Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

中国経済・ヘリコプターマネー・ラテンアメリカ文学

年内最後の「新・山形月報!」もボリュームたっぷり! 高須正和ほか『メイカーズのエコシステム』インプレスR&D)、高口康太『なぜ、習近平は激怒したのか』祥伝社新書)、梶谷懐『日本と中国経済』ちくま新書)、伊藤亜聖『現代中国の産業集積』名古屋大学出版会)、井上智『ヘリコプターマネー』日本経済新聞出版社)、人工知能学会編『AIと人類は共存できるか?』早川書房)、海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる』講談社現代新書)、寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』などを書評しています。



さて、今回はほとんどが直接間接の知り合いの(少なくとも関係した)本となる。このため、評価が少し甘くなっている部分もいろいろ出てくるかとは思うので、その点はご留意を。知り合いというのは、一応お互いに顔がわかり(またはネット上で多少なりともやりとりがあり)、そして個人的な認知がある、という程度の意味で、別に仲良しというわけではない。が、それでも知っていると少し手心を加えてしまうのが人情というものではある。

そういう知り合いが最近急に増えたきっかけは、高須正和ほか『メイカーズのエコシステム』インプレスR&D)に関連する。実は最近、25年前からずっと見てきた香港隣の人工都市深圳についての興味と、それとは全然別に動いてきたArduinoとかメイカーズ関連の興味とがいつのまにか交差して、中国の都市開発、産業発展、メイカーズ文化が絡み合いながら相互に刺激し合いつつ盛り上がる状況が急に生じている。何もなかった人工コバンザメ都市が、いつのまにか非常にふうがわりな産業集積を生み出し、そこで国の政策と予想外の自由な活動との組み合わせにより、エレクトロニクス型ハードウェアのハリウッドとまで呼ばれるへんな環境ができていて、それに対してだんだん世間的な関心も高まっているのだ。

メイカーズのエコシステム 新しいモノづくりがとまらない。 (OnDeck Books(NextPublishing))

メイカーズのエコシステム 新しいモノづくりがとまらない。 (NextPublishing)

この本の主要著者で編者でもある高須正和は、このおもしろさを伝えようとして深圳のツアーをしょっちゅう実施し、その参加者(ぼくも含む)が集まってこの本を作った。これだけおもしろいのに、いまだにまともなガイドブックもないけれど、だんだん関心が盛り上がりつつあるから、これからあちこちでみなさんも目にするはず。深圳の現状や歴史について、現時点でまとまった形の本はこれだけなので、いまのうち読んでおくと流行を先取りできるはず。

で、高須正和がいろいろ騒ぐうちに、だんだん中国に関心ある各分野の人がたくさん集まってきて、結果的にそれがぼくの最近の知り合い増大にも貢献しているわけだ。まずは高口康太『なぜ、習近平は激怒したのか』祥伝社新書)。この高口康太は、深圳にとどまらない中国の現状について、大所高所から見た政治の話から下世話な食い物や芸能話も含め、なんでもカバーしている変な人で、何度か宴会で顔をあわせる中で、この本は献本してもらったんだけど……ずっと寝かせてあったのね。

なぜかというと、この書名のせい。タイトルだけ見ると本書は習近平に絞った話で、しかも彼が怒った特定の事件について憶測の深読みするだけのつまらない本に思えるでしょう。政治的な論説にありがちな、たとえば周恩来かだれかが田中角栄に中国の古典を贈ったのはどんな意味があったのか、なんて話をあれこれ分析したりする論説は、謎解きとしてはおもしろくても、「それって単なる憶測じゃないんですか」という気がするのでぼくはあんまり好きじゃないんだよね。

ところが読んで見て愕然。ぜんぜんそんな本じゃない。これは中国におけるネット論壇盛衰記ともいうべきものなのだ。これ、本当に書名でものすごく損していると思うよ。著者にとっても読者にとっても。だって、これがネットの話だなんて思う人はいないでしょうに。

