Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

ナチス軍需相とヒトラーお抱え映画監督の虚実

今回と次回、「新・山形月報!」はナチス関連の書籍を紹介。今回は、アルベルト・シュペーア『ナチス軍需相の証言』(中公文庫、上下)、アダム・トゥーズ『ナチス 破壊の経済』みすず書房、上下)、スティーヴン・バック『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』(清流出版)などを論じています!



これを書いているとき、コロナ戒厳令が解除されて、まずはめでたい。自粛に対する経済的支援が足りないとはいえ、事業系の融資はまあいろいろ出てきたし、さらに10万円のベーシック・インカムが出たのは、もう一桁多くていいんじゃないかとは思うけれど、ないよりマシ。申請のときのマイナンバーカードにはいろいろ言いたいことがあるが、それはまたの機会に。

さて、今回と次回はほとんどナチスづくしになるのでお覚悟を。真面目なのがお望みな方は、今回のシュペーア回想記とリーフェンシュタールの話、そして異常 な話がお好きな方は、次回をご覧あれ。別にいまナチスの話をすべき積極的な理由は何もないんだが、出版時期とぼくが読んだ時期とのちょっとした偶然だ。

で、まずアルベルト・シュペーア『ナチス軍需相の証言』(中公文庫、上下)から。

ナチス軍需相の証言(上)-シュぺーア回想録 (中公文庫)

ナチス軍需相の証言(上)

シュペーアは、多少なりともナチスドイツに興味ある人なら名前くらいは絶対に知っているヒトラーのお抱え建築家で、後に軍需相となって第二次大戦中の兵器生産を仕切った人物。ナチス高官ではあるが死刑を逃れて、戦後もおめおめと生き延びた人物だ。この本は、そのシュペーアが戦後に獄中で書きためて刊行された回想記となる。

もちろん、その大半はナチス政権の内幕暴露となっている。ヒトラーのベルリン改造計画への入れ込み方、要人たちの権力争いと崩壊への道のりの描写はなかなかおもしろく、ナチスに興味ある人なら目を通しておいて損はない。もともと原著刊行直後の1970年に単行本として出たものが、2001年に『第三帝国の神殿にて』(中公文庫BIBLIO、上下)として復刊されつつも、ここしばらく版元品切れだった。それが2020年に入って『ナチス軍需相の証言』として復刊されたわけだ。

そして今回の復刊にあたっては、非常にありがたいボーナスがついている。新たに加えられた「解説」で、彼の「証言」のデタラメさ加減が、きちんと徹底的に説明されていることだ。

実はこの連載をさぼっている間にぼくが関わった翻訳書がいろいろ出て、その一つがアダム・トゥーズ『ナチス 破壊の経済』みすず書房、上下)だった。

ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 上

ナチスは崩壊寸前のドイツ経済を建て直し、アウトバーンを作り、国民ラジオだの国民車フォルクスワーゲンだの民生品も開発する一方、軍事面では戦時中の苦しい時期にも一時は連合国を圧倒するだけの兵器生産を実現し、さらにはメッサーシュミットジェット機だのV2ロケットだの新型戦車だのUボートこと潜水艦だの、新兵器を次々に繰り出して、果ては月の裏や地底にまで秘密基地を作るだけの底力を見せた(一部脚色あり)。だから強制収容所とか壮絶な部分を除けば、実は生産とか経済運営とかの面でかなり優秀だったんじゃないの、というのが印象としてある。そして、シュペーアはその立役者の一人とされている。

が、このトゥーズ本は、実はそれがかなり看板倒れだったことを示す。フォルクスワーゲンは、注文取って金は集めたけど、実際には納車されていないし、そんな安くもなかった。各種の新兵器はせいぜいがプロトタイプ程度で、しかも新規開発は数が稼げず、量産できたのは使えない旧型モデルばかりで、全然ダメ。

アルベルト・シュペーアについても、このトゥーズ本は丸ごと一章割いて、一般のイメージが全部デタラメだというのを示し、この回想記に対しても、お手盛りの我田引水もいいところだ、と罵倒する。

で、翻訳の際の参考資料として、この回想記(旧版『第三帝国の神殿にて』)は手に入れてあり、たまたま最近になってふと初めて通読してみた。いやあ、確かにすごい。他の人はみんな無能で自分が仕切ると一ヶ月で武器の開発も生産もスイスイ進んだ、みたいなすごい話が山ほど出てくる。でもトゥーズの本によれば、それはたいがい前任者がすでに苦労して多方面を調整して実現しかけていた成果を、最後に横取りしただけか、あるいはヒトラーにおねだりして、足りない原材料をまわしてもらっただけ。各種発言も、巧妙に数字をねじまげて自分をよく見せる詐術満載。

そして何より、シュペーアホロコーストとの関わりが問題だ。彼は、ホロコーストのことは知らなかった、無意識に目を背けていたという連帯責任はあるけど、直接は関わっていなかったし知らないよ、と言い続け、それでニュルンベルク裁判も切り抜けている。本書でも、そこらへんのヤバい話になると、なんかすーっと遠い目をして話をそらす。

でも、ナチスの高官が、ナチスの基本テーゼであり、あらゆる政策の根底にあった反ユダヤ主義強制収容所について何も知りませんでした? そんなわけあるかいな。アウシュヴィッツダッハウ強制収容所は、別にソ連のシベリア収容所のように人里離れた場所にあったわけではない。まさにシュペーアの仕切る軍需生産に不可欠な、巨大工業生産拠点の一部だ。それを知らなかった? ばかばかしい。ぼくはトゥーズの本を先に読んでいたから、眉にかなりツバがついていたということもあるんだが、それぬきでも、ちょっと自分をいい子チャンに仕立て上げるのが露骨すぎるほどだと思うんだけど。

だけど、みんなシュペーアの主張を鵜呑みにしている/してきたし、それどころか何やら彼は時代に翻弄された高潔な悲劇のテクノクラート、みたいな印象を抱いている。訳者も、旧版『第三帝国の神殿にて』で解説を書いていた土門周平も、シュペーア礼賛と擁護に終始している。それは必ずしも、彼らの目が節穴だったということではないんだろう。なんとなく好意的な見方をしたいと思っていると、多少のごまかしは目に入らないというだけなんだろう。それでもねえ。

で、それをちょうど読み終えて首を傾げていたときに、復刊のニュースが入ってきた。しかも、新しい解説つき、とのこと。

ナチス軍需相の証言(下)-シュぺーア回想録 (中公文庫)

ナチス軍需相の証言(下)

その新しい田野大輔による解説はすばらしかった。シュペーア神話が、ここ数十年でいかに完全にひっくりかえされ、この回想記も含めたシュペーアのウソとごまかしがどう解体されたかについて、実に詳しく説明されているのだ。

特に感心したのは、なぜそんなごまかしがそもそも可能だったのか、という話。シュペーア自身の立ち回りもさることながら、実は年代記作成者や、この回想記出版で大儲けを狙った出版社の協力により、いろんな資料のつじつまあわせや改変まで行われていたとのこと。本書の中では、ボルマンやゲーリングなどを強突く張りの権力亡者で、美的センスもないのに各地の美術品をガメていたカッペとバカにしているけれど、実は強欲で権力亡者だったという点でシュペーアも壮絶で、美術品をガメるのも自分だってしっかりやっていたこと。いやあ、すごい。

出版社として、その作品を必ずしも絶賛するものでなくても、きちんとフェアな評価を敢えて載せるというのはすばらしい。特にこうした歴史的な文書となればなおさらだ。あえてケチをつけるなら、この解説でも短すぎるから、もっともっと長くして、本文中でもいろいろ突っ込みを入れて欲しかったというくらい。まさにこの本がいま持つ「価値」というのは、そのごまかしの見極めと、そしてなぜそれがまかり通ったのか、という検証の部分にあるんだから。

というわけで、本書を読んだことのない人はもちろん、以前に読んだ人も、この解説だけは必読。

ちなみに、シュペーアはそもそもが建築家というアーティストみたいな立場だったことで、「自分は政治の汚い部分は知らなかったんですよー」という言い逃れがしやすかったという面はまちがいなくあると思うのだ。そういう意味で、彼は似たような立場で似たように戦後まで生き延びた、別の人間とかなり似ている。レニ・リーフェンシュタールヒトラーのお抱え映画作家とも言うべき存在だ。

彼女はナチスプロパガンダ映画を(シュペーアのこけおどし建築とあわせて)実にかっこよく撮ってみせて、ヒトラーに取り入って出世したのはまちがいない人物。でも戦後になると、ワタシは関係ない、何も知らなかった、ヒトラーがワタシの映画を気に入って声をかけてくれただけ、向こうがどうしてもと言うから仕事を受けただけ、映画も素材を最も活かそうとしてあんな形になっただけ、裏のイデオロギーなんか知らないと言い逃れ、痛くもない腹を探られる自分は被害者だと言いつのる。彼女もまた、ものすごく分厚い (上下巻あわせて1400ページ超!) 自伝を書いている。レニ・リーフェンシュタール『回想 20世紀最大のメモワール』(文春文庫、上下)だ。

リーフェンシュタール『回想 20世紀最大のメモワール』。家にあるヤツです。版元品切れの模様

でも、彼女もまたその主張が実は嘘っぱちのごまかしであることが暴かれている。自分は純粋なアーティストだ、お金や名誉にはこだわらないと言いつつ、実は人一倍金と名声への執着が強く、ナチスの活動についても十分に知っていた(虐殺現場に居合わせて顔を歪めている写真まである)。むしろナチスに積極的に自ら売り込みをかけ、映画製作について要人たちに媚びを売り、友人のはずのユダヤ人をこっそり売り渡し、存在を知らないはずの強制収容所でエキストラ役のジプシーを自ら選んだりしていることも明らかになっている。これについては、スティーヴン・バック『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』(清流出版)などに詳しい。

レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実

レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実

むろん、しょせんは映像屋だ。何をやったにせよ、ナチス高官のシュペーアの罪状とは比べものにならない。そしてやたらに元気な人であるのはまちがいなくて、女優デビューから映画作家になり、ヒトラーに見出され、戦後にそれで責められつつも活動を続け、高齢になってからアフリカのヌバ族の写真や水中写真で注目を集め、という実に華々しい経歴の持ち主で、伝記も男性遍歴まで赤裸々に描き、身勝手なわがままアーティストぶり全開。絶版なのは残念……かな。うーん。というのも、これまたとにかくあらゆる面で自己顕示欲の塊のものすごいエゴイストなのは、一読すればわかる。すさまじい分厚さで、その全編にわたってワタシがワタシが、と常に正しく高潔で正義を貫く孤高の存在である自分を押し出してくるので辟易するのだ。

そしてバックの告発本を読むと、表向きはすごく立派な自分のかっこいい姿を演出する一方、自分の都合の悪いことは執拗に潰し、裁判でもなんでも手段を選ばずに相手を黙らせる人物なのがわかり、それを知って読むと読後感は必ずしもよくない。でも知らずに読めば、シュペーアの回想と同じで、いろんな内幕が暴かれる波瀾万丈の物語ではあるのだ。

そして本人が主張したがる、非常に美的センスを持ったアーティストとしてのレニ・リーフェンシュタールというのは、決して嘘ではない。彼女がナチス時代に撮った、オリンピック映画や党大会映画は、プロパガンダ映画だけれど、でもその部分を除けば非常によくできていて、いま見ても悪くない。もちろんプロパガンダ映画で「その部分を除けば」というのが可能なのか、というのこそ、まさに彼女をめぐる論争の元ではあるのだけれど。

そして実際、そうした作品は、純粋な芸術的意図だけを強調する本人の主張とは裏腹に、常にかなり商業的な計算ずくで構築されている。1980年代に彼女がアフリカのヌバ族を撮った『ヌバ』が話題になったのをきっかけに、当時の西武/パルコ系でもてはやされたりしたのも、ナチス映画を撮っていたときとまったく同じ、ある種のあざといながら鋭い感性のおかげだ。それは彼女の回想とかにおけるごまかしや自己プロモーションとも無縁ではない。

そうした彼女のあざとさや弁明のやり方などが、シュペーアとまったく同じパターンだというのは、たぶん注目に値する。それはこの二人の共通性というだけにとどまらず、シュペーア回想記の新解説の最後に田野が書いている通り、まさにドイツ国民が自分の弁明として求めていたものだったからこそ受け入れられた、あるストーリーのパターンなんだろう。自分は自分の狭い範囲についてやっていただけだ、ナチスの蛮行については知らなかった、責任はない、責められるのは心外だ、というわけ。ナチスに関心があるなら、このレニ・リーフェンシュタールの本も一読をお奨めする。

今回はここまで。次回は、ナチス関連で、ずっとぶっ飛んだ本を紹介するので、ご期待あれ。

コロナを前にしたインテリの自己矛盾

本当にお久しぶりに「新・山形月報!」がカムバック! 今回は、話題作『コロナの時代の僕ら』に象徴される議論を批判的に検討。そして、『労働者の味方をやめた世界の左派政党』『図書館巡礼』を紹介します。



事態が急激に変わるとき、人がおたつくのは仕方のないことだ。そしていままで知らなかった分野の話をあわてて調べて、にわか知識で陳腐な浅知恵に到達して悦に入る様子は、まあ微笑ましいと言えなくもない。

ただし……その学習プロセスは貴いのだけれど、しょせんそうした思索は付け焼き刃だし、浅はかなものでしかない。自分が考える程度のことは、たいがい他の人がとっくに思いついて、もっとしっかり考え抜いているものなのだから。結果として、そういう浅はかな思索の吐露は、よくてもポエムの一種にしかならない 場合がほとんどだし、さらにひどいことに、それはその人が元々もっていた偏向や不満をだらしなく垂れ流すための口実になってしまうことも多い。

反発する人もいるだろうけれど、ぼくはパオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』早川書房)が、まさにそんな代物としか思えない。

