Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

呉智英・マイコン・デジタル庁

今回の月報は、封建主義者・呉智英の新刊『バカに唾をかけろ』を論じ、次にコンピュータ・インターネットに関連する、鈴木哲哉『ザイログZ80伝説』、秋田純一『揚げて炙ってわかるコンピュータのしくみ』、村井純・竹中直純『DX時代に考える シン・インターネット』を評します!



キューバから戻って参りましたよ。実質3週間の出張なんだけれど、到着時点でキューバでの隔離が1週間、さらに日本に戻ってから自主隔離含めて2週間。ヘタをすると隔離されていた期間のほうが、実動期間より長いという……。

自主隔離が終わった8月になってからも、キューバ情勢は相変わらず落ち着かなくて、6月初頭にはコロナの新規感染者一日1500人程度だったのが、8月に入ってから8000人台にまで激増。それに加えて物不足や停電への不満もあって7月11日に発生した大規模デモは、政権としては一大事件だ。苦しくても一致団結して頑張っている政府と国民という体面は、もはや維持できなくなってしまった。デモが全国でほぼ同時多発的に起きたのはネットによって組織されたからだということで、まず即座に全国的にインターネット遮断が行われ、そのうえで関係者がどんどん拘束された。さらに政権は自分たちのこれまでの不手際を認めるより、これがアメリカの反キューバ工作によるものと断定するスタンスをとって、さらに国内の締め付けを強化している模様。

面倒な話だけど、これが単なるキューバ政府の被害妄想だと言えればいいんだが、実はアメリカはずっと、開発援助機関のUSAID(アメリカ合衆国国際開発庁)を使って、キューバの「民主化支援」なるものをやっている。実質的な反キューバ政府工作で、それが今回のデモとまったく無関係なはずもない。さらにバイデン政権は、ここでうまくアメと鞭を使い分けてキューバ政府と交渉して自分たちの望むほうに事態を動かせばいいものを、やたらに態度を硬化させる声明を連発。ちょうどいま、アフガニスタンからの米軍撤退が大失態となっているけれど、アメリカは即座にアフガニスタンへの送金は容認することにした。なのに、キューバに対しては相変わらず差し止めのまま。いやあ、今後どうなってしまうことか。ちなみに今回のキューバ旅行についてまとめて読みたい方は、こちらの『公研』の旅行記をどうぞ

さて、遅ればせながらキューバに持っていった本の残っていたものを紹介しよう。呉智英『バカに唾をかけろ』小学館新書)。とはいえ中身はボリス・ヴィアンと関係なく、どこかに連載された時事エッセイの集まり。中身は相変わらずの呉智英。各種時事問題での、浅はかな建前論を揶揄し、見栄張りだけの知ったかぶりな物言いを嘲笑する。芸術家やその擁護者が何やら清廉潔白なことを言ってみたりPCな物言いをしてみたりするのに対して、芸術が持っていた反体制的な意味合い、良識へのアンチテーゼとしての意義を説いてみせる、といった具合。

バカに唾をかけろ (小学館新書 く 6-2)

バカに唾をかけろ

本当に「相変わらず」で、ぼくが大学生の頃に愛読していた呉智英と、内容も書きぶりもまったく変わっていない。そして、その主張はどれもしごくごもっともではある。ただ……いまのぼくには、こうした物言いがいささか軽薄に見えるのも事実。確かに芸術やロックは反体制的な部分はある。盗んだバイクで走り出すといった歌に対して、「それは犯罪です」とわざわざ言うのは野暮だしバカだ。その一方で、ロックや芸術が反体制だとうそぶくこと自体が、いまやすでに決まり文句になっている。それを改めて言いつのること自体が、真面目くさった批判の物言いと同じくらい恥ずかしい。芸術もいまや懐古趣味的に産業に取り込まれ、以前のような批判力をすでに持っていない。それをかつてと同じような扱いで世間の通俗的な良識批判に使われても、鼻白むというか、揚げ足取りにしか感じられない部分はどうしてもあるのだ。

たぶん呉智英はそれを承知の上で、かつての芸風にこだわっている面もあるんだろうとは思う。その頑固ぶりは立派。そして、その物言いに対する印象が変わった原因は、上に述べた芸術とか、彼の扱う対象の位置づけの変化にも増して、読み手であるぼくの変化のせいでもある。呉智英には本当にいろんなことを教わったように思う。橋本治に教わったのと同じ意味で。この両者のインパクトの低下が、世間のせいなのか、あるいは単にぼくが老いたせいなのかは、まあ自分では判断がつきにくい部分はある。おそらくは両方なんだろう。

そしておそらく、ぼくもそろそろ、この呉智英の変わらなさを見て我が身を振り返る必要もあるんだろう。ぼくも過去数十年、文体も主張も考え方も、そんなに変わっていないつもりではある。そしてぼくに対して、同じような印象を抱いている人はいるはず。かつては山形を評価していたけれど、最近はもうダメだとか転向したとかいう人がツイッターなんかにときどき現れる。自分と、社会と、読者との関係みたいなのは、たぶん書き手としては少しくらい意識する必要があるんだろうか? あるいはそんなのをそもそも気にすること自体が、衰えた証拠なのか?

この呉智英の本を読んで、そんなことを考えないでもない。そういう個人的な感傷とは別に、時事ネタコラム集はその時事ネタが風化すると、すぐにコラムとしても風化してしまう傾向があって、この本もその落とし穴から逃れられてはいないのが残念ではある。が、たぶん今ならまだ賞味期限は切れていないはず。

これでキューバに持っていった本の在庫(前回前々回参照)が尽きて、ちょっと年寄り気分になったところで帰国し、2週間の自主隔離。自宅でやってもいいんだが、それだと子供が学校に行けなくなるので、わざわざ部屋を借りましたよ。そこで読んだのが、鈴木哲哉『ザイログZ80伝説』(ラトルズ)。

ザイログZ80伝説(カラー版)

ザイログZ80伝説

Z80と聞いてわかるというだけで、老いぼれマイコン野郎だというのがバレる。かつて1980年代のマイコンブームの中心にあった8ビットのマイクロプロセッサだ。そしてこのZ80とそれを作ったザイログ社の興亡は、まさにそのマイコン時代の様々なベンチャー企業のかけひきと技術進歩、製造技術とのきわめて微妙なからみあいの結果だった。本書は、それを実にマニアックに解き明かし、そして各種の文献的な技術を実証的に確認すべく、Z80のワンボードマイコンまで作り上げてしまっている。すごい。

Z80が最初に登場したときには、高校生のぼくはその技術的な先進性に驚愕し、インテルなんかこれでオワコンと思ったけれど、単純にそういう話でもなかったようだ。そしてザイログ社が天下をとれなかったのは、8ビット時代から16ビットに移るときに出てきたZ8000の歩留まりが悪すぎたせいだ、と聞いていたけれど、そうでもなかったようだねー。まあこの説明も含め、半分くらいは、年寄りの昔話としか思えないだろうけれど、でも技術、経済、人間模様、そして国際的な半導体競争、その他ありとあらゆるものがからみあった、ITハイテク産業の黎明期の物語として是非是非。いまのハイテクベンチャーや起業ブームにも通じるものが必 ずある。

同じくコンピュータネタでは、しばらく前に買っていた秋田純一『揚げて炙ってわかるコンピュータのしくみ』技術評論社)。これは題名にある通り、半導体を分析するために基盤を油で揚げてLSIを取り外し、その中身のシリコンを見るために調理用バーナーで炙るという、台所でできる電子解析の本だ。そう聞くと、ずいぶんニッチな本に思えるかもしれない。ぼくも最初に手に取ったときにはそう思っていた。まあ、ニッチなのはまちがいないんだが、でも実際にはずっと間口の広い本だ。コンピュータのきわめて基礎の部分、それが動く仕組みについて、トランジスタなどの半導体の話からCPUの構成、各種プログラムや通信プロトコルの仕組み、さらに同じ回路をコンピュータで実装するのと電子回路で実装する差の説明まで、本当に上から下まで解説してしまうという、わずか160ページの本とは思えない中身の濃さだ。

かつてぼくが翻訳を手伝ったバニー・ファン『ハードウェア・ハッカー』技術評論社)と、かなり似た感触ではあるけれど、あれほどマニアックではない。個別の部分の説明は基礎的なレベルにとどまるので、すれっからしのマニアには物足りないかもしれないけれど、コンピュータを本当に初めてさわり始めた人が、全体的なイメージをつかむには実におあつらえ向き。コンピュータやITについて総合的な視点を得たい人は是非!そういうぼくは、まだ基盤を揚げるところまでは自分でやっていないのだけれど。いつか……と思いつつ、やりたいことがどんどん溜まる一方だなあ。

で、同じくコンピュータ/IT系の話として、9月に入って、デジタル庁なるものが生まれた。これがいったい何をするところなのか、まだぼくも含めて多くの人は具体的なイメージを持っていないし、そのトップに伊藤穣一が就任するのしないのという騒ぎなどもあって、なんか怪しげなイメージだけが先行した感じも ある。

DX時代に考える シン・インターネット (インターナショナル新書)

DX時代に考える シン・インターネット

その創設の背後で暗躍していた (というべきかな) 村井純が、デジタル庁にこめた思いや希望を明確に語ったのが、村井純&竹中直純『DX時代に考えるシン・インターネット』集英社インターナショナル新書)。竹中直純が知り合いだったので献本してもらったんだけれど、題名の軽薄な感じと、この二人の対談で昔話をする本らしいという話を聞いていたので、しばらくは読まずに放置してあった。が、まったくのかんちがい。これからネットは何を目指すべきか、どんなことが可能なのか、それを実現するにあたってデジタル庁が何をすべきなのか—それがきわめて明確に、楽観的に語られているのがこの本だ。

行政面での可能性、ビジネス面での可能性、それを支えるためのインフラがどうあるべきか? 対談は通常、話が雑になってしまうのが欠点だけれど、本書ではそれがとてもいい形で出ている。それぞれの可能性については、あれはどうする、これはどうする、行動追跡のプライバシー問題はどうなのか、とかいろいろ揚げ足は取れる。でも、まずは可能性を考えよう。そして、できない理由より、できることを考えてそれを実現するための方法を考えよう。対談/放談形式になっていることが、その楽観的な希望の面を前面に打ち出すのに大きく貢献している。

そうした本はしばしば、実現性を無視した技術をまったくわかっていない人びとのおとぎ話に堕してしまう。「いやあ、ネットってそういうものじゃないから」と言いたくなるのが常だ。でも本書では著者二人とも、技術的な知見と実力では余人の追随を許さない。彼らは当然ながら、自分たちの語っている見通しの持つ技術的な課題なんか百も承知だし、その点ではまったく危なげがなくて安心。でも、その課題に取り組むこと自体が、彼らの—そしてインターネットの—可能性を広げる活動にもなるというのも、彼らは十分に知っているし、本書はまさにそれを考え、伝えるための本でもある。

あらゆる技術はそうだけれど、インターネットも、草創期から、大風呂敷を広げる時期がやってきて、そこで様々な山師や詐欺師も暗躍する。その後、現実的なところに落ち着き、ビジネス化する中でメッキもはげ、素人の手すさびやアイデア一発で勝てる部分は次第に減り、資本と動員力を持つ大企業独占の構図も生まれてくる。その中で、ついつい今ある各種の技術的、サービス的な枠組みの中だけで、あれがダメ、これはおしまい、もう何の希望もないよ、もうネットは大企業と国家監視の道具と、衆愚ポピュリズムのおもちゃに成り下がったよ、と悲観してみせたくもなる。

