Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

イーガン・脳介機装置・膨張する宇宙

今回の「新・山形月報!」で取り上げられた本は、アレクサンドル・ベリャーエフ『ドウエル教授の首』(未知谷)、ミハイル・A・ブルガーコフ『犬の心臓』河出書房新社)、グレッグ・イーガン『しあわせの理由』(ハヤカワ文庫)、桜井芳雄『脳と機械をつないでみたら』(岩波現代全書)、マーク・チャンギジー『〈脳と文明〉の暗号』講談社)、ローレンス・クラウス『宇宙が始まる前には何があったのか?』文藝春秋)など、小説からサイエンス書まで充実のラインナップです。ご一読を!



ご無沙汰です。現在、ラオスにきておりますが、この長期の無謀な出張連続も、今年はこれで最後のはず!

そのラオスになぜか持ってきているのが、アレクサンドル・ベリャーエフ『ドウエル教授の首』(未知谷)。たまたま本屋で見かけて買ったもの。これははるか昔の小学校時代に、図書館にあったジュブナイルSF全集で読んだんだよね。家政婦は見た! 人間 の首だけを切り離す技術を開発したドウエル博士が、なぜか自分も首だけとなって弟子の実験室に置かれているのを。そしてその周辺でうごめく、首をすげかえられた怪しい人間たち、そして首だけのドウエル博士に隠された謎が次第に解き明かされ……というお話。懐かしい! 今頃再訳されるとは!と思って買って読んだんだが、いま調べてみると、もちろんこの完全版も初訳というわけではなく、すでに何度か出ている模様。1920年代、ソ連初期の時代の小説だから、もちろん古くさいし時代がかっているのは否めないけれど、 変な技巧にも溺れずおもしろいよ。

犬の首だけ活かすような実験や器官移植は、当時のソ連ではかなり実験も行われており、一般にも知られていた。たとえば、ミハイル・A・ブルガーコフの傑作『犬の心臓』河出書房新社)も、そうした世間的な知識を背景にしている小説だ。でも本書について知らなかったのは、実は著者のベリャーエフ、病気で長期にわたり首から下が不随という、まさにドウエル教授の首状態の生活を余儀なくされていたということ。最近の音楽家ゴーストライター事件のせいもあって、著者の境遇に作品をあまり引きつけて読むのも少しためらわれるところはあるんだが、やっぱりその体験の切実さはこの小説にも深みを与えていると思う。小学生の頃にわくわくした小説とかは、ときどき大人になってから読むと「なんじゃあこりゃ!」となるものも多いけれど、本作は当時の感動を維持できているんじゃないかな。

ドウエル教授の首

ドウエル教授の首

同じテーマのSFが、グレッグ・イーガン『しあわせの理由』(ハヤカワ文庫)に入っている最初の短編。夫が事故に遭ったので、その脳を取り出して自分の子宮で活かし続ける(そして代理母に生ませた別の体に移植する) 話。こちらは、20世紀の末に書かれた小説だ。でも、ベリャーエフはそうした首だけの人間存在をきわめて否定的に捕らえているのに対して、イーガンはそこらへん明確ではない。それどころか、この短編集の他の小説を読むと(というかイーガンの他のすべての作品はそうだけれど)、かれはむしろそうした技術で大きく改変された人間のあり方に、非常に肯定的だ。

代理母は許されるか、クローンは、薬物による人間の感情コントロールは、不老不死は、脳の機械への移植は— こうした話が現実に出てくると、すぐに倫理がどうした、人道的に許されるか、といった話が出てくる。そしてなんか年寄りの集まった委員会が作られて、何も結論出せずに「さらなる国民的議論を」とか言って、話を先送りにするのが常だ。そして知識人どもも、そういう場面で慎重論をぶってみせるのが、思慮深い ポーズであるかのように思い込んでいる。そしてSFも、そこで古い人間の悲しみを全面に出すことで、読者のセンチメンタリズムに訴える場合も多い。技術肯定論は、軽薄な技術盲信のおめでたい楽観論の扱いをされる。

でも、イーガンはそこで、むしろ技術的な解決を肯定する。苦しむことこそ人間の進歩の原動力だとか、死があるからこそ生が輝くといった、いまの(一見すると高尚に思える)浅はかで反動的な人間主義者を、イーガンはかなり強く否定する。イーガン的に言えば、ドウエル教授の首が不幸だったのは、技術が未熟だからだ。量子サッカーという変なアイデアを目くらましに使ってこのテーマを追いかけた「ボーダーガード」は、『しあわせの理由』のなかでも、ぼくのお気に入りだ。それ以外にも、ときに荒唐無稽なSFのアイデアが、まさに現代的なテーマとしてストレートに提示されていて、妙なレトリックや文学的処理がないのできわめて明解だ。ブログにも書いたけれど、坂村健の解説も自らイーガンじみた変なアイデアに踏み込んで見せる秀作。そしていまや、イーガンが描いたような話をそろそろまじめに考える必要が出てきている。

