Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

子宮頸がんワクチン副作用とマスコミの役割

今回の「新・山形月報!」は、本のレビューの前に、村中璃子医師のジョン・マドックス賞受賞と、それに大きく関連するマスコミ報道などについて論じます。そして、キャス・サンスティー『命の価値』勁草書房)、ロビン・ダンバー『人類進化の謎を解き明かす』とマルタ・ザラスカ『人類はなぜ肉食をやめられないのか』(ともにインターシフト)へと続きます。



今回は、ちょっと書評と離れた話からになる。ぼくのこんなネットの片隅にある書評コラムを読んでいる方は、それなりにネット活用度の高い人たちだろうから、すでにご存じかもしれない。2017年12月、日本の村中璃子医師が、ジョン・マドックス賞を受賞した。これは科学雑誌『ネイチャー』の元編集長にちなんで設立された、公共的な利益に関する事柄について、各種の困難や敵対にもめげずにまともな科学と裏付けに基づく知見を促進した人物に与えられる賞だ。

すばらしいことではある一方で、彼女がこの賞を受賞するような活動をせざるを得なかったこと自体が、暗澹たる思いを抱かせる。彼女が受賞したのは、日本に広まる子宮頸がんワクチン(厳密には、子宮頸がんを引き起こすウィルスHPVに対するワクチン)反対運動のお粗末さと、それに屈して接種率の激減を招き、結果として子宮頸がんリスクの激増を招いてしまった日本の保健政策の問題点を、ほとんど孤軍奮闘のようなかたちで指摘し続けてきたからだ。そうした反対運動が根拠のないものであり、ワクチンの後遺症と称されるものがおそらくはまったく関係ない代物で、その追試実験も問題だらけなのに、メディアが煽った根拠レスな反対運動に屈してHPVワクチンの接種促進を厚労省がやめてしまったため、いまや多くの人が無用な子宮頸がんリスクにさらされているのだ。

その実際については、彼女のこの受賞スピーチを読んでほしい。彼女の受賞により、この問題が世界的に見ても大きなもので、日本の反HPVワクチンの動きが異様であることは明らかとなった。では、それがきちんと報道されて、事態の改善に向けた動きが出ているだろうか?

出ていない。それどころか異様なことだが、これは12月8日の時点で日本の大手マスメディアではほぼまったく報道されていない。ほとんど黙殺だ。なぜか? 日本の大手マスメディアはまさに、この世界的に批判されている反HPVワクチン運動のお先棒をかついできたから、ということらしい。副作用と称する症状を検証もないうちに報道し、イメージ操作でHPVワクチンが危険だという印象を作り出してしまった。村中の受賞を報道したら、それは過去の自分たちの報道を否定することになってしまう。村中が講演会で現場記者に聞いた話では、メディア内の上からのお達しで、この件についての報道が止められているそうだ。なんと。この問題については、マスコミのほぼ黙殺に対して、これも含めネット上の情報拡散が非常に大きく、それがさらにマスコミの動き(というかその不在)の異様さを際立たせている。

メディアは不偏不党で中立であるべし、というのはもちろん、お題目ではある。でも最近の大手既成メディア報道の多くは、そのお題目すらかなぐり捨てた、偏ったものになっているのはご存じの通り。まったく中身のないモリカケ報道とやらをさんざん展開し、裏づけが何もなくても、怪しい怪しいと言いつのり、いまだに懲りた様子もない。都の卸売市場豊洲移転問題でも、まったく問題ない盛り土問題とやらを、さも問題あるかのごとくあおり立て、いまの移転を膠着させる事態を作り上げてしまった。

メディアの一つの役割は、マイノリティの声をすくい上げることでもあるのは事実だ。HPVワクチン報道は、その一環ではあった。でも、それはマイノリティの意見をなんでもいいから垂れ流すことではない。マイノリティの「正当な」声をすくいあげる、というのが本来の狙いだったはずだ。そこには、事実を確認するプロセスが入る。ところがメディアはまったくそれをやらず、一方的な意見の扇情的な垂れ流しに終始した。マスコミは、社会の木鐸とされる。人々に対して警告を発する存在という意味だ。でも、この問題の場合、パニックを煽る側にまわってしまった。