ネットが急激に普及し、SNSの利用が広まったことで、従来ありえなかったような政府批判が急激に花開いた。そしてその潮流は中国の権力構造を変えるかに思えた……こともあった。でも、やがて中国政府は様々な形で弾圧を強化する。サービスの停止、ファイアーウォール、実名化、検閲強化、政府によるサクラの 大量動員— 実は中国でもネット利用者の多くは、言論の自由とか政治活動とか、どうでもいいんだよね。ネット論壇の採用した手法も、政府はちゃっかり学んで、逆手に抑圧のツールとして使うようになる。ネットによる中国の民主化とか言われたものでさえ、実はそんなご大層なものではなかったかもしれない—こうした動きを時代を追って説明するとともに、日本に実質亡命している風刺漫画家との対談を交えつつ描き出している。

中国でのネットの現状、政府と国民との関係などを知りたい人は必読。そして中国に関係なく、国とネットの関係、さらにネット論壇なるものやSNSだのツイートだので世界が変わると思っている人、そういう物言いにうんざりしている人もぜひぜひ。

で、さっき挙げた『メイカーズのエコシステム』に載せたぼくの文をわざわざ引用しているのが梶谷懐『日本と中国経済』(ち くま新書)。梶谷懐は、はじめて接触した頃には新進の、という感じだったけどいまや中堅より上くらいの感じなのかな、中国経済の研究者。顔は互いに知っている程度の関係だけれど、ネット上でのやりとりはいろいろある。この本は、日本と中国の関係を、前世紀はじめからずっと追いかける。歴史のおさらいとはい え、結構意外なことも書いてある。

たとえば、ぼくは毛沢東による革命が起きる前の中国は、少数の地主が多くの小作人をぎりぎり締め上げて搾取していて、毛沢東はその小作人の恨みにつけこんで、土地やるからと言われて共産革命に賛同した、と思っていたんだけれど、実は当時の小作人というのはもっと自由で、能力次第で土地も結構持てたし等々、かなりイメージが変わる話も多い。そしてやはり感動するのは、いまのネトウヨと同じように中国生意気論とか、オリジナリティがない、単純労働しかできない、国交断絶してこらしめろとか、その手の上から目線の議論が当時の国民党時代の中国に対してもはびこっていたということ。

その中で、山形の引用がどういう文脈で出てくるのかというと、やはり最近の中国経済の動きで、深圳でのイノベーション重視の奇妙な活気がおもしろい展開として注目されているから。その背景についての考察で、傍証としてぼくの引用が出てくる。梶谷はこの動きに注目しつつ、それがどこまでモノになるかについては、慎重な態度を見せている。否定的、というのではなく、現時点で未知数ということ。それも含めて、中国経済についての、あまりに単純すぎる見方(しかも歴史的に見れば同じ話の蒸し返しでしかないもの)をいさめ、多少なりとも幅のある見方を提供してくれる。でかい国だしいろんな側面がある。変な脅威論も杞憂ではあるし、危うい部分もたくさん抱えつつも、見下してすむ存在ではない。その全貌をコンパクトに教えてくれる、とても便利な本だ。

しかし引用していただくのは光栄ながら、ぼくみたいな単なる野次馬を引き合いに出さなくても、もっとまともな論文とか考察とかあるんじゃないかな、と思うんだけど。だってぼくが書いてるのって、単なる素人の思いつき印象よ? それともないのかな? 実は『メイカーズのエコシステム』に書くとき、少し調べても出てこなかったから、意外と本当にないのかも。

なかったとしても、それをいずれ書きそうな一人が伊藤亜聖。この人とはつい先日、まさに深圳のメイカー運動に関するセミナーで初めて実際に顔をあわせたけれど、こうした新しい中国の産業構造についてあれこれ調べている若手研究者だ。かれの『現代中国の産業集積』名古屋大学出版会)は、浙江省にある義烏についての調査だ。ここはみんなの大好きな百均のメッカで、巨大な市場にあらゆるガラクタが並び、様々なものが作られ、模倣され、改良され、世界中に出回るすさまじいイノベーションの場となっている。

この本はその成立、それを実現している生産と販売のネットワーク構造について、細かく検証していて非常におもしろい。読んでいるだけで、すぐにでも行ってみたくなるほど。前出の高口、梶谷ともに、そのおもしろさについては太鼓判を押している。うー、来年は何とか……。伊藤亜聖は、梶谷懐よりは強くこの新しい産業構造を評価している。いまや中国も人件費が上がって、中進国の罠にはまりつつある。つまり、低コスト量産はすでにつらくなっているのに、高い人件費をまかなえるだけの高価格製品はまだ十分に生み出せず、ジリ貧になりつつある。その中で、中国が国策としてイノベーションの旗を振ったりするのも、深圳が注目されたりするのも、単なる悪あがきのポーズとみる考え方もある。でも伊藤の見方だと、これは皮相的な見方であって、実際に新しいものを生み出す従来とはちがう産業構造ができつつある、とのこと。中国といえば低コスト労働による低品質量産とコピー商品だらけと思っている人は、とっくに認識を改めたほうがいいってことね。