それを示すのが桜井芳雄『脳と機械をつないでみたら』(岩波現代全書)だ。副題は「BMIから見えてきた」とあって、このBMIはブレイン・マシーン・インターフェイスのこと。脳介機装置なんていう硬い言い方で呼ばれたりもする。脳と機械を直結して、考えるだけで機械を動かす—それが少しずつ現実化しつつあるのだ— 研究の現状についてまとめた本だ。これが発展していけば、もちろんイーガンの描いたような世界にもつながるわけだ。でも著者は実際の研究者なので、安易な夢物語は語らない。研究者として、この分野が見せている大きな進歩についてうまく説明してくれるのだが、それ以上に多くの研究者が直面している苦労がいろいろ描かれていて、これはなかなかすぐにモノになりそうもないことはよくわかる。脳にそもそも電極をつなぐだけでも一苦労で、しかも脳はいつも変わっているので、「ここにつなげばいい」という決まったところが明確にあるわけでもない。そんなレベルだから、安定して脳と機械をつなぐということ自体がまだまだきちんとできる水準に達していないんだって。

とはいえ、やはり各種の成果は面白い。行動するとエサがもらえるようにすれば、動物は学習してその行動をやる。脳に電極をつなぎ、行動しようと思うとエサがもらえるとすれば、最初はもちろん、行動しようと考えて実際にそれに行動が伴うが—しばらくすると、行動を考えても実際の行動が伴わなくなる!! ちょっとこれだけで、SF短編が10本くらい書けそうなすごい話。シロウトとしては、それが永続的に切り離されているのか、それともBMIを解除するといずれもとに戻るのか、是非とも知りたいところ(でもそこまでは書いていない)。本書にも頻出するミゲル・ニコレリス『越境する脳』早川書房)はちょっとむずかしめの内容だったけれど、本書ならもっと初心者にも楽しめるはず。

ただ—あくまで趣味の問題かもしれないけれど— 本書の書きぶりが、ぼくにはいささか気が散るものだった。「こんな実験が行われた。こんな成果があがり、こんなことがわかった。ところでこれをやった教授は日本食が大好きだった」「こんな発表が行われて、研究者は大いにわいた。ところでその大学の外は殺人が多く、こんな格差の多いアメリカ社会はまちがっていると思った」。こんな具合に、到るところで、節の最後のところに、BMIとはまったく関係ない著者の私的な思い出話やら社会批評やら研究者心得やらがやってきて、せっかくBMIに集中していた意識がいちいち途切れるのだ。

さらに著者は最後で、BMIと倫理の問題に話をすすめる。基本は、まだ大して成果も出てないうちに、変な倫理とかでいまから研究を縛るようなことはすべきではないという。それはそうだ。いまから縛ろうとしても、結論が出ないかくだらない八方美人めいた主張に終わるから、と。その通りですな。だがそう書いた直後に、著者はまさにその、やるなと言ったことを自分でやる。BMIで身障者を助けると、身障者独自の文化が破壊されるかもしれないから安易に使うなとか、BMIが発達すると金持ちばかりがそれを使えて、貧乏人は臓器を取られたりしてかえって貧困になるからけしからんとか。そんなこと言うんなら、やっぱ BMI研究もいまから規制しといたほうがいいかもしれませんねえ、とさえ思えてしまう。無用なお説教じみた部分は控えてほしかったところ。でもわかりやすいし、この分野への入門書としては非常によいと思う。この分野に関心がある方(たとえばイーガンの読者など)はご一読を。

今回は持ってきている本が科学書ばかりで、あとは特に脈絡なしでマーク・チャンギジー『〈脳と文明〉の暗号』講談社)。これは驚いた。言語と音楽(そして踊り)についての、コロンブスの卵のような理論だ。言語は不思議なもので、霊長類ですら大した言語活動をしないのに、ヒトだけ突然、やたらに複雑な言語を駆使できるようになる。チョムスキーやピンカー的な発想だと、言語というのは人間で突然発生した、完全に生得的な能力だ。つまり、人間はなんだか知らないけれど他の動物とはまったくちがい、生まれながらに言語を習得する能力を持っている、というのがかれらの主張だ。もっと極端に言えばヒトは生まれつき言語器官みたいなものを持っていて、それにより言語が腕や脚みたいに「生える」ということになる。

〈脳と文明〉の暗号: 言語と音楽、驚異の起源 (ハヤカワ文庫NF)<脳と文明>の暗号 言語・音楽・サルからヒトへ (KS一般書)

<脳と文明>の暗号 言語・音楽・サルからヒトへ (KS一般書)

さて、本当にそんなことがあるのか? それはわからない……と書いたところで、なんか東大で文法処理を支える神経系が見つかったそうだけれど、もちろん言語は脳で処理されているんだから、何らかの回路はあるにちがいない。でもそれって本当に生得的に生まれつき備わっているものなの? そういう回路が元々備わっているんだと考えるとすっきりする一方で、あまりにそれって都合良すぎる仮定ではありませんか、という気もする。なんで人間だけそんな器官があるの? 他の動物とのそんなものすごい断絶を仮定しちゃっていいの?

