Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

#02 プロメテウス・伊藤計劃/計画・屍者の帝国

「新・山形月報!」の第二回目は、映画『プロメテウス』に始まり、ウラジーミル・ソローキン『青い脂』や国書刊行会のものを中心とした海外文学を眺め、そして伊藤計劃屍者の帝国』と向き合う高密度の内容です。ご堪能あれ!


,br />仕事柄、出張が多いもので、映画を観るときも「これは機内でやりそうだな」と思うとついついパスしてしまうため、映画館で観るのは『ゾンビ・ストリッパーズ』とかろくでもない代物ばかり。これではいかんと思って、こないだリドリー・スコット期待の新作『プロメテウス』を観てきたんですが……。

なんというか、微妙だなあ。まず予告編で出ていた通り、なにやら時代も地域もちがう世界中の遺跡で、同じ星座を目指して指さす巨人の絵があったというだけで、そこが人類の起源だ、人類の創造主がそこにいるにちがいない、と言って、たぶん日本の一年分の国家予算を注ぎ込んでも足らなさそうなすごい宇宙船を作ってでかけていくんですよ。

えー、なんでそれだけで、創造主がいるなんて思うんですか! たとえば世界中で北斗七星やアンドロメダは結構メジャーな星座であれこれ神話になったりしてますけど、だれもそれだけで宇宙船飛ばしたりしませんよ?? そこまで話を進めるのは飛躍がすぎませんか。そしてその飛躍した社長さんにかわるお目付役としてシャーリーズ・セロン様がくるんだけど、結局この人、別にいなくても全然かまわなくね? 話の中でもまったく活躍しないんですけど。どうせ無駄にいるなら、もっとりりしいかっこよさを発揮したサービス場面がほしいですわ。

さらに遺伝子って、飲んだらただのタンパク質で分解されちゃうんですけど。川に流しても何も起きませんよー。それに、どうして創造主のところに行ったら不老不死にしてもらえると思うわけ? ぼくのところに昔の報告書がやってきて不老不死にしろとか言い出したら、即座にシュレッダー送りよ。さらに、あのイカはなんだ! エサも喰ってないのにでかくなるな!

と、いろいろ不満の多い映画で、特に脚本とかストーリー作りの基本があまりにおざなりではないかと。帰って『エイリアン』を観直したが、「狭いところにエイリアンと閉じ込められてコワー!」というきわめて単純な話をうまーく作ってあって、改めて名作。やはり物語能力って重要だと思う。そして映画がダメになっている理由の一つは、そういううまい物語作りに必須の細かい伏線やほのめかしを、観衆が読み取って理解する能力が下がっているせいもあると思うのだ。

……というわけで、最近わさわさ出ているおもしろげな小説をたくさん読もう。まず、レオ・ペルッツ『夜毎に石の橋の下で』国書刊行会)。

夜毎に石の橋の下で

夜毎に石の橋の下で

これはもう、細やかな伏線のからみあいだけで成立しているような本。狂王ルドルフ二世に、大富豪のユダヤ人商人、その妻、その財産、ユダヤ教司祭に天使、そのそれぞれの運命が本人すら気がつかないほどかすかにからみあい、それぞれの人生が大きく変わる—それは本人たちにはほとんど気づかれない。ラスボスが「ふっふっふ、冥土の土産に教えてやろう」とか意味なくぺらぺら種明かしをするようなこともない。

ただ読者だけが、そうしたかすかなアイテムの意味を理解し、そして冒頭の短編に出てきた司祭の謎の行動がやがて解き明かされるとともに、すべてのパズルの駒がおさまって、大きな悲しい絵ができあがる—そしてその絵も、もはや語り手が語る時点ではすべて過去のものとなり、これまたかすかな痕跡が残るばかり。