中国がらみの話からIoTとかAIの話に力点を移そう。この分野で2016年に大ブレイクしたのが井上智洋で、かれの『人工知能と経済の未来』(文春新書)は大きな話題になった。主張はかなり単純で、人工知能が進歩したら人間みんな失業するから、政府がベーシックインカムを施してやろうぜ、というもの。ただ、人工知能で人間がいっぱい失業するぞ、と主張する本はあっても、それで経済全体が成り立つためにはどういう構造が考えられるかを正面切って論じた本はほぼなかった。類書の多くは、人間はもっと勉強して人工知能にできない仕事に就けばいい、そうすれば失業しないですむ、という話に落としたがる。でも、この本はそれではすまない可能性もふまえつつ、それが人類絶滅の暗黒世界にならずにすむ方向性を一応は提示できていた。正直いって、かれの言う汎用AIのおかげで生産性が無限大に発散する経済というのは、どんな人工知能が出ようと眉唾ではないかとぼくは感じていて、この話をどっかできちんとまとめねば、とは(半年くらい)思っている。でも、ぼくの考えは必ずしもかれの議論を完全にひっくり返すものではない。

実はこの話をかれがシノドスという媒体のセミナーで語っているのをしばらく前に見て講義をお願いしたり、その後かれのやっている人工知能関連の寄り合いでぼくが講演しろと言われたりして、ちょくちょく顔を合わせている。その間に人工知能が大ブームになって、かれはあちこち引っ張りだこになっていたんだけれど……ちょっと、この同じ話をあまりに使い回しすぎている感じで、このままだとすぐに飽きられちゃうぞ、といささかヒヤヒヤしていたところ。

そこへ年末にかれの新著『ヘリコプターマネー』(日 本経済新聞出版社)が出た。最初はネタにつまって流行に便乗したお手軽な解説書を書いちゃったかナー、うひゃー、と思ってしまいましたよ。今年の夏頃、最近何もしないので有名な日銀の政策として、ヘリコプターマネーの話が流行った時期があったもので。そうでなくても、前著に対してしばしばなされた「そのベーシックインカムの財源はどっから出てくるんだよ」という批判に安易に応えただけなんじゃないか~、と危惧もした。

ヘリコプターマネー

ヘリコプターマネー

が、それは杞憂だった。これは読んでみるとかなり高度な本で、まずはお金の役割から入る。経済学ではお金は透明な媒介にすぎないから、それを増減しても実体経済は動かないと考えることが多い。でも本書はまずそれを疑問視し、お金を増やせば実体経済にも影響するという考え方を示す。そして少し高度な数式モデルの話と、クルーグマンインフレ目標論文の不備の指摘を経て、シニョレッジ(通貨発行益)の話に進む。

お金は政府が紙に印刷するだけでできてしまうけれど、実際の価値は1万円とかになる。その差額はいま、政府の儲けになっている。でもそれは、別に政府が何かやった報酬ではないので、本来は国民に還元されるべきものだ。ヘリコプターマネーは、その手段としてとらえられる。これで、ベーシックインカムの必要性(人間が人工知能に仕事とられる)、その財源とその正しさ(お金を刷ればいいしそれは実体経済にも貢献する)、正当性(シニョレッジはそもそも国民に還元すべきもの)がワンセットそろう!

