Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

ヤル気・ショッピングモール・ゴシック

今回の「新・山形月報!」も、スーザン・ワインチェンク『説得とヤル気の科学』オライリージャパン)、イアン・エアーズ『ヤル気の科学』文藝春秋)、鈴木信弘『片づけの解剖図鑑』エクスナレッジ)、近森高明・工藤保則編『無印都市の社会学 』法律文化社)、若林幹夫編著『モール化する都市と社会』NTT出版)、ジュディス・メリル『年刊SF傑作選』シリーズ(創元推理文庫)、高原英理『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』ちくま文庫)、フラン・オブライエン『第三の警官』白水Uブックス)など、多くの本が取り上げられています。他にも、カルロス・フエンテスの大著『Terra Nostra (我らが大地)』は気になりますね!



みなさまいかがお過ごしでしょうか。こちらは正月休みで一念発起、20年以上も本棚に寝かせてあったぶあつい小説を読み始めてしまったもので、今月前半はなかなか本が読めておりません。ちなみにその本、カルロス・フエンテス『Terra Nostra (我らが大地)』。 原著はスペイン語だけれど、英訳で読んでおります。大判トレードサイズのペーパーバックで750ページという化け物。通勤途中に持っているだけで腕が疲れます。その上、字がびっちりで、いま読んでいる部分はいろんな人のとりとめのないモノローグが続いて話が全然進まない……。これまで、数年ごとに読もうとすると、「邦訳が出るらしい」という話が聞こえてきて、それなら待とうか、と思って本棚に戻すというのを繰り返してきたのだけれど、ずーっと本棚を占拠させておくのも飽きてきました。今度こそ引導渡して読み切ります—と言ったはいいけれど、通常は読むのが異様にはやいぼくですら、二週間がかりでまだ200ページ終わっていない。あと500ページ以上! 先は長い……。

が、そういう読みにくいものを読んでいると、他の本が神々しいまでに読みやすく見えてきて、間にはさむ読書もなかなかはかどる。今回まずおもしろかったのが、スーザン・ワインチェンク『説得とヤル気の科学』オライリージャパン)。ぼくの訳した本にも『ヤル気の科学』(イアン・エアーズ著、文藝春秋)というのがあるけど、これは自分がどうやってやる気を出すかについての本だった。それに対して、こちらのワインチェンクの本は、他人にどうやる気を出させるか、という本だ。そしてどちらも、いい加減な思い込みや自分一人の体験の話ではない。ちゃんとした心理学の成果を活用して いる。いったい人は何で動くのか? どういったものがインセンティブになるのか? 基本的なアメとムチの使い分けも、「北風と太陽」の寓話のように、うまく状況にあわせないと逆効果になりかねない。また物語をどう構築するか、一貫性を求めたり仲間意識を活用したり、人の付和雷同を利用したりと、ケースに応じて手法はいろいろある。本書は、それを個別に説明した上で、具体的な場面での使い方を示してみせる。

説得とヤル気の科学 ―最新心理学研究が解き明かす「その気にさせる」メカニズム

説得とヤル気の科学 ―最新心理学研究が解き明かす「その気にさせる」メカニズム

この手の本は、このコラムでもいろいろ紹介してきたと思う。その筆頭はロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器』(誠 信書房)で、もちろん本書もチャルディーニの成果は十分に使っている(が、参考文献でこのチャルディーニの本が挙がっているのに、邦訳が紹介されていないのはびっくり)。チャルディーニの本は、むしろそういう手口を悪用するキャッチセールスや詐欺師にダマされないようにするにはどうしたらいいか、という方向からの本だった。でもその後、チャルディーニも『影響力の武器 実践編』誠信書房)で、まさに本書と同じ、いかに心理学を(自分にとっては)プラスに使ってイエスを引き出すか、他人に何かをやらせるにはどうすべきか、という方向に進んでいる。当然ながら、重複する部分はかなり多い。が、整理の仕方はこの『説得とヤル気の科学』のほうが明解だと思うし、もちろん他の知見も入っているので、読んで損はない。

著者はインターフェース設計の専門家で、こうした知見を具体的な場面にどう応用するかについては、多くの経験を持つ。そして特に、物理的なアーキテクチャを使って人を動かす話は、チャルディーニの本やエアーズの本では出てこない部分だ。たとえば、部下に確認作業をさせるときに、チェックリストを渡すわけだけれど、そのときにチェックリストをはさんであるクリップボードを重くすると、それが心の中で持つ重みが変わって注意が向きやすくなる、といった話は「へ~え」という感じ。しかしそれが効くということは、多くのビジネス誌で各種の(高い)文房具やカバンを買えば仕事のできる男になれる、とか煽っているの も、必ずしも完全なヨタではないわけか。

