Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

#01 書評・岡崎京子・ファブラボ

かつてメールマガジン山形浩生さんがその月に読んだ本から気になる分野までをどどっと書き綴る人気連載「山形月報!」がありました。そして、今その連載がパワーアップしてカムバック! 初回は立て続けに出た岡崎京子関連の書籍からコンピュータ界隈の話までが凝縮して論じられています。



初回は開店のごあいさつから、とのことなんだけれど、何を書いたものか。ぼくは朝日新聞も含め、書評委員とかをやっているのだけれど、やはりいまの日本の書評媒体というのはちょっとつらい。えらい先生たちが書くと、どうしてもえらそうなその業界で立派な本になってしまう。それは同時に、業界の中のお手盛り内輪誉めみたいな話にもなってしまう。あまり批判書評はするなと言われる。紹介できる本も限られ、字数も少ない。英米の新聞雑誌などに載る書評でうらやましいのは、丸々一面使って書評したりできるし、批判書評も載せられること。

そしてもう一つ、単独の書評で言える意外に、複数の本にまたがって話をしたいことが多い。この本はいいんだけど、別の見方としてあんな本にも目を通しておくべきで、さらにそれが他の分野とどうつながるのかは、あっちの本も見ておくといい、といった具合に。800字の新聞書評では、それは無理だ。昔は、電子書籍が普及することで、そういうつながる読書がしやすくなるんだ、なんていう話が流行ったけれど、今のところそういう状況にはなっていない。でも、せめて書評くらいはその機能を果たせるんじゃないか、というのがこの連載だ。

で、映画『ヘルタースケルター』のおかげで、岡崎京子関連の本がいくつか出てきたのはとても結構なこと。正直いって、岡崎京子が交通事故のために執筆中断してから、新しい世代のファン層というのがどこまで出てきているのかはわからない。彼女はぼくと同年齢で、ぼくの世代にとってはあらゆる意味で時代そのものを体現したようなマンガの書き手ではある。でもそれが他の世代にどうアピールするのか不明だ—というより、ぼくには客観的に評価しづらい、というのが正しいのかな。それはある意味で、彼女のマンガ自体がかなり時代依存的で、当時—80年代から90年代にかけて—の予備知識というか雰囲気の把握を要求する面が強い、ということでもある。

岡崎京子の研究

岡崎京子の研究

ばるぼら『岡崎京子の研究』アスペクト)は、それをかなり強く意識した研究書。デビューから最新作まで作品の概要をささっと追いつつ、ページの大半は(疑似)対談形式で当時の時代背景の解説に費やされる。当時は何が流行で、そこで岡崎京子がどんな人に言及したり対談したりしていたか。それを読んで、本当に当時のことがわかるかどうかは—うーん。

やっぱり80年代から90年代の時代背景というのは、基本はバブルの時代ということだ。この先、生活に不安があるとかはだれも思わず、普通に物質的な不自由は皆無のまま日常は続くという前提の中での悩みであり不安であり虚無感だ。それを文章や説明でどこまで伝えられるのかは、疑問な面もある。ぼくと同世代くらいの人は、本書を読んで「あー、そういうのあったよねー」とノスタルジーに浸ることもできる。でもいまの世界で、まさにいまの(特に若い)読者層にそれがどう理解されるのか。

またその一方で、岡崎マンガに流れる漠然とした不安感というのは、今の世界にもひょっとしたらちがった意味でアピールするんじゃないかとも思う。その段差を理解するのにはいい本だし、細かく岡崎作品を集めてマニアとして細かくまとめている資料的価値はきわめて高い本ではある。

岡崎京子の仕事集


岡崎京子の仕事集

増淵俊之編『岡崎京子の仕事集』文藝春秋)は、時代背景よりは作品そのもの中心で、イラストやエッセイ、対談なども紹介。ばるぼら本とはちがう形で岡崎京子の全体像を紹介しようとしている。彼女の絵や声がもっと知りたいという人にはこっちのほうが好適じゃないかな。作品の評価は、ぼくは甘いんじゃないかと最初は思ったけれど、それでも多少は厳しめの評価も入ってるし、岡崎自身との共著ということも考えればこれが精一杯か。

