Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

コルタサル・行動経済学・ピアピア動画

今回の「新・山形月報!」は、フリオ・コルタサルの作品をメインに据えた書評です。コルサタルの『八面体』水声社)、『秘密の武器』『遊戯の終わり』『悪魔の涎・追い求める男 他八編』(すべて岩波文庫)、『かくも甘く激しきニカラグア』晶文社)などの作品、そして、A・E・コッパード『郵便局と蛇』ちくま文庫)、ウリ・ニーズィー、ジョン・A・リスト『その問題、経済学で解決できます。』東洋経済新報社)、野尻抱介『南極点のピアピア動画』(ハヤカワ文庫)を論じます。あと、山形さんも寄稿されている『サンリオSF文庫総解説』本の雑誌社)が先日出ましたので、小説好きは要チェックですぞ。



前から読んでいるハンス・ヘニー・ヤーン『岸辺なき流れ』国書刊行会、上下)ですが、挫折中! こういう長い重い本は、行き帰りの通勤電車の中で20分ずつ読むという読み方に全然なじまない。なんかどっかでしっかり腰をすえて読まないと。来月また遠くに出かけますので、その飛行機の中でなんとか片づけましょうか。

ということで、かわりに手に取ったのは、短編の名手フリオ・コルタサル『八面体』水声社)だった。これは通勤電車の中でも読める。短編1本ずつを行きと帰りでなんとか処理できるし、空いた時間でちょろっと読むにも好適。八面体というだけあって、短編8つ、そして別の短編集からの3編に加え、短編小説創作をめぐるコルタサルの論考が収録されていて、なかなか充実している。

コルタサルが、ぼくの期待を裏切ったことはほとんどない。彼の短編は、ある意味ですべて同じでありながら、常にちがう。単純な現実の中にふと顔をのぞかせる異世界。ときにはそれがきわめて明瞭に、この世界からあの世界へと推移するのだけれど、ときにはその転換がいつ起こったかもわからないうちに生じ、ときにページのこちら側にいるぼくたちの世界にまでするりと入り込んでくる—それをほんの数ページの作品でやってのけるのが、コルタサルの真骨頂だ。しかもそれが作品集ごとに進歩している。

本書もまたその期待を裏切ることはなかった。この『八面体』コルタサル中期にあたる1970年代の作品集なのだけれど、たとえば収録作品の「そこ、でも、どこ、どんなふうに」などではもはや「こちら」「異世界」という区別すらなく、異様なことばの断片——ときにウィリアム・バロウズみたいな——が、書き出しのフレーズからその異世界とこの世界を渾然一体とさせたような、不思議な世界を現出させる。短編というのはその性質上、オチが結構大事なので、あまりあれこれ説明できないのが残念だけれど、ストーカーを描いた「ポケットの中の手記」は、まさにストーカーの妄想世界が同時にこの現実でもあると いう作品。

この本を読んで懐かしくなり、以前の『秘密の武器』『遊戯の終わり』(いまはどっちも岩波文庫に入ってるけれど、ぼくはどっちも国書刊行会版の凝った装幀のやつで読んでいる)を読み返してしまった。「追い求める男」「山椒魚」「悪魔の涎」みたいな傑作もある一方で、自分自身に出会う自分というようなかなり単純なアイデアストーリーもあり、かのコルタサルでさえ進歩しているんだなとわかって感慨深い。そして、おまけで収録されている短編創作論は、短編を書くのがある種のインスピレーションであり、詩を書くような神がかったひらめきの体験なのだというコルタサルの高らかな宣言として、実に感動的だ。

秘密の武器 (岩波文庫)

秘密の武器 (岩波文庫)

だが……ぼくがこの本で最も嬉しく、同時に最もやるせない思いを感じたのは、訳者寺尾隆吉の解説だった。そこには、この『八面体』をほぼ最後に、コルタサルがたどった凋落の道が描かれている。かれはあるとき、キューバニカラグア社会主義革命政権にどっぷり入れ込むようになったそうな。寺尾は、コルタサルのその変遷を、苦々しげに——でも理解をこめて——説明する。そしてコルタサルの誠意は十分に理解する一方で、その政治的な著作を酷評する。

