2021年7月5日
おひさしぶり。
これを書いているのは、キューバのハバナ。2021年6月のキューバは、一日の新規コロナ件数が一日1500人規模。年頭から下がる気配がないどころか、今月に入って4割くらい増えているありさま……と書いていたら今週に入って2000人台になり、あれよあれよという間に2400人にまで増えてしまった。 ひえー(……と書いたら校正中に3400人台にまで激増!!)。人口比でいえば日本の20倍以上だ。それもあって入国時にはPCR検査、その後6日間の隔離が義務づけられ、ホテルの部屋に缶詰だ。最後にまたPCR検査して、陰性ならば解放されるとのこと。窓からの光景は悪くはないんだけどねー。食事が毎日 同じだし、やっぱ気が滅入る。
居場所のホテル・カプリから見える風景。
で、そのためにいくつか本を持ってきたので、暇にあかせてその話でも書きましょう。まずは今年出たケインズ『雇用、金利、通貨の一般理論』(大野一訳、日経BPクラシックス)だ。
これはもちろん、社会科学分野で最も重要な本とすら呼ばれる代物だ。需要と供給が価格でバランスされて、市場の見えざる手があらゆる経済活動に調和と効率性をもたらす、だから失業なんてものは続かないのだ、賃金を下げればいいんだ、という古典派の考え方に対して、そんなことはないぞ、と看破した本となる。 社会全体で考えないとダメだ、というのがケインズの慧眼だった。
賃金を下げたら、労働者が使えるお金が減って、企業の売上も減るから、だれも人を追加で雇おうとなんかしない。雇用の水準は、社会全体の消費と投資の水準で決まる。消費はあまり変わらないけれど、民間の投資はそのときの金利水準よりも儲かりそうな、収益性の高いものしか実施されない。でも金利は中央銀行の金融政策で決まってしまう。それは労働市場の需給とはあまり関係ないから、ヘタをすると失業がいつまでも続くことは十分あり得る。だから失業をなくすに は、まず公共が収益性を無視して公共投資をたくさんやり、さらに民間投資が増えるように中央銀行が金利を引き下げるべきだ!
すでに全訳も何種類かある。おそらくはご存じのとおり、その一つはぼくがやっている。しかも全訳だけでなく、抄訳、超訳といろいろやってきた。だから一応、コメントできるくらいの知見はある一方で、本書はぼくの訳書の競合でもあるため、なんだテメー、オレの翻訳に文句あるのか、と身構える面もある。そういうバイアスがあることには留意してほしい。
でも、せっかく出たのにあんまり話題にもなっていないようで、ちょっとかわいそう。いろんな訳が出るのは悪いことじゃないし、それでケインズ関連の市場が広がればみんな得をする。そして大野一訳だけあって、あぶなげないとてもよい訳なのだ。塩野谷親子や間宮の訳にくらべれば雲泥の差だ。塩野谷親子の翻訳は、金釘流の学者逐語訳で、人間が読むようにはできていない。さらに岩波文庫の間宮陽介訳は、金釘流を踏襲したうえに、訳者が勝手に誤解してあれこれ原文を改ざんする(そしてそれを訳注で得意げに自慢する)というひどい代物。それに比べて、本書はきちんと普通に読める、とてもストレートでまともな翻訳だ。
もちろん、ぼくは自分の訳のほうがいいとは思う。題名の利子(interest)を「金利」としたのは、途中に出てくる小麦の利子率とかいう話もあるし、利子のままでいいのではないかという気はする。また最後の決めの一節で、既存の利害関係者(interest)を「支配者」とやるのは、ぼくはちょっと行きすぎだと思う(多くの人は誤解しているけれど、ぼくはなるべく原文に近い翻訳をするのだ)。それでも翻訳の裁量の範囲内だし、ケインズの意図としてはこれでもありだろう、とは思う。
ついでに、山形訳でネットにあるものは無料だし、また本になったものはクルーグマンの序文も入れて、ケインズ理論の普及に大いに貢献したIS-LMモデルを提唱したヒックス論文まで入れて、さらには山形の長ったらしい解説までついている。今回の日経BP版は、一般理論の本文だけ。余計なものは入れていない。素っ気ないし、もうちょっとサービスがほしい感じもするけれど、余計なものはいらない、実際の本だけ欲しいというミニマリストもいるだろう。