コロナの時代の僕ら

コロナの時代の僕ら

この本の内容はほとんどが、この数ヵ月にだれもがSNSのそこかしこで見かけたような、コロナ関連のネタをめぐる、ゆるい感想文の寄せ集めだ。オリジナリティは驚くほどない。それを著者は、衒学的な意匠とレトリックでごまかそうとする。その好例が冒頭部だ。著者は、自分でコロナの拡散をSIRモデルでシミュレーションしたという。コロナはこれから爆発的に拡散するということを自分で確認してるし、本書の考察も自分でこうしてきちんと検討した結果なのです、というわけね。著者は素粒子物理学を学んだのが売りだから、数学ツールが使えますというのもアピールポイントではある。

でも……SIRモデルって、感染者がどんどん他人に病気をうつして、最終的にはある集団の全員がその病気にかかるというモデルだ。感染拡大初期の数字をあてはめたら(おまけに高い再生産率を外から持ってきてはめこんでる)、結果は指数関数的に増えるに決まっている。ここでのSIRモデルは形だけのこけおどしで、実は著者自身が事前に持っていた結論(その成否はさておき)を追認しているだけなのだ。

その後に続くぬるいエッセイも、まったく同じ。当人は、危機を前に自分が何かすごくオリジナルなことを考えたつもりなんだろう。でも、書かれていることで、これまでなかったような考察は何一つない。人々は予想外のつながりで結ばれていた、急拡大は現代社会のあり方の反映だ、デマにだまされないようにしよう、陰謀論にとらわれないようにしよう、自分だけでなく他人の命を救おう、外出は控えよう、いまは我慢しよう、連帯しよう—本当に、意識の高い進歩的な人々の定番発言でしかない。それぞれのエッセイごとに、対応するハッシュタグでもありそうだ。

そして、そこで目につくのは、著者の偏向だ。この人はヨーロッパの意識の高い左派インテリだ。だからそこに込められるのは、当然ながらありがちな反文明論。コロナは地球温暖化と同じ、グローバリズムと消費社会の過剰に対する罰だ。ぼくたちは豊かさを追い求め過ぎたのではないか、これまでの文明のあり方がまちがっていたのではないか、いまこそ人類の未来を考え直すときだ、というわけ。

だから、あとがきで著者は問いかける。「すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか」。もちろん、これは修辞的な質問だ。著者は、ポストコロナの世界は前とちがうものにしなければ、と考えている。この部分は、ネットで無料公開されているのでご覧あれ。「僕は忘れたくない」ということばが繰り返され、そのリストが記されている。

その忘れたくないことというのは、人々がデマにまどわされたこと、みんなが事態の深刻さを最初は真面目に受けとらなかったこと、それがこれまでの専門家/科学不信のせいだということ、政治家がすぐに十分な対応をしなかったこと、そして今回の危機が消費社会のあり方のせいだというような話だ。「僕には、どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのかもわからない」けれど、著者はそれを否定すべきだということだけは確信している。

でも……ぼくはこの人の言っていること、この人に類することを口走る様々な意識高い人たちの発言が、往々にして自己矛盾していると思う。この人たちは、専門家不信、科学不信、医療不信が今回の危機を悪化させた、それを改善しなくては、と言う。たとえば、『サピエンス全史』河出書房新社、上下)のハラリも、そんなポストコロナ論を書いている

でも、そうした専門家不信、科学不信、医療不信が起きたのは、まさにこの人たちのしつこくやってきた現代文明や経済発展の批判が、無用に幅をきかせたせいだ。フーコーイリイチやポモ哲学のおかげで、医学は実は本当に人間の幸福をもたらすものではなく、何やら管理社会の道具だし、教育は人間を型にはめ弾圧するツールで、科学は単なる思いこみの社会的構築物だ。それをもとにした現代文明はまちがっているし、農業も産業革命も実は全然人間にとってよいものではなく、繁栄と経済発展は人の幸福に貢献していない— この著者が、消費社会がこんな事態を招いたとか、グローバル化の誤りがこれではっきりしたとか言うのは、まさにこうした考え方の流れだ。(ハラリはその 点、もう少し周到ではあって、重要なポイントも押さえているけれど)。そういう人たちが、専門家不信、科学不信、医療不信を嘆いて見せるのは、ぼくは滑稽だと思う。

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

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具体的にそれがイタリアで何をもたらしたかといえば……反ワクチンだ。イタリアの事態悪化には、ポピュリズムの反ワクチン政党が政権をにぎってしまったことも関係しているはずだ。でも、コロナワクチンはまだないけど、伝染病予防でワクチンが大事なのは、今回の件でみなさん思い知ったと思う。日本も、子宮頸がんワクチンが反ワクチンデマで壊滅状態だったりして、他国をとやかく言える状況ではないけれどね。でも医療のバッファを確保するためにも、すでに対処可能な病気についてワクチンは射っとこうぜ、というのを忘れないでほしいし、医療や科学不信を問題にするなら、まずそういった具体的なところをまっ先に思い 出してほしいところなんだけれど……。

さらに忘れちゃいけないのは、今後も手はきちんと洗おうぜ、といった基礎的なこと。コロナの一つの教訓は、そういうちょっとした日々の習慣が伝染病予防を大きく左右するということだ。 でも、手洗いもワクチンも、著者の忘れたくないこと一覧には入っていない。「生き方を変えなければ」とか「文明のあり方を」とか「人々の連帯を」とかいっ た上から目線の大風呂敷にならないからだろうか。こうしたつまらなくて、くだらない(でも本当に重要な)ことを、著者はこの時点ですら忘れてしまってい る。

そして、「家にいよう(レスティアーモ・イン・カーサ)。そうすることが必要な限り、ずっと、家にいよう(中略)でも、今のうちから、あとのことを想像しておこう」と著者は語る。でも、この時点で彼は家にいられない人、自分が家でこんな文章を書いていられる生活を支えている人々について、まったく想像が及んでいない。そうした多くの人々にとって、「あとのこと」とは、失業と景気悪化、倒産、貧困とそれによる死亡や健康被害だ。その人々は、著者のような高踏インテリ様のように、資本主義が非人道的とか経済システムを変化させるべきとか思っているだろうか? ぼくはいまの日本ですら、多くの人がこの非人道的な自粛やロックダウンもどきに応じているのは、むしろそうすることで元通りの生活に戻れると期待しているからだと思っている。

「僕は忘れたくない」と、この小説家は言う。でも、ほぼまちがいなく忘れるだろう。2年もたてば忘れる。ぼくは年寄りだから、エイズが流行ったときに、エイズ後の文明だのいう駄文がたくさん登場したのをよく覚えている。もはや人間同士の密な接触はなくなり、盆栽やお茶会みたいなゆるい枯れた人間関係しかなくなるだろう、なんてことがマジで言われていた。リーマンショック金融危機で、資本主義は崩壊して新しい世界秩序が、なんて話は腐るほど聞かされた。そして、この日本では「ポスト福島」談義がみんな記憶にまだ残っているはずだ。福島の原発事故は、大量消費現代文明が持続不可能であることを如実に証明するものだ、というわけ。この「僕は忘れたくない」と同工異曲のものを何度目にしたことか。

でも、そのときもみんな忘れた。そして今回も忘れる。一方で、それがもたらした被害は下々の人々にふりかかる。いま、この著者も含め、「医療従事者のみなさんに感謝のツイートを」とか「ゴミ袋に感謝の絵を描きましょう」とかいうクソの役にも立たないバカにした連帯の押し売りをしている人々は、5年後にそういう人々の待遇がどうだろうと、気にもかけないだろう。それどころか数年後にはこの人たちは記憶を改変して、この異様なロックダウンや自粛合戦を、何やら美談に仕立てることだろう。そして「あのときのようにみんなで団結して我慢して地球温暖化を防ごう、コロナも克服したから絶対できるよ」なんてことを平気で言い始めるはずだ。この著者ではないにしても、そのお仲間のだれかが。

そのとき、この『コロナの時代の僕ら』を読み返すと面白いかもしれない。彼らがいったい何を忘れたか(そして忘れる以前に思いつきすらしなかったか)を確認するための手段として。

ぼくのこの文は、たぶんフェアじゃないんだろう。数百人規模でしかコロナによる死者が出ていない日本に比べ、見る見るうちに死者が積み上がって数千人規模に達してしまったイタリアでの危機感と絶望は、はるかに大きいんだろう。特に、これを書いている2020年5月時点で急激に流行がおさまりつつある日本のぼくたちは、もうずいぶん心の余裕ができてしまっている。2ヵ月前のイタリアの、先が見えない悲壮感はない。でも……だからってこの著者の、自分がいかに恵まれた立場にいるかもわからず、自分のまわりだけで世界が完結している世間知らずのおめでたいエリートぶりに、何か見るべきものがあるとは、ぼくは思わない。著者は「支配階級/権力者」と「僕ら」を対立するものとして描き出すんだけれど、本当にいまもこれからも悲惨な目にあうのは、その「僕ら」のさらに 下にいる、でも「僕ら」が意識すらしていない人々なのだ。

労働者の味方をやめた世界の左派政党 (PHP新書)

労働者の味方をやめた世界の左派政党

ここらへん、まさに左翼リベラル系が知的エリートに乗っ取られた様子を見事に反映しているとは言える。これは吉松崇『労働者の味方をやめた世界の左派政党』PHP新書)と、そのネタもとであるピケティの論文(そして彼の千ページ超もある新著『資本とイデオロギー』、ゼイゼイ言いつつ翻訳進行中!)のテーマでもある。

左派政党は、かつては実際の労働者や貧困者の代弁者で、その活動が第二次世界大戦後の格差縮小に大きく貢献してきた。ところが、だんだん左翼リベラルは頭でっかちなエリートの変なお題目にすりよって、地球温暖化とかLGBTとか、多くの人の生活水準には関係ない問題にばかり精を出すようになってしまった。それがいまの格差増大にも大きく影響しているし、ポピュリズムと言われる代物の多くは、実はむしろ左派リベラル政党が底辺層から離れたために起きている政治の流れだ。この本は、それを非常に要領よく述べていて、ぼくは2019年の良書の一つだったと思う。

しばらく間が空いたので、いろいろ本はたまっている。じょじょに消化していきましょう。今回は最後に、もう少しお気楽な本としてスチュアート・ケルズ『図書館巡礼』早川書房)を挙げよう。

図書館巡礼 「限りなき知の館」への招待

図書館巡礼 「限りなき知の館」への招待

これは、図書館の細かい歴史を描いた本かと思っていたら、きちんとした研究というよりは、むしろ西洋ビブリオマニア列伝とも言うべきエッセイ集で、本好きなら、ニンマリする逸話がいっぱい。本の収集、保管、盗難、火事、紙魚、偽造、古代の有名な図書館とその命運……話が西洋だけなのは、まあしょうがない。たぶん中国や日本はもとより、世界中にこういうビブリオマニアはたくさんいる。なぜ人はこんなふうに本をためこみたがるのか。しかも、すべてを知りたいとかいう知的探究にとどまらず、本そのものにフェティッシュ的な思い入れをしてしまうのか—。

ジャック・アタリはかつて、人が本を積ん読するのは、いつかそれを読むはずの時間をためこんでいるのだ、と指摘した(というネタを何度も使っているんだが、どこで言ってたんだっけ。『ノイズ— 音楽/貨幣/雑音』 〔みすず書房〕だったかな?)。これは一理あるけれど、本という物理的存在への耽溺がなぜ起こるのかについては説明できない。それなら電子書籍を大量に持っていても、読むはずの時間をためこんでいることになるものね。本書を読んでその謎が解けるわけではないけれど、たぶんこんな連載を読む人ならば、どこを読んでも自分自身の姿がそこに映っているのを感じ取れるはず。

コロナで暇でもあるし、次回はこれほど間をおかず出せるのではないかな。では、また。

子宮頸がんワクチン副作用とマスコミの役割

今回の「新・山形月報!」は、本のレビューの前に、村中璃子医師のジョン・マドックス賞受賞と、それに大きく関連するマスコミ報道などについて論じます。そして、キャス・サンスティー『命の価値』勁草書房)、ロビン・ダンバー『人類進化の謎を解き明かす』とマルタ・ザラスカ『人類はなぜ肉食をやめられないのか』(ともにインターシフト)へと続きます。



今回は、ちょっと書評と離れた話からになる。ぼくのこんなネットの片隅にある書評コラムを読んでいる方は、それなりにネット活用度の高い人たちだろうから、すでにご存じかもしれない。2017年12月、日本の村中璃子医師が、ジョン・マドックス賞を受賞した。これは科学雑誌『ネイチャー』の元編集長にちなんで設立された、公共的な利益に関する事柄について、各種の困難や敵対にもめげずにまともな科学と裏付けに基づく知見を促進した人物に与えられる賞だ。

すばらしいことではある一方で、彼女がこの賞を受賞するような活動をせざるを得なかったこと自体が、暗澹たる思いを抱かせる。彼女が受賞したのは、日本に広まる子宮頸がんワクチン(厳密には、子宮頸がんを引き起こすウィルスHPVに対するワクチン)反対運動のお粗末さと、それに屈して接種率の激減を招き、結果として子宮頸がんリスクの激増を招いてしまった日本の保健政策の問題点を、ほとんど孤軍奮闘のようなかたちで指摘し続けてきたからだ。そうした反対運動が根拠のないものであり、ワクチンの後遺症と称されるものがおそらくはまったく関係ない代物で、その追試実験も問題だらけなのに、メディアが煽った根拠レスな反対運動に屈してHPVワクチンの接種促進を厚労省がやめてしまったため、いまや多くの人が無用な子宮頸がんリスクにさらされているのだ。

その実際については、彼女のこの受賞スピーチを読んでほしい。彼女の受賞により、この問題が世界的に見ても大きなもので、日本の反HPVワクチンの動きが異様であることは明らかとなった。では、それがきちんと報道されて、事態の改善に向けた動きが出ているだろうか?

