Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

中国の奥へ、地中海の歴史へ

今回の「新・山形月報!」は、安田峰俊『さいはての中国』『もっとさいはての中国』(ともに小学館新書)や『八九六四』KADOKAWA)を取り上げ、さらにはフェルナン・ブローデルの大著『地中海〈普及版〉』藤原書店、1~5巻)とその関連書籍をまとめて論じます!



前回の冒頭で、キューバのコロナ事情の話をしたんだけれど、せっかくだからキューバの医療についての話もしとこうか。これは人によって絶賛と罵倒に大きく分かれる。だれでも無料であらゆる医療が受けられる、見よ、これぞ命を金で買う資本主義の野蛮を否定した、人民主権社会主義の勝利とほめそやす人もいれば、そんなの単なるアカどものプロパガンダだ、キューバの医療なんて貧相きわまりなく、レベルも低いと吐き捨てる人もいる。で、ときどきネットその他で熾烈なバトルが展開されているんだけど……。

どっちもまちがってはいないのだ。医療は無料だし、明らかに結果は出ていて、おかげで平均寿命がやたらに延び、副作用で逆に少子高齢化に苦しんでいる。その意味で絶賛組は正しい。一方で、病院の医療は、そんなにレベルは高くない。なんといっても、お金も設備もないから。MRICTスキャンだという話にはまるで対応できない。輸入薬の入手もたいへん。その意味で、罵倒組も正しい。

結局、キューバが優れているのは、予防医学予防医学というのは手洗いなど日常衛生の話と、あとは粗食&腹八分目のすすめが相当部分だから、お金がかからない。また簡単な病気なら対応できる。一部の疾病については、独自のバイオ薬なんてのもあるけど、それがどの程度認められているのかは知らない。が、世の中の病気の大半は、それで対応できてしまうのだ。そんなの優れた医療と言えるもんか、という考え方もあるだろうし、平均寿命を見ろや、文句あるかという言い方もあるだろう。そして現場にいくと、過疎地域の医療が追いつかない、医療水準以前に道路や物流が改善しないとまともな医療が提供できない、という具合に、それなりの問題は常につきまとい……。

が、閑話休題。前回、小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社)を取り上げた。香港の安宿ビルに巣食う、買い出しタンザニア人コミュニティの物語だった。ちなみに、あれを読んで、なにか『チョンキンマンションのボスは知っている』『「その日暮らし」の人類学』をけなしていると受け止めた人もいるようなんだが、それはかんちがい。どちらの本も、抜群におもしろいことは請け合い。そこに出ている様々な事例に、こんな生き方があるのか、と驚かない読者はいないはずだ。そして、それを成立させている条件、つまりはその生き様の合理性についても、小川はそれなりに指摘している。

ただぼくには、それが現代日本や先進国の資本主義に対するアンチテーゼとは思えないというだけだ。それはたぶん、合理性と資本主義の関係についての捉え方の問題ではある。ぼくは資本主義が、一般に(悪く)思われているよりはずっと強力で狡猾で柔軟なものだと思っているのだ。そこらへんの話は、ここで書くにはちょっとでかい話になりすぎる。でも、それを考えるうえでも小川の二冊がいろいろ楽しい材料を与えてくれるのはまちがいない。

で、小川が取り上げていたのは、香港にいるタンザニア人コミュニティだけれど、安田峰俊『さいはての中国』(小 学館新書)にも、中国の広州にあるケニアやナイジェリアを中心とした買いだし民たちの、似たようなコミュニティのルポが出ている。こちらは小川のようには深入りせず、通称「リトルアフリカ」にでかけて、そこに暮らすアフリカの人々、それを相手に商売を行う中国人たちの実態と、そしてこの人の流れを支える、中国とアフリカとの様々なつながりをきわめて手際よくまとめている。

さいはての中国(小学館新書)

さいはての中国

広州にも、あのチョンキンマンションのボスと似たような人々がいて、いろいろ仕切ってるらしいね。ちなみに続編の『もっとさいはての中国』小学館新書)では、アフリカにまで出かけて、アフリカの援助でできた鉄道その他に乗り込み、中国の対アフリカ支援の実像を見せる。中国はやたらにアフリカを 援助漬けにしてバンバン大盤振る舞いをしている。それについて本書では、日本の開発援助を担うJICAの現地事務所にも話を聞いているけど、「まあその国ごとにやり方はいろいろですしぃ」と公式見解が出てくるにとどまっている。まあそう言うしかないよねえ。