読み終わって、「よかったー、感動したー」とか騒ぐような小説じゃない。静謐でありつつ運命の残酷さとそのはかなさみたいなのをゆっくりかみしめたい人にはお勧め。頭の中に、いろんなかすかなヒントを記憶しておく能力は必須だけれど。

そういう細かいヒントやほのめかしを、旅先の場所や人々に対して発揮した作家ブルース・チャトウィンの短編エッセイ集『どうして僕はこんなところに』が文庫化されている(角川文庫)。ぼくはいま、これを珍しく文明国であるスペインのバルセロナで書いているんだが、ここはガウディの発狂した建築や明るい街だらけで、とても感覚への刺激が大きい。でもチャトウィンの短編はむしろ砂漠とか、何もない荒野や、人のいない浜辺や人間味のない動乱とか、あるいは世間から何らかの意味で隔絶してしまった人々がお似合いだ。

そうした場所や人々にあるかすかな痕跡をチャトウィンは読みとりつつ、自分との間にある果てしない距離をも同時に感じてしまう—そういう旅の喜びと悲しみの共存みたいなものを、チャトウィンは本当にうまく文章化する。はるばるこんなところまで来た、という満足感と同時に感じる、「オレ、こんなところでいったい何やってるのかな」という旅の徒労感が本書のタイトルでもある。これも、特に人物を理解するには基礎教養がいるという意味でちょっとスノッブな本ではあるんだけれど……。

そんな符牒を最終的に具体的なモノにつなげることなく、思わせぶりだけで成立しているような小説がアントワーヌ・ヴォロディーヌ『無力な天使たち』国書刊行会)で、発端も行く末もわからないような、大きな話の途中だけ切り取ったような短編が、イカみたいにあちこちであばれているんだけれど、それが特に所在なさそうな感じもなく、それだけで成立している。無数の(四十九冊の)読みかけの本を放り出した感じ。どうしてもオチがほしい人は、フラストレーションがたまるから読まないように。自分のこれまでの読みかけの本とあれこれ並べて楽しめれば吉。でもふつうの人がふつうに楽しく読むよりは、かなり理知的な読み方を要求する小説ではある。

シギズムンド・クルジジャノフスキイ『瞳孔の中』松籟社)もそんな本で、作家の脳内にある認知空間をマッピングするような小説とでも言おうか。細かい符牒や表現のひだを愛でるような小説ではなく、明確に定まった語り手といろんなものの距離感を描きだそうとする。血の気は薄いし、抽象度は上がってしまうんだけれど、すれっからしの読者なら楽しめる。素直な読者は、うーん、どうかな。それと、訳者はあとがきで、この作家がナボコフに近いというんだけれど、ぼくは全然そんな感じがしないのだ。

でも本書でいちばんの衝撃は、訳者の一人である秋草俊一郎の略歴にある、「現在、無職」の一語だった。えー、おもしろい研究もしてるんだし、どこか拾ってあげればいいのに。彼の足もとにも及ばない文学教授なんざ腐るほどいるのに(その後、本人のウェブサイトを見ると、ハーバード大の客員研究員になったみたい。よかった。でもわざわざ「無職」と書いたのは、なんか焦っていた時期だったんだろうか)。

が……やはりここ数ヶ月の小説では、絶対にはずせないものが二つ。一つはウラジーミル・ソローキン『青い脂』河出書房新社)。これは……これは……ぼくですら何と言ったらいいかわからん。これまで紹介されている『愛』『ロマン』(どちらも国書刊行会)の二作のあまりの発狂ぶりは、なんと言っていいかわからない、というかほとんど一発モノの瞬間芸小説とでも言おうか、だからその発狂したかんじんな部分を説明するわけにいかないんだけれど、今回の代物はありとあらゆる部分が発狂しているのでさらに何と言っていいかわからない。