でも— というより、だからこそいま、新しいビジョンが必要だ。せっかくできたデジタル庁も、揚げ足を取るのは簡単だけれど、この本に描かれたビジョンのどれか一つでも実現できたら、という希望を持たせてくれる。いまのインターネットに絶望している人にこそ読んで欲しいし、またインターネットが当然のように存在している世界しか知らない、若い人にも見て欲しい。ネットは、勝手に「あった」ものではない。だれかが作ったものだし、今後も変わる余地がいくらでもある。 この先それを発展させるヒントとして是非。

それにしても、日本に帰って外を出歩けるようになると、本当に隔世の感ではある。キューバの経済はぜんぜんダメ、というよりちがう原理で動いている。社会主義は非効率だと言われるけれど、そんなことはない。ただ、何の効率を最大化するかがまったくちがう。彼らにとって最も大事なのは、与えられた資材を最も 低コストで活用することだ。だから生産は、とにかく同じモノを一気に量産する。ニーズにあわせた生産ではない。手持ちの資材の無駄をひたすらなくすだけが 重要だ。

そして輸送も、ニーズはどうでもいい。与えられた輸送機関と燃料で最大量を運ぶという効率が追求される。だからなるべく貨物を大量にためて、一回で運び切るのが最優先となる。このため鮮度を保つ輸送なんていう発想がない。市場には、緑の新鮮な野菜はないも同然で、日持ちのする根菜と黒いバナナばかりとなるし、食材のバリエーションはないも同然。

日本に帰ってくると、店にふつうにキャベツやほうれん草や、その他無数の商品が並んでいるという当たり前のことに、えらく感動するようになる。まったくちがう世界である一方で、その背後には何を最大化したいかという思想のほんのちょっとした差があるだけで、それ以外はほぼ同じだ。ごくわずかな考え方と価値観の変化で世の中が一変してしまう、というのが如実にわかる。その一方で、その価値観のちがいは物質的な制約によって相当部分が左右されている。ガソリンが十分にあれば、いまのキューバみたいな考え方はそもそも生じなかったはず。そんな、物質と意思のからみあいみたいなネタの本も次回紹介できるかどうか。 ではまた。

三体・スペースコロニー・サラ金

「新・山形月報!」、今回もキューバで山形さんが読んだ本についてお届け! 話題の劉慈欣『三体』シリーズ(早川書房)、そしてJ・D・バナール『宇宙、肉体、悪魔 新版』みすず書房)、小島庸平『サラ金の歴史』中公新書)を論じます。



キューバは、隔離が終わって外に出られるようになったんだが……うーん。まずコロナで、あらゆる飲食店はテイクアウトのみ。そうでなくても、アメリカの制裁のおかげで激減していた観光客が、もはやゼロに近い。観光施設などはすべて閉鎖。かつて賑わっていた町は壊滅状態。お金も、送金ルートがアメリカに潰されたおかげでドルが使えなくなり、国際決済もできず、物資不足であらゆる店に長い行列ができて、ちょっとどうしようか、という感じ。

ホント、アメリカのキューバ制裁なんて、メンツだけの話で実利がぜんぜんないし、それに乗じてロシアや中国が入り込んで来てるから、安全保障的にもヤバいんじゃないの、と思うんだけれどねー。ヘタすると60年代のキューバミサイル危機まがいの状況になって、お金も次回くるころには人民元の天下になり、WeChat Payがはびこる事態もあり得なくはないようにさえ思う。いやあ、ちょっとアメリカが態度を緩めたら、下品なヤンキー観光客とドルの洪水がキューバには流れ込み、一気に経済支配できて、いくらでも思い通りに操れるという気がするんだけど。

で、そのキューバに持ってきた本の在庫一掃で、まずは劉慈欣『三体』シリーズ(早川書房)。1巻はずいぶん前に読み終わっていて、ずいぶん間があいてから『三体2:黒暗森林』『三体3:死神永生』を 一気読みいたしました。今さらぼくが言うまでもないことだけれど、すごい。そのすごさは1巻でわかっていたけれど、それだからこそ、2巻はどうしようかな、という気がしてちょっと後回しにしていたのだ。映画などでありがちな、1がヒットしたので無理矢理続編を作って、収拾がつかずにグダグダになるパターンを危惧していたから。 が、まったくの杞憂でした。こう、最後の最後まで、話を畳んでいくという発想が一切ない。どんどん風呂敷を広げ続けて、それがついに全宇宙にまで広がってしまい、そのままビッグバンに突入して話をまとめてしまうという、信じられない力技。ちなみに、いまのは比喩ではないのだ。が、ネタバレを心配するあなた。これを聞いたところで、何もわかりませんからご安心を。

三体Ⅲ 死神永生 上

三体III 死神永生 上

当然ながら、これだけ風呂敷を広げるとつっこみどころは出てくる。たぶんみんな、本シリーズを読むと、あれこれ言いたい衝動にかられると思うんだ。この気持ちは、大学のSF研時代以来だろうか。いまは大学SF研なんて衰退しているらしいけれど、1980年代であれば、たちまちこれをネタに、理論的検証、パロディ、批判、おちゃらけその他、無限にファンジンが立ち上がり、各地で合宿企画が山ほど生まれ、大変な盛り上がりになっていたと思う (中国ではまさにそんな感じらしいね)。 そうねえ、ぼくならおそらく、そもそもこの全体のベースになっている某理論がまちがっていると思うので、そういうケチをつける話をいろいろ書いただろうねえ。

この某理論というのは、マルサス人口論の宇宙版だ。人口は幾何級数的に増えて、いずれその世界の物質を食い尽くす。だから、他の文明を見つけたらすぐぶっ潰せ、というのが宇宙の掟だ。でも、それが前提になって、超先進的な三体文明と、ゴミカス地球文明との間に、一時的にでも野合が成立するなら……他の文明の間にも、似たような休戦協定は当然成立するじゃん。そういうローカルな休戦協定が宇宙にたくさんできるはず。さらに地球がその後、他のA文明と同じく休戦を結んだら、当然地球は「三体文明とA文明だって」と推測できる。それを発展させると、お互いの存在について知っているけれど知らないふりをする、ゲーム理論系の人が好きそうな知識の網の目の均衡ができて、そしていずれそれが破綻したときに、いっせいにお互いの存在がバレ、するとそこで黒暗森林パラダイムの時代が終わって、冷戦的な相互確証破壊システムができあがり……。

こうなると、たぶんまったく『三体』の2や3とはちがう道筋をたどる世界ができあがるはず(それができない理屈みたいなのもあったけれど、智子ちゃんみたいなのがホイホイ使える世界であまり説得力はないと思う)。あるいは、いまのあらゆる先進国で見られる少子化と人口停滞を考えると、このウチュージンたちみたいな大技を駆使しなくても文明を押さえ込むなんてもっと簡単にできそうなもんだ。

それを考えると、SF的な想像力ですらそれを生み出す文明の状況に大きく影響を受けるのだな、というのは改めて真理だと思う。中国も、少子化は急速に進んでいるけれど、人口減少はしばらく先で、いまは良かれ悪しかれ拡張期にある。本書も、それを明らかに背景にしている。SFの黄金期がアメリカ文明の黄金期でもあり、日本で小松左京が生まれたのが日本の高度成長期だったのは偶然ではないし、この『三体』シリーズがいまの中国で生まれたのも、ある種の必然ではある。

そしてそれを考えると、最後の二人が結局は自給自足の農業世界に戻るのも、中国的な想像力のなせる技なのか、あるいはアメリカSFが開拓時代の比喩に戻りたがるようなものなのか。ハードSF的な細部にこだわるのもありだし、社会経済的な含意を考察するのもあり。読む者の想像力をあらゆる面で刺激する大傑作なので、まだ読んでいない人は是非!(ああ、ちなみにいまのを読んでネタバレとか騒ぐ連中にいっておくけれど、こんなの『三体』のネタの百個あるうちの一つをかする程度のものでしかない。これを読んだことで楽しみが減るようなことは一切無いのでご安心を。なんといっても、ビッグバン超えるもんなあ。いやはや。よくまあこんな話を思いつくものだ)

この『三体』と同時にJ・D・バナール『宇宙、肉体、悪魔 新版』みすず書房)をキューバに持ってきたのは、まったくの偶然。でもこれは『三体』的な想像力の出発点とも言うべき理論書。今後、人類はどのように発展するかについて、科学者が簡潔ながらも鋭く考察している本で、1920年代という1世紀以上前の本ながら、古びたところはほとんどない。

宇宙・肉体・悪魔【新版】――理性的精神の敵について

宇宙・肉体・悪魔【新版】—理性的精神の敵について

今後人類は、どんどん人口を増やすので、勢力圏を拡大し、いずれ宇宙に出るしかない。スペースコロニーを作り、肉体を離脱して進化の次の段階に向かわねばならない。それを阻止するのは、いまの世の中のくだらない制度や古くさい価値観(=悪魔)で、そいつを始末するために科学者に全部任せようぜ、というのがその主な主張となる。

いずれ、すべては科学的に計画できるようになる。社会も経済も人の心も進化も。そのためには優生学をバリバリ使って人間をどんどん改良し、社会も市場とかいう出たとこ勝負に任せず、きちんとすべて計画して社会主義を実現し(それが成功しつつあるのは、1920年代現在すでに明らかではないか!)、目標に向けて進まねばならない。さあ、それを邪魔するのは誰だ!

本書の中身については、いまから見ればあれこれ言うのは簡単だ。新たに解説を書いた瀬名秀明が、まさにそれをやってくれている。でも、これが1920年代には、SFとしてではなく、真面目な一般書として提示できた、ということ自体が、ある種のめまいのするような時代環境の差を思わせる。そしてその一方で、ここに描かれた気分というのは、死に絶えていない。

瀬名秀明が批判する多くの部分についても、ぼくはまだまだ復活の余地はあると思っている。計画経済の潜在的な可能性は(特にバカな反資本主義議論が盛り上がるのとほぼ並行して)何度も高まっている(そしてその度に破綻しているけれど、ひょっとすると次回こそは……)肉体の必要性に関しても、ぼくは自動車を運転する人がすぐに車両感覚を獲得することからも分かるとおり、本当の肉体以外に「身体」を人間が実に簡単に広げられることから、実は結構すぐに克服できるんじゃないかと思うんだ、等々。これまた本当に想像力をかきたてられる本で、後の多くの科学者やSFに影響を与えまくったのも当然の名著。そして『三体』の成功の背後には、まさにこのバナール的な世界観、人類観が流れている。

さて今回キューバで読んだ最後の本は、小島庸平『サラ金の歴史』中公新書)。これは文字通りの本で、すでに世評も高いんだけれど、やはりそれだけのことはある。サラ金は、一部では救世主扱いされたマイクロファイナンスの日本版と言っていい。ちなみにマイクロファイナンスサラ金の類縁性については、以下の1999年頃の文章で指摘した通り。オレってえらいね、と我ながら思うぜ。サラ金マイクロファイナンスも、社会のなかでお金が行き渡らないところ、資金が行き渡らないところに細かくお金を流通させる手段だ。そして日本のサラ金は、やっていることはあの偉いグラミン銀行とまったく同じ。そのいずれも社会と経済の中のどういうところに、どういう形でお金を流通させる可能性があるのかを見つける、というフィンテックの最も優れたあらわれなのだ。

サラ金の歴史 消費者金融と日本社会 (中公新書)

サラ金の歴史-消費者金融と日本社会

フィンテックというと、ついついブロックチェーンとか、ネット融資とか、ハイテクなものに目が向きがちだ。でも実際のフィンテックというのは、本書にあるような泥臭いものだったりする。そのときにお金を必要としているのはだれ? その人たちの融資審査を簡素化できるような代替指標は何? サラ金はそれぞれの時代において、上場企業のサラリーマンに注目し、団地住民に注目し、その奥様方に注目する。

それぞれに生じる現金ニーズ、そしてその確実な返済を保証するための手法——本書はそれを日本の社会経済環境の変化と、一方では各種サラ金の創業者たちの出自をからめつつ、見事に描き出す。サラ金の顧客集めのティッシュ配りも、そういうことだったんですね。それが、やがて競争過多の挙げ句に無理が生じ、そして(昨年触れた赤線地帯のように)人々のニーズに応えた社会的に不可欠な存在だったのが、急に悪者扱いされていっせいに石を投げられ、崩壊してゆく様子までを述べている。とにかくおもしろい本なので、むじんくんの歌を歌ったりしたことがある人、サラ金ティッシュに世話になったことがある人なら是非。

次回のヤツを書くのは、もう日本に帰って……まだ隔離中かな? ついさっき、キューバが強制隔離の対象国に入ったというお報せがやってきて、トホホホ。これまでは14日の (ザルと言われる)自主隔離だけでよかったのが、うち3日は強制隔離になってしまったよ。さて、まあどうなりますやら。キューバに持ってきた本もあと数冊残っているし、なんか……と思ったらいきなりキューバでコロナ爆増! さらには国民の不満がたまって全国的な巨大デモ! さあ、無事に帰れますかどうか、次回をお楽しみに!

