Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

呉智英・マイコン・デジタル庁

今回の月報は、封建主義者・呉智英の新刊『バカに唾をかけろ』を論じ、次にコンピュータ・インターネットに関連する、鈴木哲哉『ザイログZ80伝説』、秋田純一『揚げて炙ってわかるコンピュータのしくみ』、村井純・竹中直純『DX時代に考える シン・インターネット』を評します!



キューバから戻って参りましたよ。実質3週間の出張なんだけれど、到着時点でキューバでの隔離が1週間、さらに日本に戻ってから自主隔離含めて2週間。ヘタをすると隔離されていた期間のほうが、実動期間より長いという……。

自主隔離が終わった8月になってからも、キューバ情勢は相変わらず落ち着かなくて、6月初頭にはコロナの新規感染者一日1500人程度だったのが、8月に入ってから8000人台にまで激増。それに加えて物不足や停電への不満もあって7月11日に発生した大規模デモは、政権としては一大事件だ。苦しくても一致団結して頑張っている政府と国民という体面は、もはや維持できなくなってしまった。デモが全国でほぼ同時多発的に起きたのはネットによって組織されたからだということで、まず即座に全国的にインターネット遮断が行われ、そのうえで関係者がどんどん拘束された。さらに政権は自分たちのこれまでの不手際を認めるより、これがアメリカの反キューバ工作によるものと断定するスタンスをとって、さらに国内の締め付けを強化している模様。

面倒な話だけど、これが単なるキューバ政府の被害妄想だと言えればいいんだが、実はアメリカはずっと、開発援助機関のUSAID(アメリカ合衆国国際開発庁)を使って、キューバの「民主化支援」なるものをやっている。実質的な反キューバ政府工作で、それが今回のデモとまったく無関係なはずもない。さらにバイデン政権は、ここでうまくアメと鞭を使い分けてキューバ政府と交渉して自分たちの望むほうに事態を動かせばいいものを、やたらに態度を硬化させる声明を連発。ちょうどいま、アフガニスタンからの米軍撤退が大失態となっているけれど、アメリカは即座にアフガニスタンへの送金は容認することにした。なのに、キューバに対しては相変わらず差し止めのまま。いやあ、今後どうなってしまうことか。ちなみに今回のキューバ旅行についてまとめて読みたい方は、こちらの『公研』の旅行記をどうぞ

さて、遅ればせながらキューバに持っていった本の残っていたものを紹介しよう。呉智英『バカに唾をかけろ』小学館新書)。とはいえ中身はボリス・ヴィアンと関係なく、どこかに連載された時事エッセイの集まり。中身は相変わらずの呉智英。各種時事問題での、浅はかな建前論を揶揄し、見栄張りだけの知ったかぶりな物言いを嘲笑する。芸術家やその擁護者が何やら清廉潔白なことを言ってみたりPCな物言いをしてみたりするのに対して、芸術が持っていた反体制的な意味合い、良識へのアンチテーゼとしての意義を説いてみせる、といった具合。

バカに唾をかけろ (小学館新書 く 6-2)

バカに唾をかけろ

本当に「相変わらず」で、ぼくが大学生の頃に愛読していた呉智英と、内容も書きぶりもまったく変わっていない。そして、その主張はどれもしごくごもっともではある。ただ……いまのぼくには、こうした物言いがいささか軽薄に見えるのも事実。確かに芸術やロックは反体制的な部分はある。盗んだバイクで走り出すといった歌に対して、「それは犯罪です」とわざわざ言うのは野暮だしバカだ。その一方で、ロックや芸術が反体制だとうそぶくこと自体が、いまやすでに決まり文句になっている。それを改めて言いつのること自体が、真面目くさった批判の物言いと同じくらい恥ずかしい。芸術もいまや懐古趣味的に産業に取り込まれ、以前のような批判力をすでに持っていない。それをかつてと同じような扱いで世間の通俗的な良識批判に使われても、鼻白むというか、揚げ足取りにしか感じられない部分はどうしてもあるのだ。

たぶん呉智英はそれを承知の上で、かつての芸風にこだわっている面もあるんだろうとは思う。その頑固ぶりは立派。そして、その物言いに対する印象が変わった原因は、上に述べた芸術とか、彼の扱う対象の位置づけの変化にも増して、読み手であるぼくの変化のせいでもある。呉智英には本当にいろんなことを教わったように思う。橋本治に教わったのと同じ意味で。この両者のインパクトの低下が、世間のせいなのか、あるいは単にぼくが老いたせいなのかは、まあ自分では判断がつきにくい部分はある。おそらくは両方なんだろう。

そしておそらく、ぼくもそろそろ、この呉智英の変わらなさを見て我が身を振り返る必要もあるんだろう。ぼくも過去数十年、文体も主張も考え方も、そんなに変わっていないつもりではある。そしてぼくに対して、同じような印象を抱いている人はいるはず。かつては山形を評価していたけれど、最近はもうダメだとか転向したとかいう人がツイッターなんかにときどき現れる。自分と、社会と、読者との関係みたいなのは、たぶん書き手としては少しくらい意識する必要があるんだろうか? あるいはそんなのをそもそも気にすること自体が、衰えた証拠なのか?