出ていない。それどころか異様なことだが、これは12月8日の時点で日本の大手マスメディアではほぼまったく報道されていない。ほとんど黙殺だ。なぜか? 日本の大手マスメディアはまさに、この世界的に批判されている反HPVワクチン運動のお先棒をかついできたから、ということらしい。副作用と称する症状を検証もないうちに報道し、イメージ操作でHPVワクチンが危険だという印象を作り出してしまった。村中の受賞を報道したら、それは過去の自分たちの報道を否定することになってしまう。村中が講演会で現場記者に聞いた話では、メディア内の上からのお達しで、この件についての報道が止められているそうだ。なんと。この問題については、マスコミのほぼ黙殺に対して、これも含めネット上の情報拡散が非常に大きく、それがさらにマスコミの動き(というかその不在)の異様さを際立たせている。

メディアは不偏不党で中立であるべし、というのはもちろん、お題目ではある。でも最近の大手既成メディア報道の多くは、そのお題目すらかなぐり捨てた、偏ったものになっているのはご存じの通り。まったく中身のないモリカケ報道とやらをさんざん展開し、裏づけが何もなくても、怪しい怪しいと言いつのり、いまだに懲りた様子もない。都の卸売市場豊洲移転問題でも、まったく問題ない盛り土問題とやらを、さも問題あるかのごとくあおり立て、いまの移転を膠着させる事態を作り上げてしまった。

メディアの一つの役割は、マイノリティの声をすくい上げることでもあるのは事実だ。HPVワクチン報道は、その一環ではあった。でも、それはマイノリティの意見をなんでもいいから垂れ流すことではない。マイノリティの「正当な」声をすくいあげる、というのが本来の狙いだったはずだ。そこには、事実を確認するプロセスが入る。ところがメディアはまったくそれをやらず、一方的な意見の扇情的な垂れ流しに終始した。マスコミは、社会の木鐸とされる。人々に対して警告を発する存在という意味だ。でも、この問題の場合、パニックを煽る側にまわってしまった。

そしていまや、防げたはずの子宮頸がん患者が増えかねない状況だ。もちろん、大手メディアがそれについて何か責任をとるはずもない。でも、こうして外部から明確な指摘が入ったいま、今後の害を抑え、少なくとも事実をきちんと報道するくらいのことはすべきだろう。ぼくはマスコミに大して期待しているわけではない。でも多少の偏向はだれにだってある。それでも、実害が生じている問題に関しては、少なくとも被害を減らすような努力を人間的な良心としてやるべきだと思う。過去の報道を否定することになったっていいじゃないか。マスコミの手のひら返しなんて、めずらしくもないことなんだから。パニックが終わって落ち着いたので、少し論調を変えましたってことでいいじゃないか。

とはいえ、マスコミにその程度の良心があるとすら思えないのが現状の悲しいところではある。そしてそうした根拠のない反ワクチン運動をうけて、実際に子宮頸がんワクチン接種促進をやめてしまった政府はといえば……。

実は今月刊行予定の、拙訳のキャス・サンスティー『命の価値』勁草書房)には、まさにそうした話が出てくる。メディアの扇情報道で社会がパニックに陥った場合、政策はどう対応すべきなのか?

命の価値: 規制国家に人間味を

命の価値:規制国家に人間味を

この本(そしてサンスティーン)の基本的な立場は、政府の規制など各種政策は費用と便益を比べて、便益が十分に大きければやる、というものだ。でも、人々は行動経済学的に、確率は低くてもビジュアルにドラマチックな影響が出る問題(たとえばテロとか飛行機事故とか)に過剰に反応する。飛行機テロの可能性が あるというだけで、人は車での移動に切り替えたりする(飛行機でテロに遭う可能性より、車で事故に遭う可能性のほうが圧倒的にでかいので、かえって危険 だ)。

また、人は裏切りに過剰に反応する。たとえばシートベルトやエアバッグがわずかなトラブルを起こす可能性があると(仮に可能性があるとしても救われる人命に比べれば微々たるもの)、それを理由にシートベルトやエアバッグをすべて否定したがる。ワクチンの副作用もその一例だ。ワクチンにごくわずかな副作用の可能性があるというだけで、かなりの数の人が、ワクチンで防げるずっと大きな被害を無視して反ワクチンに走ってしまうのだ。

そうした文句について政策はどう対応すべきか? 本当は、費用便益と科学的な研究結果を掲げて、「いいから言うこと聞け」「テロなんか心配するな」「シートベルトしろ」「ワクチン打て」「副作用があればそれは補償するから」と突き放すのも見識ではある。でも、人々がそうした行動経済学的な歪みに過剰に反応すること自体が、社会に費用をもたらす。すると、政府が何か純粋理論的には必要ないものであっても対応をしてみせて、安心させる、といった政策も費用便益の面から正当化される、とサンスティーンは述べる。

少し考えると、そこで政府がきちんとデータと裏づけを提示することで、国民を落ち着かせるという選択肢もありそうなんだが……実はそこで政府がまともなデータや裏づけを出すと、かえってそれが不安を煽ってしまうという悲しい結果も紹介されている。ほとんどの人は、データを見せられてもそれをまともに理解する能力がそもそもない。データで人を煙に巻こうとしているんじゃないか、ごまかそうとしてるんじゃないか、とかえって疑心暗鬼になってしまい、果てはそもそもそんなデータがあること自体が怪しい、ということになってしまう。それに、感情的になっている人々は、反論されたこと自体にさらにいきりたって、そもそも理性的に話を聞く状態ではなくなっていることが多いのは、みなさんもおそらく体験したことがあると思う。

サンスティーンによると、そういうパニックに対して政府がとれるいちばんいい方法は、はぐらかしたり、話をすりかえたりすることで(たとえばアメリカで、9・11後のテロの不安に対し飛行機を使うのが愛国的な活動だと大統領がぶちあげたりとか)、パニックが薄れるのを待つことなんだそうな。HPVワクチンでも、厚労省は少数の反対論者たちにまじめに対応せず、やるにしても何か形ばかりでやりすごす手もあったのかも。

(ちなみにこの『命の価値』は、ほとんどはちょい実務レベルの細かい面倒な費用便益の考え方をめぐるもので、このネタはごく一部でしかない。こういう話題を中心に扱った本としては、この連載で前にぼくも扱った、同じサンスティー『恐怖の法則』勁草書房)のほうが詳しい)

もちろん、その一方で地道に費用便益と科学の面からの正当性は地道に提示し続け、そしてそれでも不安を抱き続ける人には、追加の費用をかけてもその不安に応える方策でそれをなだめることも必要だ。かつて福島の原発事故後、内部被曝に怯える人のために、東大の早野龍五教授 (当時) が中心になって幼児用被曝測定装置ベビースキャンを開発した。当時のデータからすればそもそも内部被曝の心配はなかったそうで、純粋に費用便益的にいえばこれは不要ではある。でも恐怖とそれに伴うパニックや不安があるときには、それを抑えるためにこうした措置も正当化される。その意味で本当は、あれは公共がやるべきことではあった。いまも続く福島産の米の全量検査もそうだ。いまや全量検査をいつまで続けるべきかが議論になっているけれど、これはまさにこの恐怖と不安がもたらす社会的費用と全量検査の費用とのバランス問題ではある。

いずれにしても、HPVワクチンをめぐる議論が勃発した時点から科学的な知見はずっと高まり、HPVワクチン接種をもっと促進すべき根拠はすでに確立している(だから村中の活動が評価されたわけだ)。本来、メディアは、政府の方針切り替えに向けてもっと事実の紹介を進めるべきだ。そしてメディアがだんまりを決め込んでいても、厚労省の専門家たちはやるべきことがわかっているはずだ。日本産婦人科学会もすでにたびたび、接種推奨の再開を求める声明を出している。今回の一件を期に、きちんとした対応がとられ、そしてマスコミも、せめてその足を引っ張らないようにしてくれるとよいのだけれど。

で、全然関係ない話(というか、上の話が入ってくるまではこれが本題だったんだけど)。ロビン・ダンバー『人類進化の謎を解き明かす』(インターシフト)だ。

人類進化の謎を解き明かす

人類進化の謎を解き明かす

人類の進化についての本はすでにいろいろあって、どれも?そんなに目新しい知見がどんどん出てくるわけでもない。最近の本の多くは、何か一つのことに注目して見せて、それが人類進化にとって決定的だった、という話をする。たとえば、言語が重要だったとか、歌が重要だったとか、いや肉食が決定的だったとか、火を使った料理がすごく重要だったんだ、とかいった具合。

こうした本は、それなりにおもしろい。が、その一方でどれも「確かにおもしろい視点ですが、それだけなんですか?」という感じもしてしまうのは否めない。また、なぜあるときそれが出てきたんですか、なぜヒトだけがそうしたものを発達させたんですか、という点で弱いこともある。

それに対してダンバー(そう、人間がある程度以上のつながりを直接持てる人数は150人というあの「ダンバー数」のダンバーだ)の本は、もっと総合的なアプローチを採る。本書で重視されているのは、時間収支と社会脳だ。ヒトの決定的な強みは、社会を作る能力だ。でも、社会を作るにはそれなりのトレードオフがある。それをきちんと見よう、というのが本書だ。

社会を作るとか、社会性とか、言うはやすし。でも会社や町内会その他で活動した人ならわかるように、社会は勝手にできるものではない。それを構築し、維持するための活動、つまりはそのための時間とエネルギーが必要だ。

早い話が、生物としては食べ物を探す時間が必要だ。それを実際に食べる時間もいる。休息時間もいる。社会構築活動、つまり社交に使える時間は、その残りでしかない。これは結構ギリギリのバランスの中にある。ダンバー数では、人はだいたい150人くらいの直接的な人間とつながりを持てる。類人猿では、これがずっと少ない。そしてこれを増やそうとすると、社交に使う時間を増やさねばならない。サルの時代だと、社会構築活動というのはお互いの毛繕いだ。でもこの回数を増やすと、食べ物を採ったり食べたりする時間がなくなってしまう。

つまり、そこにはすべてトレードオフがある。単純に、バカだから、劣っているから社会が構築できない、といった部分もある。社会能力は、脳の大きさに規定されるらしいと本書では指摘されている。でもその一方で、社会構築能力を発達させたところで、使い道がなければ宝の持ち腐れでエネルギーや知能の無駄にな る。

すると類人猿は、強みである社会構築をするために、他のいろんなものを同時にイノベーションする必要が出てくる。まず肉を食うことで、エネルギー確保の効率を高める。同時に社交も、毛繕いだけでなく、笑いなどの活動を通じて効率化する。そうした活動を可能にする二本足歩行といった肉体改造もある。

そしてこうしたトレードオフをだんだん解消する手段として、各種のイノベーションも位置づけられる。たとえば料理、言語や宗教などだ(ちなみに、ダンバー数を突破するためにSNSを活用しようといった浅はかな議論も一撃でたおされている)。

おおお。本書をつらぬく総合性とトレードオフの考え方は、実に説得力あるところ。そしてどの考察も、それなりのモデルとデータの裏づけがある(らしい)のも魅力。いきなり知能が高まりましたというだけで社会ができるわけではないのか。すると『サルの惑星』は実際にはありえなさそうですね。ただ、「肉食が人類を作った!」とかいうワンテーマの本に比べると、人にそのおもしろさを説明しにくいのがちょっと難点。それを理解してもらうには、こうやって長々説明しなければならない。さっき、ワンテーマ本は一面的だとグチったばかりなのに、勝手な言いぐさではあるけれど、まあ読者なんてそんなものです。一言での説明しやすさと総合性との間にもトレードオフがあるってことで。でも、おもしろいので是非是非。

ついでに、同じインターシフトの本でおもしろかったのが、マルタ・ザラスカ『人類はなぜ肉食をやめられないのか』。 ここでは、人類が(菜食主義者たちの陰謀と暗躍にもかかわらず)なかなか肉食をやめられない理由が、まさにダンバーの本で扱われたような進化的な文脈でまず語られる。肉食は、彼女(の紹介している研究)によると人の社会性の原因でもあり結果でもある。でかい動物を狩っても、かつては保存できなかったから、大人数でそれを食い尽くすしかない。

人類はなぜ肉食をやめられないのか: 250万年の愛と妄想のはてに

人類はなぜ肉食をやめられないのか

そして、もちろん大動物を狩るためには大人数がいる。肉食が、人類必須の社会構築の大きな要であり、また肉の女性に対する提供活動が男性による伴侶獲得その他の活動にも大きく役立っている、だからこそ人は肉食を捨てられないのでは、と彼女は言う。そして歴史だけでなく、おいしさ、調理方法、食肉業界の暗躍、話題の人工肉(組織培養された肉)、菜食主義運動といった肉にまつわる様々な話を紹介して、最後には菜食主義者たちのあまりにストイックな禁肉運動を批判する。「肉食やめろ!」というより、「少し減らそうぜ」のほうがずっと受け入れられやすく、結果的に食肉を減らし、動物にとっても人類の健康にとってもよいのでは、と主張して終わる。

肉食についての包括的なお話としては、バランスの取れたよい本じゃないかな。これまた、何かすごいショッキングな主張がドーンとあるわけではなくて、それが長所でもあり、いまいち良さを説明しづらいという欠点でもあるんだけれど。

ではまた。次は来年かな? あ、そういえば前回予告した『ブレードランナー2049』の話だけれど、いささか複雑な思いになってしまい、こんなコラムのイントロなどに使える長さではなくなってしまったので、ぼくのブログに書いておいた。興味ある人はどうぞ。

宗教集団・寛容・図書館大戦争

今回の「新・山形月報!」は、リチャード・T・シェーファー、ウィリアム・W・ゼルナー『脱文明のユートピアを求めて』筑摩書房)と、ミハイル・エリザーロフ『図書館大戦争』河出書房新社)を論じます。アメリカのマイノリティ集団を描いた前者と、ぶっ飛んだロシアの小説の後者を山形さんは、どう読んだのでしょう?