実は、そういうコルタサルの政治的著作も邦訳がある。『かくも甘く激しきニカラグア』晶文社)というやつだけれど、冒頭のニカラグアに到着した高揚感を描いた詩はすばらしい。でもその後の政治文書は—公式政治プロパガンダの域をあまり出ないものであるのは確か。もちろん邦訳はそんなことを指摘することもなく、巻末にはアメリカ帝国主義糾弾の(コルタサルとは全然関係ない日本人の)紋切り型で異様に長ったらしい鼎談が掲載されて、コルタサルはこうやって政治的に参加してえらいねー、人民の心がわかってるねーとヨイショするばかり。

だが、その政治活動への関与が深まるにつれて、コルタサルは創作に割く時間がますます減って——そして、その質もどんどん下がっていったんだそうな。本書『八面体』の後で出た短編集『愛しのグレンダ』も『ずれた時間』(邦題『海に投げこまれた瓶』)も邦訳はあるんだが……実は、コルタサルを全部読んでしまうのがもったいないので、いままで置いてあったんだよね(あとしばらく前に出た処女短編集『対岸』も)。でも寺尾はこの2冊を酷評していて、いまパラパラ見てみると、寺尾のその評価は(いつもながら)かなり的確なようだ。うーん。

これまで、コルタサルの邦訳はどれ一つとして、このあたりの話をきちんと書いてくれなかった。彼のほとんどの短編集を訳している木村栄一は、訳者としてはすばらしいんだけれど、解説者としてはかなりワンパターンであまり参考にならないのだ。そして他の訳者の解説も、政治的活動やスタンスが創作の糧に(少しは)なったガルシア=マルケスやバルガス=リョサフエンテスなどを引き合いに出しつつ、それがコルタサルの誠実さを示したものであるかのように肯定的に述べるばかりだった。そういう皮相な評価を超えて、きちんと作品との関連まで論じてくれる解説こそ、ぼくは本当の意味での「解説」だと思う。

あと、コルタサルが政治活動に入れ込んだのは、非常にもったいないことではあったんだが——実はこれ、げんなりするほどよくあることだ。ミュージシャンやアーティストや作家は、常に自分たちがうわついた一過性の流行り物を創っているだけの虚業でしかなく、本当に社会的に重要な役割を果たしていないんじゃないかという不安にかられている。だからこそ、多くのアーティストはすぐに、エコロジーだの左翼っぽいイデオロギーだのにからめとられる。かれらの作品が偉大なのは、往々にしてまさにそれが政治的、実業的なものとは無関係に存在しているからだったりする。うわついたところ、軽々しいところにこそ、その活動の価値があるのだ。でも、多くの人はそれを胸張って認められるほど強くはない。

コルタサルの短編は、洗練されたきわめて高度なものではあるけれど、だからこそそれは、ある種の高い知性と感受性を持つ高踏的な趣味を持つ人びとにしか響かない。それがまさにコルタサルの短編の持つすばらしさ——いやあらゆる優れた短編でも同じ——ではある。さりげなく隠されたヒントやほのめかしから、世界の逆転を読み取れる人でないと、それを享受はできない。つまりは、それなりに知的な趣味人でないとコルタサルの短編は楽しめない。かれはそれが後ろめたかったんだろうね。だからこそ、政治に飛びついたのかもしれない。そしてたぶん、かれ自身はその政治的な活動に、すごく充実感を感じていたはずなのだ。これまた残念なところではある。多くの芸能人を見ると、みんなキャリアが落ち目になり始めたあたりで、そうしたお題目に飛びつく。コルタサルは、政治にとびこんだから創作の腕が鈍ったのか、それとも創作力が下がったことで、焦って政治的な方向に向かいはじめたのか——。

コルタサルの短編集は、すでに述べたように、今は岩波文庫でかなり手軽に手に入る。上に挙げた『秘密の武器』『遊戯の終わり』もいいけれど、つまみ食いしたい人には『悪魔の涎・追い求める男 他八編』岩波文庫)が、本当に傑作ばかりをよりすぐっていて非常にお買い得。

