Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

反脆弱性・歩く・マネーマーケット

お久しぶりの「新・山形月報!」、今回はナシーム・ニコラス・タレブ『反脆弱性』『ブラック・スワン』(ともにダイヤモンド社、上下)を中心に、キャス・サンスティー『最悪のシナリオ』みすず書房)、レベッカ・ソルニット『ウォークス』(左右社)、ジョン・ケイ『金融に未来はあるか』ダイヤモンド社)などを取り上げます。



ご無沙汰。このcakesの他の連載陣を見ていると、どうもぼくのこのコラムがずいぶん場違いに思えて、今ひとつ書く意欲を失っていたというのがある。もっと身の上ばなしとか芸能ネタとか、お気軽な感想文とか、そんなのほうが需要あるんじゃないかなあ。そうはいっても今回復活したのは、別にそういう方向に中身を転換したわけではなく、相変わらず昔通りではあるんだけれど。

で、久々のコラムで少し大物をやるかと思って、ナシーム・ニコラス・タレブ『反脆弱性』ダイヤモンド社、上下)を手に取ったんだけれど……ごめんね、ぼくにはそんなにすごい本だとは思えなかった。というより、ぼくとは相性が悪かったというほうが正確かな?

反脆弱性―不確実な世界を生き延びる唯一の考え方 上下巻セット

反脆弱性[上]—不確実な世界を生き延びる唯一の考え方

タレブというと、例の『ブラック・スワン』(ダ イヤモンド社、上下)の人だ。それがずいぶん世界的に話題になって、おかげでタレブの名が知れわたったんだけれど、ぼくにはあまり大したことを言っている本には思えなかった。要するに、ときどき予想外のことが起こりますよー、というだけ。それも知っている現象で予想外に規模が大きいものが起きるばかりではなく、全然予想もしなかったことが起きるよ、という話。うん、そうだねえ。それで?

たまたま、この本の原書はリーマン・ショック直前あたりに出たので、まさにその発生原理を言い当てた、みたいな不当に高い評価が出回り、ずいぶん得をしたと思う。そしてまた、『ブラック・スワン』が新しい学問的知見をそこそこおもしろく表現しているのは事実だ。でも、それが自身のすごい慧眼による、他のだれも気がつかない発見なのだとしつこく言われると—しかも分厚い本上下巻にわたってだと—うんざりする。

そうした点については、拙訳ジョン・クイギン『ゾンビ経済学』筑摩書房)でも言及されている。その評は以下の通り。

限定合理性と認識不在に関する文献はまだ草創期だし、専門家以外は読んでもちんぷんかんぷんだろう。それを通俗化したいちばんよい本はTaleb (2007) [注: タレブ『ブラック・スワン』] だが、著者は自分に特別な洞察があると主張するものの、他の経済学者はだれもそれを認めていないので、眉にツバをつけてかかるべきだろう。

その通りだと思う。

で、『反脆弱性』は、そのタレブの新作だ— といっても原作が出たのは2012年ではあるのだけれど (そんなにむずかしい本ではないのに、なぜこんなに遅れたのかはナゾ)。が、正直言って、あまり代わり映えしない。世の中、なんでも予測可能で計画し管理できると思っている、学者とか役人とかビジネスマンとかいうクソバカな連中がいる、とタレブは批判する。でも実際は、世の中の出来事は正規分布ではなく、外れ値のでかい事象がいつドーンとやってきて、これまでの常識をひっくり返さないとも限らない。だから、予測可能なことしか考えない連中や、そいつらの作る仕組みは脆い。その予想不可能な事象が起きる確率は、わからない(それがほぼ「予想外」の定義だもの)。だけれど、それが起こった場合の影響はわかる。 原発の事故は、めったに起こらないかもしれないけれど、起きた場合の被害はすさまじい(とタレブは言う)。金融危機は、確率はわからなくても起きたときの危険は大きい。

