくは昨年にベネチア建築ビエンナーレの日本館で、エグゼキュティブ・アドバイザーなる肩書きをもらいながらほとんど何もしなかったんだけれど、そのビエンナーレの総大将がレム・コールハースだった。彼が1995年に発表した、巨大なサイコロのごとき本が『S, M, L, XL』。1300ページで重さ3キロ近い代物で、文章と図や写真とが入り乱れてまともに「読む」本とは思われていなかったし、また実際に通読した人が何人いるやら。このぼくもあるときがんばってみたけれど、4割くらいしか読めていない。

でも、このたび『S, M, L, XL』の重要な論説を抜粋して新しい材料も加えた再編集版の邦訳が、ビエンナーレ日本館の親分だった太田佳代子と、天才翻訳家渡辺佐智江の訳で出た。それが『S,M,L,XL+』ちくま学芸文庫)。これについてのぼくのコメントは刊行記念サイトに寄せた文章で概ね述べた通りだけれど、やはりだれも読まなかった文を改めてきちんと読むのは、いまとても重要だと思うのだ。

刊行記念サイトにも書いてあるように、都市と建築の境目がますます曖昧になっている状態を、コールハースの文も、原著のあり方も表現していると思う。この日本版も、ほとんどは20年以上前の文章だけれど、そこに述べられた都市と建築の関係は、いま本当に重要なこととして考えられるべきだ。オリンピック競技場をめぐる一連の騒動にも、こんなところから示唆があるんじゃないかとは思う(今さらではあるけど)。

今回はこんなところで。錬金術とか記憶術がらみの本は、ブログでもいくつか触れたけれど、次回あたりにまとめて出してみようか……。ここで予告したことを、この連載で実際に書いたケースがこれまでほとんどないのは承知のうえではありますが。では、また。

テンプル騎士団・宗教学・ケルズの書

今回の「新・山形月報!」のテーマは、あのテンプル騎士団とケルズの書!? 取り上げる本は、ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』(文春文庫、上下)、橋口倫介『十字軍騎士団』講談社学術文庫)、レジーヌ・ペルヌー『テンプル騎士団の謎』創元社)、大田俊寛『宗教学』人文書院)、バーナード・ミーハンの創元社から出た『ケルズの書』創元社)と岩波書店から出た『ケルズの書』などなどです。



ゴールデンウィークが明けて少し経ったわけですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。さて、今回はちょっと変な方向に話が向かいます。テンプル騎士団とケルズの書の話だ。

なんでそんな話を漁っているのかというと……しばらく前に、ぼくがロレンス・ダレル『アヴィニョン五重奏』河出書房新社)を読み進めていたことご記憶の方もいるだろう。あの連作のモチーフとして登場したのが、この不完全で誤った世界からの離脱(つまりは集団自殺)を目指すグノーシス派の秘密教団と、そして舞台となるアヴィニョンに大きな拠点を持っていたテンプル騎士団の話。

で、このテンプル騎士団とは何ぞや? 簡単な説明としては、11世紀あたりにヨーロッパからエルサレムへの巡礼が増え始めたので、その保護を行うための組織として登場した、修道院僧侶の騎士組織の一つ。軍事組織としても優秀で、その後は十字軍の主要兵力となったうえ、長い巡礼の道中を保護しようとしたら、物資や資金の輸送ネットワークも必要となるため、非常に強力な拠点を各地に設けた。各種の寄進を受けておりかなりの財力もあったし、それをベースとして手形による金融サービスや各種融資を行い、現代の国際金融の基盤とも言われる。ところが突然、14世紀冒頭に、同性愛や蓄財や異端の嫌疑をかけられ、お取り潰しにあう。それがあまりに唐突だったのと、強大な軍事力や財力を持ちながら、なんら抵抗らしいこともせずにあっさり潰れたこともあって、現代に至るまでさまざまな憶測の種となっている。テンプル騎士団の隠し財宝とかの噂もひっきりなし。

んでもって、組織としてはきわめて秘密結社的な部分が大きかった上、異端審問にかけられて潰されたというので、裁判記録が残ってあれやこれやの拷問による自白は想像力をかきたてられるし、一方でよくわかっていないところも多いので妄想を展開する余地も多く、いろんな陰謀論にはやたらに登場する。各種陰謀オカルト論者たちが跋扈する変な小説、ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』(文春文庫、上下)でも、「陰謀論イカレポンチを見分ける方法は簡単:しばらく話をしてると必ずテンプル騎士団を持ち出してくるから」と嘲笑されているくらい(と言いつつ、この小説もテンプル騎士団についてかなり優れた考証をしているんだけど)。

かれらはフリーメーソンの源流とされるし(これ自体はホント)、実は巡礼保護などではなく、エルサレムで失われた聖櫃(あのインディ・ジョーンズ第1作『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』でみんなが追いかけてた代物)の発掘が任務だったのだとか、聖杯守護が仕事だったとか(インディ・ジョーンズの第3作『最後の聖戦』で、聖杯を守っていた幽霊騎士団のモデルがテンプル騎士団ね)。もちろんかの『ダ・ヴィンチ・コード』(角川文庫、上中下)にも登場いたします。

フーコーの振り子 上 (文春文庫)

フーコーの振り子〈上〉 (文春文庫)

はい、お疲れ様です。で、ぼくも断片的な話は漠然とは知っていたんだけれど、きちんとした話は知らなかった。でもダレルの小説を読むうちに、なんか思わせぶりに出て来るので、少しお勉強しておこうと思ってあれこれ読んでみました。が、結構いい本がなくて苦労しました。素人的には、きちんとした話も知りたい一方で、上のオカルト陰謀論的な話も関心はある。それがホントだとは思わないけど、あらゆるもっともらしい話はちょっとした薄い根拠くらいはあるし、そうでなくても発端くらいはある。どこをどう曲解すると、変なトンデモ陰謀論ができあがるのかは非常に興味あるところなのだ。ところが、日本語の本はぼくが見た限り、完全にオカルト陰謀脳に侵されたトンデモ本か、あるいはもっと真面目な研究書。前者はまともな史実が薄く、後者は著者がみんな生真面目な方々で、楽しい陰謀論に触れてもくれない。