実はぼくを含め援助の現場の人々はもうチト不満たらたらではあって、中国の開発援助は高速鉄道とかスタジアムとか高速道路とか空港とか、目立つインフラにばかり手を出して、JICAがやってるみたいな人材育成とか、インフラでも地道な上下水道とかはあまりやらない。一応、世界各国の援助機関は、やることが重複しないように話し合いをするけど、そんなのには一切参加しない。その国の長期計画への配慮とかもほとんどない。かなり商売っ気が露骨で、人権とか環境とか一切無視だし、資金提供から工事から全部中国が持っていってしまうし、決定プロセスや現地とどういう話し合いの結果としてこのプロジェクトが決まったのかについての透明性もない。現場としては、あいつら何やってんだ、という文句の一方で、うるさいこと言われずやりたい放題できてうらやましいなあ、という気分も(ちょっと)あるのだ。

その一方で、日本の援助もいまやインフラ輸出とか言い出して、だんだんこれまでの親切でフェアな援助から、商売っ気をむき出しにしつつあるので、日本も中国をそんなに悪く言えるのか、というのがだんだん出てきていて……。

が、自分のグチはやめて安田本の話に戻ろう。この二冊、中身はアフリカと中国の話だけではない。中国の深圳外れにある、ゲーム廃人日雇い労働者たちのスクツ、内モンゴルにある、不動産投機の果てに誕生したゴーストタウン、プノンペンの空港近くにあるチャイナタウンの取材、慰安婦博物館の状況、その他日本でも好奇心やプロパガンダで少し話題にあがった中国関連の世界各地について、実際に脚を運び、人々に話を聞いて世間的なイメージとはかなりちがう姿を次々に描き出す。習近平の故郷やお膝元の取材とか、カナダの中国フリーメーソンの取材とか、ちょっと常軌を逸した話ばかりで、ホントはそれぞれ本一冊にふくらませてもいいくらいの話だと思う。

そしてやはり、あらゆる動きが中国本土の政治と微妙に(あるいは時に露骨に)絡み合っている様子がきちんと描かれているのは実に見事で、単なるお上りさんの物見遊山ルポとはレベルがまったくちがう。その意味で、ついでで恐縮だけれど、彼の『八九六四』(KADOKAWA) は、あの天安門事件に様々な形で触れた様々な中国人の話を聞いてまとめた稀有な本で、そこに漂う人々の諦念と、希望を完全に失ってはいないながらも絶望との入り混じった雰囲気は比類がない。当時を語る多くの人々にとって、それはすでに終わったことでありながら、終わりきってはいない。でもその残った糸の端を、本人たちも、読んでいるぼくたちも、どうしようもないことを知っている。そのかすかな宙ぶらりんの切れ端を、この本は見事に拾い出して、歴史の出来事が人々(ひいては社会)に残す痕跡の姿をまざまざと見せつけてくれる。

そして、国家安全維持法が成立してしまった現在の香港の状況を横目にこれを読むと、なんとも言えない苦々しい「ああ、前にも通った道だったか」という思いがこみあげてくるのは抑えられない。たぶん今こそこの本が読まれるべきなんだが、それがリアルタイムすぎるだけにどう紹介していいものか、言葉を失ってしまう。年内くらいにはおそらく香港にはまた行けるんじゃないかとは思うけれど、そのときどうなっているだろうか。

八九六四 完全版 「天安門事件」から香港デモへ (角川新書)

安田峰俊『八九六四』

と書いているうちに、ヨーロッパが何やら日本からの来訪者を認める検討を始めたとかいうニュースが入ってきた。2020年7月の現状で言えば、ヨーロッパは「来訪者を認める」なんていう上から目線の話を日本に対して言えるような立場でしたっけ、という気もするけれど、こうしてだんだん世界が回復に向かうのはありがたい。イタリアはすでにヨーロッパ内からは観光客受入をしているそうだけれど、受け入れてもらえても、各国のみなさんは帰れるのかなあ。でも、いいところなんだよね。マルタ島もなんだか受け入れ開始らしいし……ということで登場するのがフェルナン・ブローデル『地中海』藤原書店)。