本書は特に最後の部分で、いろいろなケーススタディが出ている。子供に勉強させるにはどうしたらいいだろうか、リサイクルを普及させるにはどうしたらいいか、部下に主体的な仕事をさせるにはどうしたらいいか? むろん、ここに書かれた話がそのままあてはまるケースはないだろうけれど、でも自分のこれまでの試みを見直すきっかけにはなりそう。そんな実用性を考えなくても、流し読みするだけでも結構おもしろいので、ごらんあれ。

さて、なかなかやる気がおきないのが各種の片付け。新年の誓いで机や部屋の整頓を挙げたかたも多いだろうけれど、きっとそろそろ挫折している頃だと思う。いろいろな整理整頓法の本は出ているけれど、各種ダイエットの本と同じで、どれも三日坊主で終わってしまうんだよねー。上に挙げた「ヤル気」本で、自分を条件付けして片づけるように仕向ける手もあるとは思う。でもなかなかそこまでやろうという気自体が起きず、なんとなく散らかり放題にしているのが現状。その中でちょっと変わった本が鈴木信弘『片づけの解剖図鑑』エクスナレッジ)だ。

散らかるのは、物理的アーキテクチャの問題だ! 部屋や家が、片づけやすいようにできていないからだ! そしてこの発想をもとに、この本では玄関、台所、居間その他における、活動と収納の関係について豊富な図解とともに教えてくれる。もちろん、家自体の大きな構造だけでなく、タオル掛けのあり方なんていう小物まで! こういう実用系建築本の楽しさは、「ああこれはうちでもできそう」というのを何となく思わせてくれて、ちょっとやってみようという気にさせてくれること。「やってみようかな」と言わせるだけで、かなり実行率が上がるというのは上の「ヤル気」本でも書かれているし、それをこういうさりげない形でプッシュしてくれるのはなかなかいい。

そしてもちろん、それがうまくいかなかったとしても、本書なら人は挫折感を味合わずにすむ。だって部屋や机が片付かないのは、部屋や机の作りが悪いからだ、という責任転嫁ができるのですもの。その意味で、精神衛生上もとてもよい本。見ているだけでも楽しいし、これから家を建てたり引っ越したりするのを考えている人は、ぱらぱら見るだけでもヒントがあるはず。

ただ、ぼくは個人的に、部屋も机も散らかっているほうが好きなんだよねー。それは我が家において、いつももめごとの種ではある。整理しないほうがいいのだ、ということを説明した本も、以前紹介したような気がするな。整理は下手をすると自己目的化して、そっちに必要以上のエネルギーが割かれることも多いから、という話だったんだけれど。いずれまたとっちらかったぼくの本棚から出てきたら改めて紹介でもしましょうか。

全然関係ないが、最近ショッピングセンターやパチンコ屋とかコンビニといった、ふだんなにげなく使っている空間を社会学のフィールドワークの対象としてはいかが? と学生さんたちに向けて書いたらしい本を手に取って、失望した話をブログに書いた。それは「どこにでもある日常空間をフィールドワークする」という副題を持つ、近森高明・工藤保則編『無印都市の社会学 』法律文化社)という本で、ぼくの不満はそこに書かれた「フィールドワーク」と称するものが(それも自ら「模範演技」と述べているものが)、単なる裏付けのない印象記に終わっているということだった。そのエントリーを読んだ一部の人は、ぼくが(すでに変な知識を仕入れすぎているので)本の中に新しいものを見つけられなかったから文句を言っているのだ、と解釈したそうだ。でもこれは、そんな話ではない。

たとえば、この本で扱われているショッピングセンターを論じたおもしろい本が最近出ている。若林幹夫編著『モール化する都市と社会』(NTT 出版)だ。日本の巨大ショッピングモールの歴史的な変遷や設計理念と店舗形態について、いろいろな観点からまとめたものだ。そしてそこから、いまの都市や社会のあり方についても目を向ける、とても示唆的な本になっている。さて、この本の中に、ぼくが大枠として知らなかったようなことはあまりない。もちろん、玉川高島屋の細かい歴史なんかは知らなかったけれど、日本のショッピングセンター発展史はそこそこわかる。でも、それを改めてきちんと歴史的に裏付けることで、読む方は自分の認識を再確認できる。それについて別のまとめ方をすることで、発見がある。知っている(と思っている)ことを確認するのも重要な 作業なのだ。

モール化する都市と社会: 巨大商業施設論

モール化する都市と社会: 巨大商業施設論

社会学として学問を名乗るからには、単に印象を書くだけではダメだろう。それをどう裏付けるか、どう整理するか、そしてそれのベースとなるデータや資料をどう集めるか、というところに学問としての基礎があるはず。『無印都市の社会学』の著者たちは、学生たちにそういう点こそを教えてほしいし、またそれを口だけでなく実践で(しかも—たとえば上の「ヤル気」本の知見なども活用しつつ—おもしろく)見せてほしい。それができていないものを、安易にフィールドワークとして氾濫させるべきじゃないと思う。

