Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

進化論・税率上げ先送り・高野文子

今回の「新・山形月報!」は、吉川浩満『理不尽な進化』朝日出版社)やタイラー・コーエン『大格差』NTT出版)、片岡剛士『日本経済はなぜ浮上しないのか』幻冬舎)、高野文子『ドミトリーともきんす』中央公論新社)などを論じています。また、山形さんと岡田斗司夫さんの対談をまとめた新刊『「お金」ってなんだろう』光文社新書)の抜粋の掲載も開始しています。併せてご覧ください。



ご無沙汰。今回は、ちょっとくだくだしくなる。というのは、哲学っぽい本の話から入るからだ。その本は、吉川浩満『理不尽な進化』朝日出版社)。実を言うと、ぼくは本書が献本されるまで存在すら知らなかったし、また知っていても手にすら取らなかっただろう。なぜなら本書にまったく期待していない、というより、この著者に期待していなかったからだ。

理不尽な進化 増補新版 ――遺伝子と運のあいだ (ちくま文庫)

理不尽な進化 :遺伝子と運のあいだ

理系/文系という区分はあまり好きではないけれど、文系の人がしばしば理系の概念について通俗書をかじったあげく、変な誤解に基づく妄想に流れてしまうことがある。そのなかでも鬼門ともいうべき分野は、ゲーデル不完全性定理の妄想じみた使い方、心とか脳とか意識の問題に関するだらしない態度、進化論についてのトンチンカンな批判となる。

そしてしばしばこの三つはなぜか共存するのだ。本書の吉川は以前、『心脳問題』朝日出版社)という本で脳とか意識とか「クオリア」とかの問題について、ぼくの印象では非常に雑な扱いをしていて、それについてアマゾンのレビューで論難したことがある。そういう著者が、進化論をネタにした本を書く? その時点で警戒信号が点灯する。

さらに不安な点があった。進化論について、理解の浅い本で登場しがちな名前がある。その名は、スティーブン・ジェイ・グールド。この人は、進化論おたくでもあるポール・クルーグマンが指摘しているように用心すべき名前で、学問的にも実はあまり大物ではないし、またその議論の多くもリチャード・ドーキンスなどにかなり徹底的に批判されている。でも、本書をぱらぱら見ると、この名前がやたらに登場する。警報はさらに大きくなる。

この時点で、どんなほんだか、おおむね見当がついてしまうなー、というのがぼくの思ったことだった。進化論は、適者生存という弱肉強食の恐ろしいイデオロギーであり利己性が正しいと公然と主張し、人の優しさや共感を否定する血の通わない冷酷な学問だ、それが現代社会の歪みを招いているのだ、みたいなことを言う本だろう。これが本書を読み始めたときのぼくの予想だった。あるいは、垂水雄二『進化論の何が問題か』八坂書房)やキム・ステレルニー『ドーキンスVSグールド』ちくま学芸文庫)のように、要領の得ないふわふわした議論で、論争に負けたグールドに甘い顔をしようとする本なんじゃないかと思った。

が、この予想は意外にも裏切られた。そういう本ではまったくなかったのだ。本書は、そもそも進化は適者生存というけれど、実は適応すべき環境、つまりは進化というゲームのルールがまったくの理不尽な偶然で変わるのだ、という点を指摘する。だから「適者」という以上に、たまたま環境が自分に都合のいいほうに変わってくれた、ツキのある生物が栄えた面も大きくて、それ以外のツイてない生物(つまりは、これまでのほとんど99%以上の生物)は絶滅しちゃったんだ、という点の指摘から始まる。それなのに、通俗的な「進化」というのはそれを無視して、適者生存というのを優勝劣敗と同じ意味で解釈している点を述べる。続いてスティーブン・ジェイ・グールドが自然淘汰的な進化の理解に対して述べた批判(スパンドレル問題)、つまり進化における歴史的な偶発性の重要性指摘と、それに対するドーキンスダニエル・デネットの反論の正しさが十分に説明される。

ここまでの書きぶりは非常にまっとう。言われていることもすべてその通り。ぼくが警戒していたような、浮ついたいい加減な話はまったくないし、グールドの主張が持ち出されたのも、それがいかにダメで、ドーキンスデネットの主張のほうが筋が通っていることを述べるためで、それを強弁してごまかそうなどともしない。大変立派です。変な先入観で警戒していて申し訳ない。そして……ぼくならそれ以上の説明など不要だと判断して、そこで本を終わらせだろう。