だから、そんな知ったかぶりの予測なんか信じてはいけない、とタレブは言う。そういう連中の考える仕組みは脆弱で、予想外のことが起きた瞬間に崩壊するんだって。しかも、そういう脆弱な仕組みを考える役人や学者どもは、後付けで「いや自分はそういう予想外のことを予想していた」と言い出すので、その危機を採り入れることもできず、なおさら始末におえないとタレブは言う。

じゃあどうしろと? ほとんど起きず確率もわからないけれど大きな被害のある事象については、徹底的に臆病になって、一方でそうした予想外の影響がプラスになる現象については積極的に取りにいけ、という。普通の連中は、まったく安全な資産から、だんだんチマチマと中リスク中リターンなものに資産を広げていくけれど、どんな及び腰じゃだめで、ガチガチに安全な資産を大量に持ち、ごく一部はものすごい低確率ながら大プラスに転じそうなところに突っ込む。リスクの両極端を保有するので、タレブはこれをバーベル戦略と呼ぶ。そうやって、予想外のブラック・スワンのマイナス面を避け、プラス面を活用できる仕組みが 反脆弱、アンチフラジャイルなんだって。

んでもって、実は自然や古くからの人間の習慣は、経験則(ヒューリスティクス)という形で知らないうちにそうした反脆弱な仕組みをやってきた。だから目新しい話に飛びつかず、わかんないことがあったら昔からの習慣とか常識とかヒューリスティクスに従うのがいいよ、という。

さて、ぼくはこの本に書いてあることが、ことさらまちがっているとは思わない。確かにそういう部分はあるだろう。それに、本書によれば、ぼくはずいぶん時代を先取りした反脆弱性の権化ということになるので、なんともこそばゆいところ。本をたくさん持ってる自由人が反脆弱? つまみ食いのブリコラージュ屋が反脆弱でえらい? いやあ、ぼくのことですか、照れるぜ。ほめられるのは嬉しいことだ。でもその一方で、ふだんのぼくは売上げがたたずに結構トホホな状況というのも事実。プラスのブラック・スワンを活かせるのはいいことだけれど、それは定義からして、滅多に起こらないことなので、それだけではなかなかやっていけないのだ。さらにぼくは、タレブ当人ですら自分のご大層な説教を実践できているとは思わない。

予想外の事態が起きてその被害が大きければ、それに対しては徹底的に臆病になれ、という。ふーん。つまり外を歩いていて、隕石や雷が落ちてきて死ぬ可能性はきわめて小さいけれどゼロじゃないよね? 通り魔に刺されたり撃たれたりする可能性は、それよりはるかに大きいよね。そしてそれが起きたらもう自分は一貫の終わりだ。するとそれに対しては徹底的に臆病になるのがいいってこと? 完全防護服で歩くか、いや外にまったく出ないほうがいいかも。さて、タレブはそんなことしてるんだろうか?

たぶんしてないと思うんだ。いまのはちょっと戯画化したけれど、それでも低確率だけど起こったら大変な事象なんていくらでもある。でも、ぼくたちはそんなものを心配しない。タレブの依拠するヒューリスティクスとやらも、そんなものは心配していない。そういうヒューリスティクス言語化した故事成句に「杞憂」というのがある。ブラック・スワンの大半はこの杞憂のたぐいだ。後付けであれこれ書けば、いかにもタレブは慧眼に見えるけれど—でも本当にそうなのだろうか。そして、そんな偶発事は心配しても仕方ないから、もう少し起こる可能性があるものについてだけ考えればいいというなら—それはつまり、結局発生確率を考慮するという話じゃないだろうか。