異様なセックスまみれの未来社会で遺伝子操作クローン創作が生む変な青い脂なるものが、タイムマシンでスターリンヒトラーの支配するパラレルワールドに送り込まれ、その争奪であーだこーだとカマ掘り愛の乱痴気騒ぎが展開される、ぐちゃぐちゃの悪趣味な代物。こう書くと、高踏的で自己満足な実験小説に思えるけれど、その下品な低俗さとお笑い混じりのグロテスクさはちょっと類がない。中国語とロシア語の混じった変な造語を見事に訳しきった訳者軍団にも大敬意。

屍者の帝国 (河出文庫)

屍者の帝国

そしてもう一つは伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』河出書房新社)。さて、ぼくはこの小説についてあまり客観的な評価を下しにくい面がある。というのも伊藤計画という人物はぼくの変種だからだ。彼の小説の相当部分は、ぼくが訳しているいろんな本の関心領域を見事に下敷きにしているので、えらく既視感がある。そして「ああこのテーマはこう展開したほうがいいな」とか「ここはこっちにつないだほうがよかった」と読みながらまるで自分の文章を校正するみたいに赤字を入れたくなってしまうのだ。

が、この小説もぼくの関心領域と実にぴったり重なっているのだけれど、でもつながるはずがないと思っていた部分を実に見事につないでしまったという意味で、このぼくですら驚かされるものではあった。その核心にあるのは:Language is a virus from outer-space. 言語は---そして意識は---外宇宙からやってきたウィルスである。これは本書に登場するウィリアム・S・バロウズの孫が後に取り憑かれる想念でもある。

時は十九世紀末。フランケンシュタイン博士の研究を元に死体に霊気を注入することで復活させ、屍者---つまりはゾンビ---として活動させることが可能となった。本書は主人公にして話者たるジョン・H・ワトソンが、そうした記録用屍者フライデーに記述させた物語だ。ワトソンは医学生としての優秀さを買われ、イギリスの諜報機関に入って、かつて上司Mとヴァン・ヘルシングが破壊したはずの屍者制御プログラム(ネクロウェア)を探す中で、原初の屍者たるフランケンシュタインの怪物と、その謎を記述した手記の行方を追うことになる。アフガニスタンの山奥で屍者の王国を築き、原始言語/プログラムを探すカラマーゾフ兄弟。ワトソンと共にそれを追う、ピンカートン社のレット・バトラーに不思議な美女ハダリー。榎本武揚が持ち去った手記を追って、舞台はアフガニスタンから幕末明治の日本、そしてさらにアメリカに移り、ロシア宇宙精神思想に進化論、イルミナティ(もちろん!)、月光協会まで巻き込みつつ、始原の言語/プログラムの復活を賭けて世界のバベッジ解析機関結節点たるロンドン塔で最後の決戦が展開される---

そしてその中で本書の問いかけは、SFらしい荒唐無稽なものから、次第にぼくたちの本質へと歩みを進める。なぜ人だけが屍者になるのか? なぜ意識がないのに動く屍者があるのか? 意識ある屍者とは何か、なぜ人だけが意識/言語を持つように見えるのか、そしてそもそも意識/言語とは何で、どこからくるのか、意識に操られないヒトの自由とは何か---そこに出てくるのが、さっき挙げたバロウズのテーゼだ。Language is a virus from outer space.

さて、これはネタバレだ。いまの一節は、本書の最後から二つ目の重要な種をほぼそのまま述べたものとなっている。が、そもそもぼくはタネあかしの意外性だけで小説を読むのは卑しい読み方だと思っているし、そして優れた小説の常として、これだけ読んだところで、読者はまったく本書を読む醍醐味を失うことはない。そもそも多くの人は、これが何のことやらわからないだろうし、そしてわかる人も、それがなぜゾンビの話とつながるか見当もつかないだろうから。だが、本書はそれを(いささか強引ながら)結びつける。バロウズのジャンキー妄想と、意識の科学がつながってしまうとは! そして、十九世紀末頃の言語とロボットと進化と意識と計算と人造人間にまつわる雑学やトリビアを山ほど詰め込んだ百科全書……というには薄すぎるが、その索引くらいには相当する情報をぶちこんだあげくに、ゾンビ小説としてまとめあげてしまったのには、まったくもって感心至極。