でも本書は、そこで止まらない。吉川は最終章で、グールドを救おうとする。この最終章こそが、本書の真骨頂となる。グールドだってバカじゃない。それなのになぜ、こんな無謀な主張をあえてしなければならなかったのか? 吉川はそこに、進化論が本質的に持つ、適者生存という側面と偶発性の側面の混在を指摘する。グールドは、その偶発性について人びとが感じる理不尽さにとらわれてしまったのだ、と。それは説明できるものではないんだが、誠実であるがゆえに無理にとりこもうとしてグールドは自縄自縛にはまったのだ、と。でもその自縄自縛はむしろ、進化論(そしてそれ以外の知的な営為)が常に抱える人間的な部分の反映でもあり、決して消えることのない部分なのだ、と。

おー。進化論におけるグールドの敗北を明記した上で、その敗北を救うだけでなく、それをぼくたちみんなが抱える問題の鏡として使い、進化論やあらゆる学問の基盤にまで迫ろうという力業。しかもその中で、グールドが実はあまり評価されていない小者であることも明記しつつ、でもまさにそれが、大物ではないぼくたち自身にもつながってくるという巧妙なつくり。ぼくは進化論の哲学とかその手の話は、基本的にまぬけだと思っているんだけれど、本書で初めて、こうしたことを考えること自体にも少し意義があるかも、と納得するに到った。

さて、そうはいったものの、本書の主張にぼくは説得力を感じるだろうか? グールドは誠実であり、それがために進化論という学問分野が持つ歴史性を直視してドツボにはまってしまい、だからこそ、主流進化論の自然淘汰説に変な絡み方をしたのだ、という本書の主張に納得するだろうか? ぼくはそうは思わないん だよね。

ぼくは、グールドが変な自然淘汰批判に乗り出したのは、やっぱり浅はかだったからだと思う。グールドが社会生物学に対して仕掛けた、議論の歪曲や政治的に汚い立ち回りはよく知られている。かれは学問的な誠実さよりも、イデオロギー的な思いこみと政治的なかけひきを優先する人物だった。自分の断続平衡説(進化は、起こるときは一気に起こるがそうでないときは何も起こらない時期が続くという説)が、「それがどうかしましたか」と冷ややかな扱いしか受けなかったのを根に持っていたんじゃないかとさえ思う。つまり、本書の終章はある意味で、ひいきの引き倒しによる過剰な深読みじゃないかとも思う(ついでに言うと、偶発性と適者生存との共存は、長期と短期で話を分ければそんなに大仰な話にしなくてすむんじゃないかとも思う)。

が、絶対にそうだと断言できるわけでもない。そして深読みにしても、それがちゃんとおもしろい論点につながっているなら、ことさら文句を言う必要もない。 欲を言うなら、もうちょっとコンパクトに論じられたんじゃないかとは思う。でも一方で、それこそぼくみたいな意地の悪い読者の突っ込みを避けるべく、考えられる議論の大きな穴をていねいに埋めるためには、これだけの量が必要だったこともわかる。進化論にいま一つ割り切れない思いを抱いている人は、手に取って損はしないと思う。少し考えの基盤が広がるし、自分の割り切れなさにも納得がいくだろうし、進化論そのものについても、改めて理解が深まると思うから。そして、それ以外の学問についても。

続いて読んだ本は、タイラー・コーエン『大格差』NTT出版)……と書いているときに送られてきたのが、片岡剛士『日本経済はなぜ浮上しないのか』幻冬舎)。これは、いま(そう、いますぐ)日本人ならだれでも読むべき本。アベノミクスがいかにうまくいっていたか、そしてそれを消費税率引き上げがいかに潰してしまったか、したがっていま消費税率をさらに引き上げるなどというのがいかに愚の骨頂であるか—。 このあたりの話は多くの人にはわかるはずなのだけど、一方で「アベノミクスは失敗だ」「黒田日銀による金融緩和はダメだ」と言いたい人ももちろんいる。彼らは、2013年に打ち出された日銀の大規模な金融緩和の影響と、消費税率8%への引き上げによる影響を(ときには故意に)ごっちゃにして「ほらダメだった」と言いたがる。