そしていまや、防げたはずの子宮頸がん患者が増えかねない状況だ。もちろん、大手メディアがそれについて何か責任をとるはずもない。でも、こうして外部から明確な指摘が入ったいま、今後の害を抑え、少なくとも事実をきちんと報道するくらいのことはすべきだろう。ぼくはマスコミに大して期待しているわけではない。でも多少の偏向はだれにだってある。それでも、実害が生じている問題に関しては、少なくとも被害を減らすような努力を人間的な良心としてやるべきだと思う。過去の報道を否定することになったっていいじゃないか。マスコミの手のひら返しなんて、めずらしくもないことなんだから。パニックが終わって落ち着いたので、少し論調を変えましたってことでいいじゃないか。

とはいえ、マスコミにその程度の良心があるとすら思えないのが現状の悲しいところではある。そしてそうした根拠のない反ワクチン運動をうけて、実際に子宮頸がんワクチン接種促進をやめてしまった政府はといえば……。

実は今月刊行予定の、拙訳のキャス・サンスティー『命の価値』勁草書房)には、まさにそうした話が出てくる。メディアの扇情報道で社会がパニックに陥った場合、政策はどう対応すべきなのか?

命の価値: 規制国家に人間味を

命の価値:規制国家に人間味を

この本(そしてサンスティーン)の基本的な立場は、政府の規制など各種政策は費用と便益を比べて、便益が十分に大きければやる、というものだ。でも、人々は行動経済学的に、確率は低くてもビジュアルにドラマチックな影響が出る問題(たとえばテロとか飛行機事故とか)に過剰に反応する。飛行機テロの可能性が あるというだけで、人は車での移動に切り替えたりする(飛行機でテロに遭う可能性より、車で事故に遭う可能性のほうが圧倒的にでかいので、かえって危険 だ)。

また、人は裏切りに過剰に反応する。たとえばシートベルトやエアバッグがわずかなトラブルを起こす可能性があると(仮に可能性があるとしても救われる人命に比べれば微々たるもの)、それを理由にシートベルトやエアバッグをすべて否定したがる。ワクチンの副作用もその一例だ。ワクチンにごくわずかな副作用の可能性があるというだけで、かなりの数の人が、ワクチンで防げるずっと大きな被害を無視して反ワクチンに走ってしまうのだ。

そうした文句について政策はどう対応すべきか? 本当は、費用便益と科学的な研究結果を掲げて、「いいから言うこと聞け」「テロなんか心配するな」「シートベルトしろ」「ワクチン打て」「副作用があればそれは補償するから」と突き放すのも見識ではある。でも、人々がそうした行動経済学的な歪みに過剰に反応すること自体が、社会に費用をもたらす。すると、政府が何か純粋理論的には必要ないものであっても対応をしてみせて、安心させる、といった政策も費用便益の面から正当化される、とサンスティーンは述べる。

少し考えると、そこで政府がきちんとデータと裏づけを提示することで、国民を落ち着かせるという選択肢もありそうなんだが……実はそこで政府がまともなデータや裏づけを出すと、かえってそれが不安を煽ってしまうという悲しい結果も紹介されている。ほとんどの人は、データを見せられてもそれをまともに理解する能力がそもそもない。データで人を煙に巻こうとしているんじゃないか、ごまかそうとしてるんじゃないか、とかえって疑心暗鬼になってしまい、果てはそもそもそんなデータがあること自体が怪しい、ということになってしまう。それに、感情的になっている人々は、反論されたこと自体にさらにいきりたって、そもそも理性的に話を聞く状態ではなくなっていることが多いのは、みなさんもおそらく体験したことがあると思う。

