Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

コロナを前にしたインテリの自己矛盾

本当にお久しぶりに「新・山形月報!」がカムバック! 今回は、話題作『コロナの時代の僕ら』に象徴される議論を批判的に検討。そして、『労働者の味方をやめた世界の左派政党』『図書館巡礼』を紹介します。



事態が急激に変わるとき、人がおたつくのは仕方のないことだ。そしていままで知らなかった分野の話をあわてて調べて、にわか知識で陳腐な浅知恵に到達して悦に入る様子は、まあ微笑ましいと言えなくもない。

ただし……その学習プロセスは貴いのだけれど、しょせんそうした思索は付け焼き刃だし、浅はかなものでしかない。自分が考える程度のことは、たいがい他の人がとっくに思いついて、もっとしっかり考え抜いているものなのだから。結果として、そういう浅はかな思索の吐露は、よくてもポエムの一種にしかならない 場合がほとんどだし、さらにひどいことに、それはその人が元々もっていた偏向や不満をだらしなく垂れ流すための口実になってしまうことも多い。

反発する人もいるだろうけれど、ぼくはパオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』早川書房)が、まさにそんな代物としか思えない。

コロナの時代の僕ら

コロナの時代の僕ら

この本の内容はほとんどが、この数ヵ月にだれもがSNSのそこかしこで見かけたような、コロナ関連のネタをめぐる、ゆるい感想文の寄せ集めだ。オリジナリティは驚くほどない。それを著者は、衒学的な意匠とレトリックでごまかそうとする。その好例が冒頭部だ。著者は、自分でコロナの拡散をSIRモデルでシミュレーションしたという。コロナはこれから爆発的に拡散するということを自分で確認してるし、本書の考察も自分でこうしてきちんと検討した結果なのです、というわけね。著者は素粒子物理学を学んだのが売りだから、数学ツールが使えますというのもアピールポイントではある。

でも……SIRモデルって、感染者がどんどん他人に病気をうつして、最終的にはある集団の全員がその病気にかかるというモデルだ。感染拡大初期の数字をあてはめたら(おまけに高い再生産率を外から持ってきてはめこんでる)、結果は指数関数的に増えるに決まっている。ここでのSIRモデルは形だけのこけおどしで、実は著者自身が事前に持っていた結論(その成否はさておき)を追認しているだけなのだ。

その後に続くぬるいエッセイも、まったく同じ。当人は、危機を前に自分が何かすごくオリジナルなことを考えたつもりなんだろう。でも、書かれていることで、これまでなかったような考察は何一つない。人々は予想外のつながりで結ばれていた、急拡大は現代社会のあり方の反映だ、デマにだまされないようにしよう、陰謀論にとらわれないようにしよう、自分だけでなく他人の命を救おう、外出は控えよう、いまは我慢しよう、連帯しよう—本当に、意識の高い進歩的な人々の定番発言でしかない。それぞれのエッセイごとに、対応するハッシュタグでもありそうだ。

そして、そこで目につくのは、著者の偏向だ。この人はヨーロッパの意識の高い左派インテリだ。だからそこに込められるのは、当然ながらありがちな反文明論。コロナは地球温暖化と同じ、グローバリズムと消費社会の過剰に対する罰だ。ぼくたちは豊かさを追い求め過ぎたのではないか、これまでの文明のあり方がまちがっていたのではないか、いまこそ人類の未来を考え直すときだ、というわけ。

だから、あとがきで著者は問いかける。「すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか」。もちろん、これは修辞的な質問だ。著者は、ポストコロナの世界は前とちがうものにしなければ、と考えている。この部分は、ネットで無料公開されているのでご覧あれ。「僕は忘れたくない」ということばが繰り返され、そのリストが記されている。

その忘れたくないことというのは、人々がデマにまどわされたこと、みんなが事態の深刻さを最初は真面目に受けとらなかったこと、それがこれまでの専門家/科学不信のせいだということ、政治家がすぐに十分な対応をしなかったこと、そして今回の危機が消費社会のあり方のせいだというような話だ。「僕には、どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのかもわからない」けれど、著者はそれを否定すべきだということだけは確信している。

でも……ぼくはこの人の言っていること、この人に類することを口走る様々な意識高い人たちの発言が、往々にして自己矛盾していると思う。この人たちは、専門家不信、科学不信、医療不信が今回の危機を悪化させた、それを改善しなくては、と言う。たとえば、『サピエンス全史』河出書房新社、上下)のハラリも、そんなポストコロナ論を書いている

