Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

ダジャレ翻訳、アダム・スミス、近代科学誕生史

ギジェルモ・カブレラ=インファンテ『TTT』(現代企画室)、アダム・スミス道徳感情論』(日経BP社講談社学術文庫ほか)、山本義隆『世界の見方の転換』みすず書房)と重量級の本を論じます。連休の読書にいかがでしょうか? また、次回以降に紹介予定の本田晃子『天体建築論』東京大学出版会)、アンドレイ・シニャフスキー『ソヴィエト文明の基礎』みすず書房)、残雪『最後の恋人』平凡社)も期待大ですね。



いきなりですがこれまでさんざん予告してきた、ギジェルモ・カブレラ=インファンテ『TTT』(現代企画室)を読み終わりましたよ。この本みたいなことば遊び系の翻訳ものは、なかなか伝わりにくいしどうかな、と思ったんだけれど、おもしろかった!

TTT: トラのトリオのトラウマトロジー (セルバンテス賞コレクション)

TTT: トラのトリオのトラウマトロジー (セルバンテス賞コレクション)

とはいっても、人生の教訓とか、泣けますとか、愛と悲しみとか、ストーリーのカタルシスとかを求める人には向いていない。ある世界の縮図をそのまま投げ出したような、ゴミ箱をひっくり返したみたいな混乱—でもそれが完全に無関係な混乱ではなく、だんだん相互に関連するような混乱— をかきわけたい人、ときどき理由もなく雑踏の中に身をおきたい人、そんな人におすすめの小説。キューバの歓楽街の、踊り子から客から犯罪者からナンパねらいの記者や評論家から政治家やビジネスマンや、作家にマダムに司会者にあれやこれや。それが主に、いろんな言葉として耳を通じて重層的に炸裂する、とでも言おうか。

それは必ずしも頽廃的な資本主義批判とか、金持ちによる貧乏人搾取の糾弾とか、華やかな喧噪の中にいる人々の孤独と疎外の描写といった意味があるわけではない(が、そういうのを読み取るのは自由)。むしろカブレラ=インファンテ自身、その場に強く魅了されているし、そこに胎動するものこそ、よい面も悪い面 も含めて文化の活力だというのを理解している。

全編、ダジャレまみれで日本語にするのは無理という話も聞いていたんだけれど、翻訳もいい感じ。ダジャレを駆使せねばならない訳はときに、ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』河出文庫)の柳瀬尚紀みたいに、ダジャレ方面ばかりに気を取られて、苦しい翻訳になってしまう場合が多々あるんだけれど、無理せず、それでも読みながらニヤリとできるレベルは保っていてお見事だと思う。原文がどの程度のものか見ていないので、決定的な判断はできないんだけれど(英訳と比べようと思いつつ果た せておりません)。

訳者の寺尾隆吉は、ここしばらくラテンアメリカ小説やその解説で立て続けに大活躍で、各種小説の意義や文学史上の位置づけについての説明もきわめて明晰。本書の解説も、とても有益。中でもびっくりしたのは、カブレラ=インファンテがいろいろ歯に衣着せない物言い連発で、他のラテンアメリカ作家に結構ハブられているというお話。そういうもんかねえ。カルロス・フエンテスもつれない扱いをしているそうな。

ふーん。でもその一方で、先日ちょっと触れたフエンテスの『Terra Nostra (我らが大地)』の最後で歴史が終わるパリに集結している人々の中には、先日他界したガルシア=マルケスの傑作『百年の孤独』のブエンディーアやドノソの驚愕の怪作『夜のみだらな鳥』(まもなく復刊されると聞いているので、出たらここでたっぷりお話します)のウンベルトなどと並んで、『TTT』か らもキューバ・ヴェネガスが出てきている。本書が、かつてブームと言われた時代のラテンアメリカ小説ではずせない代表作なのはまちがいないし、フエンテスも、人間的にはどうあれ、小説としての価値は認めないわけにはいかなかったんだろう。騒々しいわいざつな都市小説が好きな人は是非。ぼくもまだ一度しか読んでないので、もう一回くらいは読まないと……

さて、ぶあつい本が続いて恐縮なんだけれど、お次はアダム・スミス道徳感情論』。スミスはもちろん『国富論』で現代経済学の開祖とされる人なんだが、当人は『国富論』よりもこの『道徳感情論』を自分の主著だと考えていたそうな。その改訳版が、この一年で二種類出た。