ぜいたくを言うなら、ぼくはこの二冊の編著者が、いま現在における岡崎京子マンガというものがどういう役割を果たし得るのか、というのについて少し言及してほしかったな、とは思っている。岡崎は増渕本に収録された最後のインタビューで、世の中がマンガに追いついているから、マンガは少し先の虚構を描かないとだめで、ハッピーエンドを描きたいと述べている (p.116)。彼女は自分のマンガの位置づけが少し時代の変化の中で変わりつつあったのを敏感に感じ取っていたようなんだけれど、この二冊の編著者た ちはそういう認識というのがあまりなくて、時代が驚くほど停止したままでいるような印象はある。

そして岡崎の未収録作品集『RUDE BOY』(宝島社)も出ていて、これはまだ未見なので帰国したら(いまインドにいるもんで)読まないと……とはいえ、かつてウィリアム・バロウズの研究で彼のありとあらゆる作品を集めたときに思ったけれど、やっぱ単行本化されてない作品というのは、それ相応のできだったりしたので、これもあまり期待しすぎてはいけないと思うんだけど。あと、映画は……観るべきかなあ。

さて、まったくちがう方面の話。草創期のパソコンおたくたちの醍醐味というのは、ハードも作る、プログラミングもする、きたなくてもとにかく動く、というDIYの自作の楽しみだったんだけれど、だんだんパソコンが高度化し、ソフトの制限も多くなってきた。たとえばウィンドウズやマックで何かをするプログラムを書くには、そのお約束ごとを覚えるだけで一苦労だ。それにキーボードばかり叩いているのはつまらない。もっと「とにかく動く!」「見てとにかくおもしろい!」を手っ取り早くやったり、何かを自分でいじくり、作り、こわし、その過程で理解することに重きを置くハッカーたちの新しい動きが出てきた。

コンピュータだって、そんなものすごい高度なものはいらない。光が当たればスイッチ入れる、という程度のコントローラで十分楽しいことができる。ロボットはもとより、木工、園芸、料理、農業、裁縫その他なんでもあり。そしてそうした実験や遊びのための場として、パソコンもあり、ハンダ付け設備もあり、3Dプリンタによる簡単なパーツ製造が行え、各種技能の交換も行えるような場の整備があちこちで進んでいる。工場向けには工業試験場があちこちにあるけれど、そのコミュニティ版とでも言おうか。

これがファブラボの動きだ。先進国だけじゃない。最近ではエチオピアでもオープンしているとか。物作りに興味ある人が集まり、情報交換することで、ものづくり拠点ともなり、コミュニティ拠点ともなるような場を作ろうとしている。そうした動きを実践し、また海外でのそうした動きについてもまとめた本が田中浩也『FabLife』オライリージャパン)。昔、パソコン(当時はマイコンと言ったけど)の草創期、自分ではマイコンなんか買えない中高生たちが秋葉原NECショールームのビットインなどにたむろして、自分でソフトを書いてはそれを交換したりして、そこから後のプログラマ予備軍が生まれたりした。それがもっと広がりを持って実現するかもしれない。

ここらへんは重要な話で、日本はものづくりが凄いとか言う一方で、たとえばCADやシミュレーションではあれこれやったことがあっても、実際にモノを作って金属削ったりハンダ付けしたりしたことのない工学部生とかはたくさんいる。これは日本だけじゃない。手を動かす工員仕事は卑しくて、大卒エンジニアはそんなのやらんのだ、という変なプライドが多くの途上国で発展を阻害していたりする。それを打破するにも、こうした動きがどんどん普及しないと。同じオライリーの「Make:」シリーズは、そうしたネタ満載なので、興味があれば他のも見てほしい。案外、次のパソコンやネットに続くでかい産業起爆剤になるかもしれませんぞ。