Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

がん治療・不死細胞・ソローキン

今回の「新・山形月報!」で取り上げた本は、『隠喩としての病』みすず書房)、シッダールタ・ムカジー『病の皇帝「がん」に挑む』早川書房、上下)、レベッカ・スクルート『不死細胞ヒーラ』講談社)、ウラジーミル・ソローキン『親衛隊士の日』河出書房新社)などです。また、「クリエイターズ・デスク」では、山形さんの机や自宅が大公開(前編後編)。そちらも要チェックです!



かつて病気の代表といえば結核で、悲劇のヒロインがそれで死んでしまうパターンはそれなりにあった(『風立ちぬ』を思い出してほしい)けれど、いまそうし た役目を果たしているのはがんだろう。スーザン・ソンタグが1978年に出した『隠喩としての病』(み すず書房)は、白血病(がんの一種)だと宣告されたり、がんで余命半年と知ってしまったり、というのが物語の定番になっていることを指摘していた。この本 自体は、いまここにまとめた以上の話はあまりない(ああそうそう、がんに続いてエイズについても同じような切り口で扱おうとしていたが、エイズがはやくも 症状をかなり抑えられるようになり、かつてほどの衝撃性を持たなくなってしまった今から見れば、勇み足の観あり)代物だったと思うけれど、がんが病気とし ていまや死因の筆頭格の一つとして恐れられているというのは事実。

その歴史—特にがん治療法の歴史—をまとめた大作が、シッダールタ・ムカジー『病の皇帝「がん」に挑む』(早 川書房、上下)だ。上下巻の分厚い本で、読み応えたっぷり。自分も臨床でがん患者に向き合った経験を交えつつ、がんに対する人間の無力ぶりと、それでも外 科切除、化学療法、放射線療法といった様々な治療法を開発し、苦闘してきた歴史を語る本で、地味でありながらドラマチック。

病の「皇帝」がんに挑む 人類4000年の苦闘(上)

病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘 上

それぞれの療法が、スムーズに導入されるどころかまったく相手にされず、むしろ既存療法支持者たちから異様な抵抗に遭う中で、偏執狂のような人々の努力に よりやっと導入される経緯は、その一つひとつがドラマとしてすさまじい迫力だ。それもがんに対する戦いが単なる医学や科学の学問的な問題ではなく、むしろ 社会キャンペーンの問題であり、政治的な戦いでもあったという点についての指摘はきわめて強力だ。特にこれは、がん予防、たとえばマンモグラフィーや特に 喫煙に対するキャンペーンにおいて重要な意味を持っていた。

が、そうした活動が成功を収めても、どの療法も一時的に効くように見えて、それでもすぐに再発をもたらし、限定的な効果に終わってしまう。それが一部の療 法家をさらに極端に走らせ、という悲しい歴史もがんにつきまとう宿命だ。その遅々とした歩みに対するいらだち、諦念、それでも遅々ながら進んでいることへ の希望、同時に人類ががんに勝てないかもしれないという研究からくる不安—医師たる著者による実際の患者たちとの交流の記録が、それを切実なものとしている。

個人的には、本書でもっと強調してほしかったのが、がんが高齢化の病気だということ。がんは、高齢になれば増える。だから昔はがんがあまり目立たなかった し、いまがんが増えているのは、世界中の人が長生きするようになった自然な結果でしかない。その意味で、ペストや天然痘の治療とは本質的にちがうのだ。で もそれを理解しない多くの人たちが、がんが増えているのは農薬のせいだとか公害で発がん物質が悪いとか食品添加物がどうだとか、がんを口実にした見当違い のデマを展開している。それはもうちょっと触れてほしかったようにも思う。むろん、そうした記述がないわけではないのだが……。

そして結局、がんがなくても人はいずれ死ぬことを考えたとき、人はがんとどう向き合うべきなのか? むろん、これは包括的な結論が出せるものではなく、各 人が個人的に答を出すしかない。がんの治療法を渡り歩き、一時的な改善と再発を繰り返した患者を描いた最終章は、その実践の一つの記録として、ぼくは特に 感動的だと思った。長いけれど、いい本。

あと、この本でちょっと驚いたのは、ヘンリエッタ・ラックスが出てこなかったこと。この人のがん細胞はさんざん培養されて、本人が死んだあともずっと生き 続け、各種のがんその他の研究などに大活躍している。がん関連のネタでは定番だと思っていたんだが、実はそうでもないのかな?

そのあたりを描いた本が、「ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生」という副題を持つ、レベッカ・スクルート『不死細胞ヒーラ』講談社)。これはやたらに面白い。がん細胞が危険なのは、それがやたらに増殖してしまうから。これはある意味で、人類の夢の一つである不死の一形態でもあろう。そうした不気味さと夢とのアンビバレントな部分(これは『病の皇帝「がん」』でも最後から2番目の章で扱われている)を、ヘンリエッタ・ラックスのがん細胞ヒーラを中心にまとめつつ、この細胞が果たした驚異の役割についてたんねんにまとめた本だ。

ただ……ヘンリエッタ・ラックスの細胞が許可なく採られたとか、その子孫が貧しいとか、そういう話の部分については、ぼくはあまり好きではない。本書はそ れが不当で権利を侵害していると言いたげな書きぶりをしているのだが、自分にちょっとでも触れたものはすべて自分ので、他人がそれを使ったら代償を払えと いう考え方自体、ぼくはなじめないものがある。自分のかさぶたや鼻くそや垢は、もはや「自分」ではないし、それについて何か代償を要求するという種類のも のでもない。

が、一方でそれこそまさに、このヒーラ細胞のつきつける課題でもある。いったい人の「自分」とは何なのか? 自分のがん細胞は、自分の遺伝子を持っている からといって「自分」なのか? 『病の皇帝「がん」』での、病気としての自分にとって異質なものであるがんという見方とはちょっとちがう観点として、いっ しょに読んでみると吉。

今回は『病の皇帝「がん」』が分厚かったので、これで打ち止め……ではあるんだけれど、最後に触れておかねばならないのがウラジーミル・ソローキン『親衛隊士の日』河出書房新社)。前に取り上げたあの怪作『青い脂』河出書房新社)に続く、お下劣ソローキン文学。未来のロシア帝国で反乱分子の摘発と鎮圧と愛国儀式とに明け暮れる親衛隊員の活動を描いた小説、ということになっているけれど、むろんそのエログロぶりは健在。『青い脂』よりは少しおとなしいかな。

親衛隊士の日

親衛隊士の日

来日講演会でソローキンは、お下劣なもの、タブーとされているものを描くのは、そこにその国や文化の持っている恐れがあり、歪みと本質があるからなのだと いうようなことを述べていた。ぼくは単にそのむちゃくちゃぶりに喜んでいるだけなんだけれど、それが単なる露悪趣味で終わらない作品になっているのは、そ うした彼のまじめな取り組みの結果だからでもある。

ちなみにその講演会の席上で、邦訳されているソローキン作品は、書いてきたものの中ではニュートラルなものが中心なのか、それとも変なものばかりが選ばれ ているのかと訳者の松下氏に尋ねてみた。すると、ちょっと変な作品寄りになっている面はあると思う、とのこと。普通に書いた作品がどういう具合のものなの か、読んでみたい気はする。ではまた次回。