キューバ・『一般理論』・外国人労働者

大変お久しぶりの「新・山形月報!」。今回はキューバから、大野一訳のケインズ『雇用、金利、通貨の一般理論』を皮切りに、安田峰俊『「低度」外国人材』やカルラ・スアレス『ハバナ零年』などのレビューをお届けします!



おひさしぶり。

これを書いているのは、キューバハバナ。2021年6月のキューバは、一日の新規コロナ件数が一日1500人規模。年頭から下がる気配がないどころか、今月に入って4割くらい増えているありさま……と書いていたら今週に入って2000人台になり、あれよあれよという間に2400人にまで増えてしまった。 ひえー(……と書いたら校正中に3400人台にまで激増!!)。人口比でいえば日本の20倍以上だ。それもあって入国時にはPCR検査、その後6日間の隔離が義務づけられ、ホテルの部屋に缶詰だ。最後にまたPCR検査して、陰性ならば解放されるとのこと。窓からの光景は悪くはないんだけどねー。食事が毎日 同じだし、やっぱ気が滅入る。

居場所のホテル・カプリから見える風景。

で、そのためにいくつか本を持ってきたので、暇にあかせてその話でも書きましょう。まずは今年出たケインズ『雇用、金利、通貨の一般理論』(大野一訳、日経BPラシックス)だ。

これはもちろん、社会科学分野で最も重要な本とすら呼ばれる代物だ。需要と供給が価格でバランスされて、市場の見えざる手があらゆる経済活動に調和と効率性をもたらす、だから失業なんてものは続かないのだ、賃金を下げればいいんだ、という古典派の考え方に対して、そんなことはないぞ、と看破した本となる。 社会全体で考えないとダメだ、というのがケインズの慧眼だった。

賃金を下げたら、労働者が使えるお金が減って、企業の売上も減るから、だれも人を追加で雇おうとなんかしない。雇用の水準は、社会全体の消費と投資の水準で決まる。消費はあまり変わらないけれど、民間の投資はそのときの金利水準よりも儲かりそうな、収益性の高いものしか実施されない。でも金利中央銀行の金融政策で決まってしまう。それは労働市場の需給とはあまり関係ないから、ヘタをすると失業がいつまでも続くことは十分あり得る。だから失業をなくすに は、まず公共が収益性を無視して公共投資をたくさんやり、さらに民間投資が増えるように中央銀行金利を引き下げるべきだ!

雇用、金利、通貨の一般理論 (日経BPクラシックス) (NIKKEI BP CLASSICS)

雇用、金利、通貨の一般理論

すでに全訳も何種類かある。おそらくはご存じのとおり、その一つはぼくがやっている。しかも全訳だけでなく、抄訳、超訳といろいろやってきた。だから一応、コメントできるくらいの知見はある一方で、本書はぼくの訳書の競合でもあるため、なんだテメー、オレの翻訳に文句あるのか、と身構える面もある。そういうバイアスがあることには留意してほしい。

でも、せっかく出たのにあんまり話題にもなっていないようで、ちょっとかわいそう。いろんな訳が出るのは悪いことじゃないし、それでケインズ関連の市場が広がればみんな得をする。そして大野一訳だけあって、あぶなげないとてもよい訳なのだ。塩野谷親子や間宮の訳にくらべれば雲泥の差だ。塩野谷親子の翻訳は、金釘流の学者逐語訳で、人間が読むようにはできていない。さらに岩波文庫の間宮陽介訳は、金釘流を踏襲したうえに、訳者が勝手に誤解してあれこれ原文を改ざんする(そしてそれを訳注で得意げに自慢する)というひどい代物。それに比べて、本書はきちんと普通に読める、とてもストレートでまともな翻訳だ。

もちろん、ぼくは自分の訳のほうがいいとは思う。題名の利子(interest)を「金利」としたのは、途中に出てくる小麦の利子率とかいう話もあるし、利子のままでいいのではないかという気はする。また最後の決めの一節で、既存の利害関係者(interest)を「支配者」とやるのは、ぼくはちょっと行きすぎだと思う(多くの人は誤解しているけれど、ぼくはなるべく原文に近い翻訳をするのだ)。それでも翻訳の裁量の範囲内だし、ケインズの意図としてはこれでもありだろう、とは思う。

ついでに、山形訳でネットにあるものは無料だし、また本になったものはクルーグマンの序文も入れて、ケインズ理論の普及に大いに貢献したIS-LMモデルを提唱したヒックス論文まで入れて、さらには山形の長ったらしい解説までついている。今回の日経BP版は、一般理論の本文だけ。余計なものは入れていない。素っ気ないし、もうちょっとサービスがほしい感じもするけれど、余計なものはいらない、実際の本だけ欲しいというミニマリストもいるだろう。

ということで、山形訳と比べるなら、どっちが良い悪いというレベルではなく、趣味の差の範囲ということになる。アマゾンのレビューでは、大野訳のほうが文章の格調が高いという説もあるけれど、これまた趣味の範囲ではある。ネット上の山形訳を見てみて、どうしてもなじめなければ、こちらを是非どうぞ。何にせよ、ケインズ『一般理論』に一、二回挑戦するのは決して悪いことではない。

それにしても読みながらちょっと思ったのだけれど、ひょっとして十年前にこの訳があったら、ぼくもあんな面倒な本を全訳しようという気にはならなかったかも……いや、内容理解のために抄訳はしただろうし、そうしたらなりゆきで全訳というのも、あり得たかもしれないけれど、あれほど熱心にはやらなかっただろうし、しかかりのまま止まっている他のいろいろな本の仲間入りをしていた可能性も高い。大野訳の企画がいつ始まったかは知らないけれど、タイミングとめぐりあわせというのは、やっぱり大事だよなあ。

で、お次は、しばらく前に読んだ本ながら、キューバにも持ってきてあらためて読み直している安田峰俊『「低度」外国人材』KADOKAWA)。これは読みつつ、恐れいりましたと頭を下げるしかない本だ。このコラムでも何冊かすでに紹介したけれど、安田は中国関連のディープなルポを得意とするライターだ。が、海外ネタの紹介を中心とするライターの多くは、このコロナ禍で国外に出られなくなってしまい、なんだかんだで結構行き詰まっている感じはする。安田も大丈夫かねー、と思っていたら、すごい。やってくれました。

「低度」外国人材 移民焼き畑国家、日本

「低度」外国人材 移民焼き畑国家、日本

この本のテーマは、日本の悪名高い研修生制度などにより、日本に出稼ぎとかでやってきた外国人労働者もどきだ。研修生制度というと、本来は日本に技能研修のために途上国から若者を招聘し、現場で働いてもらうことで技能を身につけてもらうという主旨のもの。だがそれが多くの分野で、奴隷のような低賃金搾取労働力として利用されてしまい、過重労働、セクハラ、労災なしのひどい労働条件でこき使われて、使い捨てられている。その一部は逃げ出して不良化し、ブタを盗んで解体していたという話がニュースになって—。

ぼくもこの話は聞いていて、とにかく研修生制度がダメなだけだと思っていた。取材しても、それ以上の話にはならんのでは、と思っていた。が、甘かった。本書は、そのブタ解体の当事者のところに、きちんと取材にでかける。多くの研修生募集派遣業者にも取材し、実際の研修生たちにも話を聞く。そしてそこから浮 かびあがってくるのは、単純に日本の研修生制度のひどさというだけではすまない話だ。

日本の研修生制度のダメなところは、ベトナムでもちゃんと情報収集能力のある連中はよく知っていて、そこに人は集まらない。そのためやってくるのは、そもそもベトナムでも頭の悪い情弱(情報弱者)だ。そして、それを食い物にしているのは日本の研修生受け入れ先にとどまらない。実はベトナムで彼らを集める業者が、研修生を食い物にすることしか考えない悪質な業者だったりする。そして研修生たちは搾取されまくったあげくに、今度はそのまま自分も悪徳業者の仲間入りをしてだます側にまわり、レベルの低い人材が低いなかで相互に食い物にしあうというどん底スパイラルの構造が次第に明らかにされる。

ベトナムだけではない。中国からの労働者、イスラム系も含め、様々な在日労働者が取材され、そのそれぞれが抱える構造的な問題—日本の問題でもあり当人たちの問題でもある—が浮き彫りにされる。

日本にいながら、これだけの取材ができるとは。その視点の鋭さと行動力には本当に脱帽するしかないし、同じブタ解体という事件ネタでも他のメディアの「取材」がいかに通りいっぺんで一過性のものだったかが、本書を読むと痛感させられる。そして「ネタ」というのが本当にどこにでもあって、何もないように見え るのは己の怠慢のせいでしかないというのも。

そして書き方も見事。特に、涙が出そうになったのが、岐阜県で働かされる中国人女子が、あのアニメ『君の名は。』に出てきた日本はどこにあるんだ、と著者に尋ねる場面。現実とイメージとの絶望的な落差が、一瞬で彼女にも、安田にも、そして読者にも如実につきつけられる残酷さは、できすぎなくらい。必読。

さて、最後はカルラ・スアレス『ハバナ零年』(共和国)だ。キューバに行くので、ふと目についたキューバ小説を買ってそのまま持ってきたんだが……。

ハバナ零年

ハバナ零年

うーん。帯にだまされた。帯の惹句は「カオス理論とフラクタルを用いて電話がキューバで発明された事実を証明せよ!?」だ。おおおおおお。なんかすごいスチームパンクっぽい科学奇想小説なのか、と期待しちゃうでしょう。ところが、そんな証明なんか、ぜんぜん出てこないのね。出てくるのは1993年、かつての最大の同盟国かつ支援国だったソ連東欧圏の崩壊により経済危機に陥ったハバナで展開される、ちょっとしたメロドラマだ。

そのマクガフィンとなっているのが、かつてベルやエジソンより先に電話を発明したとされる、イタリア人発明家メウッチの手稿だ。メウッチは、一時キューバで働いていて、国会議事堂の隣にある国立バレエ劇場の作業をしているときに、電気で音声を送る電話のプロトタイプを開発したのだ、という。その発明を描いたスケッチが残されており、それを手に入れようとして様々な人々があれやこれやの疑心暗鬼のかけひきを繰り広げる……。

これがそのバレエ劇場の中身。いまは閉じています。

でも、その発見のためにカオス理論やフラクタル理論がいささかも使われるわけではない。語り手の女性数学者が使うジュリアという偽名は、フラクタル理論のジュリア集合から採ったものだが、それも小説のなかで何の役にもたたない。