そういう政治とはまったく関係ないところでちょこんとすわっている短編集が、A・E・コッパード『郵便局と蛇』ちくま文庫)。今回文庫で出たけれど、以前に国書刊行会から出ていた単行本についてぼくが書いた書評はこちら。 いまでもぼくは、本書についてこれ以上のことが言える気がしない。今回も読み終わって、ぼくは遠い目をしてしばらくそこにボーッとすわっていた。コルタサルよりは泥臭いんだけれど、でもやはり同じように完全に自立した小説世界を、一瞬にして結界のように構築できる希有な作家だし、多くの人に手に取ってほしいんだけれど、でも「おもしろいから是非読んで読んで!」と声高に押しつけるような、そんな作品でもないのだ。机の上にふとあるのを、何となく手に取ってほしい。手持ち無沙汰な待ち時間に、どっかのフリーペーパーにでも載っているのを何の気なしにまったく無防備に読んでほしい。そんな作家なので、あまりうまい紹介ができないんだけど……。

小説ばかり扱うと偏るので、ちょっと経済・ビジネス系の本も。ウリ・ニーズィー、ジョン・A・リスト『その問題、経済学で解決できます。』東洋経済新報社)はなかなかおもしろい本で、経済学でも実証実験をして何が効くかをきちんと検証するようにしましょう、というもの。ある意味で、ぼくが訳したアビジット・V・バナジーエスター・デュフロ『貧乏人の経済学』みすず書房)と対になるような本だ。『貧乏人の経済学』発展途上国版なら、こっちは先進国版だとでも言おうかな。

どうやったら子供が勉強するかを、ご褒美(and/or 罰)のあげかたを変えて実験し、寄付金を集めるときの各種やりかたを比較する。それぞれの試みも、ネタとしておもしろいだけでなく、その含意もかなり深い。なぜ女の子は理数系にいかないのか、男と比べてがっついて競争しないのか、という話について、いろいろ多くの人が憶測でものを言う。知能の分布のせいだとか、遺伝的にそういうふうな傾向があるからだ、とか。

本書はそれを、いろんなところで男女にゲームをさせることで検証する。そして、男系社会では確かに男のほうが競争好きで女性は競争が必要な作業を自主的に避けるけれど、でも女系社会ではそれがまったく逆だということを示す。するとそれは生得的なものではなく、後天的に学習された性質なんじゃないだろうか?

たぶんこれだと、なぜ女系社会がそもそも少ないのか、という疑問は出てくるので、まだ完全に決着がついたわけではないけれど、でも決着をつける必要もない。やろうと思えば、学習次第で女子も男子と同じくらい競争好きになる。

中身もおもしろいし、翻訳はかの『ヤバイ経済学』東洋経済新報社)でおなじみの望月衛で、きわめて親しみやすい訳文。浅くも深くも読めるし、これをヒントに自分でも会社その他でいろいろ実験を始めるためのヒントもいろいろ得られる。読んで、実践してくれる人が増えると、いろいろ楽しいはず。

さて今回の最後は、しばらく前にいっしょに深圳旅行にいった野尻抱介『南極点のピアピア動画』(ハヤカワ文庫)。もちろんニコニコ動画にヒントを得たもので、そこに3DプリンティングとSNSによる集合知活用とが組み合わさったときに出現する世界の話。そこにコンビニの物流と宇宙人のプローブが組み合わさると——ふつうのお話としておもしろいだけでなく、いま流行の(この欄でも何度か紹介した)メイカーズ運動の一つのあり方を示した点で、まともな意味での未来予測的なSFとしてなかなか優れていると思う。

南極点のピアピア動画

南極点のピアピア動画 (ハヤカワ文庫JA)

特に、決して3Dプリンティングやメイカーズ運動が既存製造業を置きかえるなどとは考えず、むしろそれがSNS的なコミュニティと組み合わさるところに価値が生まれる、というのを直感的に感じて作品化しているのはすごい。いっしょに旅行して、野尻抱介自身が自分で手を動かしてあれこれ創る立派なメイカーだというのを知ったのだけれど、そうした自分の活動への愛着と希望が明解に出ていてすばらしい。ストーリーはもちろん、いろいろ都合のいいときに都合のいいものが出現するのだけれど、それはまあご愛敬。むしろ、コミュニティの描かれ方のほうが、ひょっとしたら慧眼なのかもしれない。

まじめに3Dプリンタ関連の本を読むだけの熱意がない人は、本書を読むと少しイメージがつかめるかもしれない。もちろんこの小説みたいに事態が進行するとは限らないけれど、でも絶対そうならいともいえないような、そんな世界が描かれている。そうした可能性の指摘というのは、ある意味で古典的なSFの役割の 王道とすらいえる。軽くさっと読めるので通勤通学の道中にでも是非どうぞ。

では、また次回!