2013年8月16日
前回のミャンマーからすぐにラオスにやってきて、本の仕入れも十分にできていないので、今回はいささか母集団が薄くて恐縮。それで、前々回と前回のアンコールワット旅行記以来、少し旅行記づいていて、まずはスヴェン・へディン『さまよえる湖』(中公文庫BIBLIO)なんだけれど、これは絶版なのかな? でも中古で安く手に入るし、図書館にもあるはず。楼蘭や敦煌を見つけ、そしてかつてはそれらの繁栄を支えていたロプノール湖が、実は移動しているのだという説を唱えたへディンが、実際に移動した後の湖を見つけて自分の理論を実証した旅行記だ。
たぶんこの発見の話自体は、昔ちょっとくらいは聞いたことがあるんじゃないかな。ぼくは小学生の頃にジュブナイルの「世界の大探検」みたいな本で、へディンが砂漠を旅していると、「おお、あるはずの湖がない!」と驚いて、それでさまよえる湖がわかりました、という話が出ていたんだけれど、もちろんそんな馬鹿なことがあるわけがない。砂漠で、あるはずの湖がなかったら死んじゃうよ。地元のいろいろな話を集めるうちに、水がないはずの地域にいる住民が、最近舟を使っているという噂を聞いて、「これぞ川の流れが変わって湖が移動した証拠!」と直感して探検の計画をたてたという話。
一応、ヘディンは画期的な探検旅行をしているんだけれど、本そのものは淡々とした旅行記なので、クライマックスでどーんと幻の湖が見つかって「おおっ!」 というようなものではない。テレビドラマや映画に慣れていると、ついついそういう盛り上がりを期待してしまうんだけれど。むしろ車とラクダと馬車を仕立て、食料と水と燃料の心配をしつつ、考古学的な調査もして、という旅行の些事が中心で、そういうのを楽しめるかどうかで読んでおもしろいか決まると思う。
肝心の湖も「あったー、やったー」と一言言ったらあとはもう、帰りをどうしようかとか、地元のガイドどもがインチキしていたのが発覚してどうしたとか。今のほとんどの旅は、アマゾンやボルネオの首狩り族探しに出かけるのでもない限り、ぼくの出張でも、かつてのバックパック旅行でも、基本は行けば何とかなる。その意味で時代がいかに変わったかも、読んでいて如実に感じられる本ではある。巻末についた椎名誠のお気楽そうな談話は、今となっては場違いな感じだけれど、当時は営業的に意味があったんだろうね。
それとはまったく関係なく読んでいたのが、大田俊寛『現代オカルトの根源』(ちくま新書)。大田は、グノーシス主義などの研究をしている宗教学者で、オウム真理教についても視野の広い分析を行っている人だ。この本はオウム真理教などを各種のオカルト思想の一つ——特に人類が今後、卑しい物質の奴隷たる存在から、霊的にもっと高度な存在へと進化するという一連の思想——としてとらえ直そうとするもの。神智学/人智学やらアダムスキーやらを概観して、オウム真理教や幸福の科学もその一種として紹介する。
大田の立場は、こういう思想は進化論と宗教思想をなんとか融合させようとした結果だというんだけれど、うーん、進化論が出てくるまでみんな平等思想を信奉していたというわけではないし、有象無象の中からもっと高度で優秀な民族が出てくるという選民思想は進化論よりはるかに前からあったものだから、それを重視すべきなのかどうか。進化論はむしろ、そこに科学的な意匠をくっつけただけだと思う。それと数あるオカルト思想の中から選ばれているのがなぜこれなのか、というのはもう少し全体的な概観がいるんじゃないかとは思う。
それでも、個人的には幸福の科学の成立と思想についてまじめに説明してくれた部分が収穫ではあった。あれはそういう教義なんですか。こういう、カルトやオカルト思想の解説本というのは、原典とかをあまり見たくないぼくみたいな人間にとってはありがたいもの。いや、大学時代はおもしろがってナントカ教の経典 とかれこれ読んで見たりしたけれど、基本、わかるように書かれていないし、またなまじわかるといやなんだよね。
以前紹介したスティーヴン・ハッサン『マインドコントロールの恐怖』(恒友出版)にも書かれているけれど、カルトに引きずり込まれるのは、中途半端に頭がいいつもりで、自分はこんな馬鹿な話には決してだまされないとたかをくくっておもしろ半分に足をつっこむ連中で(だからこそオウム真理教とかも、高学歴の一見頭よさげな連中がたくさんいたんだよ)、そういうのに深入りしたく ないのだ。