途中でちょっとそれっぽい話は出てくる。ジュリアが、自分たちの状況はカオス理論で説明できるわー、と言う部分。でもそれが何かというと、キューバの状況が冷戦とソ連東欧の崩壊という外的な状況に翻弄されて、先がどうなるか予想がつかない、これはカオス理論だ、というんだけど……。いや、先がわからないというだけでカオス理論というのはあまりに安易では? ついでに、国の状況が社会に影響を与えてそれが自分に影響を与えて云々という、どんどん細かくなる複雑な相互関係があるからフラクタルねー、という。フラクタルってそういうことじゃないでしょー。

と、こういう科学的な仕掛けに厳しくなってしまうのは、これを読む直前に劉慈欣『三体』の第二部『黒暗森林』早川書房、上下)を読んでいたせいなので、少しフェアではないな。そして、それを除けば、キューバの社会経済状況が完全にご破算になった時代に、だれも見たことのない実在すらあやしいお話に翻弄されて右往左往する人々の様子を通じた都市小説……とまではいかず、1990年代初頭ハバナの都市文化風俗小説にとどまってはいるけれど、でも人間関係と打算、疑惑、化かし合いが、展開する様子はそこそこおもしろいし、それをメウッチ手稿をめぐるドタバタとうまくから めた作り方も読ませる。

ただ結局、登場人物の右往左往とかけひきを、当時のハバナの社会情勢と結びつけようとはするけれど、でも実はあまりそれが有機的に関係していないのが残念ではある。都市小説ではないというのはそういうこと。呉明益『歩道橋の魔術師』白水社)みたいに、都市の変化が人々の成長と幻滅と人間関係の変化へとからみあい、というようなしかけはない。無理に登場人物の関係を社会情勢とつなげようとはするけれど、実はあんまり関係なくて、当人たちだけの話に留まっているんだよね。

ある意味で、それはキューバ的でもある。いまのキューバドナルド・トランプが最後っ屁で締め上げていった経済制裁がさらに強化され、送金ルートも断たれ、貿易もかなり断たれ、つらい状況ではあるんだが、自分たちの政策のまずさもある。仕事のヘマから果ては遅刻まで制裁のせいにしてきた面はある。それがコロナもあって、もはや先送りできなくなった部分もあり、2020年末に二重通貨制度解消を含む一大経済改革を導入したら、それがまた混乱を招いているという……そのため現在の状況は、『ハバナ零年』で描かれたキューバどん底期に近いと言う人さえいる。

だから、いまは『ハバナ零年ふたたび』ともいうべき状況にあり、おかげでなおさら本書のいささか脳天気な「もう零年は終わって私たちは新しいスタートをきったのよー」みたいな終わり方がピントはずれに見えてくる面もある。が、そこまで小説に要求するのは酷というものだろう。

残念ながらコロナのせいで観光施設は軒並み閉鎖。メウッチの記念碑があるはずのバレエ劇場も、普段はツアーをやっているけれど、いまは中に入れないそうだ。残念。コロナ隔離が終わって外を歩けるようになったら、町の様子もお伝えできるかな。ではまた。

消えゆく色町、移ろう異界

今回は、関根虎洸『遊郭に泊まる』(新潮社)、木村聡『色街百景』彩流社)、藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド』講談社)、本橋信宏『東京最後の異界 鶯谷』(宝島SUGOI文庫)、八木澤高明『青線』集英社文庫)など、日本国内の思わぬ光景が垣間見える本を書評します。



何度か冒頭でキューバの医療の話をして、キューバは高度医療の部分ではあまり大したことはないが、予防医学的な部分は非常にしっかりしていて、それが高齢化にもつながっているという話をした。

で、今回のコロナで、一番重要なのがまさに予防医学の部分だ。手を洗え。さらにロックダウンとか言われるまでもなく、国内ですらガソリンもなくてもともと移動しづらい。ソーシャルディスタンスといったって、不特定多数との接触があるから問題なのであって、大した移動もない状況ではうるさく言うまでもない(とはいえ、劇場とか踊り場とかは閉鎖されているけど)。

そして、それ以上の話となると、いまのところ入院したって、先進国にも治療法はない。一時は呼吸器が云々と騒いでいたけれど、結果的に限定的な効果しかなく、重篤者にも大したことができるわけではない。

その意味では、コロナはキューバも他国と対等以上に対応できる病気だ。ついでにキューバはもともと、外貨稼ぎで世界各国に医療従事者をたくさん派遣する医療外交にいそしんでいる状況なので、予防医学レベルの対応ができる医療従事者は多い。今回も大量に人を外国に派遣している。キューバは日本などのような第二波っぽいものも見られないようだし、うまく収まって、また行けるようになるといいんだけど……。

そうは言ったものの、まあアジアもヨーロッパもだんだん人の往き来が再開される方向に向かいつつあるとはいえ(アメリカは……来年になってもめどがつくかどうか)、まだしばらくかかりそう。だから国内めぐりで気晴らしでも、と思って読んだのが関根虎洸『遊郭に泊まる』(新潮社)。買ったのはしばらく前なんだが、ちょうど最近、バイクを買ったこともあって(免許とってから30年ぶり!)、でかけておもしろそうなところが載っているかと、手にとったもの。

遊廓に泊まる (とんぼの本)

遊廓に泊まる

前者は、かつての遊郭で、いまなお残って旅館として泊まれるところをまとめて紹介した本。そうだなあ、遊郭だからといって、外観も内部の作りもなにか全然ちがうものというわけではない。ほとんどは普通の旅館だ。というより、どちらかといえば貧相気味な旅館というべきか。かつての遊郭はもちろん売春防止法でほぼ完全に廃れ、地域が衰退した結果として建て替えられることもなく残ってしまった感じ。そして旅館という形態もすでに衰退しつつある。ほとんどのところは、いまの代で消えて無くなりそうだ。

その意味で、物理的な建築を楽しむよりは、そこに重ねられた歴史の最後の名残を味わいにでかける、という感じ。その一方で、いまや遊郭だったことが観光的な価値をもたらしている物件も少数ながらあるとのこと。そのうえで、そうした過去を一時は隠さねばならなかった場所の話も取材されていて、歴史の変遷が如実に感じられる。

そして、遊郭にとどまらず、日本中にあった/ある色街を取材して歩いたのが、木村聡『色街百景』彩流社)。手に入りにくいかもしれないけれど電子版は出ているし、また本書のもとになった『赤線跡を歩く』ちくま文庫に入っている。

こちらは、単体の建物よりは売春街という街を取材して歩いた本となっている。1930年に、純粋なプレイガイドとして『全国遊郭案内』という本が出ていて(これも電子版が復刻されている)、そこの記述を中心として木村が全国あちこちを尋ね歩いた結果だ。敗戦後にGHQ遊郭を廃止させたあとで私娼などの蔓延に対処すべく赤線を復活させ、かつての遊郭がそのまま赤線地帯となった地域も多く、その名残がいまだに各地に残されている。

もちろん、もう赤線は存在しない。残された場所は単に再開発に取り残されたというだけの、本当にみすぼらしい状況。その意味で、実際に使われている施設を撮った『遊郭に泊まる』より、はるかに物悲しい一方で、場所によっては伝統的な町並みとして観光化されている場所も多い。ほとんどの人は、そんな歴史を持つ場所だということもまったく気が付かないだろう。

でも著者は、建築や街の作りのちょっとした特徴に残るその痕跡を丁寧に掘り出す。その跡は、ある意味で日本の発展の痕跡でもあり、同時に日本の衰退の痕跡でもある。そうねえ、行ってみたいような気もする一方で、行きたくないような気もする。近くの新宿や品川は見に行ったけれど(すでになくなっているところ も多い)、時間が淀んだような、曰く言い難い気分を残す。

そしてもちろん、そこにからむ歴史の様々な力関係は、朽ち果てた建物をながめているよりはずっと壮絶なものではある。藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド』講談社)は、沖縄の売春街の興亡というべきか、むしろ浮沈の様相をたどる。もともとは米軍基地と米兵たちによる壮絶な性暴力に対する「防波堤」として設けられた売春街。そこで働く人々の様々な事情、その不動産物件を貸す人々の状況。警察の見回りを伝え合う地域ぐるみの警報システムや、客を裏部屋に通す隠し戸、様々な事情から沖縄で働かざるを得ない人々、そこを離れたのにまた戻ってくる人々。そしてその売春街をある意味で利用し、守られてきた人々が、やがてそれを汚いもの扱いして「浄化運動」へと向かう様子、さらには左翼運動やヤクザとのつながり(またはその不在)まで。

沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち (集英社文庫)

沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち

沖縄の売春街は、前の本で扱ったような、一般人が(身勝手な)ノスタルジーに浸るほどの時間が経っていない。そこに関わった人々の記憶も、まだ生々しいのに、いやそれだからこそその痕跡は、浄化運動のおかげでいまや跡形もなく破壊されている。そして実際にその現場にいた人々は、何も言わずに姿を消すしかなく、そのかすかな痕跡だけが証言としてこの本に残される。一方的な断罪でもなく無責任な擁護でもない、ある意味でブローデルが述べていたような、環境全体からの歴史の把握がここにはある。

読後感のよい本では決してない。読んで変なロマンチシズムに浸れるような本でもなく、それこそいまのぼくたちの日常の背後にある影をひしひしと感じさせる重たい本ではある。もちろん、これは沖縄だけの話にとどまらない。ぜひとも多くの人に読んでほしい一冊。

これに対して、本橋信宏『東京最後の異界 鶯谷』(宝島SUGOI文庫)は、上野の隣にあるラブホ・風俗街としても知られる鶯谷について、ちょっとした歴史的な背景、文化的な側面、そしてそこのデリヘルその他で働く人々への取材をまとめた本。『沖縄アンダーグラウンド』とは比べるべくもない、お気楽な本ではある。各種性風俗店の実態をきちんと取材分析するというよりはむしろ、ゆるい風俗案内みたいな本だ。

東京最後の異界 鶯谷 (宝島SUGOI文庫)

東京最後の異界 鶯谷

だけど、取り上げているネタはおもしろくて、赤軍派の塩見元議長とテレクラやおっパブに行った話とか、それに伴うブント派からの批判とかなかなか笑えるんだけれど、でも比較的単発な話で、むしろインタビューされている真由美さんとか陽子さんとかのエロ話の枕みたいな感じ。まあそれは場所としての性格の差もあるんだろう。この地も、おそらくは何か残るわけでもなく、東京の発展の中でだんだん消え去りそうではある。が、どうかな。これからやってくるコロナ不景気で、再開発の勢いが急激に衰えて、あの地域も『色街百景』の後を継ぐような本にいずれ登場することになるのかもしれない。

読み始めたらちょっとおもしろくなって、他の著者の本もいくつか読んでみたけれど、いまの沖縄本と鶯谷本の中間くらい、比較的ニュートラルな印象で読みやすかったのが八木澤高明の本。一応は「合法」だった赤線に対して、公的なお墨付きのない非合法な売春地域が青線。定義からして、きちんとした境界線があるわけではない漠然とした地域ではあるんだけれど、それを様々な情報を元に尋ね歩いて、かろうじて残った関係者たちに話をきいてまわった『青線:売春の記憶を刻む旅』(集英社文庫)、ビジュアル的には『色街遺産を歩く:消えた遊廓・赤線・青線・基地の町(実業之日本社) あたりだろうか。

青線 売春の記憶を刻む旅 (集英社文庫)

八木澤高明『青線:売春の記憶を刻む旅』

いずれも、それぞれの街の社会経済的な背景にも簡単に触れている。『青線』のほうはそのあたりの記述もそこそこ詳しい。『沖縄アンダーグラウンド』ほどの突っ込んだものではないけれど、その分重苦しい印象も薄い……というのがいいのか悪いのかは、読む人次第だろう。藤井が沖縄について描いたのとまったく同じ構図が、進駐軍GHQとの関係で本土でも展開されていたことがよくわかる。『色街遺産を歩く』は写真中心なので説明は簡単、写真の量的には『色街百景』には負けるけれど、そちらにはなかった沖縄の写真などもあるし、全国の概観としていいんじゃないかな。