今回の最初の本はシェーファー&ゼルナー『脱文明のユートピアを求めて』筑摩書房)だ。何の本かというと、アメリカの比較的有名な、独特の小規模コミュニティについて、その成立や内容、社会との歴史的な対立や共存、そのメンバーの戒律や生活、そして組織としての興亡を非常に客観的な形で記述した本だ。

脱文明のユートピアを求めて (単行本)

脱文明のユートピアを求めて

ぼくはSFファンだし、また子供時代にアメリカでヒッピーたちの存在を少し見てから、その後多くのカルト集団の暴走も知ったので、こうした独自の規範や信念の体系を持つ小集団には、とても興味がある。たまたま本屋でこの本を手にとったのも、そうした興味からだったと思う。

本書のタイトルや帯のキャッチコピー(「アメリカ文明に背を向けた、10の宗教集団のフィールドワークの傑作。その精神世界と脱文明のライフスタイルとは何か。」とある)は、いささかミスリーディングだとは思う。登場する集団の相当部分は、決して脱文明ではない。また帯では宗教団体を扱った本という記述になっており、確かに宗教系の団体が多いけれど必ずしもそうでないものもある。ジプシー/ロマというのは、宗教集団というわけでもない。まぁ、でも大半は確かに宗教団体だ。映画『刑事ジョン・ブック 目撃者』で有名になったアーミッシュとか、独特のストイックな家具で有名なシェーカー、モルモン教エホバの証人ネイション・オブ・イスラムサイエントロジーなどだ。

こうした集団はどれも、独特の閉鎖的な集団を構築するし、その信念や「教義」とも言うべきものは、当然ながら一般的なアメリカ人とはちがう。だから、こうした集団の多くは、一知半解の好奇の目と、それ故の部分もある反発にさらされ続けている。その差が集団のアイデンティティになる一方で、ほとんど同じこと だけれど、かれらの受ける迫害の原因にもなる。

ということで、本書はまず、それぞれの集団についてきちんとした情報を提供してくれる。どんな背景でそれが生まれたか、どんな歴史的発展をとげてきたのか、内部の統制はどうなっていて、外部との関係はどんなものか? 参加者たちはいったいどんな経緯でそんな奇妙な(と部外者には思える)集団に加わろうと思ったのか?そして、その将来は? それはどのような形で存続し、あるいは衰退するのか?

ジプシー/ロマを除けば、本書に登場する団体はすべて、何らかのカリスマ的な創始者がいる。その思想というか教えが、たまたま時代とうまく共鳴することで集団が拡大し、存在感を増す一方で、まさにそれが周辺社会との摩擦を創り出し、批判、迫害が生まれる。同時に、拡大の中で内部からも反発や離反は生じる。

では、その組織はどう維持されるのか? 外部からのリクルートは当然ある一方で、組織内での出産による自然増で組織が維持される道もある。一部の集団は、カリスマ的な創始者が他界すると同時に求心力を失う。またシェーカーたちは、その教義としてセックスをしないので子供ができない。だから自然増による集団維持が不可能なため、集団としての存続がだんだん弱まりつつある。他方で、産めよ増やせよで、自然増を保つ集団もある。そして創始者の教えをうまく外部化し、何らかの本や体系にまとめることで存続し、拡大を続ける集団もある。

どの集団も実におもしろい。一知半解だったこともあって、ぼくは自分がアーミッシュとシェーカーをごっちゃにしていたと本書で知った。さらに本書に登場する一部の集団は、メディアに登場するときはかなり否定的な扱いになったりすることも多いし(サイエントロジーモルモン教エホバの証人)、あるいは変な好奇の目でおもしろおかしく扱われるだけのこともある(シェーカーやアーミッシュ)。本書はそうした一方的な見方を廃し、なるべくそれぞれの組織をフェアに客観的に描こうとする。だからといってメディアで取り上げられる否定的な部分を隠すわけではない。ただ、なぜそういう軋轢や外部からの批判が生じるのか、そしてそうしたネガティブな面にもかかわらず、なぜ人々はその組織にとどまり続けるのかについて、明解に描き出してくれる。

もちろん、各種団体の思想の特徴はわかるけれど、部外者のぼくたちから見れば、どの組織もかなり不思議で、異様な信念を持っていると言わざるを得ない。なぜ人がこんなものを信じるのか? 本書はそれをなるべく説明しようとはするけれど、でもそれで納得できるというものでもない。

そして、やはり本書を読んで考えてしまうのは、寛容性ということだ。多様性ある社会がよい、というお題目はもちろん知っているし、共存共栄も重要だ。こちらには理解できなくても、向こうは向こうの生き方がある、というのが基本路線ではある。だから寛容にすべきだというのは、基本的にはその通り。そして、無知や偏見に基づく不当な排除や差別は当然なくすべきだ。本書はその点でもちろん、とても役に立つ。

でも、一方であらゆる差別とか排除に共通する話ではあるんだけれど、「お互いの理解が深まればみんな仲良くできます」というわけにもいかない。一部の組織はそもそも共存共栄したいという意識を特に持っていない。多くは自分たちこそがエリートだと思っていて、自分たちの思想を受け入れない一般人とは、よくても距離をおき、ふつうは哀れみ(というのも自分たちの教えを受け入れない連中はみんな地獄行きだと思っていたりするから)、ときには向こうからも排除する。ジプシー/ロマは、非ロマをはっきり差別し、見下し、好き勝手に利用して搾取しだましてかまわない相手とみている。他にも、それに類する教義を持つ集団もいる。まさに、自分たち以外のその他の連中に対する差別意識こそが、その集団のアイデンティティを支える教えだったりするわけだ。さて、そういう人々に対する「寛容」とはどういうことなのか?

早い話が、本書には登場しないけれど、イスラム国を相手に「寛容」という話は通じるのか? イスラム国を理解すれば、かれらと共存できるだろうか? たぶんそうはいかないだろう。本書に登場する各種集団が、イスラム国のような暴力テロ集団だというのではないよ。でも相当部分は、こいつらとつきあっていくのは、よく言っても面倒そうだなあ、という印象を抱かせるものではある。本当に、寛容になれるのか、そうすべきなのか? 本書は直接そういう問題には触れないけれど、でも読む人がその問題から逃れられるとは思えない。

分厚い本だけれど、別に全体として大きなテーマとかストーリーがある本ではない。自分の興味ある(または知らない)団体についてつまみ食いすればオッケー。通読の必要はまったくない。自分の知らなかったいろいろな組織の中身がわかるという意味では、とても楽しいし「へえ~」度もきわめて高いことはまちがいない。機会があれば、ぜひぜひ。

で、それとは全然関係ない2冊目の本がエリザーロフ『図書館大戦争』河出書房新社)だ。いや、ひょっとしたら関係あるかな? というのもこの小説はまさに、変な教義を報じる怪しいコミュニティの物語ではあるからだ。

図書館大戦争

図書館大戦争

ソ連時代の三流体制派御用作家グロモフの小説には、読者の意識に奇妙な作用を行う不思議な力があった。しかもそれは、コピーではダメだ。1970年代に出版された(そして当時はだれも読まなかった)オリジナルの版でないとダメなのだ。それに気がついた読者たちは、その聖典とも言うべき本を中心とした図書館/読書室を構築し、他の聖典を求めて図書館同士が血みどろの争奪戦を繰り広げる……。

いやあ、数年前に出た本で、出た直後に買ったんだけれどしばらく積ん読にしておいたんだよね。そしてアマゾンのレビューでもあまりいい点数になっていないので、そのままどんどん埋もれていたんだけれど、手を出してみたらむちゃくちゃおもしろい。本の力で覚醒した老人ホーム軍団、初めて本の力に気がついた正 統派図書室軍団と、受けついだ本ごとに得られる力も、その軍団の組成もちがってくる。そしてたまたま叔父からその本を相続したため、少数精鋭のある読書室の司書になってしまった主人公は……。

最初のうちは、本が持つ秘めたる解放の力を描く、ある意味で本の好きなブッキッシュな小説のようにも思える。でもそれだけに、最後の救いのないラストは驚き。すべての「本」の力を得た究極の読者となる主人公は、そこから逃れられない絶望的な存在にされてしまう。本書を読んで否定的な印象を抱いている人の多くは、前半の血みどろバトルは大いに楽しみつつ、この最後の救いのなさに戸惑っているようだ。

でもある意味で、それは本が持つ—あるいはその本が象徴するソ連時代が持つ—閉塞感のあらわれでもある。本の力をあやつる老人たちにより、傀儡となって存続しつづける存在である若者—それを単純にソ連時代への郷愁とみるか、それとも現代ロシアの若い世代が感じている、かなりひねくれた時代認識のあらわれと見るかは、読者次第だ。この連載で紹介した『青い脂』『親衛隊士の日』の作者ソローキンが好きな人ならたぶん気に入ると思う。ただ、ソローキンより書きぶりは軽いものの、根底にあるわだかまりはもっと複雑かもしれない。

なんか今回はどちらもストレートな感想文になった。次回はどんな話になるか……ちょうど『ブレードランナー2049』を見たので、それとからめた話を何かできるかな。ではまた。

道徳感情・SF的アイデア・フランケンシュタイン

今回の「新・山形月報!」は、管賀江留郎『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』洋泉社)、バリントン・J・ベイリー『ゴッド・ガン』ハーラン・エリスン『ヒトラーの描いた薔薇』(ともにハヤカワ文庫SF)、藤井太洋『公正的戦闘規範』ハヤカワ文庫JA)などに加え、『ブレードランナー』に絡めて、田中千惠子『『フランケンシュタイン』とヘルメス思想』水声社)までを論じます。



さて、今回は珍しく前回の予告通り、SF系で……という前にまず、抱えていた本を片付けよう。一年以上前の本ながら、どっかで何か言わねばならないと思いつつ、ずっと先送りしていた管賀江留郎『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』洋泉社)だ。

冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか (ハヤカワ文庫NF)

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心

 これはとっても変な本だ。『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』という題名なので、そういう説明が書いてあるんだろうと思って本を開くと……1941年から42年にかけての「浜松事件」(Wikipediaでは別の抗争事件と区別するため「浜松連続殺人事件」となっている)という聞いたこともない事件の説明が延々と続く。これは前ふりだろうと思って読み進めると、一向に終わらない。事件の概略、それを捜査し、事件を取り巻く人間模様、その担当刑事・紅林啓治と、かれが後に作り出したえん罪事件の二俣事件、さらにはそれらを担当した弁護士たちの様々な人間模様までが次々に明かされる。

 そして、その調査も徹底している。管賀江留郎という人を食ったペンネームのこの人物は、「少年犯罪データベース」で知られる。このサイトのデータは、文化人などが「最近の若者はキレやすい、暴力的だ」といったインチキな発言をするたびに、反証事例として引き合いに出される。国会図書館にこもって古い地方紙などの細かい記事をひたすら漁る調査能力は本書でも遺憾なく発揮されていて、関係者の得体のしれない自費出版本、さらには事件の遺族にまで直接ヒアリングをするという行動力まで発揮。ちなみに、こうした遺族のヒアリングについては、かの殺人評論家である柳下毅一郎が手引きしたとか。

 それだけの調査を背景としたこうした事件の記述はめっぽうおもしろい。おもしろいんだが……しばらくするうちに、はて、自分はなぜこんな、聞いたこともない昔のえん罪事件の詳細をあれこれ読まされているのだろうか、という疑問がわいてくる。道徳感情はどこで出てくるんだ!

 それがやっとまとまった形で出てくるのは、本書も後半にかなり入ったところ。えん罪が起きるのは、捜査する側、裁判する側、そしてマスコミが、思い込みで勝手なストーリーを作り上げて事足れりとしてしまうから、と指摘するのだ。人間は社会を成立させるために、互恵的利他主義を生み出した。情けは人のためならず、因果はめぐるというやつだ。そしてその因果に基づき、他の人が何か規範を逸脱するようなことをしていたら、自分が損をしてでも、それを罰しようとする仕組みができている。それをやることで社会の中で自分の評判があがり、いずれは自分に恩恵をもたらす。そして、なんとしてでも規範に外れた行為を罰しなければ、という思いが安易なストーリーへの飛びつきを促してしまう。

 これは人間の発展にとってはとても重要な仕組みではあった。でも、互恵的利他主義がある意味で暴走してしまう結果として、人はたとえば因果関係のないところにすら勝手に因果を見て、お話を作ってしまったりする。そして、そのお話のもとになるのは、勝手な社会的偏見だったり単なる偶然だったり。それがえん罪にもつながるし、またときには差別の原因にもなり、テロや集団虐殺にすらつながる、というのが本書の主張だ。では、それに対抗するには?