個人的に一番よかったのは、英語になっちゃうけどMichael Haag『The Templars: Hystory and Myth』(Harper Paperbacks)で、きわめて詳しい史実(詳しすぎて、テンプル騎士団が出て来るまで聖書とエルサレムのソロモン神殿の歴史とイスラムの背景解説が 90ページも続く)の一方で、変なトンデモ解釈がどこから生じたのか、最近のポピュラー文化でいかにインチキな扱いを受けているかまでしっかり書いてくれる。日本語の文献で言うと、ぼくもすべて読んだわけじゃないけど、もっともいいのは橋口倫介『十字軍騎士団』講談社学術文庫)とレジーヌ・ペルヌー『テンプル騎士団の謎』創元社)。これはどっちもおすすめ。

『十字軍騎士団』の良さは、テンプル騎士団だけの話にとどまらず、もっと大きな流れの中でかれらの位置づけを行っていること。テンプル騎士団意外にも、類似の組織として聖ヨハネ騎士団(後にマルタ騎士団につながる)、チュートン騎士団なんかがあったんだけれど、そのちがいは? なぜテンプル騎士団だけがお取り潰しに? その原因となる説にはどんなものがあるの? その全体の背景となるヨーロッパの生産力増大とイスラムとの関係は? こうしたポイントをきわめて要領よく示してくれる。マルタ騎士団とかチュートン騎士団とかも、オカルト陰謀ネタでは定番ですので(ハメット『マルタの鷹』でみんなが追いかけるマクガフィンに使われたマルタの鷹の像は、騎士団ゆかりの代物なんですねー)、まとめて理解すれば一石三鳥。図も(文庫だから小さくて白黒だけれど)それなりに使い、非常にわかりやすい。特に騎士団の拠点の分布とか、地図を使って示してくれているので、地理的な把握にも好適だ。原著は 1971年の古い本だけれど、いまでもあまり古びていない。

一方、ペルヌー『テンプル騎士団の謎』は、 なんといっても図版がすばらしい。きわめて豊富なカラー図像で、テンプル騎士団その他がどう描かれてきたかのイメージは実につかみやすい。また後の神話化や近年の変な連中(テンプル騎士団にインスパイアされたカルトの集団自殺とか)についても、いやいやながら触れている。ただ……これだけ図版があるのに地図が一つしかないため、活動の広がりの理解といった点では橋口の本には劣るかな。でも見ていて最も楽しいのはこれ。

テンプル騎士団の謎 (「知の再発見」双書)

テンプル騎士団の謎 (「知の再発見」双書)

同じペルヌー『テンプル騎士団』文庫クセジュ)は、もっと学問的。また、テンプル騎士団の金融的な役割については、「他の修道院でもやってた」とあまり評価はしていないのはちょっと不思議。図版は一つもなしで、陰謀論系の話は、触れる価値もないと言ってまったく触れず。また、篠田雄次郎『テンプル騎士団』講談社学術文庫)は通りいっぺんなうえ、すべて非常に断定的に書かれていて、ぼくはあまりいいとは思わなかった。

実は、2008年にヴァチカンの倉庫からテンプル騎士団裁判当時の教皇が、「テンプル騎士団は異端活動なんかしてないよー」と述べている文書が発見されている。結局、当時のフランスの王様が騎士団の財産目当てに口実つくってかれらを潰しただけで、教皇は当時後継争いもあってローマにはいられず、アヴィニョンに逃げていた(はい、これが冒頭の『アヴィニョン五重奏』との接点ですな)。で、フランス王とやりあう度胸もなくて、テンプル騎士団を見殺しにしたってことらしい。が、まだまだいろいろ妄想を繰り広げる余地はあるので、お暇なかた、お好きなかたは是非ご覧あれ。

もちろんこの話の背景には、キリスト教(そしてイスラム教との対立)という問題が色濃く流れている。そうした宗教そのものの理解のためのよい本として、「ブックガイドシリーズ―基本の30冊」の一冊である、大田俊寛『宗教学』人文書院)が出ている。大田はオウム真理教やその他新興宗教について、宗教学の立場からきちんとしたまとめと反省を行っている珍しい学者。その過程で、宗教って何なのか、という問いをしっかり考え直している。宗教は、社会をまとめるためのフィクションであること、ベースには呪術的、神秘主義的な体験があっても、それが社会にとって持つ意味が抜きがたいものであること、その一方でそれが、死に関する呪術的な側面を決して無視できないものであることを、大田は本書でもまず確認したうえで、その理解に役立つ30冊を紹介してくれる。

一つだけ不満があるとすれば、イスラムについての本が井筒俊彦の一冊しかないこと。いまのイスラム国の動きをふまえて宗教の立場から何が言えるのか—それは多くの人が関心あることだと思う。先日紹介した『「イスラーム国」の衝撃』池内恵はしばしば、井筒のイスラム解釈は仏教を経由したもので、けしてイスラム研究の保守本流ではないことを指摘する。現状について、距離感を持ちつつ (つまりずぶずぶのイスラム神学者なんかじゃないってことね)宗教的な観点について教えてくれる本ってないものか、と最近ちょっと思ったりするんだけど。が、それはマイナーな揚げ足取り。全体として、宗教の課題、重要性、危険性と役割をうまく示してくれる、よいブックガイドになっていると思う。

そして最後に、ケルズの書。これは、オカルト陰謀系には意外と出てこないものだな。羊皮紙装の巨大な本で、文字と図版とが渾然一体となった、おどろおどろしくも美しい本だ。存在感たっぷりなので、これに秘められた力が古代の呪いを呼び覚まし……みたいな安易なホラーはいくらでもできそうなもんだけど。ダブリンに行くと、重要な観光資源として大きくクローズアップされていて、ぼくもトリニティ・カレッジに見物にいったっけ。