ビジュアル的には、渡辺豪『遊郭』(新潮社)がいい感じ。こちらはもう少し建築的なディテールも含めきちんと見ているし、すでに廃れた様子と同時に、かつての繁栄を多少なりともうかがわせる部分も。全体に、なんだか白黒写真にAIで着色したような色合いになっているのがちょっとおもしろい。『遊郭に泊まる』と同じ、とんぼの本というシリーズの一冊になっている。この著者の渡辺豪は、遊郭や赤線関連の専門出版社カストリ出版まで作ってしまい、『色街百景』などで資料として使われているような、古い全国の女遊びガイドなんかも大量に復刻してKindle版で出してくれていて、前出の『全国遊郭案内』もその一冊だ。

遊廓 (とんぼの本)

渡辺豪『遊郭(とんぼの本)』

ちなみに前回、取り上げた安田峰俊には、『性と欲望の中国』(文春新書)という本もある。中国をネタにしたアダルト方面のネタではあるけれど、かつて巨大な売春都市でもあった東莞の変化を描く冒頭で、かつてある種の個室サウナ浴場だった建物がいまやそのままホテルと化している様子が描かれる。すごいね。

この本は、安易な性風俗案内みたいな代物ではなくて、中国のダッチワイフ事情(いまや日本を超えつつある)、AIアダルトグッズ、さらに日本のAV女優の受容など、ネタこそアダルトながらずっときちんとしたルポ。もちろんその背後にある政治経済的な条件についてもきちんと考察があって、とてもおもしろい。

そうした政治経済条件は本当に重要で、色街の衰退や変化の方向性も大きく変えてしまう。『色街百景』などに描かれたのは、その地域の後背産業の斜陽化に伴う地域衰退による変化がほとんどだ。中国はむしろ、経済が上向きになってきた結果としての規制強化で生じた変化となる。その物理的な現れ方は、ぼくは明らかに差があると思うんだが、だれか調べてないのかな。

日本は、エロ施設をそのまま残して使うほどの雑駁さはない。バブル時代には、世界中の建築家が日本のラブホをポストモダン的な建築デザイン表現としてもてはやす風潮があったけれど、ほぼ同時に法規制の影響もあって、ラブホ自体も回転ベッドや鏡張りの部屋など、キッチュなおもしろさは減っていった。そしていまや日本のラブホ街もだんだん衰退してきて、特にここ数年はインバウンド需要が高まる中で小綺麗な普通のホテルに変わりつつあったように思う。その意味で さっき挙げた『遊郭に泊まる』に出ている各種施設は、残っていること自体が奇跡みたいなものではあるんだろう。

一方で、このコロナ鎖国でインバウンドどころじゃないし、あてこんで作った各種のホテルはどうなってしまうことやら。頼みの綱の国内旅行ですら、Go Toキャンペーンの混乱でどうなるんだろう。我が家の近くにもつい先日、新しいこぎれいなホテルがオープンしたけれど、大丈夫かな。一方でいまやラブホは結構満員らしいという話もきくし、下手をすると、インバウンド向けがご休憩中心に衣替えというのも、今後どんどん出てくるんじゃないかとすら思う。

さて、どうだろうか。この手の本をいろいろ読み漁る前に考えていた通り、日本各地の色街の名残、あるうちにでかけてみるべきかどうか。全体にさびれているから家族旅行で行くのもためらわれるし、バイクでちょっと一泊とかいう感じかなあ……。

そういえば、まだ業界の噂レベルながら、このコロナ騒ぎで自動車の販売は激減して業界真っ青なんだが、意外なことに欧米ではバイクの売上はずいぶん好調なんだそうな。それもハーレー的なロードバイクは下げていて、これまでも人気を博していたアドベンチャー系(オンロードとオフロードの両方行けるヤツ)やオフロード系が絶好調なんだとか。自粛のおこもりでみんな鬱憤がたまっているせいでは、といっただれでも思いつく説がいろいろ出ていて、そんなのを真に受けるのも馬鹿らしいながら、一方でこの時期に、このぼくもバイクに手を出したし、かの人生相談で有名なフェル山先生もオフロード系に手を出しているし、サンプルが少なすぎるとはいえ案外なにか因果関係はあるのかもしれないね。次回はバイク絡みの本でも触れようか、あるいは少し小説系の話にしようかどうしようか。ではまた。

中国の奥へ、地中海の歴史へ

今回の「新・山形月報!」は、安田峰俊『さいはての中国』『もっとさいはての中国』(ともに小学館新書)や『八九六四』KADOKAWA)を取り上げ、さらにはフェルナン・ブローデルの大著『地中海〈普及版〉』藤原書店、1~5巻)とその関連書籍をまとめて論じます!



前回の冒頭で、キューバのコロナ事情の話をしたんだけれど、せっかくだからキューバの医療についての話もしとこうか。これは人によって絶賛と罵倒に大きく分かれる。だれでも無料であらゆる医療が受けられる、見よ、これぞ命を金で買う資本主義の野蛮を否定した、人民主権社会主義の勝利とほめそやす人もいれば、そんなの単なるアカどものプロパガンダだ、キューバの医療なんて貧相きわまりなく、レベルも低いと吐き捨てる人もいる。で、ときどきネットその他で熾烈なバトルが展開されているんだけど……。

どっちもまちがってはいないのだ。医療は無料だし、明らかに結果は出ていて、おかげで平均寿命がやたらに延び、副作用で逆に少子高齢化に苦しんでいる。その意味で絶賛組は正しい。一方で、病院の医療は、そんなにレベルは高くない。なんといっても、お金も設備もないから。MRICTスキャンだという話にはまるで対応できない。輸入薬の入手もたいへん。その意味で、罵倒組も正しい。

結局、キューバが優れているのは、予防医学予防医学というのは手洗いなど日常衛生の話と、あとは粗食&腹八分目のすすめが相当部分だから、お金がかからない。また簡単な病気なら対応できる。一部の疾病については、独自のバイオ薬なんてのもあるけど、それがどの程度認められているのかは知らない。が、世の中の病気の大半は、それで対応できてしまうのだ。そんなの優れた医療と言えるもんか、という考え方もあるだろうし、平均寿命を見ろや、文句あるかという言い方もあるだろう。そして現場にいくと、過疎地域の医療が追いつかない、医療水準以前に道路や物流が改善しないとまともな医療が提供できない、という具合に、それなりの問題は常につきまとい……。

が、閑話休題。前回、小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社)を取り上げた。香港の安宿ビルに巣食う、買い出しタンザニア人コミュニティの物語だった。ちなみに、あれを読んで、なにか『チョンキンマンションのボスは知っている』『「その日暮らし」の人類学』をけなしていると受け止めた人もいるようなんだが、それはかんちがい。どちらの本も、抜群におもしろいことは請け合い。そこに出ている様々な事例に、こんな生き方があるのか、と驚かない読者はいないはずだ。そして、それを成立させている条件、つまりはその生き様の合理性についても、小川はそれなりに指摘している。

ただぼくには、それが現代日本や先進国の資本主義に対するアンチテーゼとは思えないというだけだ。それはたぶん、合理性と資本主義の関係についての捉え方の問題ではある。ぼくは資本主義が、一般に(悪く)思われているよりはずっと強力で狡猾で柔軟なものだと思っているのだ。そこらへんの話は、ここで書くにはちょっとでかい話になりすぎる。でも、それを考えるうえでも小川の二冊がいろいろ楽しい材料を与えてくれるのはまちがいない。

で、小川が取り上げていたのは、香港にいるタンザニア人コミュニティだけれど、安田峰俊『さいはての中国』(小 学館新書)にも、中国の広州にあるケニアやナイジェリアを中心とした買いだし民たちの、似たようなコミュニティのルポが出ている。こちらは小川のようには深入りせず、通称「リトルアフリカ」にでかけて、そこに暮らすアフリカの人々、それを相手に商売を行う中国人たちの実態と、そしてこの人の流れを支える、中国とアフリカとの様々なつながりをきわめて手際よくまとめている。

さいはての中国(小学館新書)

さいはての中国

広州にも、あのチョンキンマンションのボスと似たような人々がいて、いろいろ仕切ってるらしいね。ちなみに続編の『もっとさいはての中国』小学館新書)では、アフリカにまで出かけて、アフリカの援助でできた鉄道その他に乗り込み、中国の対アフリカ支援の実像を見せる。中国はやたらにアフリカを 援助漬けにしてバンバン大盤振る舞いをしている。それについて本書では、日本の開発援助を担うJICAの現地事務所にも話を聞いているけど、「まあその国ごとにやり方はいろいろですしぃ」と公式見解が出てくるにとどまっている。まあそう言うしかないよねえ。

実はぼくを含め援助の現場の人々はもうチト不満たらたらではあって、中国の開発援助は高速鉄道とかスタジアムとか高速道路とか空港とか、目立つインフラにばかり手を出して、JICAがやってるみたいな人材育成とか、インフラでも地道な上下水道とかはあまりやらない。一応、世界各国の援助機関は、やることが重複しないように話し合いをするけど、そんなのには一切参加しない。その国の長期計画への配慮とかもほとんどない。かなり商売っ気が露骨で、人権とか環境とか一切無視だし、資金提供から工事から全部中国が持っていってしまうし、決定プロセスや現地とどういう話し合いの結果としてこのプロジェクトが決まったのかについての透明性もない。現場としては、あいつら何やってんだ、という文句の一方で、うるさいこと言われずやりたい放題できてうらやましいなあ、という気分も(ちょっと)あるのだ。

その一方で、日本の援助もいまやインフラ輸出とか言い出して、だんだんこれまでの親切でフェアな援助から、商売っ気をむき出しにしつつあるので、日本も中国をそんなに悪く言えるのか、というのがだんだん出てきていて……。

が、自分のグチはやめて安田本の話に戻ろう。この二冊、中身はアフリカと中国の話だけではない。中国の深圳外れにある、ゲーム廃人日雇い労働者たちのスクツ、内モンゴルにある、不動産投機の果てに誕生したゴーストタウン、プノンペンの空港近くにあるチャイナタウンの取材、慰安婦博物館の状況、その他日本でも好奇心やプロパガンダで少し話題にあがった中国関連の世界各地について、実際に脚を運び、人々に話を聞いて世間的なイメージとはかなりちがう姿を次々に描き出す。習近平の故郷やお膝元の取材とか、カナダの中国フリーメーソンの取材とか、ちょっと常軌を逸した話ばかりで、ホントはそれぞれ本一冊にふくらませてもいいくらいの話だと思う。

そしてやはり、あらゆる動きが中国本土の政治と微妙に(あるいは時に露骨に)絡み合っている様子がきちんと描かれているのは実に見事で、単なるお上りさんの物見遊山ルポとはレベルがまったくちがう。その意味で、ついでで恐縮だけれど、彼の『八九六四』(KADOKAWA) は、あの天安門事件に様々な形で触れた様々な中国人の話を聞いてまとめた稀有な本で、そこに漂う人々の諦念と、希望を完全に失ってはいないながらも絶望との入り混じった雰囲気は比類がない。当時を語る多くの人々にとって、それはすでに終わったことでありながら、終わりきってはいない。でもその残った糸の端を、本人たちも、読んでいるぼくたちも、どうしようもないことを知っている。そのかすかな宙ぶらりんの切れ端を、この本は見事に拾い出して、歴史の出来事が人々(ひいては社会)に残す痕跡の姿をまざまざと見せつけてくれる。