 一つの手は、そうした社会や因果と関係なく生きることだ。他人とのつながりを断って、涅槃の境地に入る——お釈迦さんの悟りのような方法——だ。でも一方で、人が勝手に因果関係をでっちあげてしまう認知バイアスを持つ事を認識し、そのバイアスを話し合いを通じて矯正し、「公平な観察者」に近づけるような民主主義を実践する道もある。だからこそ民主社会は強い! そして、それを『道徳感情論』で指摘したアダム・スミスはすごい! これが管賀の見解だ。

 うーむ。

 ある意味、めまいがするような本だ。なんだか全然関係ない話が延々展開したと思ったら、それが最後にするするっと予想外の方向に流れてまとまるのは、爽快というべきか、キツネにつつまれた気分(つままれた、が正しいのは知ってるが、つつまれるほうが好きなのだよ)。宮崎哲弥の言うような名著かどうかはわからない。怪著と言うべきか。

 難を言うなら、それまでの具体性を掘り下げた実録に対し、結論がいきなり大風呂敷な抽象論になり、バランスがえらく悪いこと。人は認知バイアスがある。だから客観的な証拠に基づいて自分を常に修正する努力が必要だ——それはその通りだと思う。間接互恵性を維持するために、ストーリー作りと、自分が損をしてでも不正をしたやつを罰する必要があるという道徳感情が生まれる。これまたその通り。でも、これだけならこの数百ページに及ぶえん罪事件の前置きはいらない。事件そのものの記述の具体性の後で、なんか結論部分はとってつけたような印象さえあって、全然別の本を二冊読まされたような気分になる。とはいえ、そのどちらの本もめっぽう(ちがう意味で)おもしろく、そして三回ほど読むとそれが少し融合してきて、著者の主張もわかりやすくなるかな。

 ではやっとSFの話に移ろう。まずはバリントン・J・ベイリー『ゴッド・ガン』(ハ ヤカワ文庫SF)。これは……。ベイリーという作家は、ワイドスクリーン・バロックという意味不明のレッテルを貼られているけれど、その真骨頂はかれが矢継ぎ早に繰り出す得たいのしれないアイデア。表題作「ゴッド・ガン」は、神を殺す話だ。タイトルだけ見ると、神は死んだ、というなにやら形而上学的な話が 展開されるように思うだろう。でもバリントン・J・ベイリーは、あらゆる観念や比喩を物理的実体に置き換えてしまうという異様な力を持っている。この本当に短い短編は、まさに本当に物理的に神様を殺すお話、なのだ。そして殺してどうする? どうもしない。とにかく殺せるから殺す。それだけ。

ゴッド・ガン (ハヤカワ文庫SF)

ゴッド・ガン (ハヤカワ文庫 SF ヘ)

 その他すべての小説も、「よくまあこんなことを考えつくものだ」というような、本当の奇想ばかり。知恵比べという意味で使われるブレインレースを文字通りにとらえ、本当に脳みそが競争してしまうというとんでもない話に仕立てたり、蟹がアメリカン青春ドラマしてみたり。

 いやあ、大学時代のぼくはベイリーのくだらない思いつきに喜んでいたけれど、年を食ってくると、昔おもしろかったものが、ずいぶんあほくさく見えることはよくある。本書もそうなんじゃないか、とぼくは恐れていた。大学時代にあんなにニタニタさせてくれたものが、つまらない思いつきに感じられるのでは、 と。

が、それは杞憂。というよりぼくはこれを読んで、この人が学者になっていたら——物理学者でも経済学者でもなんでも——なんかとんでもない業績を挙げていたんじゃないかという気がしてならなかった。この異様な発想力、そしてそのありえない思いつき、他の人ならもてあましてそのまま忘れるであろう着想を、無理矢理それっぽいお話にまとめあげてしまう能力は、なんかもっと人類のために使えたんじゃないか。かつてSF作家ジョン・スラデックについて、前出の柳下毅一郎が「天才をひたすら無駄づかいした」と(いい意味で)評していたけれど、ベイリーもそんな作家ではある。おかげで、SF読者たちはこんなわけのわからん小説をたくさん読めて、ありがたいわけではあるけれど。

続いてハーラン・エリスン『ヒトラーの描いた薔薇』(ハヤカワ文庫SF)だ。エリスンについては以前、『死の鳥』(ハヤカワ文庫SF)を『ケトル』で取り上げたことがある。そのときの評は、「アドレナリンたぎる性欲と暴力衝動と権力欲を、とんでもない華美な文でくるんだもの」というものだった。本書はそれに続く、エリスンの短編集第3弾となる。

 集められた作品は、これまでの二つの作品集よりは、落ち着いたものといえるだろうか。アドレナリンはある。怒りや衝動はあるけれど性欲は落ち着いたかな。そして理不尽な状況が怒りよりも哀しみに向かうものが多くなっている。人種差別、疎外など、その怒りや悲しみの源泉が具体的になったものが多い。エリスンも成長したというべきなんだろうか? 表題作の、悲惨と哀しみの果てに、何が変わるわけではないのに救いのようなものがあり、その背後でかつての独裁者が美しい絵を描き続ける、叙情的としかいいようのない雰囲気などは絶品。エリスンもまたベイリーとはちがった変なアイデアの持ち主ではある。でもその出方が、論理の変な追究とは別の方向を向いていて、これまたまったくちがう世界につれていってくれているのだ。初めて読むなら、『死の鳥』とか『世界の中心で愛を叫んだけもの』のほうがいいかもしれない(そのほうが衝撃はでかい)。でもそれが一区切りついたところで、この一冊も得がたい感触を残すものとなる。

そしてもう一つ、藤井太洋の短編集『公正的戦闘規範』ハヤカワ文庫JA)。藤井の作品のおもしろさは、ドローン、AI、量子コンピュータ、電子通貨その他の技術的な面に、現在の様々な世界情勢を反映した世界観が組み合わさって、まったく予想外の結果がもたらされることだ。技術も、ピカピカした先端研究だけでなく、それが(たとえば中国での違法コピーも混じった量産などを経て)コモディティ化するプロセスまで考慮し、世界情勢も本当にいまの各地での民族紛争や宗教対立を十分に咀嚼して投影したものとなっている。 ベイリーやエリスンとは全然ちがう、実務型のアイデア噴出とでも言おうか。技術の未来と、そこであらわになる人間の本質はまさに現代SFのあるべき姿だろう。おすすめです。

 さて最後、まったく関係ないが『ブレードランナー2049』公開記念も兼ねて…… 元の1982年の『ブレードランナー』が、ボリス・カーロフが初めてフランケンシュタインの怪物を演じた映画『フランケンシュタイン』に大きく影響を受けているのは有名だ。最後の風車のシーンと、『ブレードランナー』での 換気口ファンの多用との重なり具合はよく知られているし、人造人間と本物の人間の葛藤というテーマは当然同じ。むろんこれはディックの原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(ハヤカワ文庫SF)のテーマでもあり、そして同時にメアリー・シェリー『フランケンシュタイン』のテーマでもある。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

ふつう、『フランケンシュタイン』というと、マッドサイエンティストが怪物を創り出してしまい、それにより破滅する話と思われている。つまりは、現代科学の危険性を訴える、SFのはしりというわけだ。

でも、田中千惠子『「フランケンシュタイン」とヘルメス思想』水声社)は、その見方が必ずしも妥当でないことを示す。フランケンシュタイン博士は、科学者であって、科学者ではない。かれはもともと錬金術などの秘教学に傾倒していたことが明確に描かれている。それは『フランケンシュタイン』の1818年版(現在の定本は1831年版)では、さらにずっとはっきり出ていた そうな。

 そしてそれを念頭におくと、フランケンシュタインの怪物はむしろ錬金術的な主題のあらわれだし、本そのものの意味合いもちがってくる。本書は基本的に著者の博士論文なので、やたらに引用や参考文献が多く、少し読みにくくはある。でもまだあの古典にこんな変わった解釈があり得るのか!

『フランケンシュタイン』とヘルメス思想―自然魔術・崇高・ゴシック

『フランケンシュタイン』とヘルメス思想―自然魔術・崇高・ゴシック

 もちろん、メアリー・シェリーが科学に反発して錬金術万歳といいました、というようなものではない。作品中でも、フランケンシュタイン錬金術的な関心は科学者たちに罵倒され、さらに電気の威力を見てフランケンシュタイン自身もそれを捨てるところは描かれているそうな。それでも、世界のとらえ方としての 錬金術やヘルメス思想(これが何なのかは面倒くさいので細かく説明しないけど、宇宙の一体性みたいなのを重視したがる錬金術や魔術に通じる思想とでも思っておいてください)は脈々と生き残る。そして『フランケンシュタイン』は、そうした思想の実現として、もっと高い存在になろうとするフランケンシュタイン博士と怪物の姿を、ヘルメス思想のイメージを縦横に使うことで高らかに歌い上げているのだ、と本書は主張する。

 もちろんその思想自体は、いまから見ればへんてこなものだ。そしてまた、『フランケンシュタイン』でそうしたイメージや思想が描かれ、高い存在への昇華が歌われつつも、両者は最終的に破滅を迎えてしまう、という事実については本書はあまり触れず、そこにそうしたイメージがあることだけを重視する。でもぼくは、メアリー・シェリーもそうした錬金術・ヘルメス思想的なイメージを完全に復活させ評価する気はなかったために、あの物語が最終的に悲劇として終わっているんじゃないかとは思うのだ。そうなると、あの小説は暴走科学への警鐘といった通俗的な理解の一方で、ひょっとしたら錬金術・ヘルメス学的な世界観の敗北をも示すものかもしれないとか、いろいろ無責任な読者としての思いは広がる。

だけどその一方で、いまだにそうした思想はいまだに通俗的な魅力を持ち続けている。それは変な民間療法に人々がはまる原因でもある一方で、人がロボットや人工知能——いや自動車や人形やトースターやコンピュータにすら——人格や意識があるように思ってしまう原因でもある。さらに、その思想はノーベル経済学賞を取ったリチャード・セイラー行動経済学的なバイアスにも通じるものかもしれず—というのは話があさってに行きすぎなのでおいておこう。でもそれならば錬金術・ヘルメス学的な発想は、新旧両方の『ブレードランナー』が人々を魅了する深みの源泉にもなっているのではないか?(たぶん。新しいほうはまだ見ていないもので)。

というようなところで、今回はおしまい。レムは読み終わるのにもう少し時間がかかりそうだし、そうこうするうちにナボコフ『アーダ』早川書房、上下)新訳も出たし、ソローキンの新作もあるし、どこまでカバーできるかは、今度のお楽しみ。ではまた。

反脆弱性・歩く・マネーマーケット

お久しぶりの「新・山形月報!」、今回はナシーム・ニコラス・タレブ『反脆弱性』『ブラック・スワン』(ともにダイヤモンド社、上下)を中心に、キャス・サンスティー『最悪のシナリオ』みすず書房)、レベッカ・ソルニット『ウォークス』(左右社)、ジョン・ケイ『金融に未来はあるか』ダイヤモンド社)などを取り上げます。



ご無沙汰。このcakesの他の連載陣を見ていると、どうもぼくのこのコラムがずいぶん場違いに思えて、今ひとつ書く意欲を失っていたというのがある。もっと身の上ばなしとか芸能ネタとか、お気軽な感想文とか、そんなのほうが需要あるんじゃないかなあ。そうはいっても今回復活したのは、別にそういう方向に中身を転換したわけではなく、相変わらず昔通りではあるんだけれど。

で、久々のコラムで少し大物をやるかと思って、ナシーム・ニコラス・タレブ『反脆弱性』ダイヤモンド社、上下)を手に取ったんだけれど……ごめんね、ぼくにはそんなにすごい本だとは思えなかった。というより、ぼくとは相性が悪かったというほうが正確かな?

反脆弱性―不確実な世界を生き延びる唯一の考え方 上下巻セット

反脆弱性[上]—不確実な世界を生き延びる唯一の考え方

タレブというと、例の『ブラック・スワン』(ダ イヤモンド社、上下)の人だ。それがずいぶん世界的に話題になって、おかげでタレブの名が知れわたったんだけれど、ぼくにはあまり大したことを言っている本には思えなかった。要するに、ときどき予想外のことが起こりますよー、というだけ。それも知っている現象で予想外に規模が大きいものが起きるばかりではなく、全然予想もしなかったことが起きるよ、という話。うん、そうだねえ。それで?

たまたま、この本の原書はリーマン・ショック直前あたりに出たので、まさにその発生原理を言い当てた、みたいな不当に高い評価が出回り、ずいぶん得をしたと思う。そしてまた、『ブラック・スワン』が新しい学問的知見をそこそこおもしろく表現しているのは事実だ。でも、それが自身のすごい慧眼による、他のだれも気がつかない発見なのだとしつこく言われると—しかも分厚い本上下巻にわたってだと—うんざりする。

そうした点については、拙訳ジョン・クイギン『ゾンビ経済学』筑摩書房)でも言及されている。その評は以下の通り。

限定合理性と認識不在に関する文献はまだ草創期だし、専門家以外は読んでもちんぷんかんぷんだろう。それを通俗化したいちばんよい本はTaleb (2007) [注: タレブ『ブラック・スワン』] だが、著者は自分に特別な洞察があると主張するものの、他の経済学者はだれもそれを認めていないので、眉にツバをつけてかかるべきだろう。

その通りだと思う。

で、『反脆弱性』は、そのタレブの新作だ— といっても原作が出たのは2012年ではあるのだけれど (そんなにむずかしい本ではないのに、なぜこんなに遅れたのかはナゾ)。が、正直言って、あまり代わり映えしない。世の中、なんでも予測可能で計画し管理できると思っている、学者とか役人とかビジネスマンとかいうクソバカな連中がいる、とタレブは批判する。でも実際は、世の中の出来事は正規分布ではなく、外れ値のでかい事象がいつドーンとやってきて、これまでの常識をひっくり返さないとも限らない。だから、予測可能なことしか考えない連中や、そいつらの作る仕組みは脆い。その予想不可能な事象が起きる確率は、わからない(それがほぼ「予想外」の定義だもの)。だけれど、それが起こった場合の影響はわかる。 原発の事故は、めったに起こらないかもしれないけれど、起きた場合の被害はすさまじい(とタレブは言う)。金融危機は、確率はわからなくても起きたときの危険は大きい。

だから、そんな知ったかぶりの予測なんか信じてはいけない、とタレブは言う。そういう連中の考える仕組みは脆弱で、予想外のことが起きた瞬間に崩壊するんだって。しかも、そういう脆弱な仕組みを考える役人や学者どもは、後付けで「いや自分はそういう予想外のことを予想していた」と言い出すので、その危機を採り入れることもできず、なおさら始末におえないとタレブは言う。

じゃあどうしろと? ほとんど起きず確率もわからないけれど大きな被害のある事象については、徹底的に臆病になって、一方でそうした予想外の影響がプラスになる現象については積極的に取りにいけ、という。普通の連中は、まったく安全な資産から、だんだんチマチマと中リスク中リターンなものに資産を広げていくけれど、どんな及び腰じゃだめで、ガチガチに安全な資産を大量に持ち、ごく一部はものすごい低確率ながら大プラスに転じそうなところに突っ込む。リスクの両極端を保有するので、タレブはこれをバーベル戦略と呼ぶ。そうやって、予想外のブラック・スワンのマイナス面を避け、プラス面を活用できる仕組みが 反脆弱、アンチフラジャイルなんだって。

んでもって、実は自然や古くからの人間の習慣は、経験則(ヒューリスティクス)という形で知らないうちにそうした反脆弱な仕組みをやってきた。だから目新しい話に飛びつかず、わかんないことがあったら昔からの習慣とか常識とかヒューリスティクスに従うのがいいよ、という。

さて、ぼくはこの本に書いてあることが、ことさらまちがっているとは思わない。確かにそういう部分はあるだろう。それに、本書によれば、ぼくはずいぶん時代を先取りした反脆弱性の権化ということになるので、なんともこそばゆいところ。本をたくさん持ってる自由人が反脆弱? つまみ食いのブリコラージュ屋が反脆弱でえらい? いやあ、ぼくのことですか、照れるぜ。ほめられるのは嬉しいことだ。でもその一方で、ふだんのぼくは売上げがたたずに結構トホホな状況というのも事実。プラスのブラック・スワンを活かせるのはいいことだけれど、それは定義からして、滅多に起こらないことなので、それだけではなかなかやっていけないのだ。さらにぼくは、タレブ当人ですら自分のご大層な説教を実践できているとは思わない。

予想外の事態が起きてその被害が大きければ、それに対しては徹底的に臆病になれ、という。ふーん。つまり外を歩いていて、隕石や雷が落ちてきて死ぬ可能性はきわめて小さいけれどゼロじゃないよね? 通り魔に刺されたり撃たれたりする可能性は、それよりはるかに大きいよね。そしてそれが起きたらもう自分は一貫の終わりだ。するとそれに対しては徹底的に臆病になるのがいいってこと? 完全防護服で歩くか、いや外にまったく出ないほうがいいかも。さて、タレブはそんなことしてるんだろうか?