ケルズの書――ダブリン大学トリニティ・カレッジ図書館写本

ケルズの書—ダブリン大学トリニティ・カレッジ図書館写本

今年になって、この本のでっかい解説本が出た。バーナード・ミーハン『ケルズの書』岩波書店)。で、ちょうどテンプル騎士団ネタでキリスト教がらみの話に頭が傾いていたもので、こちらも見てみようかと思いつつ(ぼくは変わった本が好きなので)、値段が値段なので(8000円近く!)、少し日和って同じ著者のもっとお手軽な(それでも定価は4000円強)解説書をまずは読みました。同じミーハンの『ケルズの書』創元社)だ。

恥ずかしながら、見物に行ったときはちゃんと解説を読まなかったのと、本体は非常に人だかりがしていてあまり近くで見られず、むしろ同時に展示されていた人の革で装幀された本とかで喜んでいたこともあって、あまりしっかり理解せずに帰ってきてしまった。ケルズの書がキリスト教関連の代物だというのは知っていたけれど、意匠だけ使った絵解き本か謎の怪文書かなんかだと思い込んでいた。でも今回解説書を読んで、これが聖書の福音書写本なのだといういちばん基本的なところを初めて知りました。

写本を作った人々は、章の冒頭の文字を巨大にして、そこに図像を書き込み、さまざまな動物や人物の絵を含む各種紋様によるシンボリズムを作り上げた。魚が持つ意味、くらいは知っていたけれど、クジャクやライオンがどんな意味を持つか、というのは、漫然と見ているだけではわからない。その図像も、そのページの内容に即したものもあれば、純粋に装飾的なもの、写本製作者の趣味など様々。ただ、欠点を敢えていうなら、図像の細部の多様性は見飽きないけれど、個別の図像にフォーカスするので、本の全体像がつかみにくい。

ということで、概要がわかったので岩波版ミーハン『ケルズの書』も手に取りました。これは全体像がつかみにくいという問題を一掃してくれる。美しい印刷製本の大判の本で、本の全体像や、ページの全体原寸複製がドーンと出て、そのうえでそれぞれの図像の説明が入る。創元社版のやつで取り上げられていた各種の図像、たとえば行間に(あまり意味なく)書き込まれている動物とかも、どんな具合になっているのか一目瞭然。大判でページ数が増えた分、各種の解説もずっと詳しくなっている。

すでに書いたけど、創文社版は4000円で、岩波書店から出たのは8000円ほど。でも内容的には、後者は前者の10倍くらい詰め込まれていると思う。ページ単価で見たコストパフォーマンスは圧倒的(その分、置き場には苦労する巨大な本ではあるけれど)。コンパクトさを選ぶか、オリジナルの迫力を選ぶか。ちなみに、ケルズの書自体は、ダブリン大学トリニティ・カレッジのサイトでも全部見られる。まずはこちらをご覧のうえ、お気に召したらこのどちらでもいいから手に取って深入りしてみてください。オンライン版は、ちょっとくすんだ感じだけれど、岩波版は非常に明るい図版でずっと見やすい。奇書が好きな方は是非どうぞ。

これでやっと、『アヴィニョン五重奏』を読み終えられるかは、次回以降のお楽しみ。ではまた。

吾妻ひでお、代謝、ベーシック・インカム

連休直前の「新・山形月報!」が取り上げるラインナップは、次の通りです。吾妻ひでお『ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド』復刊ドットコム)、アンドレアス・ワグナー『進化の謎を数学で解く』文藝春秋)、グレゴリー・チャイティン『ダーウィンを数学で証明する』早川書房)、原田泰『ベーシック・インカム』中公新書)、野口旭『世界は危機を克服する』東洋経済新報社)と若田部昌澄『ネオアベノミクスの論点』PHP新書)などなど。コミックから経済書まで、気になるものをチェックしてみてください!



年度末がやっと終わった……という間もなく新年度で部署が異動になり、かなりバタバタが続いてはおります。そんな中、息抜きとして買ったのが『ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド』復刊ドットコム)。吾妻ひでおのマンガを買ったのは何年ぶりかな。大学以来だから、もう30年か(遠い目)。買った時は、単なるノスタルジーの対象でしかないだろうと思ってはいた。でも実際に手元に届いたのを読んで見ると、あまり古びていないのは驚きだった。

ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド

ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド

本書『ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド』は、かつてきわめて入手困難な同人誌に収められたものとか、連載のボツになったのを集めたもので、作品の多くは1980年代に書かれている。描かれている内容の一部は元ネタを思い出すのに苦労するほどではあるけれど、でも全体のテーマや絵柄などは、あまり違和感がない。たとえば、いま和田慎二スケバン刑事』とか『超少女明日香』あたりのマンガを読むと、いささか時代がかった感じはある。この本は、そういう感じがしないのだ。

それは特に描かれている女の子のスタイルとかファッションなどに感じられる。当時、女の子はロングスカートが流行で、うちの妹なんかも校則違反覚悟でスカートの折り返しを伸ばしたりしていたけれど、吾妻ひでおは当時から膝上ミニで徹底していた。またロリコン系の嗜好も、その後のトレンドをほぼ先取りしたものとなっている。その意味で、かつての吾妻ひでおはいまにして思えば先駆的だったのだな、というのが本書を読んで改めて感じたこと。

むろん、本書はやっぱりマニア向けの落ち穂拾いではあるので、吾妻ひでおを読んだことのない人にこれをいきなり薦めるわけにはいかない。何を薦めるのがいいのかなあ。『チョコレート・デリンジャー』青林工藝舎)あたりかな。最近の本当に歪んだ妄想にまみれたお下劣なロリマンガに比べると、ずっとお上品なのでぬるいと思われるんだろうか。だけど、なんかチャンスがあれば、若い人の間でもっとリバイバルされてもよい存在じゃないかとは思う。