でも、そうした専門家不信、科学不信、医療不信が起きたのは、まさにこの人たちのしつこくやってきた現代文明や経済発展の批判が、無用に幅をきかせたせいだ。フーコーイリイチやポモ哲学のおかげで、医学は実は本当に人間の幸福をもたらすものではなく、何やら管理社会の道具だし、教育は人間を型にはめ弾圧するツールで、科学は単なる思いこみの社会的構築物だ。それをもとにした現代文明はまちがっているし、農業も産業革命も実は全然人間にとってよいものではなく、繁栄と経済発展は人の幸福に貢献していない— この著者が、消費社会がこんな事態を招いたとか、グローバル化の誤りがこれではっきりしたとか言うのは、まさにこうした考え方の流れだ。(ハラリはその 点、もう少し周到ではあって、重要なポイントも押さえているけれど)。そういう人たちが、専門家不信、科学不信、医療不信を嘆いて見せるのは、ぼくは滑稽だと思う。

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版

具体的にそれがイタリアで何をもたらしたかといえば……反ワクチンだ。イタリアの事態悪化には、ポピュリズムの反ワクチン政党が政権をにぎってしまったことも関係しているはずだ。でも、コロナワクチンはまだないけど、伝染病予防でワクチンが大事なのは、今回の件でみなさん思い知ったと思う。日本も、子宮頸がんワクチンが反ワクチンデマで壊滅状態だったりして、他国をとやかく言える状況ではないけれどね。でも医療のバッファを確保するためにも、すでに対処可能な病気についてワクチンは射っとこうぜ、というのを忘れないでほしいし、医療や科学不信を問題にするなら、まずそういった具体的なところをまっ先に思い 出してほしいところなんだけれど……。

さらに忘れちゃいけないのは、今後も手はきちんと洗おうぜ、といった基礎的なこと。コロナの一つの教訓は、そういうちょっとした日々の習慣が伝染病予防を大きく左右するということだ。 でも、手洗いもワクチンも、著者の忘れたくないこと一覧には入っていない。「生き方を変えなければ」とか「文明のあり方を」とか「人々の連帯を」とかいっ た上から目線の大風呂敷にならないからだろうか。こうしたつまらなくて、くだらない(でも本当に重要な)ことを、著者はこの時点ですら忘れてしまってい る。

そして、「家にいよう(レスティアーモ・イン・カーサ)。そうすることが必要な限り、ずっと、家にいよう(中略)でも、今のうちから、あとのことを想像しておこう」と著者は語る。でも、この時点で彼は家にいられない人、自分が家でこんな文章を書いていられる生活を支えている人々について、まったく想像が及んでいない。そうした多くの人々にとって、「あとのこと」とは、失業と景気悪化、倒産、貧困とそれによる死亡や健康被害だ。その人々は、著者のような高踏インテリ様のように、資本主義が非人道的とか経済システムを変化させるべきとか思っているだろうか? ぼくはいまの日本ですら、多くの人がこの非人道的な自粛やロックダウンもどきに応じているのは、むしろそうすることで元通りの生活に戻れると期待しているからだと思っている。

「僕は忘れたくない」と、この小説家は言う。でも、ほぼまちがいなく忘れるだろう。2年もたてば忘れる。ぼくは年寄りだから、エイズが流行ったときに、エイズ後の文明だのいう駄文がたくさん登場したのをよく覚えている。もはや人間同士の密な接触はなくなり、盆栽やお茶会みたいなゆるい枯れた人間関係しかなくなるだろう、なんてことがマジで言われていた。リーマンショック金融危機で、資本主義は崩壊して新しい世界秩序が、なんて話は腐るほど聞かされた。そして、この日本では「ポスト福島」談義がみんな記憶にまだ残っているはずだ。福島の原発事故は、大量消費現代文明が持続不可能であることを如実に証明するものだ、というわけ。この「僕は忘れたくない」と同工異曲のものを何度目にしたことか。

でも、そのときもみんな忘れた。そして今回も忘れる。一方で、それがもたらした被害は下々の人々にふりかかる。いま、この著者も含め、「医療従事者のみなさんに感謝のツイートを」とか「ゴミ袋に感謝の絵を描きましょう」とかいうクソの役にも立たないバカにした連帯の押し売りをしている人々は、5年後にそういう人々の待遇がどうだろうと、気にもかけないだろう。それどころか数年後にはこの人たちは記憶を改変して、この異様なロックダウンや自粛合戦を、何やら美談に仕立てることだろう。そして「あのときのようにみんなで団結して我慢して地球温暖化を防ごう、コロナも克服したから絶対できるよ」なんてことを平気で言い始めるはずだ。この著者ではないにしても、そのお仲間のだれかが。

