2013年8月30日
お元気でしょうか? またミャンマーに戻っておりますが、ヤンゴンは相変わらずの雨続き……と思ったら2週目からすばらしい天気になって、快適きわまりない。天気が悪いとついその場所の印象もネガティブになりがちだけれど、数日晴れの日が続いただけで雰囲気も印象もガラッと変わるのは不思議なもの。人間っ て現金なものです。
さて、前回の最後で、現代中国の異才作家である残雪の短編集が出た、という話をした。それが『かつて描かれたことのない境地』(平凡社)。ラオスから戻って即買いに出て、今回の飛行機の中でむさぼるように読んだことですよ。で……すばらしい。これまでこの連載で期待を込めて次回予告をした本はたいがい、その期待が高すぎることもあって失望させられてきたのだけれど、今回ばかりはちがった。
かつて描かれたことのない境地: 傑作短篇集 (残雪コレクション)
この残雪の小説というのはどれも、粗筋というものがあるわけではない。茫漠とした環境の中で、何事かは起こっているし、何かその人のこだわりというものもあるようなのに、でもそれがわからない。自分以外の人はなにやら知っているようで、陰謀に取り囲まれているようでもありつつ、でも一方では自分以外の人々も何も知らないようだったりもする。その薄ぼんやりした環境の中で、妙に具体的な何かがクローズアップされ——そしてどこかに飛び去ることもあれば、泥のように沈み消える場合もある。
訳者たちはこれを「夢の論理」と呼んでいて、まさにそうした雰囲気ではある。なぜだか知らないけれど心細く、不安で、でも後から考えれば明らかに変なことが起きても、そのときはまったく当然に思える。まったく関係ないはずのものがその夢の中では当然のように関連している。そして夢の非現実性を備えつつも、一方でそれは急激に都市化した中国における、因習と迷信と外部不信と悪意あるゴシップに充ち満ちた農村生活へのあこがれと嫌悪と不信と断絶と連続性が入り交じった感情のあらわれでもある。
その意味で、本書の——いや残雪の—— 作品はすべて、夢であり確固たる現実でもある。そうした不思議な雰囲気に浸りたい人は是非。彼女の作品はすべてこうした雰囲気に包まれていて、ある意味でどれを読んでも同じなのだけれど、でも同時に夢がすべてちがうように、どの作品もちがう。ぼくは表題作の「かつて描かれたことのない境地」で夢を記録する男の話と、そして「綿あめ」の、綿あめとそれを作る老婆に惹かれる少年の話が好きだ。なぜだろう。なんでもやたらに饒舌にして、物語的なカタルシスのある小説でないと楽しめない人は、ピンとこないかもしれない。でもそうでない人は是非手にとってほしい。残雪の他の小説はもう軒並み絶版だし図書館もあるとこ ろは限られるので、買って手元に置いておくのを推奨。
そして今回は小説の当たり月。もう1つ必読の小説が出た。コーマック・マッカーシー『チャイルド・オブ・ゴッド』(早川書房)。ぼくはなぜかマッカーシーは『すべての美しい馬』(ハヤカワepi文庫)でデビューしたように思っていたので、本書がそれ以前の1970年代に書かれた小説だと聞いてびっくりした。初期の作品とはいえ、完全にマッカーシーの特徴は出揃っている。内面描写はまったくない。淡々と、具体的な行動と発言だけで話が進む。そして、その進む話は……。
マッカーシーの小説も、粗筋を述べたところであまり意味はない。この小説も、あるちょっとした障害を持つ男をめぐるエピソード集とでも言おうか。その障害のきっかけ、覗き趣味、周囲から次第に疎外される様子、それがだんだんエスカレートして孤立、逃亡、連続殺人と屍姦へとエスカレートする。一方でそれを取り巻く環境もそれに匹敵するほど暴力的。それが本当に淡々と描き出される。
そこには因果律もない。人の「思い」とかいうインチキなフィクションもない。具体的な事実があるだけ。それを非難することもできない。したところで、それに意味はない。起こることは起こる。人はそれを受け入れるしかない——それがマッカーシーのあらゆる作品と同様にひしひしと伝わってくる。
