2013年12月10日
前回、原稿を書いていたカ ンボジアにまた戻ってきております。日本には数日しかいなかったもので、本屋の店頭で手当たりしだいに買いこんで端から消費しつつありますが、どうしても ヒット率は低くなってしまうのは仕方ないとはいえ残念。もっとゆっくり立ち読みしたりして選ぶ時間があれば……。
その中で今回はまず小説をいくつか。まずローラン・ビネ『HHhH』(東京創元社)、副題は「プラハ、1942年」だ。店頭のポップとタイトルの奇妙さにつられて買ってみました。バルガス=リョサが帯で絶賛しているし。ナチスにおけるユダヤ人虐殺の冷酷な推進者であり、「金髪の野獣」と恐れられたハイドリヒの暗殺について、チェコ人のガールフレンドに聞き、その暗殺者たちについて調べる著者。その著者の生活に、調べた内容が半ばフィクションとして入り込み、交錯していく。
非常におもしろい本なのはまちがいない。選んだテーマがまずいい。ハイドリヒは独特のキャラクターとして目立つし、またこの事件と関係したチェコ併合の頃からヒトラーの狂いっぷりもすごいし、各国のナチスとの駆け引きも活発化するし、さらには暗殺計画としてのサスペンスもからむから、普通の歴史ノンフィクションとして出しても、かなり読ませるものとなっただろう。でも、それだけで終わらず、自分自身をそこにからめることで、ノンフィクションとフィクションの中間みたいな危うい場所ですべてが語られる。そしてまた、それが歴史的な事件を描くなかで自由度を高め、話のおもしろさをも担保する。よい仕掛けになっていると思う。
ただ、訳者もバルガス=リョサも、この小説を独創的だ、すごい、他に類がないと言うんだけれど——ぼくは読み始めてすぐに、これと似た小説を思い出した。ゼーバルトだ。W・G・ゼーバルトの『アウステルリッツ』(白水社)なんかを読んだ人なら、既視感があるんじゃないだろうか。歴史と、個人の体験と、その語りとが交錯しながら進む物語。本書の感触は、ゼーバルトよりは軽いし浅く、テーマの選び方も含めて商業的な打算が感じられる。よくも悪しくも。でもその分読みやすいしおすすめ。
で、お次はたまたま本屋でこの『HHhH』の隣にあった、ローラン・ミヨ『ネコトピア』(幻冬舎)。「猟奇的な少女と100匹のネコ」という副題がついている。これは……なかなかくだらなくていい。ひたすらネコを(殺人鬼や芸術家の名前をつけて)様々な方法で虐殺し続ける少女が、その残虐性を買われて世界を支配する孤高のミカドの暗殺を持ちかけられるが、ネコにしか興味のない少女はなかなかなびかず……という話。
陰惨そうに聞こえるかもしれないが、ネコ殺しの様々な手法とネーミングのあっけらかんとした羅列に、独裁者たるミカドやその取り巻きたちのトホホな感じでちっとも陰惨にならず(たとえばガルシア=マルケスがこれを書いたらものすごく鬱陶しい長い小説になるはず)、すらすらと話が流れていくのが楽しい。ちなみに作者はフランスで日本人を詐称して本書を発表したそうで、ふーん、そのほうが売れ線ということなのかなあ。フランスではスキャンダルになったというんだが、本当? フランス人もナイーブだねえ。そんなご大層な代物ではないと思うし、是非お気楽にどうぞ。正月にこたつで読むのに最適だと思う。
で、久しぶりに吉祥寺で古本屋に入って見つけた本。ちょっと古いけれどまだ普通に入手可能らしいので紹介しておこう。O・呂陵(オリョリョって読むんだって)『放屁という覚醒』(世織書房)。著者は東アフリカを主なフィールドとしている文化人類学者らしいんだけれど、本書はそこでの各種体験をもちりばめた、おならについての本だ。というよりおならをテーマにした文化人類学の本、というべきなのかなあ。
何が書いてあるかというと、えーと日本人はアフリカ人が自由闊達に、気ままにおならをしていると思っているが(遠藤周作の小説とかに出てくる)、実はおならについてアフリカではいろいろタブーがあったり独自の価値観があったりして、おならを我慢できないやつは一人前ではないと思われたり、おならをされると吐き気を催したり、人前でおならをした女性は嫁にいけなくなってしまったりするような文化圏もあったり、さらにはおならをしつつ走り回る悪鬼のような夜のランナー信仰なるものがある部族もいたりと、いろいろ面倒。それを各種小説と個人的体験とフィールド調査と織り交ぜて、エッセイとも論説ともつかないへん ちくりんな本に仕立て上げられている。その意味で、『HHhH』と 似た部分もあるようなないような。書きぶりがまじめくさりつつも冗談まみれのようで、どこまで本当かもよくわからない(が、いくつか書かれている内容を調べてみたけれど、決してでまかせではない模様)。ほとんどの人は、知ってもどうしようもない雑学が増えるだけだけれど、笑えることはうけあいです。