この本の翻訳は長いこと岩波文庫のものしかなかったんだが、実に壮絶な代物だった。アマゾンのレビューで罵声が並んでいるのも当然のできで、それ以前の60年代に未来社から『道徳情操論』なる題名で出ていた邦訳のほうがはるかにまともという情けない状態。各種翻訳の参考文献でも、ぼくはこの『道徳情操論』のほうをメインの邦訳として紹介してきたほどで、このままだったら、いつかぼくがやってもいいぞと思っていたんだけれど、気にしていた人たちは他にもいたようで、ほぼ同時に新訳版が二種類出たのはすばらしい。

片方は、去年の夏に出た講談社学術文庫版の、高哲男訳。もう一つは、この四月にでた日経BP社の日経BPクラシックスというシリーズのもので、村井章子&北村知子の訳となる。講談社学術文庫版は恥ずかしながら見落としていて、今回日経BP社版が出たのを買おうとしたときに、そっちの存在にも気がついた次第。両方買って読み比べてみました。

どっちが読みやすいかといえば、圧倒的に日経BP社版講談社学術文庫版は、こまかい一語一句の訳語にこだわって、非常に入念に作られた訳文なのはすぐわかる。でも……それがときに不自然さにもつながってしまって、もちろん全体にかなり堅い訳になっている。ぼくは本書を読んで、アダム・スミスがそこまで厳密な概念定義をしながら書いていたとは思えないのだ。冒頭に出てくるプリンシパルというのに「推進力」という訳語をあてるのは、まちがっちゃいないけれど、訳としては不自然だし(人間の推進力と言われると、ぼくは飯の話や脚力の話をしてるのかと思ってしまう)、原文の気取らない読みやすさを損なっているように思う。

その点、日経BP社版は、ふつうに読めることを重視したというだけあって、たいへんにすらすら読める。アダム・スミスの書きぶりからして(ぼくも『国富論』冒頭をちょっと訳してみたりしたので多少は見当がつきます)、こっちのほうが本意に近いんじゃないかと思う。

ただ、目的にもよるのかもしれない。講談社学術文庫版のほうは、同じことばにはなるべく同じ訳語をあてる、といった配慮もたっぷりで、ひょっとすると学者的にはこっちのほうがいいかもしれない。それに文庫なので安いし。原著の成り立ちその他についての解説も、もちろん講談社学術文庫版のほうが圧倒的に詳しい。とはいえ、日経BP社版はアマルティア・センの序文もついているし……いずれの訳も、これまでの岩波文庫版に比べれば雲泥の差なんてものじゃないくらいの改善ぶり。迷っている間に、手近なほうを読み始めたほうがいい。

で、肝心の中身なんだけれど、道徳に関するいろいろな心の働きを、あれこれスミス自身の気分と過去の学説とに基づいて考察したもの。本の最初から議論を積み上げていき、最後に大きな主張を構築する本というよりは、あんなこともある、こんな側面もある、といった類似テーマをめぐる断想集かエッセイ集みたいな色彩が強い。だから、分厚い本だけれど、冒頭から順番に読み進める必要はまったくなくて、あっちこっち適当に飛ばし読みして全然OK。

そしてそこで言われている基本的な発想は、人間には他人と共感する力というのがあって、それをもとにいろんな道徳ができている、ということ。人が怪我したのを見ると自分もなんだか痛みを感じてしまうし、人がよろこんでいると自分も嬉しくなるし、泣いている人の話をきくともらい泣きしてしまう。つまり他人を自然に思いやる気分からこそ道徳が生じる。もちろん道徳はあちこちで変わるし、時代の流行もあるし、習慣もある。でも基本は似たようなものが根底にあるん だよ、というのがその主張となる。そしてそれが社会を支えているんだよ、と。

たぶん本書に書かれていることについて、大きく反対する人はいないと思う。それぞれの章はごく短くて、とても妥当なことを言っているし、構築的な本ではないので、それが積もって最後にとんでもない結論が出てきたりはしない。

でも、日経BP社版の 帯の背にあるコピー(「『国富論』の利己主義ではなく、「共感」こそ、新しい経済社会の基礎となる。」)のような、最近のこの本の扱われ方はちょっと気に なる。『国富論』で利己性に基づく見えざる手を主張したスミスが、実はこの本で共感とか優しさの重要性を説いているので、利己性はやっぱりダメで、それに 基づく経済学はすべてダメですねー、といった変な議論をしたがる人がどうも増えているから、という面も大きいのだ。

でも、この本についてそういう読み方するのはまちがってますから。『国富論』も『道徳感情論』もどっちも正しいの。両者は相反するものではない。どっちかの協力が偽物だとか、どっちかがダメでこっちがいいとか、そういう話ではない。そして成功する社会は、この両方を同じ方向に向かせるような仕組みを創っている。そのあたりはおまちがえなきように。スミスも、本書で『国富論』を否定したわけではない。むしろ本書の考察をするうちに、予想外の展開としてあまり 人間の本性とかに関係ない協力があり得ることに思い当たってしまったのが『国富論』とすら言えると思う。