サンスティーンによると、そういうパニックに対して政府がとれるいちばんいい方法は、はぐらかしたり、話をすりかえたりすることで(たとえばアメリカで、9・11後のテロの不安に対し飛行機を使うのが愛国的な活動だと大統領がぶちあげたりとか)、パニックが薄れるのを待つことなんだそうな。HPVワクチンでも、厚労省は少数の反対論者たちにまじめに対応せず、やるにしても何か形ばかりでやりすごす手もあったのかも。

(ちなみにこの『命の価値』は、ほとんどはちょい実務レベルの細かい面倒な費用便益の考え方をめぐるもので、このネタはごく一部でしかない。こういう話題を中心に扱った本としては、この連載で前にぼくも扱った、同じサンスティー『恐怖の法則』勁草書房)のほうが詳しい)

もちろん、その一方で地道に費用便益と科学の面からの正当性は地道に提示し続け、そしてそれでも不安を抱き続ける人には、追加の費用をかけてもその不安に応える方策でそれをなだめることも必要だ。かつて福島の原発事故後、内部被曝に怯える人のために、東大の早野龍五教授 (当時) が中心になって幼児用被曝測定装置ベビースキャンを開発した。当時のデータからすればそもそも内部被曝の心配はなかったそうで、純粋に費用便益的にいえばこれは不要ではある。でも恐怖とそれに伴うパニックや不安があるときには、それを抑えるためにこうした措置も正当化される。その意味で本当は、あれは公共がやるべきことではあった。いまも続く福島産の米の全量検査もそうだ。いまや全量検査をいつまで続けるべきかが議論になっているけれど、これはまさにこの恐怖と不安がもたらす社会的費用と全量検査の費用とのバランス問題ではある。

いずれにしても、HPVワクチンをめぐる議論が勃発した時点から科学的な知見はずっと高まり、HPVワクチン接種をもっと促進すべき根拠はすでに確立している(だから村中の活動が評価されたわけだ)。本来、メディアは、政府の方針切り替えに向けてもっと事実の紹介を進めるべきだ。そしてメディアがだんまりを決め込んでいても、厚労省の専門家たちはやるべきことがわかっているはずだ。日本産婦人科学会もすでにたびたび、接種推奨の再開を求める声明を出している。今回の一件を期に、きちんとした対応がとられ、そしてマスコミも、せめてその足を引っ張らないようにしてくれるとよいのだけれど。

で、全然関係ない話(というか、上の話が入ってくるまではこれが本題だったんだけど)。ロビン・ダンバー『人類進化の謎を解き明かす』(インターシフト)だ。

人類進化の謎を解き明かす

人類進化の謎を解き明かす

人類の進化についての本はすでにいろいろあって、どれも?そんなに目新しい知見がどんどん出てくるわけでもない。最近の本の多くは、何か一つのことに注目して見せて、それが人類進化にとって決定的だった、という話をする。たとえば、言語が重要だったとか、歌が重要だったとか、いや肉食が決定的だったとか、火を使った料理がすごく重要だったんだ、とかいった具合。

こうした本は、それなりにおもしろい。が、その一方でどれも「確かにおもしろい視点ですが、それだけなんですか?」という感じもしてしまうのは否めない。また、なぜあるときそれが出てきたんですか、なぜヒトだけがそうしたものを発達させたんですか、という点で弱いこともある。

それに対してダンバー(そう、人間がある程度以上のつながりを直接持てる人数は150人というあの「ダンバー数」のダンバーだ)の本は、もっと総合的なアプローチを採る。本書で重視されているのは、時間収支と社会脳だ。ヒトの決定的な強みは、社会を作る能力だ。でも、社会を作るにはそれなりのトレードオフがある。それをきちんと見よう、というのが本書だ。

社会を作るとか、社会性とか、言うはやすし。でも会社や町内会その他で活動した人ならわかるように、社会は勝手にできるものではない。それを構築し、維持するための活動、つまりはそのための時間とエネルギーが必要だ。