むろん意識の起源を外に求めてしまったことで、伊藤は意識とは何か、それはいかに生成されるかという問題を詰め切れていない。これはある意味で、意識のホムンクルス説の一種だから。そして、その結果もあり、話を急ぎすぎている部分はあるとは思う。本当の百科全書小説にしてほしかったなあ。索引だけでは、知らない人にはかなりわかりにくいだろう。ついでに、レット・バトラーは……まあいいや。

トマス・ピンチョンなら、このごく一部だけを1,200ページの代物にしたてたことだろう。最後の原言語オリハルコンやトリトヴィアン人たちのあり方も、もう少しゆっくりもってこないと、登場人物の台詞での説明だけになってしまって--- だがこれは、伊藤のこれまでの作品の欠点でもあった。それが本作ではかなり改善されていると思う。そして百科全書(の索引)小説として、トリビアを知らな くてもかなり楽しく読めるけれど、ざっと読んだら、こんどは各種の名前をググりつつ、ゆっくり読み返してほしいな、とは思う。冒頭に挙げた『プロメテウ ス』も人類の起源を探求する点では、すこーし本書の問題意識と似てはいるんだけれど、ほんと伊藤計画のツメの垢でも煎じて飲んでほしいわ。

ちなみに本書を未完のまま伊藤計画は病に倒れ、相当部分はフライデーに書かせている。本書はある意味で、現実世界を忠実に模倣するものでもある。ちなみにフライデーは別のところで本書について「これは屍者を使役して書くことになる」と述べているが、だれが屍者でだれが生者だろうか。そして伊藤の他界後、フライデーが本書を仕上げるにあたり追加した最後のほんの数ページにこめられた、痛切な思いと哀悼は胸をうつ。だが本書を見る限りフライデーの最後の望みは、見事に叶ったんじゃないか。そして、ぼくたち読者の願いも。いや叶いつつある、というべきか。言葉はいつも、常に読まれることで変わり、新しい生命を得ては広がってゆくんだから。いつか、円城……ではなくフライデーはこの続きを書くかもしれない。書かないかもしれない。あの探偵とのからみも含めて。そしてあなたも、この話を引き継ぎ、広めることになるだろう。

が……今回紹介した多くの小説は、ぼくは多くの人には受け入れられないだろうとも思う。その意味で、どれもこんな一般向けの書評欄では採り上げるべきでなかったかもしれない。『屍者の帝国』はまだ一般性があるけれど、他はどうしてもマニアックになる。

そこでマニアックとはほど遠い、波瀾万丈血湧き肉躍る一冊を。デュマ『モンテ=クリスト伯爵』!!  なんとなんと新訳が新井書院から出て、しかも1500ページの一冊本。多くの人は、ジュブナイル版であらすじしか知らないだろうけれど、これはもう本当 に大傑作。裏切り! 恋! 絶望! 冒険! 復讐! 新聞連載小説だけあってとにかく途中がまったくだれず、ずっと大興奮のまま話が最後まで続く脅威のお 話だ。岩波文庫に収録されているのは訳が古いし、六冊に分かれてそのたびに話が中断していやなんだよね。是非これを買って一気に読んでほしいところ。

実は小説というものの本当の醍醐味の95パーセント(概算)は、この『モンテ=クリスト伯爵』にある。今回紹介した他の小説はすべて、その残り5パーセントのところを何とかしようとしていて、それが今の小説のつらいところでもあるんだけれど。

しかし、今回は長くなってしまった。次回からは、もう少し一般性ある本を紹介したい……とはいえ、今回の多くの本の中に、みなさんにも通じる一般性は十分よみとれるはずではあるんだけれど。