〈普及版〉 地中海 I 〔環境の役割〕 (〈普及版〉 地中海(全5分冊))

〈普及版〉 地中海 I〔環境の役割〕

これは名著のほまれ高く、ぼくが持っていたのは全5冊のハードカバー、いま出回っている普及版はソフトカバー。確かぼくが大学院時代のバブル期に邦訳が出て大きな話題となり、いつか読もうと思って本棚の肥やしになっていたのを、コロナを機会に読んでみました。

が、ちょっと予想していたものとはちがっていた。『地中海』というから、古代から現代まで到る地中海のすべてが詰まっているのかと思ったら、扱っているのはおおむね15−16世紀だけ。が、まあそれは仕方ない。そしてこれは、実に壮大で美しい本ではある。この本が書かれたのは第二次大戦頃から終戦直後。それまでの歴史学は、ナントカの戦いとか、だれそれ皇帝の暗殺とか、事件や個人だけを重視していた。でも、それでは歴史はわからない。環境全体を考え、その大きな流れの中の小さな浮き沈みとして、事件や個人をとらえようというのがブローデル歴史観だ。

だから本書は、地中海の地形、気候、その中での農業その他のあり方、そしてそれに伴う様々な人やモノの動きから話を始める。しかも、地中海にとどまらず、その後背地としてドイツや北欧にいたるヨーロッパ全域、アフリカ、さらには地中海の覇権国の一つトルコの背景にあるインドやアジアにまで話は広がり、そしてそれが各地の文明の特性と関連しあって歴史の大きなうねりをつくり出す。その部分は、読んでいて実に重厚ですばらしいんだが……

それが4巻になって、急に各地の皇帝だのローマ法王だのの話や、レパントの海戦だの個別の物語になる。それらは、ここまで積み上げてきたいろんな環境やモノの流との関連が見えにくくなり、ほとんど結びつかなくなってしまう。いったい、それまでの大きな唯物的な環境の働きを詳しく見たことで、そうした人や事件の理解はどう変わるんだろうか?

そもそも、歴史をそうした環境的な背景も含めて理解するというのは、現代の一般人の感覚からすると、当たり前に思えてしまう。基本、開発援助で報告書を書くときだって、地理条件や地政学的な立ち位置を含む背景や全体像を一応おさえて、それをもとにこれまでの発展を整理して何が重要なポイントだったかを分析し、そこを踏まえて何が可能か考える……このブローデルの本ほど壮大に分析するのは無理だけれど、考え方としてそんなにちがっているとは思わない。すると、その基本的な考え方以外でブローデルは何をもたらしたのか? それがよくわからないのだ。

さらに……そのブローデルが、『地中海』で扱った15~16世紀を超えて、古代から地中海の歴史をまとめた『地中海の記憶』藤原書店)という本を手に取った。が、これがねえ。実はこの本、ブローデルが1970年頃に脱稿したあとでいろいろ出版社の事情で、しばらくお蔵入りになっていたそうな。そして、その間に炭素年代測定法などを活用した新たな知見が登場し、考古学の常識は一気に塗り替えられた。それを修正する間もなくブローデルは 1985年に他界。だから、書かれている歴史記述の内容はもはや妥当性はない、ブローデルポエムを楽しむだけの本です、と原著序文や訳者解説に明記されているのだ。

……なんだってぇ?

それでも、一応は1998年になって、ブローデル人気を当て込んで(のだろうと思う)原著が出版された。その時にフランスの学者が、註釈で補ってくれているというので、気を取り直して読んでみた。だが、これまたひどい。各節の後に、確かに注がついているんだが、それは相当部分がこんな具合:

現在、この解釈は採られていない。紀元前十二世紀の危機について今後は次の文献を参照のこと。W.A.Ward, M.S.Joukovski,The Crisis Years (.....), 1992. (p.147)

うーん。せめてその本でどんな解釈が採られているのか、ざっと書いといてくれてもいいと思いませんか? いろいろ読まされた挙げ句、自分が読んできたものがとっくに否定されていることだけはわかるけれど、でもいまはどうなってるのかまったくわからないって、全然読んだ甲斐がないじゃないか!