ということで、山形訳と比べるなら、どっちが良い悪いというレベルではなく、趣味の差の範囲ということになる。アマゾンのレビューでは、大野訳のほうが文章の格調が高いという説もあるけれど、これまた趣味の範囲ではある。ネット上の山形訳を見てみて、どうしてもなじめなければ、こちらを是非どうぞ。何にせよ、ケインズ『一般理論』に一、二回挑戦するのは決して悪いことではない。
それにしても読みながらちょっと思ったのだけれど、ひょっとして十年前にこの訳があったら、ぼくもあんな面倒な本を全訳しようという気にはならなかったかも……いや、内容理解のために抄訳はしただろうし、そうしたらなりゆきで全訳というのも、あり得たかもしれないけれど、あれほど熱心にはやらなかっただろうし、しかかりのまま止まっている他のいろいろな本の仲間入りをしていた可能性も高い。大野訳の企画がいつ始まったかは知らないけれど、タイミングとめぐりあわせというのは、やっぱり大事だよなあ。
で、お次は、しばらく前に読んだ本ながら、キューバにも持ってきてあらためて読み直している安田峰俊『「低度」外国人材』(KADOKAWA)。これは読みつつ、恐れいりましたと頭を下げるしかない本だ。このコラムでも何冊かすでに紹介したけれど、安田は中国関連のディープなルポを得意とするライターだ。が、海外ネタの紹介を中心とするライターの多くは、このコロナ禍で国外に出られなくなってしまい、なんだかんだで結構行き詰まっている感じはする。安田も大丈夫かねー、と思っていたら、すごい。やってくれました。
この本のテーマは、日本の悪名高い研修生制度などにより、日本に出稼ぎとかでやってきた外国人労働者もどきだ。研修生制度というと、本来は日本に技能研修のために途上国から若者を招聘し、現場で働いてもらうことで技能を身につけてもらうという主旨のもの。だがそれが多くの分野で、奴隷のような低賃金搾取労働力として利用されてしまい、過重労働、セクハラ、労災なしのひどい労働条件でこき使われて、使い捨てられている。その一部は逃げ出して不良化し、ブタを盗んで解体していたという話がニュースになって——。
ぼくもこの話は聞いていて、とにかく研修生制度がダメなだけだと思っていた。取材しても、それ以上の話にはならんのでは、と思っていた。が、甘かった。本書は、そのブタ解体の当事者のところに、きちんと取材にでかける。多くの研修生募集派遣業者にも取材し、実際の研修生たちにも話を聞く。そしてそこから浮 かびあがってくるのは、単純に日本の研修生制度のひどさというだけではすまない話だ。
日本の研修生制度のダメなところは、ベトナムでもちゃんと情報収集能力のある連中はよく知っていて、そこに人は集まらない。そのためやってくるのは、そもそもベトナムでも頭の悪い情弱(情報弱者)だ。そして、それを食い物にしているのは日本の研修生受け入れ先にとどまらない。実はベトナムで彼らを集める業者が、研修生を食い物にすることしか考えない悪質な業者だったりする。そして研修生たちは搾取されまくったあげくに、今度はそのまま自分も悪徳業者の仲間入りをしてだます側にまわり、レベルの低い人材が低いなかで相互に食い物にしあうというどん底スパイラルの構造が次第に明らかにされる。
ベトナムだけではない。中国からの労働者、イスラム系も含め、様々な在日労働者が取材され、そのそれぞれが抱える構造的な問題——日本の問題でもあり当人たちの問題でもある——が浮き彫りにされる。
日本にいながら、これだけの取材ができるとは。その視点の鋭さと行動力には本当に脱帽するしかないし、同じブタ解体という事件ネタでも他のメディアの「取材」がいかに通りいっぺんで一過性のものだったかが、本書を読むと痛感させられる。そして「ネタ」というのが本当にどこにでもあって、何もないように見え るのは己の怠慢のせいでしかないというのも。
そして書き方も見事。特に、涙が出そうになったのが、岐阜県で働かされる中国人女子が、あのアニメ『君の名は。』に出てきた日本はどこにあるんだ、と著者に尋ねる場面。現実とイメージとの絶望的な落差が、一瞬で彼女にも、安田にも、そして読者にも如実につきつけられる残酷さは、できすぎなくらい。必読。
さて、最後はカルラ・スアレス『ハバナ零年』(共和国)だ。キューバに行くので、ふと目についたキューバ小説を買ってそのまま持ってきたんだが……。
