Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

欠乏状態・予防原則・ただしイケメンに限る

今回の「新・山形月報!」は、話題の翻訳書をどーんと取り上げます。センディル・ムッライナタン、エルダー・シャフィール『いつも「時間がない」あなたに』早川書房)、キャス・サンスティー『恐怖の法則』勁草書房)、ダニエル・S・ハマーメッシュ『美貌格差』東洋経済新報社)などなど。新しい年度を前に読む本を、ぜひ見つけてください!



はい、みなさん、年度末です。仕事は終わりましたか? いつもの年なら、ぼくは年度末に縛られるようなプロジェクトはほとんどないので、のほほんとしていられるのだけれど、今年はなぜか年度いっぱいの仕事がたくさん。それでも昔は、「3月50日」とか称して来年度にずれこむのもアリだったけれど、最近はかっちり年度末には納品できていないとダメという厳しい状況になってきたので、なんだかひどいことになっています。それでもやっと終わりが見えてきた今日 この頃。

こうして時間と締め切りに追われていつもあたふたしているという状況は、ぼくたちの多くが経験することだ。そんなあなたにお薦めなのが、センディル・ムッライナタン&エルダー・シャフィール『いつも「時間がない」あなたに』早川書房)。……というのは必ずしもウソではないけれど、本当とも言いがたい。というのもこれは、題名を見て想像されるような時間管理術の本ではないからだ。

いつも「時間がない」あなたに 欠乏の行動経済学 (早川書房)

いつも「時間がない」あなたに:欠乏の行動経済学

いや、ぼくもこれが時間管理術の本だと思ったんだけどね。帯でGoogleエリック・シュミットが惹句を書いているので、「この方法でワタシはバリバリ仕事をこなしてます」といったノリの本だと思ったのだ。でも、これは時間ではなく、「欠乏」というもの全般に関する本だ。ここで扱うのは、時間、お金、その他すべての欠乏に共通する話だ。欠乏は、人の処理能力を低下させてしまう、と本書では論じられている。やらなくてはいけないことがたくさんあると、あれもこれもでいっぱいいっぱい。もちろん、締め切り間際だと集中力が高まるのも事実。でも、それは他のことが見えなくなることでもある。

お金が欠乏している貧乏人も、まったく同じ。お金が足りず、目先の小銭でやりくりするしかなく、おかげでかなりクリエイティブなこともやるけれど、結果としてあれを見落とし、これも忘れ、いまのうちに返しておくべきツケの支払を先送りにし……。それがまた後でやりくりの自転車操業につながり、そして何かちょっと想定外のことが起きれば完全に破綻する。これは、ダイエットに失敗する構図もまったく同じ。

本書はそうした欠乏のもたらす心の変化を、各種の研究成果をもとに描き出す。もちろん、個別のエピソードはすでに知っているものも多いだろう。でも、それをこうして欠乏というキーワードのもとにまとめてもらうと、新しい見方が出て来る。すばらしい。すばらしいけど……じゃあどうすればいいの?

この本は、ちゃんとそれに対する答えも持っている。欠乏状態に陥ってあたふたしないようにしよう。まだ余裕があるときに、いずれやらねばならないことをきちんと片づけておけ、というのがとりあえずの処方箋ではある。お金も、あるときに必要な支払いを終えておくこと。ダイエットも、日頃から間食しないようにしよう。そうすると、後で楽になる! うん、そのとおり。そのとおりなんだが—。

それができてりゃ苦労しねえよ、というのがほとんどの読者の心の叫びじゃないか、とは思う。著者たちは、特に最後のあたりで人間の処理能力に基づく各種の施策があるのでは、と述べる。これはうまく考えると希望があるかもしれない。お金では、かつてアビジット・V・バナジーエスター・デュフロ『貧乏人の経済学』みすず書房)で、いろいろ例があがっていたように、各種の天引きとか強制預金とか、デフォルトは全員加入として、やめたい人だけ申告してオプトアウトする保険とか、処理能力に負担をかけないような形で余裕のあるときに各種の支払や積み立てができるような仕組みがある。時間とかでも、そういう施策があるのかも しれない。

同時に、本書で指摘されているように、心の処理能力が欠乏にさらされないよう、ちゃんと休んで喰え、というのも重要なポイントではある。これはロイ・バウマイスター『WILLPOWER 意志力の科学』(インターシフト)なんかも読んでほしいところ。

次の本も、行動経済学的な知見を使った本ではある。キャス・サンスティー『恐怖の法則』勁草書房)。これはとてもいい本。人は恐怖にかられると愚かなことをしてしまう。飛行機事故があると、みんな旅行をキャンセルしたりする。遺伝子組み換え作物についても、悪影響は何一つ示されていないのに嫌ってみたりする。テロの危険があると言われたら、とんでもない人権侵害や弾圧にも平気で賛成してしまう。この本は、どうやってそれに対処すればいいかを考えた本。