たぶんしてないと思うんだ。いまのはちょっと戯画化したけれど、それでも低確率だけど起こったら大変な事象なんていくらでもある。でも、ぼくたちはそんなものを心配しない。タレブの依拠するヒューリスティクスとやらも、そんなものは心配していない。そういうヒューリスティクス言語化した故事成句に「杞憂」というのがある。ブラック・スワンの大半はこの杞憂のたぐいだ。後付けであれこれ書けば、いかにもタレブは慧眼に見えるけれど—でも本当にそうなのだろうか。そして、そんな偶発事は心配しても仕方ないから、もう少し起こる可能性があるものについてだけ考えればいいというなら—それはつまり、結局発生確率を考慮するという話じゃないだろうか。

ちなみに、そうした低確率だけれど被害の大きいリスクにどう対処するかについてはキャス・サンスティー『最悪のシナリオ』みすず書房)を参照。これはまさに、そういう事象でもきちんと考えて予防や対策を採ろうという本だから、たぶんタレブにかかるとこのサンスティーンも脆弱論者(タレブはそれを「フラジリスタ」と呼ぶ)の権化だと罵倒されるんだろうけれど、でも結局のところ、ぼくたちはなんらかの発生確率見通しをもって、将来に備えるしかない。タレブっぽい物言いは、予言者めいているので、かっこよく思う人がいるのかもしれない。でも、百年に一度の予測不能な事態があるからといって、そればかりを重視した仕組みを作ったり、それ以外の時期の予測できる現象を無視したりするのは変だ。できる範囲で、確率を考え、被害想定をしつつ対処するしかない。

最悪のシナリオ―― 巨大リスクにどこまで備えるのか

最悪のシナリオ— 巨大リスクにどこまで備えるのか

サンスティーンは、人々が突発的で目立つ事象に注目し、過剰反応するという行動科学/行動経済学の知見を援用しつつ、それを考慮したうえでどんな政策対応をすべきかについて検討する。その基本は、できる限りの範囲で予測した発生確率に基づく費用便益分析だ。それに対して「確率がわからないブラック・スワン事象もある」という批判は、事実だけれど、でも役には立たない。人は、いつ起こるかわからないことに怯えて暮らし続けるわけにはいかないんだから。わかる範囲でできる限りのことをするしかないんだから。

そしてタレブが本書で「オレはわかってた」「あいつらはこれがわかってないのは脆弱な連中だ」と言いつのるほとんどが、ぼくには後付けの岡目八目に思える。また、その発言も説明不足の放言に見えてしまう。たとえば、この人の罵倒する一人が、大経済学者のスティグリッツだ。タレブにかかると、スティグリッ ツは後から自分の発言を変えて、しかも記憶まで捏造して「自分の指摘した通りだ」と開き直るインチキ野郎ということになるんだが……具体的にどういう発言についてそう思っているのか、タレブは本文中で明記しないんだ。なんでも金融危機の話らしいんだけど。

でも、ぼくはスティグリッツが、自分は金融危機を予測していたなんて豪語しているものを読んだことがない。そしてまた、スティグリッツだって(そしてタレブが罵倒する人々の相当部分だって)自分たちの理論やモデルがすべてを予測できているとか、完全にすべてを計画し尽くせているとは思っていないはずだ。特にスティグリッツは、そういう大理論の人ではないはずなんだけどね。

そして本全体が、無意味な自慢のオンパレード。二言目には、オレがオレがと出てくる。金融もオレのほうがだれより見通していた、医療もインチキな医者どもよりオレがすぐれてる、インターネットのウェブの可能性もオレは見通していた、ニューヨークの橋を映画撮影で通行止めにさせた当局よりオレが交通を理解してる、あーだこーだ。ボディビルしました。古来のワインとかコーヒーしか飲まないぜ。最近の果物は品種改良されてるからよくないぜ。オレはちゃーんとそれがわかってるのに、医者どもは無知でフラジリスタだから信用できないぜ。技術屋なんか視野の狭いオタク集団だぜ。オレはおめでたい学者をこんなに出し抜いてやったぜ。

いやあ、すごいですねえ。でも、ぼくも頼りにしている古来のヒューリスティクスがあって、自慢ばかり多いヤツは信用するな、というんだ。読めば読むほど本書は自慢まみれでうんざりしてくる。信者なら「タレブ様ってすごいわ!」と本書を読んで感銘を受けるのかもしれない。オレは本を読んでる、古典を見ている、といった自慢を見て、タレブが本当にえらいと思うのかもしれない。アラビア語ができるとかいうので感心している人も見かける。でも、ぼくはそうした自慢がほとんど本筋と関係ないと思う。それをなくせば、たぶん上下巻の無用に分厚い本は、30ページくらいで全部おさまるんじゃないかと思うんだ。

ただ、その(30ページでおさまるかもしれない)本筋の部分では、ちょっとはおもしろいことも言っているとは思う。完全にまちがった見当違いのことは言っていない。その意味で、ここでいろいろ論難したのはむしろその書きぶりとぼくの相性が悪い、ということなのかもしれないとは思う。こういうのが好きな人は 好きなようだし。完全に上から目線で説教されるのにひれ伏すのが好きな人か、あるいは大口叩きを半ばお笑い的に愛でるのが好きな人は、ひょっとしたら大いに楽しめるかもしれない。その意味で、完全に捨て去るのもためらわれる面はあるので、うーん。

ちなみに、タレブは『反脆弱性』で、歩くことが何か重要ではないかというのを思いついて、それをずいぶん得意げに吹聴してる。そして確かに、歩くことは人間の文明にとっても思考にとっても、実に重要だ。だからタレブもひらめきはいいのかもしれない。でもそれを思いつきに終わらせず、きちんと展開し、調べていけば、 まったく新しい世界が開けてくるのだ。それをまさにやってくれたのがレベッカ・ソルニット『ウォークス』(左右社)だ。そしてこれは、めっぽうおもしろい。歩くことが、思想にも都市にも社会にも大きな影響を与えたのを彼女は様々な文献や体験を元に明らかにする。

ウォークス 歩くことの精神史

ウォークス 歩くことの精神史

彼女は東日本大震災の少し前に翻訳が出た『災害ユートピア』亜紀書房)で知られる人だ。あの本でも顕著だった、完全に客観的でもなく、完全に主観的でもない、対象に寄り添うような書き方で自分自身の問題としても「歩く」という行為をとらえ、それを読者と共有しようとする文章はとても快い読後感を与えてくれる。彼女はタレブみたいに、自分が「歩く」ことの隠された意味に独力で気がついたようなことは言わない。でも、その洞察が思わぬ広がりを見せる驚きと喜びを、文を通じて共有してくれる。そして、その洞察が過去や現在の多くの論者とつながり、人間の文化そのものにつながる様子を素直な驚きとともに描き出してくれる。

そうした広がりは、地震津波金融危機のような派手な現象ではないけれど、でも世界を変え、人類を変えたものだ。それを、こんな形で(タレブみたいな単なる思いつきの放言にとどまらず)まとめてくれることで、ぼくたちはさらなる文化や世界の広がりを持てる。まったく知らなかった予想外の事実が判明する本ではない。でも、ぼくたちみんなが薄ぼんやりと感じていたことを、こうして鮮明な形で描き出してもらえるのは実にありがたい。そして本書自体が、「歩く」 ことをめぐるその精神の歩みそのものの実践だ。それを読むぼくたち自身も、その歩みを精神的にも肉体的にも引き継ごうという、明るい希望を残してくれる。 ウォーキング発想法みたいな安易な話ではないし、意外なネタが満載という本でもないけれど、つながっていなかった様々なものがつながる楽しさがそこにはあ る。

さて、タレブが帯に推薦文を書いている別の本がジョン・ケイ『金融に未来はあるか』ダイヤモンド社)だ。これ自体はおもしろい本で、いまの金融が変なマネーゲームになっている状況を批判し、それが実は何も生み出さない無益な活動であり、銀行が変なリスクを取るように仕向けることで金融—そしてそれに頼る社会—の不安定化を招いているのだ、と主張する。

金融に未来はあるか―――ウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実

金融に未来はあるか—ウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実

そしてタレブが推薦文を書くのはうなずける話で、それに対する対処法が、タレブの主張と同じなのだ。答えは、銀行が自分の融資先をきちんと把握し、リスクを取ってその範囲で活動しろ、というもの。何かあったら、自分が損をかぶるようにするということだ。いまは、政府がいろいろ預金保護だのを救済だのを行うため、金融業は他の人のお金で博打を打つインセンティブが生じてしまっている。それをやめよう。変な証券取引だの、自分の融資を証券化して売り払ったりだの、いかがわしい活動には手を染めさせないようにしよう。そういう派生商品とかは組み合わせ次第でブラック・スワン事象を生み出しかねないから、というわけだ。要するに、古き時代の銀行業に戻りなさい、というのがケイ(とタレブ)の処方箋となる。

さて……これはまあその通りの部分はある。そして、この本がなかなかおもしろく、いまの金融業の大きな問題を非常に明快に指摘しているのは事実。わかりやすいので、あまりこの業界に詳しくない人も、一読して損はない。もちろんそこで言われていることは、金融危機後に出た様々な解説書とそんなにちがっているわけではないし、その意味では目新しい知見があるわけではないとも言える。でも当時の危機だけではなく、もっと大きな金融業への批判としては、よくまとまっている。

でも、まず他の見方もあることを理解しよう。むしろいまの金融業はそうしたチンマリした商売にとどまらず、もっと大きく証券化とか派生商品とかをどんどんやって、社会のリスクをますます分散させるように機能させ、ブラック・スワン事象もあれもこれもすべて金融化してしまうべきだ、という拙訳のロバート・ J・シラー『それでも金融はすばらしい』東洋経済新報社)のような主張もある。これは正反対の主張だ。ぼくとしてはどちらか片方を選べと言われたら、個人的にはケイの主張を選びたくなるところだけれど、でもちがう見方もある、というのは理解しておくといいだろう。

さらに金融危機との関わりだけ見ても、それは話のごく一部であって、実は本質ではない、というのをぼくは最近、付け焼き刃で勉強しつつ理解するようになってきている(そんなの常識だ、という人は、まあ笑ってください)。

こうした古き良き銀行業のあり方を言うとき、特にアメリカではしばしば「ジミー・スチュアート型銀行業」という言い方をする。これは、フランク・キャプラの名作映画『素晴らしき哉、人生!』から取ったものだ(最近、ウィル・スミスがリメイク版を出したけれど、まちがっても手を出さないように)。クリスマス映画の定番で、金融系の学者や評論家の 多くが引き合いに出すので、一度見ておいて損はないらしい(と言いつつ、ぼくもDVDは買ったけれど未見。子供がいると、まとまってビデオを見る時間が取 れないのよ)。ジェームズ・スチュアートはその主人公を演じる。かれは住宅金融組合を経営しているのに、そこで取り付け騒ぎが起こる。そして、個人の貯金をはたいてそれを弁済し、自殺を考えているところへ天使がやってきて、自分がいない世界の様子を見せられる、というものなんだって。

ジミー・スチュアート演じる主人公は、地元でお金を集めて、それを地元のプロジェクトに融資している。己のリスクを十分に知り、融資プロジェクトについても熟知している。それが昔の銀行だった。さて、そこに戻ればいいのだろうか? そもそも、それで銀行破綻してきつかったからこそ(というのも、長期を犠牲にして短期で儲ける手はいろいろあるからだ)、いまの銀行を守る制度ができているわけだ。時計の針を戻して、銀行を昔ながらの活動だけに限定すれば金融危機は起きなくなるんだろうか?