で、今月読んだ本で一番おもしろかったのは、アンドレアス・ワグナー『進化の謎を数学で解く』文藝春秋)。しばらく前にグレゴリー・チャイティン『ダーウィンを数学で証明する』早川書房)を読んだけれど、題名とはうらはらに、証明できているとは思えなかった。DNAがある種のプログラミング言語的なもので、そこからいろんな組み合 わせが可能であり、というのはわかる。でも、ぼくがちゃんと読めていない部分もあるんだろうけれど、そこでの主張の基本は、DNAはある種の万能チューリングマシンとして解釈できるので、無限の時間と無限の組み合わせがあれば、いずれ何でもできます、というのにすぎないのでは? それでは進化論を証明したとはいえない気がして、いま一つ納得できなかったのだ。

進化の謎を数学で解く

進化の謎を数学で解く

この『進化の謎を数学で解く』は、そんな疑問点にきちんと応えてくれるものだ。カバーしている範囲は実に広範なので簡単にまとめきれないんだけれど、基本的な疑問としては、生物の生体維持のための各種複雑な相互依存が、偶然のみで生じているとは考えにくいということ。進化論への反論として、こんな複雑な生物が、偶然に起こる突然変異の積み重ねだけでできたとは考えられない、という主張がある。これに対して進化論の支持者は、それが十分に考えられることを示してきたんだが、でもやはり細かいレベルで見ると、単純にランダムな偶然だけで説明するにはつらい部分が多々ある。では、いったいどうやってそれが実現されたのか?

『進化の謎を数学で解く』が 出す答えは、それが実は単純にランダムな偶然ではない、というもの。といっても、何かそれを導く神様の意志があります、なんて話ではない。まず、ある機能 を果たせる遺伝子型や表現型は、実は生物に1つしかないわけではない。その機能とかなり似た選択肢は実は大量に存在しているのだ。これでその機能へたどり着く確率は大いに高まる。

そして著者は、生命にとって重要なのは代謝なんだ、という。その代謝を実現するための遺伝子の組み合わせは、「遺伝子型ネットワーク」によって意味あるもの同士が結ばれているというか、系統化されている。だから突然変異とかも完全にランダム、というわけではない。すでに存在する表現形をもとにして実現可能な次の進歩というのは限られているわけだ。著者はコンピュータのシミュレーションで、これを示している。

この二つの組み合わせによって、突然変異でそのときに本当に必要とされている表現形が生まれる可能性は飛躍的に高まる。これにより、必要とされている突然変異が生まれて、進化によりますます複雑な生物が生まれる確率も大幅に改善される!

これだけでも十分におもしろいんだけれど、本書は最後にこの生物の進化を人間の技術革新と結びつける。生物進化、さまざまな代謝系の発見と組み合わせは、イノベーションであるというわけ。そして人間の技術においても、イノベーションはまったくの偶然のように見えて、まったくの偶然で生じるのではない。いまある技術に重ねて、あるいはその組み合わせで次の進歩がある。だからこそ、人間の歴史を見ると、なんだかあまりにできすぎたタイミングで次の技術革新が起こっている(ように見える)ことがたくさんある。

著者は、ひょっとしたらそれが脳の働きで実装されてるんじゃないかとまで言う。脳も、ネットワークを探るような形で次の有益な組み合わせを探索し続けているんじゃないか? もうここまでくると、完全な憶測の世界だけれど、アイデアとして実に刺戟的。そして、この議論を踏まえるなら、人類の将来について、少し希望が持てるようになるかも。いまの技術は行き詰まりを見せていて、もう新しいものが出てこない、という考え方がある。そして経済成長は、長期的には技術革新が原動力だけれど、そんなに都合よく次の技術革新が起こるんだろうか、という悲観的な声も多い。だけれど、本書の考え方は、それほど悲観しなくてもいいかも、という見方をうながすものでもある。もちろん……進化がローカルピークに入り込んで、行き詰まる例だってたくさんあるので、将来がすべてバラ 色ってことにもならないんだけれど。

ただ警告しておくと、いろいろ大風呂敷な本なので、流し読みして理解できる本ではない。これは著者の書き方もあって、少々比喩がすべっているところや脱線気味のところも多いし、自分がいかにこの理屈を発見したかの物語もたくさん出てくる。でも、がんばって理解しようと努力するだけの価値はあります。

さて、経済の話がちょっと出たところで、最後に経済の話を。まずいまや日銀の審議委員になってしまった原田泰の『ベーシック・インカム』中公新書)。生活保護とか企業福祉とかやめて、生きてるすべての人に一定額を支給する、ベーシック・インカム制度のすすめだ。これはちょっと前に政党がマニフェストに盛り込むなどしてよく取りざたされていたアイデアだけれど、最近あまり耳にすることがなかった。でも、日本の現状で、とにかく生活の最低限の安心を確保するのは、雇用面でも、子作りでも、きわめて重要なことだ。いま、多くの福祉は(社員に対しては)企業が提供しているけれど、それが企業にとっても負担になっているし、また就職できていない人はそれだけでものすごいハンデになる。さらに正規・非正規の格差も生じてしまう。それらが日本経済の足を 引っ張っている!

ベーシック・インカム - 国家は貧困問題を解決できるか (中公新書)

ベーシック・インカム - 国家は貧困問題を解決できるか (中公新書)

 そ して現状では、企業の福祉と公共の福祉とが重複してややこしくなる。それに比べると、ベーシック・インカムはシンプルなのでお役人の変な裁量の余地もないからコストもかからない。さらに公平感もあるし、憲法でいう最低限の生活を本当に直接的に保証するものだし、いまの複雑な仕組みよりずっといいじゃない か、という話。

でも、そんなお金が日本の財政にあるのか? ある、と原田は試算する。実はそんなにかからない。3-4兆円ほど。日本の予算からすればそれほどではない。その他、いろいろ考えられる批判に対しても、きわめて簡潔に解説されている。中公新書の中でも異様に薄いので、読みやすいし、非常に勉強になります。