そして、国家安全維持法が成立してしまった現在の香港の状況を横目にこれを読むと、なんとも言えない苦々しい「ああ、前にも通った道だったか」という思いがこみあげてくるのは抑えられない。たぶん今こそこの本が読まれるべきなんだが、それがリアルタイムすぎるだけにどう紹介していいものか、言葉を失ってしまう。年内くらいにはおそらく香港にはまた行けるんじゃないかとは思うけれど、そのときどうなっているだろうか。

八九六四 完全版 「天安門事件」から香港デモへ (角川新書)

安田峰俊『八九六四』

と書いているうちに、ヨーロッパが何やら日本からの来訪者を認める検討を始めたとかいうニュースが入ってきた。2020年7月の現状で言えば、ヨーロッパは「来訪者を認める」なんていう上から目線の話を日本に対して言えるような立場でしたっけ、という気もするけれど、こうしてだんだん世界が回復に向かうのはありがたい。イタリアはすでにヨーロッパ内からは観光客受入をしているそうだけれど、受け入れてもらえても、各国のみなさんは帰れるのかなあ。でも、いいところなんだよね。マルタ島もなんだか受け入れ開始らしいし……ということで登場するのがフェルナン・ブローデル『地中海』藤原書店)。

〈普及版〉 地中海 I 〔環境の役割〕 (〈普及版〉 地中海(全5分冊))

〈普及版〉 地中海 I〔環境の役割〕

これは名著のほまれ高く、ぼくが持っていたのは全5冊のハードカバー、いま出回っている普及版はソフトカバー。確かぼくが大学院時代のバブル期に邦訳が出て大きな話題となり、いつか読もうと思って本棚の肥やしになっていたのを、コロナを機会に読んでみました。

が、ちょっと予想していたものとはちがっていた。『地中海』というから、古代から現代まで到る地中海のすべてが詰まっているのかと思ったら、扱っているのはおおむね15−16世紀だけ。が、まあそれは仕方ない。そしてこれは、実に壮大で美しい本ではある。この本が書かれたのは第二次大戦頃から終戦直後。それまでの歴史学は、ナントカの戦いとか、だれそれ皇帝の暗殺とか、事件や個人だけを重視していた。でも、それでは歴史はわからない。環境全体を考え、その大きな流れの中の小さな浮き沈みとして、事件や個人をとらえようというのがブローデル歴史観だ。

だから本書は、地中海の地形、気候、その中での農業その他のあり方、そしてそれに伴う様々な人やモノの動きから話を始める。しかも、地中海にとどまらず、その後背地としてドイツや北欧にいたるヨーロッパ全域、アフリカ、さらには地中海の覇権国の一つトルコの背景にあるインドやアジアにまで話は広がり、そしてそれが各地の文明の特性と関連しあって歴史の大きなうねりをつくり出す。その部分は、読んでいて実に重厚ですばらしいんだが……

それが4巻になって、急に各地の皇帝だのローマ法王だのの話や、レパントの海戦だの個別の物語になる。それらは、ここまで積み上げてきたいろんな環境やモノの流との関連が見えにくくなり、ほとんど結びつかなくなってしまう。いったい、それまでの大きな唯物的な環境の働きを詳しく見たことで、そうした人や事件の理解はどう変わるんだろうか?

そもそも、歴史をそうした環境的な背景も含めて理解するというのは、現代の一般人の感覚からすると、当たり前に思えてしまう。基本、開発援助で報告書を書くときだって、地理条件や地政学的な立ち位置を含む背景や全体像を一応おさえて、それをもとにこれまでの発展を整理して何が重要なポイントだったかを分析し、そこを踏まえて何が可能か考える……このブローデルの本ほど壮大に分析するのは無理だけれど、考え方としてそんなにちがっているとは思わない。すると、その基本的な考え方以外でブローデルは何をもたらしたのか? それがよくわからないのだ。

さらに……そのブローデルが、『地中海』で扱った15~16世紀を超えて、古代から地中海の歴史をまとめた『地中海の記憶』藤原書店)という本を手に取った。が、これがねえ。実はこの本、ブローデルが1970年頃に脱稿したあとでいろいろ出版社の事情で、しばらくお蔵入りになっていたそうな。そして、その間に炭素年代測定法などを活用した新たな知見が登場し、考古学の常識は一気に塗り替えられた。それを修正する間もなくブローデルは 1985年に他界。だから、書かれている歴史記述の内容はもはや妥当性はない、ブローデルポエムを楽しむだけの本です、と原著序文や訳者解説に明記されているのだ。

……なんだってぇ?

それでも、一応は1998年になって、ブローデル人気を当て込んで(のだろうと思う)原著が出版された。その時にフランスの学者が、註釈で補ってくれているというので、気を取り直して読んでみた。だが、これまたひどい。各節の後に、確かに注がついているんだが、それは相当部分がこんな具合:

現在、この解釈は採られていない。紀元前十二世紀の危機について今後は次の文献を参照のこと。W.A.Ward, M.S.Joukovski,The Crisis Years (.....), 1992. (p.147)

うーん。せめてその本でどんな解釈が採られているのか、ざっと書いといてくれてもいいと思いませんか? いろいろ読まされた挙げ句、自分が読んできたものがとっくに否定されていることだけはわかるけれど、でもいまはどうなってるのかまったくわからないって、全然読んだ甲斐がないじゃないか!

そして、それをさんざん読まされてしまうと、どうしても浮かんでくる疑問がある。古代史その他がすでに一変しているというなら、ぼくが読んだあの長ったらしい『地中海』はどうなの? あの本は、1939年に執筆が開始されて、1949年に初版が出て、邦訳された第2版の原著は1966年だ。あの内容は現在もおおむね妥当とされているのか、それともその後の知見で、結構否定されたりしているのか? そしてついでに、いまの歴史学全体の中でこのブローデルの評価ってどうなってるの? えらかったのか、すでに常識となっていてことさら話題にもならないのか、あまり評価されていないのか、どうなのよ。

この『地中海』は結構売れたらしいので、関連本や解説書とか結構出ている。でも解説書はもうほぼすべて、信仰告白以外の何物でも無い。環境全体に注目したのがすばらしい、繰り返し読むべき名著、あーだこーだ。そういう仲間誉めで閉じてるって、不健全じゃない? 古典だからありがたく読め、と言うだけでは教条主義もいいところじゃないの?

多少なりとも大きな範囲の位置づけをしてくれたのは、『『地中海』を読む』(藤 原書店)に収録された二宮宏之のインタビュー「ブローデルの世界」くらい。ブローデル歴史学は有名だけど、そんな大きな流れとはいえず、後継者の多くは細かい話に流れていってしまった、くらいの感じみたいではある。ウォーラースティン一派がある程度は引き継いで世界システム云々みたいな議論はしているのが一番のメジャーなところ、という話らしいね。でもこれもあまりに短すぎる。だいたいそのウォーラーステイン一派も、変な景気循環へのこだわりとか、ぼくにはあまりピンとこないし。そこらへんもう少しフェアにきちんと評価したものが見たいんだよね。

『地中海』を読む

『地中海』を読む

ついでに、このブローデルが1970年代に書いた、高校生向けの世界史的な背景と現状に関する本を見たんだけれど、岡目八目ながら彼の歴史観が何かシャープな視点につながっている部分はほとんどなかったように思える。すると一体何を評価すべきなのか……。ブローデルは何やら信者が多いから、たぶんこういうことを書くとものすごい罵倒を浴びるんだろうけれどね。同じくフランスのクロード・レヴィ=ストロースも、神話分析のものすごい大家として有名ではあるけれど、実際に読んでみるとずいぶん恣意的(=いい加減で一貫性がない)にしか思えないし、他のだれにも真似できないのでその後に続く人がまったくいないそうな。日本の白川静の漢字研究もそうだと聞くし、世間的に大家と呼ばれる人々にはかなり共通する現象なのかもしれないね。それをその人の傑出した偉大さを示すものだと解釈する人も多いけれど、一方で他の追随を許さない名人芸は、特に学術研究においては一般性のないその人だけの独善な思い込みと紙一重でもあるのだ。

そのブローデルも、地中海に対する思い出の始まりはヴェネツィアだそうで、その個人的な思い出をたっぷり盛り込んだ旅行回想記みたいな『都市ヴェネツィア』岩波書店)は、そこの歴史をふりかえりつつ、いまや没落して観光で自分を切り売りして延命するしかないこの街の現在を少し嘆きつつも、その歴史的な役割を踏まえた将来への展望を思い描く(といっても財団研究所を作って世界の文化首都みたいなものにしようという程度の案ではあるのだけれど)、軽い楽しい本ではある。

そういえばブログのほうにも書いたが、2014年にヴェネツィア建築ビエンナーレのシンポジウムで「地球温暖化はやばいぞ、ヴェネツィアもすぐ沈没して次の建築ビエンナーレは開けない」と主張するアメリカの建築家と大げんかになったんだが、あいつはどうしてるだろうか。コロナ騒ぎの直前には、ヴェネツィアで水位が上がって建物が大浸水というニュースで、ほら海面上昇だ温暖化のせいだ、とさわがれていたんだけれど、いまやそんな話も遠い過去のことに思えてしまう。

ちなみに、このブローデルの本を読むと、ヴェネツィアの水面上昇による建物浸水は昔からこの街の宿痾で、だから一階はすべて使用人部屋で、ご主人さまどもは二階以上に住まうのだ、ということもわかる。温暖化で水没なんか当分しないから、この本で小ネタも仕入れつつ、また早く行けるようになるといいなあ。

チョンキンマンションと現代ニッポン

大宅壮一ノンフィクション賞河合隼雄学芸賞を受賞した、小川さやかの話題作『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社)。今回の「新・山形月報!」は、本書を徹底読解します。重慶大厦から日本へ目を転じると、何が見えてくるのでしょうか……!? さらに著者の前著『「その日暮らし」の人類学』光文社新書)や、阿甘『中国モノマネ工場』日経BP)も紹介します。



コロナ戒厳令のおかげで、本業の開発援助方面でもまったく外国に行けない状態で、ホントどうしようもない。とはいえ、主な対象だったキューバは、コロナ以前からトランプによる「制裁」強化でかなり行きづらく、行ってもガソリンがないので、ハバナ市内で打ち合わせやヒアリングに行くのも一苦労という状況ではあったんだけれど。

キューバも当然コロナの影響は受けているんだが、そんなにひどくはない。もともとガソリン不足で人の市内の往き来もままならない状態だし、伝染も限られているせいもあるんでしょう。それに現地の医療の状況もある。実はちょうど、これを書いているときにキューバのコロナからの回復ロードマップが示されたところ。それでも、すぐにハバナに行ける状態ではないし、他の国も仕事にならない。おかげで、いろいろ本で旅行気分を味わうしかない。

それもあって、長いおやすみの間に外国ネタはいろいろ読んだんだけれど、その中でピカイチにおもしろかった本としてまっ先に挙げたいのが、小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社)。

チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学

チョンキンマンションのボスは知っている:アングラ経済の人類学

香港のチョンキンマンションこと重慶大厦といえば、かつてはバンコクのカオサンロードと並んで、バックパッカーたちが最初の洗礼を受ける定番の拠点だ。ぼくもそうだった。エレベーターが少なすぎるうえに常に満員なので、ガイドブックには危険と書いてあった裏階段ばかり使っていたんだけど、そこにはビンロウジュの汁を吐いた赤い跡が大量にあって、これはまさか血だろうかと何も知らずビビっていたのは、今となってはいい思い出ではある。

そして、そこで出くわすのはベニヤで仕切っただけの、冷房すらない消防なんて度外視の囲いみたいな宿、衛生状態無視の、安いだけのクソまずいレストラン(お腹こわすところまでセット)、隙あらば金勘定をごまかそうとする両替屋、そしてそこらに徘徊するインチキ商品を売りつけようとする物売りの洪水と、何やら巨大な荷物をビニールテープでぐるぐる巻きにしてかついでいる、明らかに現地人ではない人々。