そんなことはないんじゃないか。

さらにもう一つある。リーマン・ショックは、銀行の危機である以上に、影の銀行ことシャドーバンキングの危機だった。いま、世の中の大量の資金は、銀行が預金を集めてそれを融資する、という形でまわってはいない。お金の市場、つまりマネーマーケットが多くの資金の運用先でもあり、また調達先になっている。 そこでは各種の証券を担保に、形式上は売買だけれど実際には融資という形での資金調達が行われている。つまり銀行を経由せずにお金がまわるシステムができている。普通の銀行では、預金は銀行に対する利用者の融資で、それを集めて銀行は融資先にお金を貸す。でも銀行が間に入らなくても、預金者と借り手とがつながる場がマネーマーケットとして成立している。

そしてリーマン・ショックの大きな原因は、そのシャドーバンキングのほうの問題だ。そのマネーマーケットが、そこで担保として使われる証券(そのなかに証券化されたサブプライムローンも混じっていた)に対する不信のせいで動かなくなったせいだ。そのおかげで、一気に様々な参加者の資金繰りがつまずき、金融危機は一瞬で世界に広がった。

もちろん、銀行がジミー・スチュアート型の経営をしていれば、サブプライムローン証券でマネーマーケットがつまずくことはなかったかもしれない。でも何か別の原因でマネーマーケットが停まる可能性は十分にあった(いまでもある)。だったら銀行の規制だけの話をしていては、反脆弱とは言えないはずでは? ケイはもちろんそれも念頭に置きつつ、そもそもそんなマネーマーケット自体がよくない、そんなところに巣喰っている投資銀行どもは潰せ、というに等しいことを主張している。そんなものがない時代はあったんだから、大丈夫だよと。

うーん確かにそういう時代はあった。でもだからといって(そして投資銀行がいまはそこで悪辣な活動をしているからといって)、その時代のほうがよかったのだ、と言う主張がすぐに成り立つわけでもないんじゃないか。マネーマーケットなんて規制逃れの手口でしかない、とケイは主張し、そこに鉄槌をくだせ!と言うのだけれど、これまでそうした規制が実際に成功したためしがないことはケイも認めている。なら、今後それをお取りつぶしにできる見込みはあるんだろうか?むしろその使い方を考えたほうがいいんじゃないかとも思うのだ。

なぜぼくがそんな話に興味を持ったかと言えば、仕事の必要性に駆られて、スタンフォード大のペリー・メーリングのオンライン講義を取ったからなのだ。これがむちゃくちゃおもしろかった。

この人は、経済や金融への視点として、現在主流の経済学ビュー(見方)とファイナンスビューに対し、マネービューというものを提示する。経済学ビューは、過去が現在を作ると考える。過去に資本が蓄積され、それが現在の価値を生み出すわけだ。逆にファイナンスビューは、未来が現在を作る。そこでは将来の期待キャッシュフローが現在の価値を決める。

これはどちらが正しいというものではない。両方の側面がある。そしてその両者が出会うのが現在だ。でもそこで現在の価値がきちんと確定されるには、それが清算され、決済されなくてはいけない。今の支払い義務が今支払われることで、今の価値が確定する。つまり現在が現在の価値を作る。これがマネービューだ。 それは単純に、請求金額を払えるか、という話でもある。同時にそこで、何をもってお金とし、清算が行われたとお互いに認めるか、という理解とその間に入る各種の機関や制度の在り方が大きく関係してくる。そしてそれが行われる場が、さっき出てきたマネーマーケットだ。

かつては、その清算と決済も銀行が行っていた。そして銀行が取り付け騒ぎで破綻すると、経済が破綻し、現在が現在の価値を決められなくなり、大恐慌金融危機が生じた。それを防ぐ手段として考案されたのが、中央銀行だ。中央銀行は、いくらでもお金を刷れる。だから、だれもお金を貸さなくなり(預金しなくなり)支払いが出来なくなった銀行に対し、「最後に頼れる銀行」という役割を果たせる。

これを20世紀初頭に明確に指摘したのが、ウォルター・バジョット『ロンバード街』日経BP社)だ。危機のときには、中央銀行は担保を取って、銀行に対していくらでも貸せ。ただし、あまり気軽にあてにされないように高利で貸せ。それがあれば、銀行に対する安心感は高まり、そもそも取り付け騒ぎは起きなくなるし、よって金融危機もなくなる—これは書きぶりこそ古いけれど、非常に明快だしおもしろいので、この手の話に興味があれば是非お読みあれ。

ロンバード街 金融市場の解説 (日経BPクラシックス)

ロンバード街 金融市場の解説 (日経BPクラシックス)

でもシャドーバンキングにおいては、もはや銀行は迂回されている。だから銀行規制や、銀行を昔の状態に戻しただけでは何の解決にもならない。銀行に対する最後の貸し手だけでは役にたたない。

では、それにかわるマネーマーケットでの資金の流れを確保しているのはだれか? それはディーラーだ。ディーラーが自分のバランスシートでポジションを引き受けて、市場を作り、取引を成立させる。その機能こそがマネーマーケットの本質であり、そこで「お金」が生み出される。それが破綻しないようにするに は、危機に際してその機能を中央銀行が果たすようにならなくてはいけない。中央銀行はいまやマネーマーケットでの信用創造と決済を肩代わりし、「最後に頼れるディーラー」にならなくてはいけない! そしてリーマン・ショックのとき、アメリカのFRBが走りながらでっちあげた様々ななんとかファシリティとい う仕組みは、支援対象を銀行以外にも広げ、FRB自身のバランスシートに資産を引き受けてポジションを取る仕組みとして、まさにおおむねそれを実現するものだった。

メーリングの主張を簡単にまとめるとこんな具合だ。ぼくはまだこの含意を理解し切れていないので、この講義をすでに3回見直しているとともに、それを簡単にまとめたともいえるメーリングの The New Lombard Street: How the Fed Became the Dealer of Last Resort (Princeton University Press) を読んでいるところだけれど、おもしろい。邦訳されればいいのに、と思う一方で、これまで勉強してきた経済学やファイナンスの見方とかなりちがうし、結構マニアックな世界になるのでどこまでニーズがあるかはわからないけど……。

(2022.05.29f付記:その後、自分で訳しました。ご参照あれ。

21世紀のロンバード街―最後のディ-ラーとしての中央銀行

どうしてこの人の名前をこれまで聞いたことがなかったのかな、と思って調べたら、実は聞いていた。この人の邦訳が一冊だけある。『金融工学者フィッシャー・ブラック』日経BP社)。オプション価格の計算法として名高いブラック=ショールズ方程式を確立した天才の伝記だ。ファイナンスCAPMを考案した一人でもある。そして、それを基盤に貨幣理論から物価理論から縦横無尽に考え続け、金融実務で活躍しつつアカデミズムともつながりを保っていた人物となる。

ブラックの、既存経済学に対する不満とファイナンス理論に対する不満は、ある意味でメーリングのマネービューの考え方にも影響を与えているのだけれど、それを抜きにしても、ファイナンス分野に興味がある人ならとても楽しく読める本だ。そして、ある意味でブラックの発想—未来は予測できない— は、タレブの主張にもつながるところはある。だけど、ブラックはそこからタレブのような守りに入るのではなく、むしろむちゃくちゃにリスキーな各種の仕組み考案に走った。そのむちゃくちゃぶりも、この分野の基礎知識があれば(たとえば今出てきたCAPMって何なのかわかるくらいの知識があれば)実に楽し い。

でも、この本には著者のメーリングがどういう人なのか、という説明がほぼない。だからぼくは伝記作家だと思ってまったく気にしなかった。いまにして思えばもったいなかったかも—いや、どうだろう。たぶんこの邦訳が出た2006年にメーリングのことを知っていても、それ以上の興味をぼくは抱かなかっただろう。その意味では、まあ著者についての説明がなくてもそんなに実害があったわけではないんだろうけど……

えーと、途中で全然書評を離れたわけのわからない文になってしまったけれど、お許しを。というか、本当にこんな文に需要があるのかなあ。今回もたぶん、まず長すぎるとか、山形はタレブがまったくわかってないとか、マネーマーケットの話も、常識なのに得意げに素人臭いことを云々とか、どうせ悪口言われるだけなのは見えているし、それ以前にみんな「あとで読む」のタグをつけて絶対読まないんでしょ? だけど、仕方ない。この先、どんな頻度で更新していくかは、 我ながらよくわからないのだけれど、次はスタニスワフ・レム選集の完結とか、ハーラン・エリスンの選集とか、もっとSFっぽいネタになるかな。ではまた。

中国経済・ヘリコプターマネー・ラテンアメリカ文学

年内最後の「新・山形月報!」もボリュームたっぷり! 高須正和ほか『メイカーズのエコシステム』インプレスR&D)、高口康太『なぜ、習近平は激怒したのか』祥伝社新書)、梶谷懐『日本と中国経済』ちくま新書)、伊藤亜聖『現代中国の産業集積』名古屋大学出版会)、井上智『ヘリコプターマネー』日本経済新聞出版社)、人工知能学会編『AIと人類は共存できるか?』早川書房)、海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる』講談社現代新書)、寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』などを書評しています。



さて、今回はほとんどが直接間接の知り合いの(少なくとも関係した)本となる。このため、評価が少し甘くなっている部分もいろいろ出てくるかとは思うので、その点はご留意を。知り合いというのは、一応お互いに顔がわかり(またはネット上で多少なりともやりとりがあり)、そして個人的な認知がある、という程度の意味で、別に仲良しというわけではない。が、それでも知っていると少し手心を加えてしまうのが人情というものではある。

そういう知り合いが最近急に増えたきっかけは、高須正和ほか『メイカーズのエコシステム』インプレスR&D)に関連する。実は最近、25年前からずっと見てきた香港隣の人工都市深圳についての興味と、それとは全然別に動いてきたArduinoとかメイカーズ関連の興味とがいつのまにか交差して、中国の都市開発、産業発展、メイカーズ文化が絡み合いながら相互に刺激し合いつつ盛り上がる状況が急に生じている。何もなかった人工コバンザメ都市が、いつのまにか非常にふうがわりな産業集積を生み出し、そこで国の政策と予想外の自由な活動との組み合わせにより、エレクトロニクス型ハードウェアのハリウッドとまで呼ばれるへんな環境ができていて、それに対してだんだん世間的な関心も高まっているのだ。

メイカーズのエコシステム 新しいモノづくりがとまらない。 (OnDeck Books(NextPublishing))

メイカーズのエコシステム 新しいモノづくりがとまらない。 (NextPublishing)

この本の主要著者で編者でもある高須正和は、このおもしろさを伝えようとして深圳のツアーをしょっちゅう実施し、その参加者(ぼくも含む)が集まってこの本を作った。これだけおもしろいのに、いまだにまともなガイドブックもないけれど、だんだん関心が盛り上がりつつあるから、これからあちこちでみなさんも目にするはず。深圳の現状や歴史について、現時点でまとまった形の本はこれだけなので、いまのうち読んでおくと流行を先取りできるはず。

で、高須正和がいろいろ騒ぐうちに、だんだん中国に関心ある各分野の人がたくさん集まってきて、結果的にそれがぼくの最近の知り合い増大にも貢献しているわけだ。まずは高口康太『なぜ、習近平は激怒したのか』祥伝社新書)。この高口康太は、深圳にとどまらない中国の現状について、大所高所から見た政治の話から下世話な食い物や芸能話も含め、なんでもカバーしている変な人で、何度か宴会で顔をあわせる中で、この本は献本してもらったんだけど……ずっと寝かせてあったのね。

なぜかというと、この書名のせい。タイトルだけ見ると本書は習近平に絞った話で、しかも彼が怒った特定の事件について憶測の深読みするだけのつまらない本に思えるでしょう。政治的な論説にありがちな、たとえば周恩来かだれかが田中角栄に中国の古典を贈ったのはどんな意味があったのか、なんて話をあれこれ分析したりする論説は、謎解きとしてはおもしろくても、「それって単なる憶測じゃないんですか」という気がするのでぼくはあんまり好きじゃないんだよね。

ところが読んで見て愕然。ぜんぜんそんな本じゃない。これは中国におけるネット論壇盛衰記ともいうべきものなのだ。これ、本当に書名でものすごく損していると思うよ。著者にとっても読者にとっても。だって、これがネットの話だなんて思う人はいないでしょうに。

ネットが急激に普及し、SNSの利用が広まったことで、従来ありえなかったような政府批判が急激に花開いた。そしてその潮流は中国の権力構造を変えるかに思えた……こともあった。でも、やがて中国政府は様々な形で弾圧を強化する。サービスの停止、ファイアーウォール、実名化、検閲強化、政府によるサクラの 大量動員— 実は中国でもネット利用者の多くは、言論の自由とか政治活動とか、どうでもいいんだよね。ネット論壇の採用した手法も、政府はちゃっかり学んで、逆手に抑圧のツールとして使うようになる。ネットによる中国の民主化とか言われたものでさえ、実はそんなご大層なものではなかったかもしれない—こうした動きを時代を追って説明するとともに、日本に実質亡命している風刺漫画家との対談を交えつつ描き出している。

中国でのネットの現状、政府と国民との関係などを知りたい人は必読。そして中国に関係なく、国とネットの関係、さらにネット論壇なるものやSNSだのツイートだので世界が変わると思っている人、そういう物言いにうんざりしている人もぜひぜひ。

で、さっき挙げた『メイカーズのエコシステム』に載せたぼくの文をわざわざ引用しているのが梶谷懐『日本と中国経済』(ち くま新書)。梶谷懐は、はじめて接触した頃には新進の、という感じだったけどいまや中堅より上くらいの感じなのかな、中国経済の研究者。顔は互いに知っている程度の関係だけれど、ネット上でのやりとりはいろいろある。この本は、日本と中国の関係を、前世紀はじめからずっと追いかける。歴史のおさらいとはい え、結構意外なことも書いてある。

たとえば、ぼくは毛沢東による革命が起きる前の中国は、少数の地主が多くの小作人をぎりぎり締め上げて搾取していて、毛沢東はその小作人の恨みにつけこんで、土地やるからと言われて共産革命に賛同した、と思っていたんだけれど、実は当時の小作人というのはもっと自由で、能力次第で土地も結構持てたし等々、かなりイメージが変わる話も多い。そしてやはり感動するのは、いまのネトウヨと同じように中国生意気論とか、オリジナリティがない、単純労働しかできない、国交断絶してこらしめろとか、その手の上から目線の議論が当時の国民党時代の中国に対してもはびこっていたということ。

その中で、山形の引用がどういう文脈で出てくるのかというと、やはり最近の中国経済の動きで、深圳でのイノベーション重視の奇妙な活気がおもしろい展開として注目されているから。その背景についての考察で、傍証としてぼくの引用が出てくる。梶谷はこの動きに注目しつつ、それがどこまでモノになるかについては、慎重な態度を見せている。否定的、というのではなく、現時点で未知数ということ。それも含めて、中国経済についての、あまりに単純すぎる見方(しかも歴史的に見れば同じ話の蒸し返しでしかないもの)をいさめ、多少なりとも幅のある見方を提供してくれる。でかい国だしいろんな側面がある。変な脅威論も杞憂ではあるし、危うい部分もたくさん抱えつつも、見下してすむ存在ではない。その全貌をコンパクトに教えてくれる、とても便利な本だ。