ちなみに、このベーシック・インカムについては、井上智洋が「機械が人間の知性を超える日をどのように迎えるべきか?—AIとBI」 (『シノドス』、2014.12.16) なる小文でかなりぶっとんだことを論じていておもしろい。いまベーシック・インカムに反対する人って、就職して稼ぎもあって、それが自分の実力によるものだと確信している人が多い。生活できないのは怠けてるからだ、それに黙ってカネをくれてやるのは許せん、というわけ。でももうすぐ機械が賢くなって、人間なんかどんどん役立たずになる。そのとき、人間であるというだけでお金がもらえるベーシック・インカムの仕組みをまじめに考えるべきでは、という話。原田の問題意識とはかなりちがうけれど、ベーシック・インカムの発想自体、いろいろ使いでのあるものとして今後広まりそうな気はする。

最後に、野口旭『世界は危機を克服する』東洋経済新報社)と若田部昌澄『ネオアベノミクスの論点』PHP 新書)。これはどちらも、いまのアベノミクス/大規模金融緩和を支持しつつ、これから消費税率引き上げの悪影響を克服するよう、もう一段金融緩和を奨めろ と主張する本。副題は「ケインズ主義2.0」と銘打たれている野口旭の本は、非常に大部で、これまでの詳しいふりかえりから現在の金融政策&財政出動というポリシーミックスをケインズ主義2.0と位置づけて論じたもの。ちなみに「ケインズ主義1.0」は、戦後の財政出動重視のケインズ政策ね。分厚いけれどわかりやすいので、基礎から勉強したい人はお読みください。

若田部昌澄の『ネオアベノミクスの論点』は、クルーグマンが帯を書いているのでびっくりしたけれど、どうも英語版も出るらしく、それを読んだコメントのようだ。クルーグマンが日本語で新書を読んだわけではないんですねー。こちらも、アベノミクスが最初はよかったが、消費税率引き上げでそのよい影響をご破算にしたので、初心にかえってもう一度金融緩和をやらねば、という本。

この2冊、リフレ派のぼくが読むと「そうそう、いやあ、みんな言ってることですよねー、その通り」で終わってしまう。ぼくから見れば、本当に当たり前のことしか書いていないように思えてしまうので、ほめるにも苦労するんだけれど、でも非常にまとまりのよい本です。いい加減、リフレ政策も世間的に十分理解されたと思いたいけれど、実際はまだまだ「ハイパーインフレが日本を襲う」とか口走る人も多いので、こうした啓蒙的な本を是非お読みいただければ幸い。

ではまた、ゴールデンウィーク明けにでも。

欠乏状態・予防原則・ただしイケメンに限る

今回の「新・山形月報!」は、話題の翻訳書をどーんと取り上げます。センディル・ムッライナタン、エルダー・シャフィール『いつも「時間がない」あなたに』早川書房)、キャス・サンスティー『恐怖の法則』勁草書房)、ダニエル・S・ハマーメッシュ『美貌格差』東洋経済新報社)などなど。新しい年度を前に読む本を、ぜひ見つけてください!



はい、みなさん、年度末です。仕事は終わりましたか? いつもの年なら、ぼくは年度末に縛られるようなプロジェクトはほとんどないので、のほほんとしていられるのだけれど、今年はなぜか年度いっぱいの仕事がたくさん。それでも昔は、「3月50日」とか称して来年度にずれこむのもアリだったけれど、最近はかっちり年度末には納品できていないとダメという厳しい状況になってきたので、なんだかひどいことになっています。それでもやっと終わりが見えてきた今日 この頃。

こうして時間と締め切りに追われていつもあたふたしているという状況は、ぼくたちの多くが経験することだ。そんなあなたにお薦めなのが、センディル・ムッライナタン&エルダー・シャフィール『いつも「時間がない」あなたに』早川書房)。……というのは必ずしもウソではないけれど、本当とも言いがたい。というのもこれは、題名を見て想像されるような時間管理術の本ではないからだ。

いつも「時間がない」あなたに 欠乏の行動経済学 (早川書房)

いつも「時間がない」あなたに:欠乏の行動経済学

いや、ぼくもこれが時間管理術の本だと思ったんだけどね。帯でGoogleエリック・シュミットが惹句を書いているので、「この方法でワタシはバリバリ仕事をこなしてます」といったノリの本だと思ったのだ。でも、これは時間ではなく、「欠乏」というもの全般に関する本だ。ここで扱うのは、時間、お金、その他すべての欠乏に共通する話だ。欠乏は、人の処理能力を低下させてしまう、と本書では論じられている。やらなくてはいけないことがたくさんあると、あれもこれもでいっぱいいっぱい。もちろん、締め切り間際だと集中力が高まるのも事実。でも、それは他のことが見えなくなることでもある。

お金が欠乏している貧乏人も、まったく同じ。お金が足りず、目先の小銭でやりくりするしかなく、おかげでかなりクリエイティブなこともやるけれど、結果としてあれを見落とし、これも忘れ、いまのうちに返しておくべきツケの支払を先送りにし……。それがまた後でやりくりの自転車操業につながり、そして何かちょっと想定外のことが起きれば完全に破綻する。これは、ダイエットに失敗する構図もまったく同じ。

本書はそうした欠乏のもたらす心の変化を、各種の研究成果をもとに描き出す。もちろん、個別のエピソードはすでに知っているものも多いだろう。でも、それをこうして欠乏というキーワードのもとにまとめてもらうと、新しい見方が出て来る。すばらしい。すばらしいけど……じゃあどうすればいいの?