ちなみに、そうした低確率だけれど被害の大きいリスクにどう対処するかについてはキャス・サンスティー『最悪のシナリオ』みすず書房)を参照。これはまさに、そういう事象でもきちんと考えて予防や対策を採ろうという本だから、たぶんタレブにかかるとこのサンスティーンも脆弱論者(タレブはそれを「フラジリスタ」と呼ぶ)の権化だと罵倒されるんだろうけれど、でも結局のところ、ぼくたちはなんらかの発生確率見通しをもって、将来に備えるしかない。タレブっぽい物言いは、予言者めいているので、かっこよく思う人がいるのかもしれない。でも、百年に一度の予測不能な事態があるからといって、そればかりを重視した仕組みを作ったり、それ以外の時期の予測できる現象を無視したりするのは変だ。できる範囲で、確率を考え、被害想定をしつつ対処するしかない。

最悪のシナリオ―― 巨大リスクにどこまで備えるのか

最悪のシナリオ— 巨大リスクにどこまで備えるのか

サンスティーンは、人々が突発的で目立つ事象に注目し、過剰反応するという行動科学/行動経済学の知見を援用しつつ、それを考慮したうえでどんな政策対応をすべきかについて検討する。その基本は、できる限りの範囲で予測した発生確率に基づく費用便益分析だ。それに対して「確率がわからないブラック・スワン事象もある」という批判は、事実だけれど、でも役には立たない。人は、いつ起こるかわからないことに怯えて暮らし続けるわけにはいかないんだから。わかる範囲でできる限りのことをするしかないんだから。

そしてタレブが本書で「オレはわかってた」「あいつらはこれがわかってないのは脆弱な連中だ」と言いつのるほとんどが、ぼくには後付けの岡目八目に思える。また、その発言も説明不足の放言に見えてしまう。たとえば、この人の罵倒する一人が、大経済学者のスティグリッツだ。タレブにかかると、スティグリッ ツは後から自分の発言を変えて、しかも記憶まで捏造して「自分の指摘した通りだ」と開き直るインチキ野郎ということになるんだが……具体的にどういう発言についてそう思っているのか、タレブは本文中で明記しないんだ。なんでも金融危機の話らしいんだけど。

でも、ぼくはスティグリッツが、自分は金融危機を予測していたなんて豪語しているものを読んだことがない。そしてまた、スティグリッツだって(そしてタレブが罵倒する人々の相当部分だって)自分たちの理論やモデルがすべてを予測できているとか、完全にすべてを計画し尽くせているとは思っていないはずだ。特にスティグリッツは、そういう大理論の人ではないはずなんだけどね。

そして本全体が、無意味な自慢のオンパレード。二言目には、オレがオレがと出てくる。金融もオレのほうがだれより見通していた、医療もインチキな医者どもよりオレがすぐれてる、インターネットのウェブの可能性もオレは見通していた、ニューヨークの橋を映画撮影で通行止めにさせた当局よりオレが交通を理解してる、あーだこーだ。ボディビルしました。古来のワインとかコーヒーしか飲まないぜ。最近の果物は品種改良されてるからよくないぜ。オレはちゃーんとそれがわかってるのに、医者どもは無知でフラジリスタだから信用できないぜ。技術屋なんか視野の狭いオタク集団だぜ。オレはおめでたい学者をこんなに出し抜いてやったぜ。

いやあ、すごいですねえ。でも、ぼくも頼りにしている古来のヒューリスティクスがあって、自慢ばかり多いヤツは信用するな、というんだ。読めば読むほど本書は自慢まみれでうんざりしてくる。信者なら「タレブ様ってすごいわ!」と本書を読んで感銘を受けるのかもしれない。オレは本を読んでる、古典を見ている、といった自慢を見て、タレブが本当にえらいと思うのかもしれない。アラビア語ができるとかいうので感心している人も見かける。でも、ぼくはそうした自慢がほとんど本筋と関係ないと思う。それをなくせば、たぶん上下巻の無用に分厚い本は、30ページくらいで全部おさまるんじゃないかと思うんだ。