早い話が、生物としては食べ物を探す時間が必要だ。それを実際に食べる時間もいる。休息時間もいる。社会構築活動、つまり社交に使える時間は、その残りでしかない。これは結構ギリギリのバランスの中にある。ダンバー数では、人はだいたい150人くらいの直接的な人間とつながりを持てる。類人猿では、これがずっと少ない。そしてこれを増やそうとすると、社交に使う時間を増やさねばならない。サルの時代だと、社会構築活動というのはお互いの毛繕いだ。でもこの回数を増やすと、食べ物を採ったり食べたりする時間がなくなってしまう。

つまり、そこにはすべてトレードオフがある。単純に、バカだから、劣っているから社会が構築できない、といった部分もある。社会能力は、脳の大きさに規定されるらしいと本書では指摘されている。でもその一方で、社会構築能力を発達させたところで、使い道がなければ宝の持ち腐れでエネルギーや知能の無駄にな る。

すると類人猿は、強みである社会構築をするために、他のいろんなものを同時にイノベーションする必要が出てくる。まず肉を食うことで、エネルギー確保の効率を高める。同時に社交も、毛繕いだけでなく、笑いなどの活動を通じて効率化する。そうした活動を可能にする二本足歩行といった肉体改造もある。

そしてこうしたトレードオフをだんだん解消する手段として、各種のイノベーションも位置づけられる。たとえば料理、言語や宗教などだ(ちなみに、ダンバー数を突破するためにSNSを活用しようといった浅はかな議論も一撃でたおされている)。

おおお。本書をつらぬく総合性とトレードオフの考え方は、実に説得力あるところ。そしてどの考察も、それなりのモデルとデータの裏づけがある(らしい)のも魅力。いきなり知能が高まりましたというだけで社会ができるわけではないのか。すると『サルの惑星』は実際にはありえなさそうですね。ただ、「肉食が人類を作った!」とかいうワンテーマの本に比べると、人にそのおもしろさを説明しにくいのがちょっと難点。それを理解してもらうには、こうやって長々説明しなければならない。さっき、ワンテーマ本は一面的だとグチったばかりなのに、勝手な言いぐさではあるけれど、まあ読者なんてそんなものです。一言での説明しやすさと総合性との間にもトレードオフがあるってことで。でも、おもしろいので是非是非。

ついでに、同じインターシフトの本でおもしろかったのが、マルタ・ザラスカ『人類はなぜ肉食をやめられないのか』。 ここでは、人類が(菜食主義者たちの陰謀と暗躍にもかかわらず)なかなか肉食をやめられない理由が、まさにダンバーの本で扱われたような進化的な文脈でまず語られる。肉食は、彼女(の紹介している研究)によると人の社会性の原因でもあり結果でもある。でかい動物を狩っても、かつては保存できなかったから、大人数でそれを食い尽くすしかない。

人類はなぜ肉食をやめられないのか: 250万年の愛と妄想のはてに

人類はなぜ肉食をやめられないのか

そして、もちろん大動物を狩るためには大人数がいる。肉食が、人類必須の社会構築の大きな要であり、また肉の女性に対する提供活動が男性による伴侶獲得その他の活動にも大きく役立っている、だからこそ人は肉食を捨てられないのでは、と彼女は言う。そして歴史だけでなく、おいしさ、調理方法、食肉業界の暗躍、話題の人工肉(組織培養された肉)、菜食主義運動といった肉にまつわる様々な話を紹介して、最後には菜食主義者たちのあまりにストイックな禁肉運動を批判する。「肉食やめろ!」というより、「少し減らそうぜ」のほうがずっと受け入れられやすく、結果的に食肉を減らし、動物にとっても人類の健康にとってもよいのでは、と主張して終わる。

肉食についての包括的なお話としては、バランスの取れたよい本じゃないかな。これまた、何かすごいショッキングな主張がドーンとあるわけではなくて、それが長所でもあり、いまいち良さを説明しづらいという欠点でもあるんだけれど。

ではまた。次は来年かな? あ、そういえば前回予告した『ブレードランナー2049』の話だけれど、いささか複雑な思いになってしまい、こんなコラムのイントロなどに使える長さではなくなってしまったので、ぼくのブログに書いておいた。興味ある人はどうぞ。