この呉智英の本を読んで、そんなことを考えないでもない。そういう個人的な感傷とは別に、時事ネタコラム集はその時事ネタが風化すると、すぐにコラムとしても風化してしまう傾向があって、この本もその落とし穴から逃れられてはいないのが残念ではある。が、たぶん今ならまだ賞味期限は切れていないはず。

これでキューバに持っていった本の在庫(前回前々回参照)が尽きて、ちょっと年寄り気分になったところで帰国し、2週間の自主隔離。自宅でやってもいいんだが、それだと子供が学校に行けなくなるので、わざわざ部屋を借りましたよ。そこで読んだのが、鈴木哲哉『ザイログZ80伝説』(ラトルズ)。

ザイログZ80伝説(カラー版)

ザイログZ80伝説

Z80と聞いてわかるというだけで、老いぼれマイコン野郎だというのがバレる。かつて1980年代のマイコンブームの中心にあった8ビットのマイクロプロセッサだ。そしてこのZ80とそれを作ったザイログ社の興亡は、まさにそのマイコン時代の様々なベンチャー企業のかけひきと技術進歩、製造技術とのきわめて微妙なからみあいの結果だった。本書は、それを実にマニアックに解き明かし、そして各種の文献的な技術を実証的に確認すべく、Z80のワンボードマイコンまで作り上げてしまっている。すごい。

Z80が最初に登場したときには、高校生のぼくはその技術的な先進性に驚愕し、インテルなんかこれでオワコンと思ったけれど、単純にそういう話でもなかったようだ。そしてザイログ社が天下をとれなかったのは、8ビット時代から16ビットに移るときに出てきたZ8000の歩留まりが悪すぎたせいだ、と聞いていたけれど、そうでもなかったようだねー。まあこの説明も含め、半分くらいは、年寄りの昔話としか思えないだろうけれど、でも技術、経済、人間模様、そして国際的な半導体競争、その他ありとあらゆるものがからみあった、ITハイテク産業の黎明期の物語として是非是非。いまのハイテクベンチャーや起業ブームにも通じるものが必 ずある。

同じくコンピュータネタでは、しばらく前に買っていた秋田純一『揚げて炙ってわかるコンピュータのしくみ』技術評論社)。これは題名にある通り、半導体を分析するために基盤を油で揚げてLSIを取り外し、その中身のシリコンを見るために調理用バーナーで炙るという、台所でできる電子解析の本だ。そう聞くと、ずいぶんニッチな本に思えるかもしれない。ぼくも最初に手に取ったときにはそう思っていた。まあ、ニッチなのはまちがいないんだが、でも実際にはずっと間口の広い本だ。コンピュータのきわめて基礎の部分、それが動く仕組みについて、トランジスタなどの半導体の話からCPUの構成、各種プログラムや通信プロトコルの仕組み、さらに同じ回路をコンピュータで実装するのと電子回路で実装する差の説明まで、本当に上から下まで解説してしまうという、わずか160ページの本とは思えない中身の濃さだ。

かつてぼくが翻訳を手伝ったバニー・ファン『ハードウェア・ハッカー』技術評論社)と、かなり似た感触ではあるけれど、あれほどマニアックではない。個別の部分の説明は基礎的なレベルにとどまるので、すれっからしのマニアには物足りないかもしれないけれど、コンピュータを本当に初めてさわり始めた人が、全体的なイメージをつかむには実におあつらえ向き。コンピュータやITについて総合的な視点を得たい人は是非!そういうぼくは、まだ基盤を揚げるところまでは自分でやっていないのだけれど。いつか……と思いつつ、やりたいことがどんどん溜まる一方だなあ。

で、同じくコンピュータ/IT系の話として、9月に入って、デジタル庁なるものが生まれた。これがいったい何をするところなのか、まだぼくも含めて多くの人は具体的なイメージを持っていないし、そのトップに伊藤穣一が就任するのしないのという騒ぎなどもあって、なんか怪しげなイメージだけが先行した感じも ある。

DX時代に考える シン・インターネット (インターナショナル新書)