そういう両者の関係をよく考えて、安易な現代経済学批判とかに走らないでくださいな。序文を書いているアマルティア・センも、しばしばそういう誤解を受けかねない発言を繰り返すので(それで同じインド出身の大経済学者バグワティとしょっちゅうけんかしてます)、その点は要注意。

そして最後も分厚い本で、しかも三巻本の一冊目。山本義隆『世界の見方の転換』みすず書房)第1巻だ。これは山本の『磁力と重力の発見』『一六世紀文化革命』(ともにみすず書房)に続く、近代科学成立の歴史を描く三部作の最後となる。

世界の見方の転換 1 ―― 天文学の復興と天地学の提唱

世界の見方の転換 1 — 天文学の復興と天地学の提唱

この三部作が何をやっているかといえば、ガリレオとかコペルニクスケプラーニュートンに続く古典力学成立というのが、どういう時代背景や思想史の中から登場してきたかを明らかにするということだ。こういう人々が突然出てきて世界を一変させたわけではない。こうした発想が登場する背景があり、受け入れら れる状況があった。それはどんなものだったのか?

『磁力と重力の発見』は、古典力学の中心概念の一つである重力/万有引力なんていうけったいな発想がどこから出てきたのか、というのを追っていた。一方、『一六世紀文化革命』は、そうした科学革命につながる文化の変革が、学者たちの思索よりはむしろ、学問の大衆化と実用知識の発展に大きく左右されているのだ、という主張だ。そしてそれを受けた本作は、いよいよ古典力学成立へとつながる動きとなる。

そしてその基本的な発想は、現実での検証、ということ。いまのぼくたちは、学問—特に科学—は、現実に照らし合わせて、実験したりすることで正しさが担保されるのを当然だと思っている。でも昔はちがった。聖書や勝手な思いこみにもとづく「原理」というのがまっ先にあって、それに適合するかどうかが重要で、実際の観測とあっているか、なんてのはどうでもよかった。

でもそれが少しずつ変わっていった。古代ローマの万能人プトレマイオス天文学は天動説の時代に注目を集めた者だが、それは決して単なる迷信ではなく、実証を軽視した当時の学問の中で数少ない、現実のデータに多少なりとも基づいた理論だった。そしてそれを否定できるだけの観測精度が生じるまでには、一五〇〇年もかかったのだった。

実証を重視する態度、それを担保するための精度の高い観測装置の開発、それを使ってデータ処理するための数学の市民権獲得……これらは実は、高尚な学者の世界ではなく、実学的な測量や航海術、商業的な経理の必要性から生じた。そして学問の中でほぼ唯一、実際のデータとの一致が重視されたのが天文学で、それは占星術的な要請も大いに作用していた。その天文学を発展させるための数学が普及発達するに欠かせなかったのが印刷術、それも図入りの本を印刷する技法で あった。

しかし、その反面、大航海時代が始まり世界各地へ行く人が増えると、プトレマイオスの地理の知識もかなーりデタラメなものだとわかってきて、すると天文学のほうだって怪しいかも、という気運が出てきて—こんな具合に、全然関係なさそうな話があれよあれよとからんでくるのでやたらに面白い。突然、画家のアルブレヒト・デューラーが出てきてびっくりするとかね。

実はいま、これを書いているのはカンボジア。最初は面倒くさそうな本だと思って、どうせこちらにいる間に一巻も読み終わるまいと思っていたのに、行きの便の中だけで読み終えてしまいました。しまった、2巻、3巻ももってくるんだった。

1巻の最後を読んだ感じでは、次はいよいよコペルニクスが出てくる模様。戻って読むのが楽しみ。前にコペルニクス『天体の回転について』とその時代背景について、アメリカの作家ウィリアム・ヴォルマンが書いたえらく感傷的な本(それも感傷的に天動説を懐かしむという、アナクロというか反動というか、そんな本)を読んで、それ以来コペルニクスというとこの本を思い出してしまうのだけれど—。

なんだか今回は、分厚い本ばかりになってしまい、しかも実用にはほど遠い面倒な本ばかりで恐縮。次回はもう少し薄い本が—というわけにもいかなそうだな。『世界の見方の転換』の2巻、3巻がきて、たぶん『天体建築論』東京大学出版会)と『ソヴィエト文明の基礎』も扱うだろうし、しつこく予告している残雪も取り上げるはずだし……。なんかもっと薄い実用書もまぎれこませられましたらご喝采。ではまた。