正直いって、この大田の本もまじめにオカルト教義にとりくみすぎて、批判的な結論になっているとはいえ、半分くらいは大田自身が霊的進化の思想に魅了されてしまっているように見える。もちろん学者として、まずは正面切ってまじめに受け入れなくてはいけないんだろうけれど——。その意味で、ちょっとおっかない読後感の本でもある。と学会の本でもいくつか読んで、少し免疫をつけてから手に取ったほうがいいかも。『新・トンデモ超常現象60の真相』(楽工社)あたりが出発点としてはいいんじゃないかな。だって本書で紹介されている有名どころのオカルトトンデモ系の話って、と学会がおもしろがって茶化すニャントロ星人話と主張のくだらなさは実はまったく同じで、たまたまなんかの偶然で有名になってしまったものばかりだ。霊的進化なんて、そのへりくつにすぎない。みんな、自分はえらい、自分は特殊、自分は他人より優れている、というのを浅知恵でこねくりまわしているだけなんだから。そのへりくつをまじめに考察すること自体が、ある意味でちょっと危険ではあるということはご留意を。
さて、これとはまったく関係なく読んでいたのがリチャード・R・ネルソン『月とゲットー』(慶 應義塾大学出版局)。とっくに翻訳あると思っていたら、ごく最近訳出されたんだね。1970年代に出て、アメリカは人類月面到着(最近これがウソだと思っているバカが湧いているけれど、事実ですからね)ができるのになぜ国内のスラムやゲットーの貧困が解決できないのか、という批判に正面から答え……てはいないが、少なくとも取り組みはした本だ。
率直なところ、この問題設定自体がちょっと変ではある。アポロをやめてその金を福祉その他にふりむけても、別にゲットー問題には影響しない。多くの人は、薄くて広い社会問題の巨大さとむずかしさをナメすぎ。でも同時に、そうした解決が起こらない原因の一部は、それに対する取り組み方の問題となる。科学的な取り組み、費用便益分析といった発想すら、その背後に既存の力関係や古いしがらみにもとづいた歪みが入る。社会変化にともなって組織制度を変えるにはどうすればいいのか——という結論までは出ていないけれど、その入り口にこの時期にきていたのはすごいことで、その意味でよい本。ただ、この薄さでこんな値段なのはひどいのでは。本当なら新書くらいでもっと広く軽く読んでほしい本なんだけれど——。
そして最後は、前に紹介した写真家・初沢亜利が出した北朝鮮写真集『隣人。38度線の北』(徳 間書店)。以前ちょっと会ったときに、彼はこの本に収録用の写真をあれこれ選んでいる最中だったんだが、去年の暮れに出ていたのか。気がつかなかった。北朝鮮の一般市民の状況を、ほぼそのまま撮った写真集で、北朝鮮当局のプロパガンダ写真でもないし、一方で西側カメラマンの、なんとか悲惨なところを撮ってやろうという写真でもなく、普通の(いや、それはウソだな。どう見ても美人に偏って撮っているな)平壌市民たちの日常を切り取ろうとして、他にありそうだ けれどなかなか見られないストレートな写真になっている。道行く人々、食堂のウェイトレス、子供たち——もちろん明らかに栄養状態は悪いけれど、全体主義に洗脳されてどんよりしたロボットになっているわけでもない——と言いつつ、狂信者たちが目を血走らせて狂信的な目をしているというのは映画やテレビだけのウソではあるのだけれど。
だが、この写真集、掲載された写真よりもある意味でおもしろいのが、巻末にある本書成立までの紆余曲折。写真集を出そうと思いついて徳間書店に話をつけても、そもそも行くにも一苦労で、朝鮮総連にも話をつけ、あっちをまわりこっちをまわり——そして、北朝鮮に行くと公安に事情聴取されるぞと言われていたら本当に公安から連絡があったんだけれど、おっかないコワモテの官憲がやってくるのかと思ったら——とか、まったく予想外だけにかえって怖い話が満載。写真だけ見てすませず、是非ともこの部分は熟読あれ。北朝鮮の状況とともに、日本と北朝鮮の関係をめぐるあれこれも見えてくるし、ある意味で写真の限界というものも思い知らされる。普通に、ありのままなんかじゃないんだね。写真を撮ること自体の政治性みたいなものが、プロパガンダとは別の意味で、裏にどれだけあることか。この巻末の説明を読んで、写真を見る目が変わるかどうかは、あなた次第ではある。
さて日本に帰ってくると、なんと中国の作家・残雪の短編小説集が出ているではありませんか! 次回はこいつの話ができるといいなあ。ではまた。