うーん。帯にだまされた。帯の惹句は「カオス理論とフラクタルを用いて電話がキューバで発明された事実を証明せよ!?」だ。おおおおおお。なんかすごいスチームパンクっぽい科学奇想小説なのか、と期待しちゃうでしょう。ところが、そんな証明なんか、ぜんぜん出てこないのね。出てくるのは1993年、かつての最大の同盟国かつ支援国だったソ連東欧圏の崩壊により経済危機に陥ったハバナで展開される、ちょっとしたメロドラマだ。
そのマクガフィンとなっているのが、かつてベルやエジソンより先に電話を発明したとされる、イタリア人発明家メウッチの手稿だ。メウッチは、一時キューバで働いていて、国会議事堂の隣にある国立バレエ劇場の作業をしているときに、電気で音声を送る電話のプロトタイプを開発したのだ、という。その発明を描いたスケッチが残されており、それを手に入れようとして様々な人々があれやこれやの疑心暗鬼のかけひきを繰り広げる……。
これがそのバレエ劇場の中身。いまは閉じています。
でも、その発見のためにカオス理論やフラクタル理論がいささかも使われるわけではない。語り手の女性数学者が使うジュリアという偽名は、フラクタル理論のジュリア集合から採ったものだが、それも小説のなかで何の役にもたたない。
途中でちょっとそれっぽい話は出てくる。ジュリアが、自分たちの状況はカオス理論で説明できるわー、と言う部分。でもそれが何かというと、キューバの状況が冷戦とソ連東欧の崩壊という外的な状況に翻弄されて、先がどうなるか予想がつかない、これはカオス理論だ、というんだけど……。いや、先がわからないというだけでカオス理論というのはあまりに安易では? ついでに、国の状況が社会に影響を与えてそれが自分に影響を与えて云々という、どんどん細かくなる複雑な相互関係があるからフラクタルねー、という。フラクタルってそういうことじゃないでしょー。
と、こういう科学的な仕掛けに厳しくなってしまうのは、これを読む直前に劉慈欣『三体』の第二部『黒暗森林』(早川書房、上下)を読んでいたせいなので、少しフェアではないな。そして、それを除けば、キューバの社会経済状況が完全にご破算になった時代に、だれも見たことのない実在すらあやしいお話に翻弄されて右往左往する人々の様子を通じた都市小説……とまではいかず、1990年代初頭ハバナの都市文化風俗小説にとどまってはいるけれど、でも人間関係と打算、疑惑、化かし合いが、展開する様子はそこそこおもしろいし、それをメウッチ手稿をめぐるドタバタとうまくから めた作り方も読ませる。
ただ結局、登場人物の右往左往とかけひきを、当時のハバナの社会情勢と結びつけようとはするけれど、でも実はあまりそれが有機的に関係していないのが残念ではある。都市小説ではないというのはそういうこと。呉明益『歩道橋の魔術師』(白水社)みたいに、都市の変化が人々の成長と幻滅と人間関係の変化へとからみあい、というようなしかけはない。無理に登場人物の関係を社会情勢とつなげようとはするけれど、実はあんまり関係なくて、当人たちだけの話に留まっているんだよね。
ある意味で、それはキューバ的でもある。いまのキューバもドナルド・トランプが最後っ屁で締め上げていった経済制裁がさらに強化され、送金ルートも断たれ、貿易もかなり断たれ、つらい状況ではあるんだが、自分たちの政策のまずさもある。仕事のヘマから果ては遅刻まで制裁のせいにしてきた面はある。それがコロナもあって、もはや先送りできなくなった部分もあり、2020年末に二重通貨制度解消を含む一大経済改革を導入したら、それがまた混乱を招いているという……そのため現在の状況は、『ハバナ零年』で描かれたキューバのどん底期に近いと言う人さえいる。
だから、いまは『ハバナ零年ふたたび』ともいうべき状況にあり、おかげでなおさら本書のいささか脳天気な「もう零年は終わって私たちは新しいスタートをきったのよー」みたいな終わり方がピントはずれに見えてくる面もある。が、そこまで小説に要求するのは酷というものだろう。
残念ながらコロナのせいで観光施設は軒並み閉鎖。メウッチの記念碑があるはずのバレエ劇場も、普段はツアーをやっているけれど、いまは中に入れないそうだ。残念。コロナ隔離が終わって外を歩けるようになったら、町の様子もお伝えできるかな。ではまた。