この本は、ちゃんとそれに対する答えも持っている。欠乏状態に陥ってあたふたしないようにしよう。まだ余裕があるときに、いずれやらねばならないことをきちんと片づけておけ、というのがとりあえずの処方箋ではある。お金も、あるときに必要な支払いを終えておくこと。ダイエットも、日頃から間食しないようにしよう。そうすると、後で楽になる! うん、そのとおり。そのとおりなんだが—。

それができてりゃ苦労しねえよ、というのがほとんどの読者の心の叫びじゃないか、とは思う。著者たちは、特に最後のあたりで人間の処理能力に基づく各種の施策があるのでは、と述べる。これはうまく考えると希望があるかもしれない。お金では、かつてアビジット・V・バナジーエスター・デュフロ『貧乏人の経済学』みすず書房)で、いろいろ例があがっていたように、各種の天引きとか強制預金とか、デフォルトは全員加入として、やめたい人だけ申告してオプトアウトする保険とか、処理能力に負担をかけないような形で余裕のあるときに各種の支払や積み立てができるような仕組みがある。時間とかでも、そういう施策があるのかも しれない。

同時に、本書で指摘されているように、心の処理能力が欠乏にさらされないよう、ちゃんと休んで喰え、というのも重要なポイントではある。これはロイ・バウマイスター『WILLPOWER 意志力の科学』(インターシフト)なんかも読んでほしいところ。

次の本も、行動経済学的な知見を使った本ではある。キャス・サンスティー『恐怖の法則』勁草書房)。これはとてもいい本。人は恐怖にかられると愚かなことをしてしまう。飛行機事故があると、みんな旅行をキャンセルしたりする。遺伝子組み換え作物についても、悪影響は何一つ示されていないのに嫌ってみたりする。テロの危険があると言われたら、とんでもない人権侵害や弾圧にも平気で賛成してしまう。この本は、どうやってそれに対処すればいいかを考えた本。

恐怖の法則: 予防原則を超えて

恐怖の法則: 予防原則を超えて

キャス・サンスティーンの他の本と同じく、きわめて論理的である一方で、司法も行政も経験している彼らしく、実務的にその知見はどう使えるのか、という点についても非常に明解だ。本書では、まず「予防原則」が恐怖による無意味な弾圧の口実として使われている点を指摘する。予防原則とは、「念のため」「万が一を考えて」の名の下に行われる各種の施策。先日どこかの信用金庫で、名前にイスラムと入っている団体が口座開設を拒否されたとき、「万が一テロに使われるとアレだから」というのが信用金庫の言い分だったけれど、その手のやつも予防原則だ。根拠もなく証拠もないけれど、その人が不安だからという理由だけでそうしたへんな規制が行われる。これは農薬とか放射線とかでもそうだ。

これに対し、費用便益に基づいてすべてを考えるやり方もある。基本的にサンスティーンは、これに賛成だけれど、でも万能ではないことも指摘する。そのうえで、行動経済学的な知見をもとに、著者はリバタリアンパターナリズムが有効だろうと述べる。これは上でも述べた、デフォルトは全員加入でやめるのは自由とするような、ちょっとお節介な面もある各種の施策を進めるスタンス。たとえば、人は有益な保険に対しても、「自由に入りなさい」と言うと面倒くさがって だれも加入しない。でも全員強制加入させた後で「抜けるのは自由だよ」と伝えると、これまた面倒くさがってやめない。そういう形で、人を有益なほうに動かす方法論があるのだ、というのが主張。

そうは言いつつ、最終的には裁判所が自由を守る役割を果たせ、と著者は述べる。恐怖に基づく変な予防原則の濫用と、民主主義を詐称する数の暴力による自由侵害に対しては、裁判所が防波堤になって、きちんとした手続きを要求しろ、と。地味な論点を非常にていねいに述べた本で、華やかさには欠けるんだけれど、でも重要な論点。解説も非常にていねいで明解なので、こういう分野に関心のある人は是非。

さて今回は、この手の社会科学っぽい本ばかりで恐縮なんだけど、ダニエル・S・ハマーメッシュ『美貌格差』東洋経済新報社)は、非常におもしろかった。これはもう題名通りの本。美男美女はなにかと得をすることを示した本だ。著者はそれをまじめに研究した学者。

美貌格差―生まれつき不平等の経済学

美貌格差: 生まれつき不平等の経済学

この本の議論が経済学ではどのジャンルに属するのだろうかなんてことが、ぼくのまわりでは議論になっている。医療経済学っぽいところもあるし、格差論的なところもある。でも、労働経済学あたりが、いちばん妥当かな。美男美女の基準というのは、人それぞれとは言うものの、やはり多少の客観性はある。おおむね世間の多くの人に美男/美女と言われる人はいる。それが就職でも給料でも伴侶捜しでも、とにかく各種の差につながる。生涯年収で、2700万円も差が出る、という本書が示す結果をどこまで真に受けるかはアレだが、でも確実に差がある。驚いたことに、女性より男性のほうが容姿で待遇にかなりの差が出て来る。そして、整形や化粧品といった人を美しくするはずの各種の方策は……実は費用対効果で見ると、あまり成果をあげない。生まれつきの美醜にはかなわない。

さてここまで触れたような話だけだと、やはり最近出たマリナ・アドシェイド『セックスと恋愛の経済学』(東 洋経済新報社)のように、単なる興味深いエピソード集で終わってしまう(いやこちらもおもしろいんだけどね)。でも、この『美貌格差』はここからさらに議論を展開する。こういう生得的な格差があるんなら弱者に対して、補助金とか身障者手当とか出して、社会的に保護すべきじゃないの? 他の各種の生得的な欠 点や障害は支援が受けられるのに、なぜブスやブサイクは保護されないの? こんなふうに著者は冗談めかしつつも、大まじめに読者に問いかける。

なぜでしょうかねぇ。2ちゃんねるなどでは、しばしば「最近はXX系男子が人気」「いま、●●なファッションがモテる」などといった記事に対して、「※ただしイケメンに限る」と自虐的なコメントがよくつけられているけれど、あれもまあ一面の真実ではあるわけだ。

(2020.05.25 付記 その後、この研究については追試してみたら、そんな美貌プレミアムみたいなものはない、という結果が出たという報道も出てきた。イケメンや美女はまちがいなくお得、と断言できるだけの材料は、経験則的にはともかく、学問的にはまだ決着がついていないらしい)

ということで……何か今回紹介した本をうまくまとめるオチを考えようとしたけれど、ちょっとまだ年度末の仕事が片付かなくて頭がまわらない! ムライナタン&シャフィールの言う通り、欠乏にさらされるといろいろ弊害が出るようで。次回は、おそらくもっと余裕をもって書評が書けると思うし、社会科学系以外も 取り上げられるはずなんだけど……ではまた。

ピケティ・右傾化・夜

今回の「新・山形月報!」は、まず話題の『21世紀の資本』みすず書房)と関連する『トマ・ピケティの新・資本論』日経BP社)と、ガブリエル・ズックマン『失われた国家の富』NTT出版)をご紹介。そして、三浦瑠麗『日本に絶望している人のための政治入門』(文春新書)、ロジャー・イーカーチ『失われた夜の歴史』(インターシフト)をレビューします!