ちなみにこの『モール化する都市と社会』は、ショッピングセンターを作る側の視点がほとんどとなっている。さてそれに対して消費者のほうは、どう動いたのか? 客が入っているということは、消費者のニーズと設計者の見立てがマッチしたということなんだろうとは思うけれど、でもそれをちゃんと示すことも必要だ。その確認や検証などのやり方を見せるのが、フィールドワークの模範演技じゃないかと思うんだけれど。『無印都市の社会学』でピンとこなかった学生さんも、少し難しくても『モール化』を読んで見るといろいろ調べてみるヒントとかも出てくるんじゃないだろうか。そしてもちろん、一般の人もショッピングセンターという場所の印象が少し変わってくるはず。自分が心理的に、建築的に—どう操られているかについても、認識を新たにできると思う。

で、最後に小説。ぼくは個人的に、高校から大学にかけてSFや文学系のアンソロジーをたくさん読んだことで、かなり読書量をかせげたし、また分野としての見通しもできたと思う。といっても、アンソロジーをきちんと組むのはなかなか難しい。しばしば営業的な意図が露骨に見えてしまったり、仲間内のお手盛り ばっかりになってしまったりして、それ自体が一つの世界を創るようなアンソロジーというものにはなかなかお目にかからない。ぼくが育った1970年代とか1980年代のSFは、そういうすごいアンソロジーがたくさんできた時期でもあった。ジュディス・メリルによる『年刊SF傑作選』シリーズ(創元推理文庫)は、もう本当につまらないジャンルの枠をとっぱらって読む小説の世界を広げるのに実に大きく貢献してくれた。日本でも、渋沢竜彦(旧字を使うのはいやです)とか種村季弘とかがいろいろそうした紹介をしてくれたおかげで、読者の厚みは広がったと思うのだけれど、その後いろんな分野が寸断されるにしたがって、なかなか広い視野をもったアンソロジーにはお目にかからなくなっている。

が、高原英理『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』ちくま文庫)はその点、なかなかよかった。泉鏡花から大槻ケンヂまで、倉橋由美子から京極夏彦まで、須永朝彦から伊藤計画まで(と書いたのはいい加減で、このペアがそれぞれ何かの数直線の両極というわけじゃない)実に広範な日本作家たちの「ゴシック」作品を集めたアンソロジー。そして、「場に媚びようとする 感じ、要するにどこか低い位置に安んずる卑しげな心根」(p.17)を否定する編者の鑑識眼もきわめて透徹しており、このアンソロジー全体にしっかりしたまとまりを与えてくれている。このコラム読者はご存じだろうが、ぼくは日本の小説はあまり読まない。でも、この本はたまたま手に取って、そのままずっと通して読んでしまった。

巻頭の編者によるマニフェスト、そして巻末の作品解題(というか選定理由)もシャープかつストイックですばらしくて、このアンソロジーだけにとどまらない広がりが感じられる。こういうのを、生意気な高校生あたりにたくさん読ませると、10年後くらいに世界がいろいろ変わってくるだろうし、卑しい萌えだのラ ノベだのにはまって廃人化する連中も減るはず。別の方面で社会不適応者を増やしそうな気もするけれど……。

さて、これは10年以上前に読んだもので、まだ今回は再読に及んでいないのだけれど、フラン・オブライエン『第三の警官』白水社からで突然再刊されました。これまでは筑摩の文学全集に収録されているだけで、なかなか手に取る機会がない本だったけれど、新書サイズで読みやすくなってすばらしい。これは、本当に掛け値なしの大傑作なんだが、どんな話かと言われると……めちゃくちゃな話でとても、ここでは説明しきれない。同じフラン・オブライエンのこれまた傑作『スウィム・トゥー・バーズにて』もしばらくすれば同じ判型で再刊されるはずなので、それとまとめていずれ紹介しましょう。変な幻想小説ともホラ話ともつかない異様な小説がお好きな人は、是非とも手にとってほしい。すばらしい本です。ホントはぼくもこっちを読み直したいところなんだが、『Terra Nostra(我らが大地)』をとにかく終えないと……。

でも冒頭に書いたような調子だと、次回ですら『Terra Nostra(我らが大地)』 を読み終えられているかどうか。実はこの小説についての優れたレビューも読んでしまい、本のテーマ自体が技巧と圧倒的なボリュームにより裏切られている、壮大で見事な失敗作だという評価を見てしまっているんだが、読めば読むほどその評の通りだという感じで、「壮大で見事」な部分で読み進むべきか、失敗作として見捨てるべきかが、いまなおせめぎ合い中なのです。ある意味で、これは書評というものの功罪なのだけれど、このコラムも少しでもそうした有益な影響力を 読者に行使できますように。