ただ、その(30ページでおさまるかもしれない)本筋の部分では、ちょっとはおもしろいことも言っているとは思う。完全にまちがった見当違いのことは言っていない。その意味で、ここでいろいろ論難したのはむしろその書きぶりとぼくの相性が悪い、ということなのかもしれないとは思う。こういうのが好きな人は 好きなようだし。完全に上から目線で説教されるのにひれ伏すのが好きな人か、あるいは大口叩きを半ばお笑い的に愛でるのが好きな人は、ひょっとしたら大いに楽しめるかもしれない。その意味で、完全に捨て去るのもためらわれる面はあるので、うーん。

ちなみに、タレブは『反脆弱性』で、歩くことが何か重要ではないかというのを思いついて、それをずいぶん得意げに吹聴してる。そして確かに、歩くことは人間の文明にとっても思考にとっても、実に重要だ。だからタレブもひらめきはいいのかもしれない。でもそれを思いつきに終わらせず、きちんと展開し、調べていけば、 まったく新しい世界が開けてくるのだ。それをまさにやってくれたのがレベッカ・ソルニット『ウォークス』(左右社)だ。そしてこれは、めっぽうおもしろい。歩くことが、思想にも都市にも社会にも大きな影響を与えたのを彼女は様々な文献や体験を元に明らかにする。

ウォークス 歩くことの精神史

ウォークス 歩くことの精神史

彼女は東日本大震災の少し前に翻訳が出た『災害ユートピア』亜紀書房)で知られる人だ。あの本でも顕著だった、完全に客観的でもなく、完全に主観的でもない、対象に寄り添うような書き方で自分自身の問題としても「歩く」という行為をとらえ、それを読者と共有しようとする文章はとても快い読後感を与えてくれる。彼女はタレブみたいに、自分が「歩く」ことの隠された意味に独力で気がついたようなことは言わない。でも、その洞察が思わぬ広がりを見せる驚きと喜びを、文を通じて共有してくれる。そして、その洞察が過去や現在の多くの論者とつながり、人間の文化そのものにつながる様子を素直な驚きとともに描き出してくれる。

そうした広がりは、地震津波金融危機のような派手な現象ではないけれど、でも世界を変え、人類を変えたものだ。それを、こんな形で(タレブみたいな単なる思いつきの放言にとどまらず)まとめてくれることで、ぼくたちはさらなる文化や世界の広がりを持てる。まったく知らなかった予想外の事実が判明する本ではない。でも、ぼくたちみんなが薄ぼんやりと感じていたことを、こうして鮮明な形で描き出してもらえるのは実にありがたい。そして本書自体が、「歩く」 ことをめぐるその精神の歩みそのものの実践だ。それを読むぼくたち自身も、その歩みを精神的にも肉体的にも引き継ごうという、明るい希望を残してくれる。 ウォーキング発想法みたいな安易な話ではないし、意外なネタが満載という本でもないけれど、つながっていなかった様々なものがつながる楽しさがそこにはあ る。

さて、タレブが帯に推薦文を書いている別の本がジョン・ケイ『金融に未来はあるか』ダイヤモンド社)だ。これ自体はおもしろい本で、いまの金融が変なマネーゲームになっている状況を批判し、それが実は何も生み出さない無益な活動であり、銀行が変なリスクを取るように仕向けることで金融—そしてそれに頼る社会—の不安定化を招いているのだ、と主張する。

金融に未来はあるか―――ウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実

金融に未来はあるか—ウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実

そしてタレブが推薦文を書くのはうなずける話で、それに対する対処法が、タレブの主張と同じなのだ。答えは、銀行が自分の融資先をきちんと把握し、リスクを取ってその範囲で活動しろ、というもの。何かあったら、自分が損をかぶるようにするということだ。いまは、政府がいろいろ預金保護だのを救済だのを行うため、金融業は他の人のお金で博打を打つインセンティブが生じてしまっている。それをやめよう。変な証券取引だの、自分の融資を証券化して売り払ったりだの、いかがわしい活動には手を染めさせないようにしよう。そういう派生商品とかは組み合わせ次第でブラック・スワン事象を生み出しかねないから、というわけだ。要するに、古き時代の銀行業に戻りなさい、というのがケイ(とタレブ)の処方箋となる。