前著の人工知能の話と見事につながりつつも、それとは独立したマクロ経済全体の見通しを提示できていて見事。そしてこれだけ中身が詰まっているのに、薄い! アメリカ人がこの手の本を書くと、あれこれ親しみやすくするための小話をたくさんちりばめて、たぶん500ページ以上の大著になると思うんだ。でも著者は華やかな美文を書ける人ではないので、全体の書きぶりはレジュメをひたすらつなげた感じになっている。おかげで全体がコンパクトだし、話が脱線せずに非常に見通しがいい。そして、考えられる未来の経済の姿を提示できている。大したもんです。おみそれいたしました。

ポスト資本主義がどうしたこうしたというヨタ話の本はたくさん出ていて、たいがいが「もう成長はやめましょう」「お金が人を堕落させる」「心が大事です」「ほしがりません死ぬまでは」みたいな、シバキ主義ポル・ポトめいた社会主義死に損ないの妄想大爆発になっている。本書はそのような多くの駄本とは無縁ながらも、半分くらいポスト資本主義に踏み込んだ経済の話をしている。お金という、人類発展の重要なツールをもっと積極的に活用しつつ、人類がさらに発展し成長する可能性をきちんと擁護した、実はなかなか野心的な本。ちょっと高度な部分もあるけど(ぼくもかれのモデルとか完全には理解しきれていない)、そこはとばして読んでも無問題。正月にぜひ取り組んでほしいところ。

さてAIの話で言うなら、人工知能学会編『AIと人類は共存できるか?』早川書房)はおもしろかった。これは、人工知能と倫理、社会、政治、信仰、芸術というテーマで、SF小説とそれに呼応したAI関連学者の論説とがペアになって収録されている本。おそらくかつてのサイバーパンクが一時の勢いを失ってから、SFの想像力は現実にかなり負け続けてきたんだけれど(いまのネットや携帯電話やSNSはどんなSFよりすごいし、イスラム国の躍進は、SFに書いたらあまりに荒唐無稽と一蹴されていたはず)、人工知能については、いまちょうどそうしたSF的想像力が少し現実にヒントを与える可能性を持っている技術水準なんじゃないか。

この本に書いている面々では、以前に対談したこ とのある作家の藤井太洋が知り合いだ。かれが描いた、二つに分裂したアメリカを自律型AIモジュールがつないでしまう物語「第二内戦」はなかなかよくて、 それと呼応して人工知能創発的な知性獲得の可能性を考えた栗原聡の文もおもしろいけど、それ以上に個人的にはいちばんおもしろかったのが、長谷敏司「仕事がいつまで経っても終わらない件」だった。

ぼくたちは人間の思い上がりとして、いずれ人工知能とかロボットが人のいやがる3K労働を負担してくれて、おえらい人間様は創造的な仕事や高度な意志決定作業だけやればよくなる、と暗黙のうちに思っている。でも実際には、高度な意志決定作業こそ人工知能が得意な分野で、データの収集とか集めたデータのクリーニングとか、あるいはロボットの整備やお掃除とか、みんなの嫌いな3K労働こそが人間にしかできない優位性のある分野だったりする。これはクルーグマンが「機械の復讐」というエッセイでも指摘していたことだ。

この小説は、多くの人が持っている「人間のほうが高度!」という暗黙の想定をあざ笑い、人工知能様のためにブラック労働でこきつかわれる人間たちのデスマーチをおもしろおかしく描き出していて、なかなかの慧眼。この小説、実はAIと政治の関係を描こうとしたものだけれど、その主要テーマよりも人間と機械のすみわけの可能性についての見通しのほうが鋭いんじゃないか。世間のAI談義はいまいささかバブル気味で、大風呂敷広げすぎな面もあるけれど、本書はそれを楽しみつつ実際の可能性を考えるためのいろんなヒントが得られるし、読み物としてもおもしろいものになっている。

同じくAIとSFの接点としては、海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる』講談社現代新書)もおもしろい。本書の元はこのcakesの連載ルポで、作家の海猫沢めろんがいろんな研究者のところをまわってAIやロボットなどの研究に ついて取材インタビューしたもの。海猫沢が、感覚遮断タンクを含めいろんなものに素直に驚いてみせる一方で、単に研究者に話を聞くにとどまらず、かなり変な質問を繰り出して、それを研究者たちのほうもおもしろがって妄想を広げているのが魅力的。『AIと人類は共存できるか?』と重なる問題意識も当然出ていて、そのちがいも結構おもしろいところ。このcakes内で一部は読めるはずだから、興味ある人は見てくださいな。

で、この海猫沢めろんと知り合いになったのは、かれがラテンアメリカ文学研究者・寺尾隆吉とぼくの対談を聞きに立川までわざわざやってきてくれたから。打ち上げで実は近くに住んでいることがわかって、立川から家の近くまで、中央線の中でずっといっしょで話をしておりましたが、オカルト入りまくりの頭痛が痛い話の連続で、その晩うなされました。