DX時代に考える シン・インターネット

その創設の背後で暗躍していた (というべきかな) 村井純が、デジタル庁にこめた思いや希望を明確に語ったのが、村井純&竹中直純『DX時代に考えるシン・インターネット』集英社インターナショナル新書)。竹中直純が知り合いだったので献本してもらったんだけれど、題名の軽薄な感じと、この二人の対談で昔話をする本らしいという話を聞いていたので、しばらくは読まずに放置してあった。が、まったくのかんちがい。これからネットは何を目指すべきか、どんなことが可能なのか、それを実現するにあたってデジタル庁が何をすべきなのか—それがきわめて明確に、楽観的に語られているのがこの本だ。

行政面での可能性、ビジネス面での可能性、それを支えるためのインフラがどうあるべきか? 対談は通常、話が雑になってしまうのが欠点だけれど、本書ではそれがとてもいい形で出ている。それぞれの可能性については、あれはどうする、これはどうする、行動追跡のプライバシー問題はどうなのか、とかいろいろ揚げ足は取れる。でも、まずは可能性を考えよう。そして、できない理由より、できることを考えてそれを実現するための方法を考えよう。対談/放談形式になっていることが、その楽観的な希望の面を前面に打ち出すのに大きく貢献している。

そうした本はしばしば、実現性を無視した技術をまったくわかっていない人びとのおとぎ話に堕してしまう。「いやあ、ネットってそういうものじゃないから」と言いたくなるのが常だ。でも本書では著者二人とも、技術的な知見と実力では余人の追随を許さない。彼らは当然ながら、自分たちの語っている見通しの持つ技術的な課題なんか百も承知だし、その点ではまったく危なげがなくて安心。でも、その課題に取り組むこと自体が、彼らの—そしてインターネットの—可能性を広げる活動にもなるというのも、彼らは十分に知っているし、本書はまさにそれを考え、伝えるための本でもある。

あらゆる技術はそうだけれど、インターネットも、草創期から、大風呂敷を広げる時期がやってきて、そこで様々な山師や詐欺師も暗躍する。その後、現実的なところに落ち着き、ビジネス化する中でメッキもはげ、素人の手すさびやアイデア一発で勝てる部分は次第に減り、資本と動員力を持つ大企業独占の構図も生まれてくる。その中で、ついつい今ある各種の技術的、サービス的な枠組みの中だけで、あれがダメ、これはおしまい、もう何の希望もないよ、もうネットは大企業と国家監視の道具と、衆愚ポピュリズムのおもちゃに成り下がったよ、と悲観してみせたくもなる。

でも— というより、だからこそいま、新しいビジョンが必要だ。せっかくできたデジタル庁も、揚げ足を取るのは簡単だけれど、この本に描かれたビジョンのどれか一つでも実現できたら、という希望を持たせてくれる。いまのインターネットに絶望している人にこそ読んで欲しいし、またインターネットが当然のように存在している世界しか知らない、若い人にも見て欲しい。ネットは、勝手に「あった」ものではない。だれかが作ったものだし、今後も変わる余地がいくらでもある。 この先それを発展させるヒントとして是非。

それにしても、日本に帰って外を出歩けるようになると、本当に隔世の感ではある。キューバの経済はぜんぜんダメ、というよりちがう原理で動いている。社会主義は非効率だと言われるけれど、そんなことはない。ただ、何の効率を最大化するかがまったくちがう。彼らにとって最も大事なのは、与えられた資材を最も 低コストで活用することだ。だから生産は、とにかく同じモノを一気に量産する。ニーズにあわせた生産ではない。手持ちの資材の無駄をひたすらなくすだけが 重要だ。

そして輸送も、ニーズはどうでもいい。与えられた輸送機関と燃料で最大量を運ぶという効率が追求される。だからなるべく貨物を大量にためて、一回で運び切るのが最優先となる。このため鮮度を保つ輸送なんていう発想がない。市場には、緑の新鮮な野菜はないも同然で、日持ちのする根菜と黒いバナナばかりとなるし、食材のバリエーションはないも同然。

日本に帰ってくると、店にふつうにキャベツやほうれん草や、その他無数の商品が並んでいるという当たり前のことに、えらく感動するようになる。まったくちがう世界である一方で、その背後には何を最大化したいかという思想のほんのちょっとした差があるだけで、それ以外はほぼ同じだ。ごくわずかな考え方と価値観の変化で世の中が一変してしまう、というのが如実にわかる。その一方で、その価値観のちがいは物質的な制約によって相当部分が左右されている。ガソリンが十分にあれば、いまのキューバみたいな考え方はそもそも生じなかったはず。そんな、物質と意思のからみあいみたいなネタの本も次回紹介できるかどうか。 ではまた。