Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

ナチス軍需相とヒトラーお抱え映画監督の虚実

今回と次回、「新・山形月報!」はナチス関連の書籍を紹介。今回は、アルベルト・シュペーア『ナチス軍需相の証言』(中公文庫、上下)、アダム・トゥーズ『ナチス 破壊の経済』みすず書房、上下)、スティーヴン・バック『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』(清流出版)などを論じています!



これを書いているとき、コロナ戒厳令が解除されて、まずはめでたい。自粛に対する経済的支援が足りないとはいえ、事業系の融資はまあいろいろ出てきたし、さらに10万円のベーシック・インカムが出たのは、もう一桁多くていいんじゃないかとは思うけれど、ないよりマシ。申請のときのマイナンバーカードにはいろいろ言いたいことがあるが、それはまたの機会に。

さて、今回と次回はほとんどナチスづくしになるのでお覚悟を。真面目なのがお望みな方は、今回のシュペーア回想記とリーフェンシュタールの話、そして異常 な話がお好きな方は、次回をご覧あれ。別にいまナチスの話をすべき積極的な理由は何もないんだが、出版時期とぼくが読んだ時期とのちょっとした偶然だ。

で、まずアルベルト・シュペーア『ナチス軍需相の証言』(中公文庫、上下)から。

ナチス軍需相の証言(上)-シュぺーア回想録 (中公文庫)

ナチス軍需相の証言(上)

シュペーアは、多少なりともナチスドイツに興味ある人なら名前くらいは絶対に知っているヒトラーのお抱え建築家で、後に軍需相となって第二次大戦中の兵器生産を仕切った人物。ナチス高官ではあるが死刑を逃れて、戦後もおめおめと生き延びた人物だ。この本は、そのシュペーアが戦後に獄中で書きためて刊行された回想記となる。

もちろん、その大半はナチス政権の内幕暴露となっている。ヒトラーのベルリン改造計画への入れ込み方、要人たちの権力争いと崩壊への道のりの描写はなかなかおもしろく、ナチスに興味ある人なら目を通しておいて損はない。もともと原著刊行直後の1970年に単行本として出たものが、2001年に『第三帝国の神殿にて』(中公文庫BIBLIO、上下)として復刊されつつも、ここしばらく版元品切れだった。それが2020年に入って『ナチス軍需相の証言』として復刊されたわけだ。

そして今回の復刊にあたっては、非常にありがたいボーナスがついている。新たに加えられた「解説」で、彼の「証言」のデタラメさ加減が、きちんと徹底的に説明されていることだ。

実はこの連載をさぼっている間にぼくが関わった翻訳書がいろいろ出て、その一つがアダム・トゥーズ『ナチス 破壊の経済』みすず書房、上下)だった。

ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 上

ナチスは崩壊寸前のドイツ経済を建て直し、アウトバーンを作り、国民ラジオだの国民車フォルクスワーゲンだの民生品も開発する一方、軍事面では戦時中の苦しい時期にも一時は連合国を圧倒するだけの兵器生産を実現し、さらにはメッサーシュミットジェット機だのV2ロケットだの新型戦車だのUボートこと潜水艦だの、新兵器を次々に繰り出して、果ては月の裏や地底にまで秘密基地を作るだけの底力を見せた(一部脚色あり)。だから強制収容所とか壮絶な部分を除けば、実は生産とか経済運営とかの面でかなり優秀だったんじゃないの、というのが印象としてある。そして、シュペーアはその立役者の一人とされている。

が、このトゥーズ本は、実はそれがかなり看板倒れだったことを示す。フォルクスワーゲンは、注文取って金は集めたけど、実際には納車されていないし、そんな安くもなかった。各種の新兵器はせいぜいがプロトタイプ程度で、しかも新規開発は数が稼げず、量産できたのは使えない旧型モデルばかりで、全然ダメ。

アルベルト・シュペーアについても、このトゥーズ本は丸ごと一章割いて、一般のイメージが全部デタラメだというのを示し、この回想記に対しても、お手盛りの我田引水もいいところだ、と罵倒する。