もはや香港もバンコクも豊かになったし、もうあまりセコいバックパッカー相手の小銭稼ぎなんか面倒だし、一方で旅行者もどんどん小金持ちになってぜいたくになったから、この前半で描写した側面は後退し小ぎれいになる一方だ。でもこの最後の怪しい非現地人たちの商売は健在。この本は、そうした非現地人、特にタンザニアからの出稼ぎ/買い出し人たちのコミュニティに入り込んだ文化人類学調査/ルポとなる。

著者の調査対象は、そのタンザニア人たちの顔役みたいなおっさんだ。といっても、顔役というのは半分自称、半分はったり、半分は実力、半分は詐欺、合計がなんか合わないがそういうもの、という感じ。タンザニアから買いだしや出稼ぎにやってきた人、あるいは著者も含め、何かしらこの地でとっかかりの欲しい人は、この人と接触を持つと非常に便利だ。あちこち紹介してもらえるし、飯も食わせてもらったりできる一方で、ときにパシリをやらされたり、ただ働きさせられたり、ぼったくられたりもするし、動画や宴会その他でさんざんダシには使われる。著者はあちこちで、このボスなどにやたらにお金をむしられ、さらにSNSなどでは日本人情婦ということにされてしまっているという。

で、実際に商売上の実力はないわけではない。中古車輸入商売とか、中国のパチモンケータイや宝石商売その他、いろんな経験はあるし、確かに人は知っているし、ちょっとヤバい事態を救ってくれるような力はある。まだ見極めのつかないリスキーな仕事では非常に便利。でもその一方で、商売相手としては全然信用ならないし、安定した取引は絶対できない。本書はしょっぱなから、こういう変な人物=チョンキンマンションのボスの変な人間関係を次々に描きだす。ここらへんのキテレツさは、ちょっと他に比類がない。計算高い有能さと、どうしようもないダメ人間ぶりが見事に共存している。

だが何よりおもしろいのは、この御仁が安定した商売のできない、信用ならない人物なのは、必ずしもだらしない規律の欠けた人物だからというわけじゃないこと。取引のある企業は、おまえがもうちょっと約束通りに打ち合わせくるとかしたら、もっとでかい仕事を任せられるのに、とグチる。でもそれに対してこの御仁は、そう言われてハイハイということを聞いたら奴隷になっちまう、とうそぶく。自分の独立性を守るために、敢えて約束をすっぽかすのだ、と。

本書のおもしろさは、この御仁の考え方も行動も、ぼくたち日本の小市民とはまったくちがうところにある。そしてそのちがいが最もはっきり出ているのが、この部分だと思う。ぼくや本稿の読者のほとんどは、もうちょっとでかい仕事を任せるからカタギになれ、と言われたら、ホイホイ尻尾を振って言うことを聞くだろう。明日からはネクタイを締めて御用聞きにまわり、「オレもいつまでもバカやってられねえからな」と遠い目をしてみせる——青春ドラマのありがちなパターンだ。が、この人物はあえてその奴隷の安定を捨てて、己の自由とプライドを選ぶ。ぼくたちはそれを見て、この人物は、以下のどれかだろうと思う。

1. 単なるバカ
2. 出し惜しみで自分の価値を吊り上げようとする虚勢
3. 単に規律がなくて約束守る根性や気合いがないのに強がってるだけ
4. 短期の我慢で長期の利得を取るだけのこらえ性がない未開人
5. まったく考え方のちがう宇宙人

多くの人にとって、実はこの5つはすべて同じ意味だったりする。そしてもちろん、こんな御仁はいまの日本にはいないよ、とみんな漠然と思っている。そして著者も、そこを狙って本書を書いている。

が……よく考えると、実はこういう人は、日本にだっている。セコいところでは、物書きとか。特に古いタイプの文士様はしばしば、自分がいかに締め切りに遅れたか、なんてことを自慢げに語る。まあこれは、小学生のやる「だれがいちばん長く息を止められるか」みたいなくだらない自慢合戦で、少しちがうかな。でもそれ以上に、たぶんファイナンスの勉強をした人なら、この人が何をしようとしているのか、ピンとくるんじゃないか。この人は基本、オプション価値だけで生きているのだ。

世の中の商売の多くは絶対確実というわけじゃないけれど、だいたい期待値で動く。たとえば年に100万円の仕事を10本受けて、こっちの進捗が遅れたりコロナだったりで一割くらい取りっぱぐれても、年間900万入ってくるから喰っていけるな、という計算だ。

でも、そういう短くコツコツ当てる以外のやり方がある。広く薄くばらまいて、そのどれかがデッカいホームランになる可能性に賭けるやり方だ。オプション価値というのは言わばそういう考え方だ。実際にそれがホームランになるかどうかは、ある意味どうでもいい。というか、そこに白黒がついた瞬間にオプションの価値はゼロとなる。でも、小さいけれどホームランが出る可能性があるなら、それまではそれを完全に捨てる必要もない。手付金だけ払って関係を保っておくほうが得策だったりする。オプションというのは、いわばその手付金だ。

その商売だけの期待値で見れば、このボスの中古車商売も宝石も人材紹介も運び屋も、必ずしもよくはない。でも、どれかでっかく当たる可能性もある。それ以上に、別の何かにつながる可能性もある。世話をした人がたまたまジェフ・ベゾスになるかもしれない。そこに一枚噛んでいたというだけでいろいろいい目に会える可能性もある。その可能性を維持するためにみんなが払う手付金を集めれば、チマチマ真面目に働くよりも割はいいかもしれない。この御仁は、まさにそういう発想をしている。そして、そうしたコネを維持するためには、真面目な昼間の仕事はかえって邪魔かもしれない。

そしてそういう生き方は、実は日本でも結構たくさんある。政界とか芸能界、イベント屋なんかでは「フィクサー」とか言われる人がいる。自分では何も作れない。頭も悪いことも多い。でもいろんなところ、いろんな人に顔がきく。少なくとも、そういうふりをする(8割はウソだ、というのはだんだんわかってくる)。ときどきぼくみたいなヤツにすら、そういう人がすり寄ってきて、ご飯やお酒をおごってくれたりする。そして自分がいかにいろんなところにコネがあり、各種手配ができて、えらい人と知り合いで、みたいなことをやたらに誇示し、そういう人たちといっしょに撮った写真を得意げに見せてくれる。たぶん他所にいったら、いまぼくがいっしょに撮った写真もこうやって使われて「山形さんとは知り合いでー」みたいな話に使われてるんだろうね。

それどころか、日本の大企業ですら、本部長クラス以上の人というのはまさにそれが仕事だ。実際に商品作って品質管理して売って——それは現場の仕事だ。でも上の人は様々な人と会い、コネを作り、次の商売の種を見つけ、何ならお金をあちこちばらまいて変なものも試してみる——それはこのチョンキンマンションのボスがやっていることと決して遠くない。彼のやっていることが異様でおもしろく見えること自体、ある意味で日本企業の衰退の裏返しでもあるのかもしれない。

そしてオプションの価値は、リスクが大きいほど上がる。すでに軌道に乗った商売は、リスクが低い。それは普通の期待値と品質管理でまわせばいい。でも、今後の商売を考えるのはきわめてリスクが高い。チョンキンマンションのボスだって、まさに立場的にリスクの非常に高いところにいて——香港での法的な立場すら必ずしも安泰かわからない——やっていることも決して地道に安全とは言いがたい。だからこそ、ふつうの期待値商売を蹴飛ばしてまで、オプション価値に基づく生き方を選ぶことに合理性がある。

その意味で本書に描かれているものは、実は著者の思っているものとは正反対なのかもしれない。著者はこのボスの生き様をぼくたちの合理性をはずれたものとして、文化人類学的な調査対象にしている。著者はそれをインフォーマル経済と呼び、どうも不合理なものだと見ているように思える。少なくとも、日本のぼくたちが生きているような資本主義社会とは別の価値観で生きているのだととらえている。これは、彼女の前著『「その日暮らし」の人類学』光文社新書) で、かなりはっきり述べられていた視点ではある。

「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済 (光文社新書)

「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済 (光文社新書)

この本で彼女は、サヨクっぽい評論家や軽薄な思想家の思い込みを引用して、いまの先進国の資本主義はとにかく効率だけを追い求めるのだとか、常に多くを生産する必要があるのだとか、常に加速するしかないのだとか言いたがる。そしてそれに反して、効率性をあまり重視しないとか、生産を抑えるとか、あるいは『チョンキンマンションのボスは知っている』で詳しく紹介したアフリカ商人たちの生き様を出してきて、ほらごらん、オルタナティブな生き方があるぞ、別のやり方があるぞ!といった紹介をしている。ありがちな、現代文明批判的な視点ですな。

でもそこに描かれた生き様は、別に経済合理性がないわけじゃない。拙訳のフィリップ・ショート『ポル・ポト』白水社)には、かつてカンボジアで農業の技術指導をした人が感じた絶望が書かれている。その人が農業指導をしたおかげで、反収が倍増し、みんな喜んだ。でも数年して戻ってみると、その地域の人たちは生産量を増やして豊かになってはいなかった。作付面積を半分にして、同じ貧しさに甘んじていた、と。それは間抜けに思えるけれど、一方で当時のジャングルの中では、必要以上の作物を作ったところで、それで買えるものがあるわけでもない。その人々の置かれた経済環境の中では、それは最も合理的な対応ではあったのだ。

この『「その日暮らし」の人類学』で 紹介された話の多くも、そうした環境まで含めて考えると、そんなに変だとは思えなかった。ついでに、お高くとまった哲学者だのサヨクひょーろんかだのの「資本主義とは〜」とか「現代経済とは〜」なんて話は、ほとんどがそうした人々の知見の狭さを示すものでしかないし、真に受けてはいけないと思う。

ちなみに、この『「その日暮らし」の人類学』の中で、阿甘『中国モノマネ工場』日経BP)をネタに紹介されている、中国深圳のかつてのパチもん携帯電話、通称、山塞携帯の事例は実に見事な高速資本主義の実践にしか思えず、小川による紹介の仕方は、ぼくにはずいぶん場違いに感じられた。まあこれはぼくが深圳などに行き過ぎているせいもあるんだろう。この元の本のほうは、変な現代文明批判には陥っておらず、なかなかおもしろい。

中国モノマネ工場

阿甘『中国モノマネ工場』(日経BP)

でもその深圳の山塞携帯文化も、いまは急速に衰退しつつある。その衰退と新しい業態や産業への転換を、ちょっとクサいドラマにしたてた映画『創客兄弟』なんてのが2019年末に公開されている。パチもん携帯などで糊口をしのいでいた、深圳の冴えない若者/おっさん等が、「山塞なんかやめるぞー!」と叫んで独自開発のロボット産業に乗り出す物語。もちろんこれは、中国のプロパガンダではあるんだけれど、その一方で多くの中国人のかなり正直な自負と誇りの表明でもある。高須正和の紹介が雰囲気をよく伝えているのでお読みあれ。彼がちゃんと許可をとったおかげで、予告編はYouTubeでも見られる。その意味でこの山塞携帯文化も、もはや滅びゆく文化というべきものなのか、それともこの映画が主張するように、その精神は別の形で受け継がれると考えるべきなのか……

www.youtube.com

えーと、なんだっけ。そうそう、小川の本で紹介されている様々な生き様は、たぶんその人々の暮らす社会経済環境の中では十分に合理性があるし、おそらくそれはいまの日本経済の中にだって、何らかの形で存在しているのだと思う。『チョンキンマンションのボスは知っている』は、ぼくにとってはむしろ、そうした共通性がだんだん見えてくるところのほうがおもしろかった。同時に、そのボスによるインスタやフェイスブックなどの使い方を見ると、ああいうSNSがぼくたちも含む人々の生活で果たしている役割についても、結構示唆的なものがあるとは思う。