さて……これはまあその通りの部分はある。そして、この本がなかなかおもしろく、いまの金融業の大きな問題を非常に明快に指摘しているのは事実。わかりやすいので、あまりこの業界に詳しくない人も、一読して損はない。もちろんそこで言われていることは、金融危機後に出た様々な解説書とそんなにちがっているわけではないし、その意味では目新しい知見があるわけではないとも言える。でも当時の危機だけではなく、もっと大きな金融業への批判としては、よくまとまっている。

でも、まず他の見方もあることを理解しよう。むしろいまの金融業はそうしたチンマリした商売にとどまらず、もっと大きく証券化とか派生商品とかをどんどんやって、社会のリスクをますます分散させるように機能させ、ブラック・スワン事象もあれもこれもすべて金融化してしまうべきだ、という拙訳のロバート・ J・シラー『それでも金融はすばらしい』東洋経済新報社)のような主張もある。これは正反対の主張だ。ぼくとしてはどちらか片方を選べと言われたら、個人的にはケイの主張を選びたくなるところだけれど、でもちがう見方もある、というのは理解しておくといいだろう。

さらに金融危機との関わりだけ見ても、それは話のごく一部であって、実は本質ではない、というのをぼくは最近、付け焼き刃で勉強しつつ理解するようになってきている(そんなの常識だ、という人は、まあ笑ってください)。

こうした古き良き銀行業のあり方を言うとき、特にアメリカではしばしば「ジミー・スチュアート型銀行業」という言い方をする。これは、フランク・キャプラの名作映画『素晴らしき哉、人生!』から取ったものだ(最近、ウィル・スミスがリメイク版を出したけれど、まちがっても手を出さないように)。クリスマス映画の定番で、金融系の学者や評論家の 多くが引き合いに出すので、一度見ておいて損はないらしい(と言いつつ、ぼくもDVDは買ったけれど未見。子供がいると、まとまってビデオを見る時間が取 れないのよ)。ジェームズ・スチュアートはその主人公を演じる。かれは住宅金融組合を経営しているのに、そこで取り付け騒ぎが起こる。そして、個人の貯金をはたいてそれを弁済し、自殺を考えているところへ天使がやってきて、自分がいない世界の様子を見せられる、というものなんだって。

ジミー・スチュアート演じる主人公は、地元でお金を集めて、それを地元のプロジェクトに融資している。己のリスクを十分に知り、融資プロジェクトについても熟知している。それが昔の銀行だった。さて、そこに戻ればいいのだろうか? そもそも、それで銀行破綻してきつかったからこそ(というのも、長期を犠牲にして短期で儲ける手はいろいろあるからだ)、いまの銀行を守る制度ができているわけだ。時計の針を戻して、銀行を昔ながらの活動だけに限定すれば金融危機は起きなくなるんだろうか?

そんなことはないんじゃないか。

さらにもう一つある。リーマン・ショックは、銀行の危機である以上に、影の銀行ことシャドーバンキングの危機だった。いま、世の中の大量の資金は、銀行が預金を集めてそれを融資する、という形でまわってはいない。お金の市場、つまりマネーマーケットが多くの資金の運用先でもあり、また調達先になっている。 そこでは各種の証券を担保に、形式上は売買だけれど実際には融資という形での資金調達が行われている。つまり銀行を経由せずにお金がまわるシステムができている。普通の銀行では、預金は銀行に対する利用者の融資で、それを集めて銀行は融資先にお金を貸す。でも銀行が間に入らなくても、預金者と借り手とがつながる場がマネーマーケットとして成立している。