日本経済はなぜ浮上しないのか アベノミクス第2ステージへの論点

日本経済はなぜ浮上しないのか アベノミクス第2ステージへの論点

でも、本書は、そうした影響をデータできっちりと示し、何がどう影響しているかを明解に述べる。この一冊で、日本経済の現状については何も疑問は残らないはず。そして、税率を引き上げても、税収は増えないし、それが社会保障の強化にもつながらないことも明確に述べ、引き上げに対して強い警告を発している。

もちろん本書が書かれたのは、2014年10月末の日銀による追加緩和発表前のことだけれど、議論は何も変わらない。追加緩和で少し事態は改善したけれど、それならなおさらそれを追加の税率引き上げでつぶしてはならない。前回このコラムを執筆した頃は、消費税率引き上げがもはや既定路線だという声が強かったけれど、その後に状況は大幅に変わり、10%への引き上げ先送りが本当に真剣に政策の俎上にのってきた。みんな、是非この本を読んで、ここが日本経済の正念場だと理解していただきたいところ。

で、話はコーエン『大格差』に戻るんだけど……うーん、節操がないというかなんというか。実はこの人の前の本は『大停滞』といって、もう技術進歩は止まってしまい、大きな経済発展はもうなくなるよと主張する本だったのだ。それが今回の『大格差』では、技術はどんどん発展して人間をどんどん置きかえ、中間層というものはなくなり、技術(特にIT) をうまく使えるエリート以外は底辺労働者になるしかない、という主張になっている。えーと、それってかなりな技術進歩ですよね。前著との整合性は? 解説でもこの変な断絶は指摘されているけれど、当人はどういう理解をしているのやら。

ただ、前著とのつながりを考えなければ、挙がっている例や分析そのものは、それなりに面白い。これを肯定するにしても、批判するにしても、論点はうまくでていると思う。同じテーマをもっと手軽に読みたい人は、前にも紹介したエリック・ブリニョルフソン&アンドリュー・マカフィー『機械との競争』日経BP社)がおすすめ。これは非常に凝った造本になっているので、できれば物理的実体としての本を手にとって、手触りや表紙のデザインを愛でてほしいところ。

ちなみに、機械が生産の主力になるということはつまり、資本が重要になるということで、これは本年12月に拙訳で出るトマ・ピケティ『21世紀の資本』みすず書房)のテーマでもある。が、ピケティの本は、このままだと資本が重要になって格差が広がるかも、と主張しつつも、そうなるしかないなどという宿命論者的な主張はしない。政府が税金やインフレを使って所得再分配や資産の再分配を行えば、格差は抑えられると主張する。どっちに説得力があるかは読者各人が考えてほしいところだ。

あと、ここ数回ずっと予告しているハンス・ヘニー・ヤーン『岸辺なき流れ』国書刊行会、上下)だが……なかなか手がまわらずに、まったくちがう本に手を出したりしている。いま読んでいるのは、同じく分厚くて長いんだけれどトマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』(新潮社、上下)。ピンチョンといえば、ちょうど『重力の虹』(新潮社、上下)の新訳が出たばかりでそっちをみんな読みたがるだろうけれど、なぜかいまこちらと格闘中。

さらに、これもなかなか終わりそうにないので、息抜きに読んだのが高野文子『ドミトリーともきんす』中央公論新社)。朝永振一郎湯川秀樹などの大科学者(ただし学生時代の彼ら)が、大量に下宿しているドミトリーともきんすの寮母、とも子さんとその娘きん子が、その下宿人たちの科学エッセイの世界を生きる物語、とでも言おうか。

別に名だたる科学者のエッセイを解説した内容でもないし、もちろんそのまま漫画化したわけでもない……。にもかかわらず、確かにその世界のエッセンスはとらえられていて、しかもそれが何か教訓めいた話にもならずにそのまま投げ出されている。高野文子らしい、脂っ気や湿度のないとでも言おうか、そんな絵柄で科学エッセイのある断片が投げ出されるように置かれていて、このコラムみたいな書評を書いている身としては、ああこんなふうに本の紹介ができたら、と本当にうらやましく思う。科学者のエッセイなどが好きな人は是非。ある意味でこのマンガは、冒頭で紹介した『理不尽な進化』で強く主張されている人間的、歴史的な部分へのこだわりに微笑しつつも、それを平然と無視できている驚異的な一篇でもあるんじゃないかとは思う。ではまた。