ピケティ人気は、ご本尊の来日を経て少しは落ち着いたものの、まだまだ衰える気配はなくて、いろんな自称「ビジネス」「経済」雑誌(という書き方をするのは、ぼくはそのほとんどがまともな意味でビジネスになんか役立つと思ってないし、経済に関しては胸を張ってバカを曝しているものばかりだと思っているからなんだけど)の特集も続いている。

多少はましなものもあれば、腹がたつものもあり、自分が寄稿したりしたものについてはブログであれこれレビューしたりしているけれど、もちろんとても全部なんか見てられない。とはいえ、やっぱり現時点で最も衝撃的だったのは『プレジデント』2015年3月16日号の「世界初:お金に困らないピケティ実践講座」なる特集。いやあ、こいつはすごい。

  • [タイプ診断]あなたはお金が貯まる「r型」か、お金が逃げる「g型」か
  • ピケティセオリーを職場に応用:時間半分、100倍稼ぐ「r型」仕事術
  • ここで大差! 人生が好転する「r型人間」の時間習慣:オンとオフを分けないr型、イライラしやすく落ち込みがちなg型

などなど……唖然。昔はこういう特集は『ビッグトゥモロウ』の独壇場で、『プレジデント』は「戦国武将に学ぶ乱世ビジネスマンの叡智」とかその手のが売りだったんだけど、最近は『プレジデント』も実学志向なんですねー。しかしここまで厚顔きわまる恥ずかしい特集は、かえって読みたくなっちまいます。ピケティが見たら卒倒するか爆笑するか、興味あるところ。

でも、こういうおふざけや軽薄な扱いにとどまらず、だんだんよい影響も出てきている。格差という問題について、そもそも認識が高まったのはいいことだ。そして、だんだんピケティがらみの好著も登場するようになっている。

一つは、もちろんピケティ本人の『トマ・ピケティの新・資本論』日経BP社)。ピケティがフランスの新聞に連載した記事をまとめたものだ。難点は、時事コラムでフランスのローカルネタがあまりに多いこと。これは新聞コラムだからやむを得ない。ただ、本書が廉価版『21世紀の資本』みすず書房)ではないことは、きちんと理解しておく必要がある。そして、系統だった理論展開が行われる性質の本でもない。

トマ・ピケティの新・資本論

トマ・ピケティの新・資本論

その一方で、短いしそれぞれの課題について、ピケティがどういうアプローチで議論を行っているかという視点は非常に明解。『21世紀の資本』は大部で、かなり細かい話まで詳しく述べるので、ときどき考え方や視点を見失いがちになる。その点こちらは、その論点はとてもすっぱり明解だ。そして、『21世紀の資本』をざっとでも見た人なら、「あ、これはあの論点か」とか「あそこの記述はここが発端なのか」といった発見も結構ある。

その意味で、個人的には『21世紀の資本』の 副読本として読んでもらうのがいちばんいいんじゃないかとは思う。でも単独でも十分楽しめるはずだし、何よりずっと気楽に読めるのは大きなポイント。個人 的には、中央銀行がもっと金融緩和しろ、EUはインフレ誘導しろ、FRBの金融緩和にケチつけるな、といった各種コラムがおもしろかった。日本にきたときにアベノミクスについては、かなり両論併記っぽい煮え切らない言い方をしていたけれど、基本的な立場としては特に金融緩和部分やインフレ目標には好意的なはずだというのはここからもうかがえる。

でも、ピケティ自身の本もさることながら、『21世紀の資本』のベースとなった各種論文を共同研究している人々の本も出しやすくなったらしいのは、もっとありがたい影響じゃないかな。その代表格がガブリエル・ズックマン『失われた国家の富』NTT出版)。本書は『21世紀の資本』で強く推進されていた、タックスヘイブン(脱税支援地域)の規制と国際累進資本税の構想を打ち出した本となる。

本書で挙がっているタックスヘイブンの範囲はかなり広い。スイスやカリブ海英仏海峡だけでなく、シンガポールや香港もタックスヘイブンに含まれる。こうした世界のタックスヘイブンの総本山はスイスだ。最近はカリブ海も強いよね、と思っていたら、なんとそうした場所でもシンガポールでも、スイス系銀行の出先がほとんどの顧客を獲得してるんだって。

本書はスイスが脱税支援地として台頭してきた歴史(もちろん、両世界大戦が大きい)を簡潔に述べ、現在行われている各種のタックスヘイブン対策がいかにダメかをまとめてから、実効性ある手段の提案に移る。タックスヘイブン諸国に対して、ものすごい関税をかけろ、というのだ。あんたらのせいでうちの税収は減った、だからその分を関税として徴収するよ、といえばいいのだ、と。多くのタックスヘイブンは、貿易に多くを頼っている。そこを締め上げれば絶対に泣きが入ると。それ以外にも提案は出てくる。たとえば、多国籍企業への課税とか。でも、この懲罰的な関税による対応が最大のものだ。うーむ。ピケティのグローバル累進資本税でもかなり非現実的という批判がきたけれど、これはどうだろう。こういう税の目的外使用にも等しいやり方というのは……。

ともあれ、どうなっているのかよくわからなかったタックスヘイブンを1冊で示した内容は貴重だ。日本でも『ゴミ投資家のためのビッグバン入門』メディアワークス)なんかを皮切りに、部分的には見えてきた面もあったけれど、その全貌は未知数だった。それをこうして明らかにしてくれるのは実に勉強になります。あと、歴史的な面もわかる。スイスの銀行が栄えたのはテンプル騎士団の隠し財産のおかげじゃなかったんですね! たいへんに短いし、わかりやすいので是非ご一読を。巻末の解説だけ読んでも役にたちます。