そしてリーマン・ショックの大きな原因は、そのシャドーバンキングのほうの問題だ。そのマネーマーケットが、そこで担保として使われる証券(そのなかに証券化されたサブプライムローンも混じっていた)に対する不信のせいで動かなくなったせいだ。そのおかげで、一気に様々な参加者の資金繰りがつまずき、金融危機は一瞬で世界に広がった。

もちろん、銀行がジミー・スチュアート型の経営をしていれば、サブプライムローン証券でマネーマーケットがつまずくことはなかったかもしれない。でも何か別の原因でマネーマーケットが停まる可能性は十分にあった(いまでもある)。だったら銀行の規制だけの話をしていては、反脆弱とは言えないはずでは? ケイはもちろんそれも念頭に置きつつ、そもそもそんなマネーマーケット自体がよくない、そんなところに巣喰っている投資銀行どもは潰せ、というに等しいことを主張している。そんなものがない時代はあったんだから、大丈夫だよと。

うーん確かにそういう時代はあった。でもだからといって(そして投資銀行がいまはそこで悪辣な活動をしているからといって)、その時代のほうがよかったのだ、と言う主張がすぐに成り立つわけでもないんじゃないか。マネーマーケットなんて規制逃れの手口でしかない、とケイは主張し、そこに鉄槌をくだせ!と言うのだけれど、これまでそうした規制が実際に成功したためしがないことはケイも認めている。なら、今後それをお取りつぶしにできる見込みはあるんだろうか?むしろその使い方を考えたほうがいいんじゃないかとも思うのだ。

なぜぼくがそんな話に興味を持ったかと言えば、仕事の必要性に駆られて、スタンフォード大のペリー・メーリングのオンライン講義を取ったからなのだ。これがむちゃくちゃおもしろかった。

この人は、経済や金融への視点として、現在主流の経済学ビュー(見方)とファイナンスビューに対し、マネービューというものを提示する。経済学ビューは、過去が現在を作ると考える。過去に資本が蓄積され、それが現在の価値を生み出すわけだ。逆にファイナンスビューは、未来が現在を作る。そこでは将来の期待キャッシュフローが現在の価値を決める。

これはどちらが正しいというものではない。両方の側面がある。そしてその両者が出会うのが現在だ。でもそこで現在の価値がきちんと確定されるには、それが清算され、決済されなくてはいけない。今の支払い義務が今支払われることで、今の価値が確定する。つまり現在が現在の価値を作る。これがマネービューだ。 それは単純に、請求金額を払えるか、という話でもある。同時にそこで、何をもってお金とし、清算が行われたとお互いに認めるか、という理解とその間に入る各種の機関や制度の在り方が大きく関係してくる。そしてそれが行われる場が、さっき出てきたマネーマーケットだ。

かつては、その清算と決済も銀行が行っていた。そして銀行が取り付け騒ぎで破綻すると、経済が破綻し、現在が現在の価値を決められなくなり、大恐慌金融危機が生じた。それを防ぐ手段として考案されたのが、中央銀行だ。中央銀行は、いくらでもお金を刷れる。だから、だれもお金を貸さなくなり(預金しなくなり)支払いが出来なくなった銀行に対し、「最後に頼れる銀行」という役割を果たせる。

これを20世紀初頭に明確に指摘したのが、ウォルター・バジョット『ロンバード街』日経BP社)だ。危機のときには、中央銀行は担保を取って、銀行に対していくらでも貸せ。ただし、あまり気軽にあてにされないように高利で貸せ。それがあれば、銀行に対する安心感は高まり、そもそも取り付け騒ぎは起きなくなるし、よって金融危機もなくなる—これは書きぶりこそ古いけれど、非常に明快だしおもしろいので、この手の話に興味があれば是非お読みあれ。

ロンバード街 金融市場の解説 (日経BPクラシックス)

ロンバード街 金融市場の解説 (日経BPクラシックス)

でもシャドーバンキングにおいては、もはや銀行は迂回されている。だから銀行規制や、銀行を昔の状態に戻しただけでは何の解決にもならない。銀行に対する最後の貸し手だけでは役にたたない。