本書はこれを、うまいこと否定— はしないまでも、なだめてくれる。そしてもっと連続的でおとなしい発達を提案する。言語というのは、基本は自然の音の模倣になっている、というのがその理屈。ヒトやそれ以外の動物も、自然の音には当然ながら実に高度な反応を示す。言語というのは、そうしたヒト以外にも備わった自然の音に対する反応機構を利用するように発達してきたのだ!!

それを示すために、著者は自然に生じる音を「ぶつかる」「すべる」「鳴る」の3種類に分け、人間の言語で使われる音素もそれに対応していると論じる。また音楽も、歩行のリズムから発生し、強弱や音の性質が自然の音の性質に対応するようになっている、という。なるほど! 

実は以前、音楽(というか歌)の起源を進化論的に解明するという触れ込みで、「神経科学から見た音楽・脳・思考・文化」なる副題を持つ、ダニエル・J・レヴィティン『「歌」を語る』スペースシャワーネットワーク)という本を訳したことがあるんだが、これは音楽についてまったく説得力のある議論を提示できておらず、訳しながらずいぶん腹立たしい思いをさせられた。

それもあって、音楽なんて何かのオマケで発達した無意味な偶然の産物でしかない、というスティーブン・ピンカーの説のほうがあたっているのかも、と思うようになっていたんだが、本書を読んでその考えが結構変わった。もちろん本書の議論もまだ荒削りだとは思うけれど、それでも非常におもしろいし、確かに一理ありそう。ちなみに、本書を読んでチャンギジーの前著『ひとの目、脅威の進化』(インターシフト)をまったく誤解していたことに気がついて、これは読まねばと思った次第。次回には報告できるかも。が、これはまたの機会のお楽しみだ。

ちなみに、本書を読みつつ、言及されている各種YouTubeのビデオを見たりしているうちに、立体音響のASMRというやつに出くわした。これを使ったビデオクリップや音声クリップをあれこれ聴いてみると、音の可能性もかなり残っているような気がする(とはいえ、昔一瞬だけ出回ったホロフォニクスのほう が、立体音響としてはすごかったようにも記憶しているんだけど、記憶補正がかかっているだけかな?)。チャンギジーがこの技術をどう考えるかは聴いてみたいところ。この立体的な分解能って、普段の音を聞く作業で活用されているんだろうか? それによって本書の議論の説得力も変わるように思う。読者のみなさんも、ちょっと検索して試してみるとおもしろい……のだけれど、当然のことながら、多くの作品がちょっと(いやかなり)いかがわしい目的でこの技術を使っているので、調べるならまわりの人目(とボリューム)は十分に気にしてほしい。ついでに、イヤホンやヘッドホンでないとあまり効果がわからないのでその点はご留意を。

さて、最後はローレンス・クラウス『宇宙が始まる前には何があったのか?』文藝春秋)は、神様がなくても宇宙が自分で自分を作り出すという話を、そこそこシロウトにもわかりやすく展開してくれた本。この分野は、あれやこれやと仮定も多いし、実証できたわけでもなさそうだし、断言しているのをどこまで真に受けるべきかはいつも迷うところ。でもこの薄さで、非常に手際がいいし、平坦な宇宙の中のちょっとしたゆらぎの中に誕生したといういまのぼくたちの存在というものにも、思いをはせずにはいられないよい本。

そしてぼくが本書で特にしんみり感傷的になったのは、いずれいまのような宇宙は見えなくなるという部分。いずれ宇宙の膨張速度は光速を突破する。すると、宇宙を眺めても何も見えなくなるし観察もできなくなる。ということは、まさに本書の理論を構築するための各種のデータも得られなくなるということだ。その意味で、ぼくたちは非凡な時期(といっても億年、兆年単位の時期だけど)に生きている。というより、まさにそういう時期に生命と人類が誕生し、こうした観察を行って理論を編み出した(宇宙的な時間軸で見れば、まさに一瞬のうちにそれが起きた)というのは奇跡でしかない。ぼくが信仰深い人なら、これぞ神様の意図を証明するものだとも言いたくなりそうな感じ。そんなのが偶然に起こるわけがないから、これぞまさに人が作られた目的であり、意図的な創造の証拠なのだ、と。もちろん、無神論者のぼくはそんなことはまったく思わないんだけれどね。

でも、そのきわめて珍しい時期に、それを観察できるだけの豊かさと知的な発達のある時代と文明に生まれ、そしてその成果を享受できるという不思議に、改めて感謝したくはなる。ここラオスでは、もちろん日本とは比べものにならない星空が見える。でもそれが見えるということ自体、実は当然でもなんでもなく、すさまじい偶然か必然か星の巡りによるものなのか。そう思うと、なにげなく見ている夜空もずいぶん感慨深いものになってくる。

次回は日本でもう少し分野の広い本をあれこれ紹介できるかな。残雪の新しい翻訳も出たようだし。ではまた。