強いて言うなら……いまのコーマック・マッカーシーに比べると、確かにちょっと劣る。文体のストイシズムと、登場人物のストイシズムとが融合した最近の作品に比べると、殺人鬼という書きやすい主題を選んで、作品がその事件の持つドラマ性によりかかってしまっていると言えなくはない。それでも名作。この人は名作しか書けないんじゃないかと思うくらい。未訳の他の作品も読もうかなあ。ジェームズ・「ゴブリン」・フランコが映画化したそうだが、どうかな。でもテーマ的には『ザ・ロード』より映画向きかもしれない。
ミャンマーでぼくはこの2冊を読みながらほとんど至福の境地にあったので、他の本は今回は落ち穂拾い的な位置づけなんだけれど、それでも紹介に値する本として、まずP・D・スミス『都市の誕生』(河出書房新社)。都市というものの歴史をたどりつつ、そのいろんな側面——誕生、その原理、インフラ、交通、文化、商業、スラム、そして未来——を各種エピソードで紹介した大著となる。ぼくは都市工学屋くずれなので、こういう本は大好きだ。そして、非常によく書けている。著者はジャーナリスト的なライターで、書きぶりについてはまったく危なげない。
が——個人的に非常に不満なのが、その西洋中心主義。ときどき思い出したように非西洋都市——たとえば古代メキシコやモヘンジョダロ—— が歴史の話で出てはくるけれど、ほとんどあらゆる話は西洋都市だけ。世界に誇る都市文明である中国文明の都市には、天円地方の原理を説明した数ページ以外はほとんど言及なし。大阪は米の先物取引の話で少し出てくる。でもその他西洋以外の都市が出てくるのは、特に現代ではスラムの話くらいか。現代の新しいメガロポリスのほとんどがアジアに出現している現在、それにほとんどページを割かない都市の本というのは、どうしてもアナクロだし歪んだ印象を受けてしま う。
全体としては拙訳のエドワード・グレイザー『都市は人類最高の発明である』(NTT出版)と似たような問題意識や構成の本ではある。そしてジャーナリストが書いているだけあって、読みものとしての楽しさはこちらのほうが上かな。ただ主張の裏付けや論理性となるとグレイザーのほうが当然きちんとしているし、ある都市をみてそこから引き出す知見についても、さすがに学者だけあってグレイザー のほうがしっかりしている。そしてその結果、特に過去から将来に目を向けたとき、スミスはかなり腰砕けになってあまり面白いことがいえない。
たとえば、都市と地球温暖化の関係についてきわめて明晰なグレイザーに比べると、こちらの今一つ腰のすわらなさはいらだたしいほど。グレイザーは、都市化をどんどん進めて高密居住を進めれば車も減るし森林も潰さないですむし、二酸化炭素排出も減る、だから都市の高層化を阻むへんな文化人どもや規制は踏みにじるべき、と主張する。これは賛否はあれ、論理は明快。ところがスミスは、都市もなんだか温暖化に貢献しているようなむにゃむにゃしたことを書いて、環境破壊に対応しないとモヘンジョダロみたいに滅びる、というあたりにつなげる。過去を活き活きと描き出すのはいいけれど、それをビジョンにつなげられないのは、ジャーナリストの限界というべきか。
ちなみにこの手の本(つまりでかい都市計画・都市文化論)はもっと紹介すべきものがあって、たとえば古い意味での都市計画の重鎮ピーター・ホールの 『Cities of Tomorrow』とか、『Cities in Civilization』とか訳出されないかな、とは思う。こういう都市論は、ルイス・マンフォードがやたらに訳されて、『歴史の都市 明日の都市』(新潮社)とか『都市の文化』(鹿島出版会)とかあったけれど、どっちも半世紀近く前の本だし(個人的にマンフォード嫌いなのと訳がまずいと思うし)、そろそろ次があってもいいんじゃない かな。分厚いし面倒だし売れないだろうというのはわかるんだけれど……でも個人的には、今挙げたピーター・ホールの2冊は、20世紀末の 都市論のスタンダードだと思う。それが21世紀初頭のスタンダードと言えるかどうかは——現在非常に難しいところ。都市というものの位置づけが少しずつ変わってきているから。