で、翻訳の際の参考資料として、この回想記(旧版『第三帝国の神殿にて』)は手に入れてあり、たまたま最近になってふと初めて通読してみた。いやあ、確かにすごい。他の人はみんな無能で自分が仕切ると一ヶ月で武器の開発も生産もスイスイ進んだ、みたいなすごい話が山ほど出てくる。でもトゥーズの本によれば、それはたいがい前任者がすでに苦労して多方面を調整して実現しかけていた成果を、最後に横取りしただけか、あるいはヒトラーにおねだりして、足りない原材料をまわしてもらっただけ。各種発言も、巧妙に数字をねじまげて自分をよく見せる詐術満載。

そして何より、シュペーアホロコーストとの関わりが問題だ。彼は、ホロコーストのことは知らなかった、無意識に目を背けていたという連帯責任はあるけど、直接は関わっていなかったし知らないよ、と言い続け、それでニュルンベルク裁判も切り抜けている。本書でも、そこらへんのヤバい話になると、なんかすーっと遠い目をして話をそらす。

でも、ナチスの高官が、ナチスの基本テーゼであり、あらゆる政策の根底にあった反ユダヤ主義強制収容所について何も知りませんでした? そんなわけあるかいな。アウシュヴィッツダッハウ強制収容所は、別にソ連のシベリア収容所のように人里離れた場所にあったわけではない。まさにシュペーアの仕切る軍需生産に不可欠な、巨大工業生産拠点の一部だ。それを知らなかった? ばかばかしい。ぼくはトゥーズの本を先に読んでいたから、眉にかなりツバがついていたということもあるんだが、それぬきでも、ちょっと自分をいい子チャンに仕立て上げるのが露骨すぎるほどだと思うんだけど。

だけど、みんなシュペーアの主張を鵜呑みにしている/してきたし、それどころか何やら彼は時代に翻弄された高潔な悲劇のテクノクラート、みたいな印象を抱いている。訳者も、旧版『第三帝国の神殿にて』で解説を書いていた土門周平も、シュペーア礼賛と擁護に終始している。それは必ずしも、彼らの目が節穴だったということではないんだろう。なんとなく好意的な見方をしたいと思っていると、多少のごまかしは目に入らないというだけなんだろう。それでもねえ。

で、それをちょうど読み終えて首を傾げていたときに、復刊のニュースが入ってきた。しかも、新しい解説つき、とのこと。

ナチス軍需相の証言(下)-シュぺーア回想録 (中公文庫)

ナチス軍需相の証言(下)

その新しい田野大輔による解説はすばらしかった。シュペーア神話が、ここ数十年でいかに完全にひっくりかえされ、この回想記も含めたシュペーアのウソとごまかしがどう解体されたかについて、実に詳しく説明されているのだ。

特に感心したのは、なぜそんなごまかしがそもそも可能だったのか、という話。シュペーア自身の立ち回りもさることながら、実は年代記作成者や、この回想記出版で大儲けを狙った出版社の協力により、いろんな資料のつじつまあわせや改変まで行われていたとのこと。本書の中では、ボルマンやゲーリングなどを強突く張りの権力亡者で、美的センスもないのに各地の美術品をガメていたカッペとバカにしているけれど、実は強欲で権力亡者だったという点でシュペーアも壮絶で、美術品をガメるのも自分だってしっかりやっていたこと。いやあ、すごい。

出版社として、その作品を必ずしも絶賛するものでなくても、きちんとフェアな評価を敢えて載せるというのはすばらしい。特にこうした歴史的な文書となればなおさらだ。あえてケチをつけるなら、この解説でも短すぎるから、もっともっと長くして、本文中でもいろいろ突っ込みを入れて欲しかったというくらい。まさにこの本がいま持つ「価値」というのは、そのごまかしの見極めと、そしてなぜそれがまかり通ったのか、という検証の部分にあるんだから。

というわけで、本書を読んだことのない人はもちろん、以前に読んだ人も、この解説だけは必読。

ちなみに、シュペーアはそもそもが建築家というアーティストみたいな立場だったことで、「自分は政治の汚い部分は知らなかったんですよー」という言い逃れがしやすかったという面はまちがいなくあると思うのだ。そういう意味で、彼は似たような立場で似たように戦後まで生き延びた、別の人間とかなり似ている。レニ・リーフェンシュタールヒトラーのお抱え映画作家とも言うべき存在だ。