では、それにかわるマネーマーケットでの資金の流れを確保しているのはだれか? それはディーラーだ。ディーラーが自分のバランスシートでポジションを引き受けて、市場を作り、取引を成立させる。その機能こそがマネーマーケットの本質であり、そこで「お金」が生み出される。それが破綻しないようにするに は、危機に際してその機能を中央銀行が果たすようにならなくてはいけない。中央銀行はいまやマネーマーケットでの信用創造と決済を肩代わりし、「最後に頼れるディーラー」にならなくてはいけない! そしてリーマン・ショックのとき、アメリカのFRBが走りながらでっちあげた様々ななんとかファシリティとい う仕組みは、支援対象を銀行以外にも広げ、FRB自身のバランスシートに資産を引き受けてポジションを取る仕組みとして、まさにおおむねそれを実現するものだった。

メーリングの主張を簡単にまとめるとこんな具合だ。ぼくはまだこの含意を理解し切れていないので、この講義をすでに3回見直しているとともに、それを簡単にまとめたともいえるメーリングの The New Lombard Street: How the Fed Became the Dealer of Last Resort (Princeton University Press) を読んでいるところだけれど、おもしろい。邦訳されればいいのに、と思う一方で、これまで勉強してきた経済学やファイナンスの見方とかなりちがうし、結構マニアックな世界になるのでどこまでニーズがあるかはわからないけど……。

(2022.05.29f付記:その後、自分で訳しました。ご参照あれ。

21世紀のロンバード街―最後のディ-ラーとしての中央銀行

どうしてこの人の名前をこれまで聞いたことがなかったのかな、と思って調べたら、実は聞いていた。この人の邦訳が一冊だけある。『金融工学者フィッシャー・ブラック』日経BP社)。オプション価格の計算法として名高いブラック=ショールズ方程式を確立した天才の伝記だ。ファイナンスCAPMを考案した一人でもある。そして、それを基盤に貨幣理論から物価理論から縦横無尽に考え続け、金融実務で活躍しつつアカデミズムともつながりを保っていた人物となる。

ブラックの、既存経済学に対する不満とファイナンス理論に対する不満は、ある意味でメーリングのマネービューの考え方にも影響を与えているのだけれど、それを抜きにしても、ファイナンス分野に興味がある人ならとても楽しく読める本だ。そして、ある意味でブラックの発想—未来は予測できない— は、タレブの主張にもつながるところはある。だけど、ブラックはそこからタレブのような守りに入るのではなく、むしろむちゃくちゃにリスキーな各種の仕組み考案に走った。そのむちゃくちゃぶりも、この分野の基礎知識があれば(たとえば今出てきたCAPMって何なのかわかるくらいの知識があれば)実に楽し い。

でも、この本には著者のメーリングがどういう人なのか、という説明がほぼない。だからぼくは伝記作家だと思ってまったく気にしなかった。いまにして思えばもったいなかったかも—いや、どうだろう。たぶんこの邦訳が出た2006年にメーリングのことを知っていても、それ以上の興味をぼくは抱かなかっただろう。その意味では、まあ著者についての説明がなくてもそんなに実害があったわけではないんだろうけど……

えーと、途中で全然書評を離れたわけのわからない文になってしまったけれど、お許しを。というか、本当にこんな文に需要があるのかなあ。今回もたぶん、まず長すぎるとか、山形はタレブがまったくわかってないとか、マネーマーケットの話も、常識なのに得意げに素人臭いことを云々とか、どうせ悪口言われるだけなのは見えているし、それ以前にみんな「あとで読む」のタグをつけて絶対読まないんでしょ? だけど、仕方ない。この先、どんな頻度で更新していくかは、 我ながらよくわからないのだけれど、次はスタニスワフ・レム選集の完結とか、ハーラン・エリスンの選集とか、もっとSFっぽいネタになるかな。ではまた。