(2022.05付記:その後、このピーター・ホールの大著は邦訳が出て、きちんと読み直してみたが、あまりよくない。これを書いたときは流し読みと世評だけで書いていたが、ダメなところのほうが目立つ、というよりここに書いたとおり、20世紀末ならば総括として意味はあったかもしれないが、21世紀のスタンダードと言えるものではない。これについてはブログにかなりくわしく罵倒書評を書いたので、興味あればご一読を)
ぼくがそんなことを思うようになったのは、仕事と趣味であちこち貧乏(および出張)旅行をしてそこそこいろいろ見て回るようになったからだ。たとえば今いるミャンマーもそうだ。そうした貧乏旅行のバイブルとも言うべき『旅行人』の親玉である蔵前仁一『あの日、僕は旅に出た』(幻冬舎)は、実におもしろく読んだ。彼がちょっとした成り行きから初めてインド旅行に出て、それをきっかけにあちこち回るようになり、やがて『旅行人』を創刊する——その経緯だ。
記述はとても淡々としている。バックパッカー系の旅行者の旅行記は、自分がいかに変わった目にあったか、どれほど苦労したかみたいなことをやたらに大仰にかき立てるようなわざとらしさがあり、時々鼻白むことがあるのだけれど、蔵前仁一はもちろん、そんなわざとらしい箔付けをする必要もない。
前半が旅行なんだが、後半は『旅行人』苦労記となる。個人的にはやっぱり旅行記の部分をもう少し充実してほしかったなあ。アマゾンの書評を見てもみんなもう少し旅行記部分を読みたがっているような感じ。もちろんみんな、『旅行人』には懐かしい思い出を持っているし、その舞台裏が読めるのは楽しいことなんだけれど。
いまぼくが世界をまわっているのは、バックパッカーとはまたちがう視点だ。そしてまた、いま蔵前が体験したような意味でのバックパック旅行というのはどこまで可能なのか、とは思う。すでにどこも情報は充実し、本当の意味での未踏の地などない。ある意味で、バックパッカーというのは世界の経済格差の隙間に咲 いたあだ花ではある。そしていまや僻地に行きましたと言っても、それは『地球の歩き方』やそれこそ『旅行人』を持って、そこに書かれている情報をなぞる活動になっていることは多い。いまやこのミャンマーでも、バックパッカー風の連中がiPadでグーグルマップを見てあちこちうろついている状況。そんなもの見ていないで、顔をあげようぜ、せっかく来ているんだから、ちゃんとまわりを見ようぜ、とは思う。
それでも—— 旅は楽しい。ガイドブックをなぞるつもりで、まったくちがうところに入り込んでしまう心細さと新鮮さ。そして、自分が決してすべてを見尽くすことはないと いう解放感。『旅行人』は昔から、まだまだ行くべきところは残っていると教えてくれた。いまや大エスタブリッシュメントとなったロンリープラネットの創始者トニー・ホイーラーは、東南アジア貧乏旅行をしたがる人々のために自分の体験をガイドブックにまとめた。そして彼は不安がって情報をもっともっとと求める人々に「大丈夫だからとにかく行け! 行けば何とかなる!」と言い続けた。『旅行人』も、そして蔵前のこの本も、ぼくたちにそう語り続ける。本書を読むと、たぶん旅行に出たくなると思う。是非。蔵前仁一も、そろそろ旅行を再開するというし、またいつかその体験を語ってくれることだろう。
ちなみに、ミャンマーはご飯がイマイチなのを除けば大変よいところです。発展が始まりかけたところなので、いまの状態を見ておくとおもしろいと思う。全日空が9月末から直行便を増やすようだし、遅い夏休みを検討している人はちょっと考えてみてはいかが? ではまた。