(7/12加筆:ちなみに、これを読んでなにか小川『チョンキンマンションのボス』『「その日暮らし」の人類学』に批判的な見方をしていると受け止めた人もいるようなんだが、それはかんちがい。どちらの本も、抜群におもしろいことは請け合い。そこに出ている様々な事例に、こんな生き方があるのか、と驚かない読者はいないはずだ。そして、それを成立させている条件、つまりはその生き様の合理性についても、小川はそれなりに指摘している。

ただぼくには、それが現代日本や先進国の資本主義に対するアンチテーゼとは思えないというだけだ。それはたぶん、合理性と資本主義の関係についての捉え方の問題ではある。ぼくは資本主義が、一般に(悪く)思われているよりはずっと強力で狡猾で柔軟なものだと思っているのだ。そこらへんの話は、ここで書くにはちょっとでかい話になりすぎる。でも、それを考えるうえでも小川の2冊がいろいろ楽しい材料を与えてくれるのはまちがいない。)

この舞台となる香港は9月18日から行けるらしいけれど、どうなりますやら。中国との関係で、状況もずいぶん変わりそうだと憶測はいろいろ飛び交っているけれど、先はあまり見えない状況だ。その中で、あの重慶大厦やそこに巣食う人々も変化を余儀なくされるだろうけれど……年内くらいにはのぞきにいけるだろうか。

ちなみに、いまや中国本土が行きやすくなり、特にアフリカ人のエレクトロニクス系や家電系の買い出しは深圳や広州、あるいは100円ショップの総本山とすら言われる義烏あたりのほうがでかいらしい。そこらへんの話を紹介したのが……という話は、いい加減長くなってしまったからまた次回にしよう。

ナチスのオカルト研究所と隕石仏像

前回に続いて、今回もナチス関連書籍を徹底レビュー。ミヒャエル・H・カーター『SS先史遺産研究所アーネンエルベ』(ヒカルランド)、浜本隆志『ナチスと隕石仏像』集英社新書)を取り上げます。どちらもSS(親衛隊)のオカルト的な側面に大きく光を当てる本です。



前回の掲載後、少しツイートを漁っていたら、シュペーアの回想記復刊ですばらしい解説を書いた田野大輔が、レニ・リーフェンシュタールを紹介したテレビ番組かなにかについて、「すごい美人の監督」みたいに紹介するの、このご時世でPC的にどうかと思うし、美貌で仕事を獲得したみたいな誤解を招く」 と述べていたのを見つけたんだけれど、うーん、ぼくは彼女が明らかに美人で得をしていたし、それも含め使えるものはなんでも意識的に使ってのし上がった人だから、決して誤解ではないとは思うんだけどなあ。ヒトラーには媚びを売っても相手にされなかったけど、ゲッベルスにはそれが効いたらしいし。

が、閑話休題シュペーア回想記とはまったく関係なく(ないと思う)、今年になってナチス関連で変な本が出ている。ミヒャエル・H・カーター『SS先史遺産研究所アーネンエルベ ナチスのアーリア帝国構想と狂気の学術』(ヒカルランド)だ。

SS先史遺産研究所アーネンエルベ ナチスのアーリア帝国構想と狂気の学術

SS先史遺産研究所アーネンエルベ

アーネンエルベといえばご存じの通り(と読んで、知ったかぶりのためググってみた皆さんは今頃、得体の知れないアニメなどが大量にヒットして悲鳴をあげていることでしょう。大丈夫、元ネタも派生物も、別に知らなくていいから。知らないほうが健全だから。アーネンエルベとか、ハンス・ヘルビガーとか、知ってるほうがヤバいから!)、ナチス親衛隊配下の怪しいオカルト研究所だ。

本書はその歴史を、だれも知りたくないくらい詳しく(なんせ邦訳800ページ超)研究した唯一無二の研究書となる。いやあ、こんな本の邦訳が出るとは思っておりませんでした、というか、これほどまとまった本が出ていることさえ、そもそも知らなかった。

ナチスの魅力は、表向きのすさまじい合理主義と形式へのこだわりみたいなものと同時に、そのすぐ裏面に隠れているドロドロのオカルト耽溺ぶりにもある。ヒトラーナチスの、アーリア民族至上主義だの(ちなみに最近、これをアーリア人の本流ともいうべきインドの人たちが真に受けて、インドでネオナチがはびこっているそうな)、ゲルマン民族の土着宗教だの、UFOだの地球空洞説だのチベットだの超人だのといった荒唐無稽な話への入れ込みかたは、それなりに有名だ。だからこそ、かの『インディ・ジョーンズ』でもナチスが失われた聖櫃(ロスト・アーク)を探し求めて云々なんていうお話が、おバカな冒険活劇の根拠 になる程度にはもっともらしさを持つ。

前回少し触れた拙訳トゥーズ『ナチス 破壊の経済』にも、チョロチョロとナチスの変な世界観や思想の話が出てきて、それが特にその人種政策と結びついた様子は述べられている。ただそれは、かなり散発的で、いろいろ変なやつも紛れ込んでいたという程度の扱いだった。でも本書を読むと、それが全部つながるのだ。

ヴァルター・ダレの変な農本主義ゲルマン民族が農業を軸に大地との結びつきにより栄え、その力を得てきた、というようなおバカ学説)とナチス農業政策や SS定住圏構想とのつながり、地方都市振興策における古代ゲルマン宗教(と称するもの)のつながり、宇宙の星はすべて氷でできていて、その衝突が各種天変地異を引き起こす、というような宇宙氷説(ホントはもっと発狂しているんだが、とてもここではまとめきれない)と反ユダヤ主義とのつながり。

ナチス 破壊の経済 下――1923-1945

ナチスの破壊経済 下

そして最初は、ヒムラーがどこかでかじってくるインチキ学説を、形ばかり研究しているふりをしつつ、上のえらい研究者が多少はまともな仕事もするような、多少はまともな研究所だったアーネンエルベが、次第に完全に取り込まれ、ゲルマン人の起源を証明するための怪しげな遺産収奪と、ユダヤ人を実験台にした人体実験や人種を証明するための怪しげな骨格測定だのに走り、やがては崩壊を迎える様子を、本書は細かく描き出す。

真面目な研究書だから、もちろんぼくがはしゃいでいるみたいなオカルト学説そのものについては、単なるトンデモとして一蹴し、重点はむしろその組織としての力学。組織拡大の中で、考古学や地質学面で自分たちと(学術的にも政治的にも)対立しかねない他の研究所に対する嫌らしい破壊/吸収工作だの、まともな学者がいないのを何とかしようとして各地大学へ手下を送りこみアカデミズムに浸透しようとした手口、そして最後には、拡大しつつ中身のなさがだんだん見透かされて、やがてSSからもバカにされ、自壊する。また、ヒムラーの肝いりで創設運用されていたナチの御用研究機関ではあるので、それが各時期にどんな要請に応えて各種研究を続けたのかもくわしい。人間を低温状態にしてからお風呂に入れて復活させるというトンデモ人体実験は、飛行機での温度低下への対応策だったのか。知らなかった。

とにかく、さっきも書いた通り、唯一無二の本なのでこの方面(ってどの方面だかよくわからない面はあるが)に少しでも興味ある人は是非読んでほしい。ナチスの裏の顔がものすごい迫力で浮かび上がってくること請け合い。税込み9,900円という壮絶な値段で、おいそれと買える本ではないながら、図書館でもなんでも活用してほしい。

ただ……やはりオカルト学説そのものについては軽いのがちょっと残念。あと、地球空洞説はないの?(ないらしい。古代ゲルマン民族を裏付けようとする考古学調査のための洞窟調査が何やら歪んだ模様) チベットも、こんな軽い話なんですか? 著者および監訳者は、こういうおちゃらけたオカルトマニアの関心に、かなり批判的。すいませんねえ。とはいえ、監訳者は口先ではあれこれ言いつつ、一方で ジョジョ談義や『ムー』/『アイアン・スカイ』的な扱いについてもまんざらではない模様。彼のインタビューがこちらに載っていて、本書を読むにあたっても参考になるのでご覧あれ。

ちなみにこの本の出版社は、本書ともう一冊を除いて完全にアチラ方面の御本(飛鳥昭雄とか)やトンデモビリーバー本ばかり出していて、うーん。が、それがこうした良書の出版につながるのであれば……。ついでに、勘違いしてこれを読もうとする人も出てくるかもしれないし。

ただ、やはり無責任な野次馬としては、怪しいオカルト主題のトンデモ話こそが主たる関心。いずれ、このアーネンエルベについても、組織面よりは研究テーマごとに活動をまとめた本とかも読みたい気はする。

その望みを少しかなえてくれるのが、監訳者の解説でも言及されている浜本隆志『ナチスと隕石仏像 SSチベット探検隊とアーリア神話』集英社新書)。ナチス——それもまさにこのアーネンエルベ——が、アーリア民族ルーツの調査のためにチベットに調査団を派遣し、隕石製の「仏像」(下の書影の表紙に載った代物) を持ち帰ってきた、という話を皮切りに、その仏像の正体 (ぼくたちが見れば明らかに仏像ではないよねえ) から、ナチス、特にヒムラーの変な世界観の解説をまとめた本となる。

ナチスチベットネタは、その手の陰謀論の世界だとかなり壮絶なので、そっち方面がたっぷり入ったトンデモな本かと期待——もとい危惧していたけれど、『SS先史遺産研究所アーネンエルベ』も きちんと原書で参照していて、かなりまともな本。アマゾンのレビューでは、そのテーマとなる仏像の正体についてまじめな論争が始まっているのも楽しい。後半はナチスの変なオカルト活動全般の解説になっていて、とても有益。新書で手も出しやすいし、アーネンエルベ本の税込み9900円の価格にビビった人は、 まずこちらから入るとよいかも。

ナチスと隕石仏像 SSチベット探検隊とアーリア神話 (集英社新書)

ナチスと隕石仏像

それにしても、そもそもなんでぼくがアーネンエルベなんてものを知っていたかというと、1982年刊行の『パピエ・コレ』という発狂した雑誌があって、その創刊号のナチズム特集で、わざわざ重要組織として紹介されていたから。トゥーレ協会とかアルターマンスとかレーベンスボルンとか、その他ナチスがらみの ろくでもないものを知っているのも、この雑誌のおかげではある(前にも言ったけど、全然知らなくていいですからね!)。よくまあ1982年にそんなネタ を……。ぼくも、数十年後にそんな話を自分が覚えていたこと自体に驚愕したけれど。

名雑誌パピエ・コレ。「4号で潔くスパッと廃刊する!」と大見得を切りつつ、40年後の今も4号目は未刊。今年こそは……(ないって)。創刊号ナチズム特集は売れたそうで2バージョンある。

(蛇足ながら、この雑誌もシュペーアについては、才能豊かで、自己弁護を一切しなかった、戦後ドイツ復興の父にして、ナチス高官で最も高潔な人物と紹介している。1980年代頭はそれがスタンダードだったんだろうね。)

ついでながら、近年のゲーム/アニメのネタにアーネンエルベを持ち出してきたヤツはだれ? 『ヴァリス』OVA (じゃなくてゲームとコミックか。失敬) になっていたときにもひっくり返ったけれど、日本アニメなどへのこういうオカルトネタの浸透は、それ自体がいずれ研究に値する……ような気がしなくもない。

さすがにナチスの話はこれで打ち止め。本当は、まったく脈絡なしに鶯谷沖縄の風俗地域ルポみたいなのも扱う予定だったけど、これは次回まわし。たぶん重慶大厦の本といっしょにしたほうがおさまりもいいだろうし。ではまた次回!