そのとき、この『コロナの時代の僕ら』を読み返すと面白いかもしれない。彼らがいったい何を忘れたか(そして忘れる以前に思いつきすらしなかったか)を確認するための手段として。

ぼくのこの文は、たぶんフェアじゃないんだろう。数百人規模でしかコロナによる死者が出ていない日本に比べ、見る見るうちに死者が積み上がって数千人規模に達してしまったイタリアでの危機感と絶望は、はるかに大きいんだろう。特に、これを書いている2020年5月時点で急激に流行がおさまりつつある日本のぼくたちは、もうずいぶん心の余裕ができてしまっている。2ヵ月前のイタリアの、先が見えない悲壮感はない。でも……だからってこの著者の、自分がいかに恵まれた立場にいるかもわからず、自分のまわりだけで世界が完結している世間知らずのおめでたいエリートぶりに、何か見るべきものがあるとは、ぼくは思わない。著者は「支配階級/権力者」と「僕ら」を対立するものとして描き出すんだけれど、本当にいまもこれからも悲惨な目にあうのは、その「僕ら」のさらに 下にいる、でも「僕ら」が意識すらしていない人々なのだ。

労働者の味方をやめた世界の左派政党 (PHP新書)

労働者の味方をやめた世界の左派政党

ここらへん、まさに左翼リベラル系が知的エリートに乗っ取られた様子を見事に反映しているとは言える。これは吉松崇『労働者の味方をやめた世界の左派政党』PHP新書)と、そのネタもとであるピケティの論文(そして彼の千ページ超もある新著『資本とイデオロギー』、ゼイゼイ言いつつ翻訳進行中!)のテーマでもある。

左派政党は、かつては実際の労働者や貧困者の代弁者で、その活動が第二次世界大戦後の格差縮小に大きく貢献してきた。ところが、だんだん左翼リベラルは頭でっかちなエリートの変なお題目にすりよって、地球温暖化とかLGBTとか、多くの人の生活水準には関係ない問題にばかり精を出すようになってしまった。それがいまの格差増大にも大きく影響しているし、ポピュリズムと言われる代物の多くは、実はむしろ左派リベラル政党が底辺層から離れたために起きている政治の流れだ。この本は、それを非常に要領よく述べていて、ぼくは2019年の良書の一つだったと思う。

しばらく間が空いたので、いろいろ本はたまっている。じょじょに消化していきましょう。今回は最後に、もう少しお気楽な本としてスチュアート・ケルズ『図書館巡礼』早川書房)を挙げよう。

図書館巡礼 「限りなき知の館」への招待

図書館巡礼 「限りなき知の館」への招待

これは、図書館の細かい歴史を描いた本かと思っていたら、きちんとした研究というよりは、むしろ西洋ビブリオマニア列伝とも言うべきエッセイ集で、本好きなら、ニンマリする逸話がいっぱい。本の収集、保管、盗難、火事、紙魚、偽造、古代の有名な図書館とその命運……話が西洋だけなのは、まあしょうがない。たぶん中国や日本はもとより、世界中にこういうビブリオマニアはたくさんいる。なぜ人はこんなふうに本をためこみたがるのか。しかも、すべてを知りたいとかいう知的探究にとどまらず、本そのものにフェティッシュ的な思い入れをしてしまうのか—。

ジャック・アタリはかつて、人が本を積ん読するのは、いつかそれを読むはずの時間をためこんでいるのだ、と指摘した(というネタを何度も使っているんだが、どこで言ってたんだっけ。『ノイズ— 音楽/貨幣/雑音』 〔みすず書房〕だったかな?)。これは一理あるけれど、本という物理的存在への耽溺がなぜ起こるのかについては説明できない。それなら電子書籍を大量に持っていても、読むはずの時間をためこんでいることになるものね。本書を読んでその謎が解けるわけではないけれど、たぶんこんな連載を読む人ならば、どこを読んでも自分自身の姿がそこに映っているのを感じ取れるはず。

コロナで暇でもあるし、次回はこれほど間をおかず出せるのではないかな。では、また。