恐怖の法則: 予防原則を超えて

恐怖の法則: 予防原則を超えて

キャス・サンスティーンの他の本と同じく、きわめて論理的である一方で、司法も行政も経験している彼らしく、実務的にその知見はどう使えるのか、という点についても非常に明解だ。本書では、まず「予防原則」が恐怖による無意味な弾圧の口実として使われている点を指摘する。予防原則とは、「念のため」「万が一を考えて」の名の下に行われる各種の施策。先日どこかの信用金庫で、名前にイスラムと入っている団体が口座開設を拒否されたとき、「万が一テロに使われるとアレだから」というのが信用金庫の言い分だったけれど、その手のやつも予防原則だ。根拠もなく証拠もないけれど、その人が不安だからという理由だけでそうしたへんな規制が行われる。これは農薬とか放射線とかでもそうだ。

これに対し、費用便益に基づいてすべてを考えるやり方もある。基本的にサンスティーンは、これに賛成だけれど、でも万能ではないことも指摘する。そのうえで、行動経済学的な知見をもとに、著者はリバタリアンパターナリズムが有効だろうと述べる。これは上でも述べた、デフォルトは全員加入でやめるのは自由とするような、ちょっとお節介な面もある各種の施策を進めるスタンス。たとえば、人は有益な保険に対しても、「自由に入りなさい」と言うと面倒くさがって だれも加入しない。でも全員強制加入させた後で「抜けるのは自由だよ」と伝えると、これまた面倒くさがってやめない。そういう形で、人を有益なほうに動かす方法論があるのだ、というのが主張。

そうは言いつつ、最終的には裁判所が自由を守る役割を果たせ、と著者は述べる。恐怖に基づく変な予防原則の濫用と、民主主義を詐称する数の暴力による自由侵害に対しては、裁判所が防波堤になって、きちんとした手続きを要求しろ、と。地味な論点を非常にていねいに述べた本で、華やかさには欠けるんだけれど、でも重要な論点。解説も非常にていねいで明解なので、こういう分野に関心のある人は是非。

さて今回は、この手の社会科学っぽい本ばかりで恐縮なんだけど、ダニエル・S・ハマーメッシュ『美貌格差』東洋経済新報社)は、非常におもしろかった。これはもう題名通りの本。美男美女はなにかと得をすることを示した本だ。著者はそれをまじめに研究した学者。

美貌格差―生まれつき不平等の経済学

美貌格差: 生まれつき不平等の経済学

この本の議論が経済学ではどのジャンルに属するのだろうかなんてことが、ぼくのまわりでは議論になっている。医療経済学っぽいところもあるし、格差論的なところもある。でも、労働経済学あたりが、いちばん妥当かな。美男美女の基準というのは、人それぞれとは言うものの、やはり多少の客観性はある。おおむね世間の多くの人に美男/美女と言われる人はいる。それが就職でも給料でも伴侶捜しでも、とにかく各種の差につながる。生涯年収で、2700万円も差が出る、という本書が示す結果をどこまで真に受けるかはアレだが、でも確実に差がある。驚いたことに、女性より男性のほうが容姿で待遇にかなりの差が出て来る。そして、整形や化粧品といった人を美しくするはずの各種の方策は……実は費用対効果で見ると、あまり成果をあげない。生まれつきの美醜にはかなわない。

さてここまで触れたような話だけだと、やはり最近出たマリナ・アドシェイド『セックスと恋愛の経済学』(東 洋経済新報社)のように、単なる興味深いエピソード集で終わってしまう(いやこちらもおもしろいんだけどね)。でも、この『美貌格差』はここからさらに議論を展開する。こういう生得的な格差があるんなら弱者に対して、補助金とか身障者手当とか出して、社会的に保護すべきじゃないの? 他の各種の生得的な欠 点や障害は支援が受けられるのに、なぜブスやブサイクは保護されないの? こんなふうに著者は冗談めかしつつも、大まじめに読者に問いかける。

なぜでしょうかねぇ。2ちゃんねるなどでは、しばしば「最近はXX系男子が人気」「いま、●●なファッションがモテる」などといった記事に対して、「※ただしイケメンに限る」と自虐的なコメントがよくつけられているけれど、あれもまあ一面の真実ではあるわけだ。

(2020.05.25 付記 その後、この研究については追試してみたら、そんな美貌プレミアムみたいなものはない、という結果が出たという報道も出てきた。イケメンや美女はまちがいなくお得、と断言できるだけの材料は、経験則的にはともかく、学問的にはまだ決着がついていないらしい)

ということで……何か今回紹介した本をうまくまとめるオチを考えようとしたけれど、ちょっとまだ年度末の仕事が片付かなくて頭がまわらない! ムライナタン&シャフィールの言う通り、欠乏にさらされるといろいろ弊害が出るようで。次回は、おそらくもっと余裕をもって書評が書けると思うし、社会科学系以外も 取り上げられるはずなんだけど……ではまた。