そのときの対談相手、寺尾隆吉の『ラテンアメリカ文学入門』中公新書)が今回の最後の本となる。このコーナーでも、寺尾については、その訳書も解説も含め何度かほめているので、名前に見覚えがある人もいるかもしれない。とにかくすさまじい勢いで翻訳をこなし、解説などで、悪いモノは悪いとはっきり断言する明快さを持ち、ある意味でぼくと似たところもある。この人とは、本書の刊行記念で対談をしたので、顔見知りにはなりました。

ラテンアメリカ文学入門 ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで (中公新書)

ラテンアメリカ文学入門 - ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで (中公新書)

この『ラテンアメリカ文学入門』は その名前の通り、文化の荒野だった中南米が、政治的な意識の高まりとともに新しい文学の台頭を体験し、それがやがて、世界的にすさまじい水準の作品を乱発する一大ブームを引き起こしつつも、通俗化して廃れていく様子を簡潔に描いた本だ。通常、こうした本は小説の文学的価値だけに注目し、そこに作者のゴシップをからめておしまい、となることが多い。そして政治の話が出てくると、社会主義的なイデオロギーだけを重視してみたり、言論の自由だけで話を進めてみたり、非常に一面的になるきらいが多い。

でも、実際に文学作品が生み出される環境を考えたとき、政治の変化はいろいろな作用がある。政治的変化が読者の意識変化をもたらし、それが新しい市場を作り出す中でこれまであり得なかった高度な表現が登場することもある。そして政治的自由がないからこそ、表現の工夫が必要となり、文学的な営為が大きな意味を持つこともあり、それが人々の政治意識に作用するという循環ももたらされる。さらにこの本は、政治と文学だけでなく、その中でマーケティングの重要性、小説家たち自身の生活維持の問題、さらには大衆化と底の浅い形だけの「文学作品」の流行まで含め、文学の周辺環境—お望みなら下部構造と言ってもいい—までを実に簡潔にまとめてみせる。

その中で、ぼくの大好きなマヌエル・プイグが、さほど深みがないのを叙情的なメロドラマで隠した作家としてあまり高く評価されていないところとか、個人的にはそこまで言わなくてもー、といった不満はある。が、理路整然としていて、その評価になかなか反駁はむずかしいところ。また一方で、政治に深入りしたために作品の質を落としたフリオ・コルタサルの後期作品を必ずしも全否定はしない優しさもある。

さまざまなタイミングで、うまいぐあいにマーケティングの才能を持つ作家や、やまっけのある版元やエージェントが次々に出てきて市場を広げ、一方でかつては閉塞的な社会変化の希望だった社会主義に対する幻滅が作家たちを分裂させ、という歴史ドラマとしても非常におもしろい。文化に対し、政治や社会、読者といった多面的な条件が与える影響、そしてその一方でどんなに条件があっても、それだけでは才能ある作家やよい作品が登場するわけではないこと。そして当然ながら、優れた作品だから売れるとは限らず、売れたからよい作品というわけではないこと—それをこれだけコンパクトにまとめきったのはすごい。

実は対談したときに、ぼくも寺尾隆吉も、あまり話を横道にそらさず、すぐにずばっと結論に到達してしまう人間なので、ちょっと苦労したところもある。対談って結論を出すためではなく、あーもあろう、こうもあろう、そういえばこんなことがあって、とウダウダ話が脱線することのほうが醍醐味だったりするけれど、二人とも全然脱線せず、結論がどんどん出てしまう。仕方ないのでとにかくひたすら質問をたくさんし続けて時間を持たせようとして、それでも少し時間が余り気味になってしまったという……。でも、来た人にとってはかなり充実した対談になったんじゃないか、と期待したいところ。そして、この本もあまり脱線せずに、見通しよく明快に議論が進み、非常に高い密度の議論が展開される。読み方次第では、文化政策のあり方なんかのヒントも得られるんじゃないかな。

というわけで、なんかいろいろ今年はこんな感じで人間関係も広がっておもしろかったんだけれど、みなさまはいかがだったでしょうか。2017年がみなさまにとって、よい一年でありますように。ではまた。