ちなみに、おならの話というとアメリカの建国の祖として名高いベンジャミン・フランクリンに「胸を張っておならをしよう(Fart Proudly)」という小文があって、一部の人にとっては彼の黒歴史と見られ、また一部の人には名文とされている。気取るのはやめよう、自分のやったことに責任と誇りを持とう、というのを(当然)おふざけで書いた文章で、なかなか楽しいうえに立派。いずれ翻訳しようと思って いるんだけど……。
少しまじめな本では、ルイーズ・バレット『野生の知能』(インターシフト)。人間はついつい動物の行動を見ると擬人化してしまい、人間の知能を基準にして、動物も似たような情報処理をしているのだと考えてしまいがち。でも実はちがう。ぼくたちは通常、脳が外界から情報を取り入れて、それを知能によって処理し、外部に対する行動を決めるのだ、と考えているし、動物もそうしているのだと思っている。でも実際にはそうではない。動物たちは人間とはちがう動き方をする。そしてそれを理解するためには、動物を人間のできそこないだと思うのをやめねばならない。
では動物はどう行動しているのか? あらゆる生物(人間も含む)は、環境との相互作用の中で生きている。多くの情報処理は、動物が自分の脳内で行っているわけではなく、環境そのものの制約を通じて選択肢がせばまることで処理がすんでしまう場合も多々ある。
たとえば、歩くという行動をロボットにやらせるのはとても難しいけれど、多くの動物は二本足ロボットのような高度な制御なしでもホイホイ歩ける。それは身体構造や環境との関係により、可能な選択肢が大幅に制約されためでもある。そして、お掃除ロボット「ルンバ」の設計思想などにもこうした発想は導入されつつある。生き物(やロボット)を理解するには、それを単独で見てもだめで、環境との関わりの持ち方を理解しなくてはならない、という本。
ぼくはこの本で肯定的に扱われている、ジェームズ・J・ギブソンの「アフォーダンス」という考え方(環境が生物に働きかけてあれこれさせる、といった発想と言えばいいのかな)があまり好きではない。だけど、本書を読むとこの発想にも一理あることがわかる。そして、もちろんアフォーダンスのような考え方は別 にしても、人間とはちがう行動原理がいろいろ出てきてびっくりするはず。
さて、最後は経済関連。田中秀臣編『日本経済は復活するか』(藤原書店)。もちろん、いまやお馴染みのリフレ関連書籍だけれど、これは特に最近の消費税の税率引き上げをめぐる問題意識から、リフレ派オールスターのような執筆陣と数名の反リフレ派による、各種の論文を集めたもの。もう消費税率引き上げは決まってしまったけれど、それがどういう意味を持つか理解するためにも、読んでおいたほうがいいと思う。
実は先日、日銀の黒田総裁の講演を聴きに行ったんだが、消費税引き上げについては大賛成とのことで、ちょっと驚いたのだ。もちろん前から消費税の増税に反対をしていないことは知っていたが……。増税前の駆け込み需要が終わったところで、景気ががくっと下がるけれど、それが日銀のインフレ目標政策失敗の証拠だと言われるのはどう見ても明らかだし、黒田総裁としても仕事がやりにくくなるし、そうなったら必要な追加緩和もしづらい雰囲気になってしまうのは確実だと思うんだが……この本を読んでそうした問題についても考えていただければ幸甚。
あとは、いま読んでいるのが、ロレンス・ダレルの『アヴィニョン五重奏Ⅲ コンスタンス』(河出書房新社)。かなり佳境です。それと、デイヴィッド・ドイッチュ『無限の始まり』(インターシフト)。どっちもちょっと軽く流し読みできる本ではないので、次回の連載に間に合いますやら。次は今年最後の出張で、ミャンマーからになるはず。ではまた。