そして、それをさんざん読まされてしまうと、どうしても浮かんでくる疑問がある。古代史その他がすでに一変しているというなら、ぼくが読んだあの長ったらしい『地中海』はどうなの? あの本は、1939年に執筆が開始されて、1949年に初版が出て、邦訳された第2版の原著は1966年だ。あの内容は現在もおおむね妥当とされているのか、それともその後の知見で、結構否定されたりしているのか? そしてついでに、いまの歴史学全体の中でこのブローデルの評価ってどうなってるの? えらかったのか、すでに常識となっていてことさら話題にもならないのか、あまり評価されていないのか、どうなのよ。

この『地中海』は結構売れたらしいので、関連本や解説書とか結構出ている。でも解説書はもうほぼすべて、信仰告白以外の何物でも無い。環境全体に注目したのがすばらしい、繰り返し読むべき名著、あーだこーだ。そういう仲間誉めで閉じてるって、不健全じゃない? 古典だからありがたく読め、と言うだけでは教条主義もいいところじゃないの?

多少なりとも大きな範囲の位置づけをしてくれたのは、『『地中海』を読む』(藤 原書店)に収録された二宮宏之のインタビュー「ブローデルの世界」くらい。ブローデル歴史学は有名だけど、そんな大きな流れとはいえず、後継者の多くは細かい話に流れていってしまった、くらいの感じみたいではある。ウォーラースティン一派がある程度は引き継いで世界システム云々みたいな議論はしているのが一番のメジャーなところ、という話らしいね。でもこれもあまりに短すぎる。だいたいそのウォーラーステイン一派も、変な景気循環へのこだわりとか、ぼくにはあまりピンとこないし。そこらへんもう少しフェアにきちんと評価したものが見たいんだよね。

『地中海』を読む

『地中海』を読む

ついでに、このブローデルが1970年代に書いた、高校生向けの世界史的な背景と現状に関する本を見たんだけれど、岡目八目ながら彼の歴史観が何かシャープな視点につながっている部分はほとんどなかったように思える。すると一体何を評価すべきなのか……。ブローデルは何やら信者が多いから、たぶんこういうことを書くとものすごい罵倒を浴びるんだろうけれどね。同じくフランスのクロード・レヴィ=ストロースも、神話分析のものすごい大家として有名ではあるけれど、実際に読んでみるとずいぶん恣意的(=いい加減で一貫性がない)にしか思えないし、他のだれにも真似できないのでその後に続く人がまったくいないそうな。日本の白川静の漢字研究もそうだと聞くし、世間的に大家と呼ばれる人々にはかなり共通する現象なのかもしれないね。それをその人の傑出した偉大さを示すものだと解釈する人も多いけれど、一方で他の追随を許さない名人芸は、特に学術研究においては一般性のないその人だけの独善な思い込みと紙一重でもあるのだ。

そのブローデルも、地中海に対する思い出の始まりはヴェネツィアだそうで、その個人的な思い出をたっぷり盛り込んだ旅行回想記みたいな『都市ヴェネツィア』岩波書店)は、そこの歴史をふりかえりつつ、いまや没落して観光で自分を切り売りして延命するしかないこの街の現在を少し嘆きつつも、その歴史的な役割を踏まえた将来への展望を思い描く(といっても財団研究所を作って世界の文化首都みたいなものにしようという程度の案ではあるのだけれど)、軽い楽しい本ではある。

そういえばブログのほうにも書いたが、2014年にヴェネツィア建築ビエンナーレのシンポジウムで「地球温暖化はやばいぞ、ヴェネツィアもすぐ沈没して次の建築ビエンナーレは開けない」と主張するアメリカの建築家と大げんかになったんだが、あいつはどうしてるだろうか。コロナ騒ぎの直前には、ヴェネツィアで水位が上がって建物が大浸水というニュースで、ほら海面上昇だ温暖化のせいだ、とさわがれていたんだけれど、いまやそんな話も遠い過去のことに思えてしまう。

ちなみに、このブローデルの本を読むと、ヴェネツィアの水面上昇による建物浸水は昔からこの街の宿痾で、だから一階はすべて使用人部屋で、ご主人さまどもは二階以上に住まうのだ、ということもわかる。温暖化で水没なんか当分しないから、この本で小ネタも仕入れつつ、また早く行けるようになるといいなあ。