しかし引用していただくのは光栄ながら、ぼくみたいな単なる野次馬を引き合いに出さなくても、もっとまともな論文とか考察とかあるんじゃないかな、と思うんだけど。だってぼくが書いてるのって、単なる素人の思いつき印象よ? それともないのかな? 実は『メイカーズのエコシステム』に書くとき、少し調べても出てこなかったから、意外と本当にないのかも。

なかったとしても、それをいずれ書きそうな一人が伊藤亜聖。この人とはつい先日、まさに深圳のメイカー運動に関するセミナーで初めて実際に顔をあわせたけれど、こうした新しい中国の産業構造についてあれこれ調べている若手研究者だ。かれの『現代中国の産業集積』名古屋大学出版会)は、浙江省にある義烏についての調査だ。ここはみんなの大好きな百均のメッカで、巨大な市場にあらゆるガラクタが並び、様々なものが作られ、模倣され、改良され、世界中に出回るすさまじいイノベーションの場となっている。

この本はその成立、それを実現している生産と販売のネットワーク構造について、細かく検証していて非常におもしろい。読んでいるだけで、すぐにでも行ってみたくなるほど。前出の高口、梶谷ともに、そのおもしろさについては太鼓判を押している。うー、来年は何とか……。伊藤亜聖は、梶谷懐よりは強くこの新しい産業構造を評価している。いまや中国も人件費が上がって、中進国の罠にはまりつつある。つまり、低コスト量産はすでにつらくなっているのに、高い人件費をまかなえるだけの高価格製品はまだ十分に生み出せず、ジリ貧になりつつある。その中で、中国が国策としてイノベーションの旗を振ったりするのも、深圳が注目されたりするのも、単なる悪あがきのポーズとみる考え方もある。でも伊藤の見方だと、これは皮相的な見方であって、実際に新しいものを生み出す従来とはちがう産業構造ができつつある、とのこと。中国といえば低コスト労働による低品質量産とコピー商品だらけと思っている人は、とっくに認識を改めたほうがいいってことね。

中国がらみの話からIoTとかAIの話に力点を移そう。この分野で2016年に大ブレイクしたのが井上智洋で、かれの『人工知能と経済の未来』(文春新書)は大きな話題になった。主張はかなり単純で、人工知能が進歩したら人間みんな失業するから、政府がベーシックインカムを施してやろうぜ、というもの。ただ、人工知能で人間がいっぱい失業するぞ、と主張する本はあっても、それで経済全体が成り立つためにはどういう構造が考えられるかを正面切って論じた本はほぼなかった。類書の多くは、人間はもっと勉強して人工知能にできない仕事に就けばいい、そうすれば失業しないですむ、という話に落としたがる。でも、この本はそれではすまない可能性もふまえつつ、それが人類絶滅の暗黒世界にならずにすむ方向性を一応は提示できていた。正直いって、かれの言う汎用AIのおかげで生産性が無限大に発散する経済というのは、どんな人工知能が出ようと眉唾ではないかとぼくは感じていて、この話をどっかできちんとまとめねば、とは(半年くらい)思っている。でも、ぼくの考えは必ずしもかれの議論を完全にひっくり返すものではない。

実はこの話をかれがシノドスという媒体のセミナーで語っているのをしばらく前に見て講義をお願いしたり、その後かれのやっている人工知能関連の寄り合いでぼくが講演しろと言われたりして、ちょくちょく顔を合わせている。その間に人工知能が大ブームになって、かれはあちこち引っ張りだこになっていたんだけれど……ちょっと、この同じ話をあまりに使い回しすぎている感じで、このままだとすぐに飽きられちゃうぞ、といささかヒヤヒヤしていたところ。

そこへ年末にかれの新著『ヘリコプターマネー』(日 本経済新聞出版社)が出た。最初はネタにつまって流行に便乗したお手軽な解説書を書いちゃったかナー、うひゃー、と思ってしまいましたよ。今年の夏頃、最近何もしないので有名な日銀の政策として、ヘリコプターマネーの話が流行った時期があったもので。そうでなくても、前著に対してしばしばなされた「そのベーシックインカムの財源はどっから出てくるんだよ」という批判に安易に応えただけなんじゃないか~、と危惧もした。

ヘリコプターマネー

ヘリコプターマネー

が、それは杞憂だった。これは読んでみるとかなり高度な本で、まずはお金の役割から入る。経済学ではお金は透明な媒介にすぎないから、それを増減しても実体経済は動かないと考えることが多い。でも本書はまずそれを疑問視し、お金を増やせば実体経済にも影響するという考え方を示す。そして少し高度な数式モデルの話と、クルーグマンインフレ目標論文の不備の指摘を経て、シニョレッジ(通貨発行益)の話に進む。

お金は政府が紙に印刷するだけでできてしまうけれど、実際の価値は1万円とかになる。その差額はいま、政府の儲けになっている。でもそれは、別に政府が何かやった報酬ではないので、本来は国民に還元されるべきものだ。ヘリコプターマネーは、その手段としてとらえられる。これで、ベーシックインカムの必要性(人間が人工知能に仕事とられる)、その財源とその正しさ(お金を刷ればいいしそれは実体経済にも貢献する)、正当性(シニョレッジはそもそも国民に還元すべきもの)がワンセットそろう!

前著の人工知能の話と見事につながりつつも、それとは独立したマクロ経済全体の見通しを提示できていて見事。そしてこれだけ中身が詰まっているのに、薄い! アメリカ人がこの手の本を書くと、あれこれ親しみやすくするための小話をたくさんちりばめて、たぶん500ページ以上の大著になると思うんだ。でも著者は華やかな美文を書ける人ではないので、全体の書きぶりはレジュメをひたすらつなげた感じになっている。おかげで全体がコンパクトだし、話が脱線せずに非常に見通しがいい。そして、考えられる未来の経済の姿を提示できている。大したもんです。おみそれいたしました。

ポスト資本主義がどうしたこうしたというヨタ話の本はたくさん出ていて、たいがいが「もう成長はやめましょう」「お金が人を堕落させる」「心が大事です」「ほしがりません死ぬまでは」みたいな、シバキ主義ポル・ポトめいた社会主義死に損ないの妄想大爆発になっている。本書はそのような多くの駄本とは無縁ながらも、半分くらいポスト資本主義に踏み込んだ経済の話をしている。お金という、人類発展の重要なツールをもっと積極的に活用しつつ、人類がさらに発展し成長する可能性をきちんと擁護した、実はなかなか野心的な本。ちょっと高度な部分もあるけど(ぼくもかれのモデルとか完全には理解しきれていない)、そこはとばして読んでも無問題。正月にぜひ取り組んでほしいところ。

さてAIの話で言うなら、人工知能学会編『AIと人類は共存できるか?』早川書房)はおもしろかった。これは、人工知能と倫理、社会、政治、信仰、芸術というテーマで、SF小説とそれに呼応したAI関連学者の論説とがペアになって収録されている本。おそらくかつてのサイバーパンクが一時の勢いを失ってから、SFの想像力は現実にかなり負け続けてきたんだけれど(いまのネットや携帯電話やSNSはどんなSFよりすごいし、イスラム国の躍進は、SFに書いたらあまりに荒唐無稽と一蹴されていたはず)、人工知能については、いまちょうどそうしたSF的想像力が少し現実にヒントを与える可能性を持っている技術水準なんじゃないか。

この本に書いている面々では、以前に対談したこ とのある作家の藤井太洋が知り合いだ。かれが描いた、二つに分裂したアメリカを自律型AIモジュールがつないでしまう物語「第二内戦」はなかなかよくて、 それと呼応して人工知能創発的な知性獲得の可能性を考えた栗原聡の文もおもしろいけど、それ以上に個人的にはいちばんおもしろかったのが、長谷敏司「仕事がいつまで経っても終わらない件」だった。

ぼくたちは人間の思い上がりとして、いずれ人工知能とかロボットが人のいやがる3K労働を負担してくれて、おえらい人間様は創造的な仕事や高度な意志決定作業だけやればよくなる、と暗黙のうちに思っている。でも実際には、高度な意志決定作業こそ人工知能が得意な分野で、データの収集とか集めたデータのクリーニングとか、あるいはロボットの整備やお掃除とか、みんなの嫌いな3K労働こそが人間にしかできない優位性のある分野だったりする。これはクルーグマンが「機械の復讐」というエッセイでも指摘していたことだ。

この小説は、多くの人が持っている「人間のほうが高度!」という暗黙の想定をあざ笑い、人工知能様のためにブラック労働でこきつかわれる人間たちのデスマーチをおもしろおかしく描き出していて、なかなかの慧眼。この小説、実はAIと政治の関係を描こうとしたものだけれど、その主要テーマよりも人間と機械のすみわけの可能性についての見通しのほうが鋭いんじゃないか。世間のAI談義はいまいささかバブル気味で、大風呂敷広げすぎな面もあるけれど、本書はそれを楽しみつつ実際の可能性を考えるためのいろんなヒントが得られるし、読み物としてもおもしろいものになっている。

同じくAIとSFの接点としては、海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる』講談社現代新書)もおもしろい。本書の元はこのcakesの連載ルポで、作家の海猫沢めろんがいろんな研究者のところをまわってAIやロボットなどの研究に ついて取材インタビューしたもの。海猫沢が、感覚遮断タンクを含めいろんなものに素直に驚いてみせる一方で、単に研究者に話を聞くにとどまらず、かなり変な質問を繰り出して、それを研究者たちのほうもおもしろがって妄想を広げているのが魅力的。『AIと人類は共存できるか?』と重なる問題意識も当然出ていて、そのちがいも結構おもしろいところ。このcakes内で一部は読めるはずだから、興味ある人は見てくださいな。

で、この海猫沢めろんと知り合いになったのは、かれがラテンアメリカ文学研究者・寺尾隆吉とぼくの対談を聞きに立川までわざわざやってきてくれたから。打ち上げで実は近くに住んでいることがわかって、立川から家の近くまで、中央線の中でずっといっしょで話をしておりましたが、オカルト入りまくりの頭痛が痛い話の連続で、その晩うなされました。

そのときの対談相手、寺尾隆吉の『ラテンアメリカ文学入門』中公新書)が今回の最後の本となる。このコーナーでも、寺尾については、その訳書も解説も含め何度かほめているので、名前に見覚えがある人もいるかもしれない。とにかくすさまじい勢いで翻訳をこなし、解説などで、悪いモノは悪いとはっきり断言する明快さを持ち、ある意味でぼくと似たところもある。この人とは、本書の刊行記念で対談をしたので、顔見知りにはなりました。

ラテンアメリカ文学入門 ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで (中公新書)

ラテンアメリカ文学入門 - ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで (中公新書)

この『ラテンアメリカ文学入門』は その名前の通り、文化の荒野だった中南米が、政治的な意識の高まりとともに新しい文学の台頭を体験し、それがやがて、世界的にすさまじい水準の作品を乱発する一大ブームを引き起こしつつも、通俗化して廃れていく様子を簡潔に描いた本だ。通常、こうした本は小説の文学的価値だけに注目し、そこに作者のゴシップをからめておしまい、となることが多い。そして政治の話が出てくると、社会主義的なイデオロギーだけを重視してみたり、言論の自由だけで話を進めてみたり、非常に一面的になるきらいが多い。

でも、実際に文学作品が生み出される環境を考えたとき、政治の変化はいろいろな作用がある。政治的変化が読者の意識変化をもたらし、それが新しい市場を作り出す中でこれまであり得なかった高度な表現が登場することもある。そして政治的自由がないからこそ、表現の工夫が必要となり、文学的な営為が大きな意味を持つこともあり、それが人々の政治意識に作用するという循環ももたらされる。さらにこの本は、政治と文学だけでなく、その中でマーケティングの重要性、小説家たち自身の生活維持の問題、さらには大衆化と底の浅い形だけの「文学作品」の流行まで含め、文学の周辺環境—お望みなら下部構造と言ってもいい—までを実に簡潔にまとめてみせる。

その中で、ぼくの大好きなマヌエル・プイグが、さほど深みがないのを叙情的なメロドラマで隠した作家としてあまり高く評価されていないところとか、個人的にはそこまで言わなくてもー、といった不満はある。が、理路整然としていて、その評価になかなか反駁はむずかしいところ。また一方で、政治に深入りしたために作品の質を落としたフリオ・コルタサルの後期作品を必ずしも全否定はしない優しさもある。

さまざまなタイミングで、うまいぐあいにマーケティングの才能を持つ作家や、やまっけのある版元やエージェントが次々に出てきて市場を広げ、一方でかつては閉塞的な社会変化の希望だった社会主義に対する幻滅が作家たちを分裂させ、という歴史ドラマとしても非常におもしろい。文化に対し、政治や社会、読者といった多面的な条件が与える影響、そしてその一方でどんなに条件があっても、それだけでは才能ある作家やよい作品が登場するわけではないこと。そして当然ながら、優れた作品だから売れるとは限らず、売れたからよい作品というわけではないこと—それをこれだけコンパクトにまとめきったのはすごい。

実は対談したときに、ぼくも寺尾隆吉も、あまり話を横道にそらさず、すぐにずばっと結論に到達してしまう人間なので、ちょっと苦労したところもある。対談って結論を出すためではなく、あーもあろう、こうもあろう、そういえばこんなことがあって、とウダウダ話が脱線することのほうが醍醐味だったりするけれど、二人とも全然脱線せず、結論がどんどん出てしまう。仕方ないのでとにかくひたすら質問をたくさんし続けて時間を持たせようとして、それでも少し時間が余り気味になってしまったという……。でも、来た人にとってはかなり充実した対談になったんじゃないか、と期待したいところ。そして、この本もあまり脱線せずに、見通しよく明快に議論が進み、非常に高い密度の議論が展開される。読み方次第では、文化政策のあり方なんかのヒントも得られるんじゃないかな。

というわけで、なんかいろいろ今年はこんな感じで人間関係も広がっておもしろかったんだけれど、みなさまはいかがだったでしょうか。2017年がみなさまにとって、よい一年でありますように。ではまた。