お次はピケティからちょっと離れて(でも無関係ではない)、今回の一押し。三浦瑠麗『日本に絶望している人のための政治入門』(文春新書)。これはすばらしい。かつてこの著者の『シビリアンの戦争』岩波書店)を朝日新聞の書評で絶賛して以来、その仕事ぶりはノーチェックだった。本書はおもにこの著者のブログをまとめたものだとか。不満から述べよう。それぞれの文章がいつ書かれたものな のか、明記されていないこと。「今回の選挙は~」みたいな記述は、いま読めば昨年 (2014年) 末のやつだろうと見当はつくけれど、3年たったら意味不明になるぞ。そんなに長く売る気はないのが透けて見えてがっかりする面はある。だって5年はその価値を保つ本だと思うから。

日本に絶望している人のための政治入門 (文春新書)

日本に絶望している人のための政治入門 (文春新書)

個々の文章は、いまの日本の政治状況について実に明解かつストレートな分析と提言になっている。そしてその背景には、イデオロギー的に保守にもリベラルにもというべきか、右にも左にも偏らないきわめてまっとうな立場がある。たぶんそれゆえにどっちからも嫌われるだろうけど。

たとえば、そのバランスのとれた立場は、現在の日本の「右傾化」についての見方にもあらわれる。この国の「右傾化」は、世界的な保守や右派の立場を見れば穏健きわまりないこと、そもそもその「右傾化」はむしろ左派/リベラル派の政党やマスコミや知識人が弱者カードを振りかざしすぎた反動であること、かれらがちょっとしたことを針小棒大に騒ぎ立て、靖国でもなんでも踏み絵を強制するような真似をするからこそ、国民の多くはかえってそれに辟易し、その反対に流れているのだということ。著者の議論の中心には、そうした政治的な極論の中にいる、一般の日本国民の判断に対する強い信頼がある。人々は、意識の高い(←侮蔑表現です)左派の人たちが上から目線で憂慮しているほど右傾化などしておらず(そして意識の高い憂国の士たちが嘆くほど愛国心を失ってもおらず)、ちゃんとそれなりのバランスのとれた見方や行動をしている、という基本的な信頼がある。たぶん多くの政治的な議論は、この信頼がないから上からの押し付けにばかり期待する独裁者待望論みたいなものに堕す。本書にはそうした部分はない。

そしてマスコミなどで「弱者」がかえって傍若無人言論弾圧をしているように見えるからこそ、それが保守派にも「弱者」としてふるまう口実を与え、お互いが弱者カードを切る……。このへんな状況が、現在の日本の政治だと三浦は見る。でもそれはあまりに後ろ向きだし、今の各種問題を解決するにはもっと明解な理念は必要になる。それは日本国内のみならず、国際的な政治問題の解決にあたっても重要なのだ、と。経済重視、自由重視、といった基本的な理念を持ち、ポ ジティブなビジョンを提示できるかが今後の日本の政治(与党も野党も)のあり方を左右するのだ、という。ちなみに、ピケティとちょっと関係するのは、これからの野党の結束点として格差の問題が挙げられているから。そう、世間的にもこういった気運があるからピケティに関心も集まるんだよね。

その視点から、日韓関係とか中国とか、沖縄基地問題とか、日米関係とか、時事的な問題への視点がきわめてストレートに繰り出されるのは感動もの。へんな逃げ口上もうたず、その一方でリアリストを気取ったニヒリズムもなく、イデオロギー的な既定路線に陥ることもなく次々に議論が展開され、しかもそれが奇をてらわず本当に素直で直球どまんなかの話ばかりなのには驚くばかりだ。そしてエリート的な抽象論にもならず、日本国民のある種のバランス感覚も十分に信頼し たうえで空理空論に陥らない現実的な議論につなげている。

ネット上で、馬鹿なネトウヨと硬直的なネトサヨの罵りあいにうんざりし、「朝生」などテレビの場でも声がでかいやつの政治の議論に絶望しているあなた、是非ともお読みください。右も左も、やることはある。できることはある。無論、ぼくとて、本書のすべての主張に賛成するわけじゃない。中国の軍事的な野望を甘く見過ぎてないか、とかね。でも世間の議論を見るなかでいつの間にか陥っている、歪んだ二者択一の政治論争から抜けだすにあたり、本書はきわめて有益な助けとなる。とにかく読んで。前回池内恵『「イスラーム国」の衝撃』に続き、文春新書の大ヒットだと思う。

さて、最後はちょっと毛色を変えてロジャー・イーカーチ『失われた夜の歴史』(インターシフト)。これはいいねえ。夜が、ガス灯や電気が登場する以前はどんな存在だったか。これを文化人類学っぽい視点でまとめた本、とでも言おうかな。すごく意外なことばかり書いてあるわけではない。闇は光に対する魔として恐れられ、犯罪の温床であり、一方では人々が集う場でもあり、睦み合う場であり、孤独と内省の場でもあった。本書は夜のもつ様々な側面を、社会、思想、小説、その他あらゆる史料を使って描き出す。描かれているのはヨーロッパだけだ。そしてすごい分析があるわけではない。それでも、多方面から夜が描き出されるうちに、そこに夜そのもののような分厚い重みが感じられるようになってくるのは おもしろい。

そして、もちろん結構厚い本だし、意外な部分もそこそこある。たとえば、中世や近世のヨーロッパ人は、一晩中ぐっすり寝たりはしなかったんだそうな。夜中に一度、1時間ほど目を覚ましていて、2回寝たそうだ。人工照明がない世界では、どうも人も動物もそういう寝方をするんだって。うちの赤ん坊が夜泣きするのも、その名残なのかなあ。そして、最後の章はもちろん人工照明だ。もはやかつてのような夜は、多くの人には存在しない。著者はそれについて、格別非難がましいことも言わない。でも、たぶん本書を通読した人は、単なる寝る時間としか思っていなかった夜が持っていた豊かさにちょっと感動することだろう。そして寝る前に一瞬だけ、電灯により失われた闇に思いをはせることになるかもしれない。