彼女はナチスプロパガンダ映画を(シュペーアのこけおどし建築とあわせて)実にかっこよく撮ってみせて、ヒトラーに取り入って出世したのはまちがいない人物。でも戦後になると、ワタシは関係ない、何も知らなかった、ヒトラーがワタシの映画を気に入って声をかけてくれただけ、向こうがどうしてもと言うから仕事を受けただけ、映画も素材を最も活かそうとしてあんな形になっただけ、裏のイデオロギーなんか知らないと言い逃れ、痛くもない腹を探られる自分は被害者だと言いつのる。彼女もまた、ものすごく分厚い (上下巻あわせて1400ページ超!) 自伝を書いている。レニ・リーフェンシュタール『回想 20世紀最大のメモワール』(文春文庫、上下)だ。

リーフェンシュタール『回想 20世紀最大のメモワール』。家にあるヤツです。版元品切れの模様

でも、彼女もまたその主張が実は嘘っぱちのごまかしであることが暴かれている。自分は純粋なアーティストだ、お金や名誉にはこだわらないと言いつつ、実は人一倍金と名声への執着が強く、ナチスの活動についても十分に知っていた(虐殺現場に居合わせて顔を歪めている写真まである)。むしろナチスに積極的に自ら売り込みをかけ、映画製作について要人たちに媚びを売り、友人のはずのユダヤ人をこっそり売り渡し、存在を知らないはずの強制収容所でエキストラ役のジプシーを自ら選んだりしていることも明らかになっている。これについては、スティーヴン・バック『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』(清流出版)などに詳しい。

レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実

レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実

むろん、しょせんは映像屋だ。何をやったにせよ、ナチス高官のシュペーアの罪状とは比べものにならない。そしてやたらに元気な人であるのはまちがいなくて、女優デビューから映画作家になり、ヒトラーに見出され、戦後にそれで責められつつも活動を続け、高齢になってからアフリカのヌバ族の写真や水中写真で注目を集め、という実に華々しい経歴の持ち主で、伝記も男性遍歴まで赤裸々に描き、身勝手なわがままアーティストぶり全開。絶版なのは残念……かな。うーん。というのも、これまたとにかくあらゆる面で自己顕示欲の塊のものすごいエゴイストなのは、一読すればわかる。すさまじい分厚さで、その全編にわたってワタシがワタシが、と常に正しく高潔で正義を貫く孤高の存在である自分を押し出してくるので辟易するのだ。

そしてバックの告発本を読むと、表向きはすごく立派な自分のかっこいい姿を演出する一方、自分の都合の悪いことは執拗に潰し、裁判でもなんでも手段を選ばずに相手を黙らせる人物なのがわかり、それを知って読むと読後感は必ずしもよくない。でも知らずに読めば、シュペーアの回想と同じで、いろんな内幕が暴かれる波瀾万丈の物語ではあるのだ。

そして本人が主張したがる、非常に美的センスを持ったアーティストとしてのレニ・リーフェンシュタールというのは、決して嘘ではない。彼女がナチス時代に撮った、オリンピック映画や党大会映画は、プロパガンダ映画だけれど、でもその部分を除けば非常によくできていて、いま見ても悪くない。もちろんプロパガンダ映画で「その部分を除けば」というのが可能なのか、というのこそ、まさに彼女をめぐる論争の元ではあるのだけれど。

そして実際、そうした作品は、純粋な芸術的意図だけを強調する本人の主張とは裏腹に、常にかなり商業的な計算ずくで構築されている。1980年代に彼女がアフリカのヌバ族を撮った『ヌバ』が話題になったのをきっかけに、当時の西武/パルコ系でもてはやされたりしたのも、ナチス映画を撮っていたときとまったく同じ、ある種のあざといながら鋭い感性のおかげだ。それは彼女の回想とかにおけるごまかしや自己プロモーションとも無縁ではない。

そうした彼女のあざとさや弁明のやり方などが、シュペーアとまったく同じパターンだというのは、たぶん注目に値する。それはこの二人の共通性というだけにとどまらず、シュペーア回想記の新解説の最後に田野が書いている通り、まさにドイツ国民が自分の弁明として求めていたものだったからこそ受け入れられた、あるストーリーのパターンなんだろう。自分は自分の狭い範囲についてやっていただけだ、ナチスの蛮行については知らなかった、責任はない、責められるのは心外だ、というわけ。ナチスに関心があるなら、このレニ・リーフェンシュタールの本も一読をお奨めする。

今回はここまで。次回は、ナチス関連で、ずっとぶっ飛んだ本を紹介するので、ご期待あれ。