Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

ピンチョン・柴田元幸・メイスン&ディクスン

2014年最後の「新・山形月報!」は、柴田元幸翻訳で2010年に刊行された、トマス・ピンチョンの大著『メイスン&ディクスン』(新潮社、上下)を徹底レビュー! また、関連してレオポルド・マウラー『ミラーさんとピンチョンさん』水声社)も紹介していますよ。なお、結末部にも触れております。また、過去の月報を読み返して、年末年始に手元に置く本を探してみるのもありかと思われます。では、良いお年を!



ご無沙汰です。このぼくでも師走は(特に今年は)何かと忙しく、あまりちゃんと本が読めなかった。これがしばらく間のあいた最大の理由ではある。でも、もう一つ理由がある。今回はちょっと、長い本を読んでいたからだ。トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』(新潮社、上下)だ。

トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(上) (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(上) (Thomas Pynchon Complete Collection)

ぼくのこの書評は、とにかくいろんな本を乱読して、それについて片っ端からコメントする形になっているし、その本のとりあわせの乱雑さが売りではある。だから、放っておくとつい、お手軽に読みやすくて数が稼げる本にばかり流れてしまう。薄い新書や文庫本は早く読めるからだ。それに前にも書いたけれど、ビジネス書や自然科学や経済解説書なんかはとても楽だ。だって、すでに自分が知っている部分は読まなくてすむんだもの。

でもそうした本に偏りすぎると、そうでない本の比重がどうしても減る。特に割を食うのは、分厚い小説だ。小説はあまり流し読みしても意味がないし、知ってる部分を飛ばすこともできない。あと小説の連続性をある程度は重視して、なるべくその小説に集中したいので、つまみ食い的に途中で他の本を読むのもはばかられる。それでも、普通の小説なら、ぼくはかなり早く読めるのだ。ただ、この『メイスン&ディクスン』に限ってはそうはいかなかった。なぜかというと、この本は意図的に読みにくくできているからだ。

メイスン=ディクスン線というのがあって、これはいまのアメリカ合衆国東半分の真ん中あたりを東西に走る線のこと。アメリカの北部と南部を分ける線で、南北戦争における奴隷州と自由州を分ける線でもあった。本書は、この線を測量して引いた2人、チャールズ・メイスンとジェレマイア・ディクスンの出会いから死までを描いた小説ではある。この2人、純粋な測量士というわけではなく、むしろ天文学者系の人物だ。だから出会って最初は、南アフリカでの金星の太陽面通過を測定しにでかける。そして、その後アメリカに派遣され、フィラデルフィアから出発して、アメリカ建国の祖たちとも出会い、東西の線を引く旅に出る—。

この小説は、その道中記ではある。でもこれは全編、一時はメイスンとディクスンに同行したと称するチェリコーク牧師なる人物が、チャールズ・メイスンのお葬式にやってきて、そのまま居座り、2人の物語を語る、という形式で書かれている……と言っていいのかな? 最後のほうになると、だんだんこの話者は希薄になり、ほとんど意識されなくなるのだもの。そして談話だから、その語り口はまさにアメリカがイギリス植民地だった時代の英語となっている(調べてみると、その時代の英語をさらにピンチョンが大げさに仕立てた代物なんだそうな)。ものすごく古い、そのままでは多くの人はまともに読むのもむずかしい英語 で、このぼくですら原書が1997年に出たときには、早速とびついたものの50ページも進まないうちに挫折したほど。

そして、きわめて些末な話が事細かに描かれている一方で、その話の舞台がいつ、どこで展開しているのかについては判然としない書き方がなされている。また、様々な人物がいきなり登場するけれど、それが何者かという説明はほとんどないも同然。いきなり舞台は切り替わり、知らない人がゾロゾロ出てくる。同じエピソードの中でも、話者の視点は何のことわりもなしに切り替わる。そして全体としての明確な構成とかストーリーラインがあるかというと、そういうわけでもない。次から次へと、変なエピソードがまったく並列に書かれるだけ。

その変なエピソードは、各種の陰謀論をまぶしたものが多く、トマス・ピンチョンの十八番とも言えるもの。地球空洞説を主張する人、しゃべるハト、ジオマンシー(土占い)、イエズス会と中国人の陰謀、その中国人の風水論、グレゴリオ暦採用に伴う失われた十一日などが次々に並ぶが、それがどれも、出てくるだけ。陰謀が展開したり、謎が解明されたりということもない。あと、ワシントンやジェファソンやフランクリンといった建国の偉人らも登場するけれど、この人たちも登場するだけ。

本書についてのウィキペディア(英語版)に もあるけれど、こうしたわかりにくさは意図的なものだ。アマゾンを覗くと、地図がない、訳注が少なくて不便という恨み言のレビューもあがっている。その気持ちもわかる。でもピンチョンはわざと、そうした明解さを排除しているんだ。日本語版だと、いくつかのポイントについてかなり親切な訳注がついていて、おかげでたぶん原文よりは、かなりわかりやすいくらいだろう。

トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(下) (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(下) (Thomas Pynchon Complete Collection)

なぜ彼はそういうわかりにくさを選んだのか? ウィキペディアの書き手は、それがポストモダン的な歴史や事実のあり方の反映なのだ、と述べている。世の中の歴史とか事実とか称するものは、決して確定した真実などではなく、多くの人々の語りの寄せ集めとして構築されたものだ、というわけ。そういう見方を採るかどうかは、もちろん読者次第。ぼくは、そういう配慮もないとは言わないけれど、別の意図があるんじゃないかとは思う。

その意図とは何だろうか。それは本書全体が書かれた理由というかテーマのようなものにも通じる。訳者の柴田元幸は、本書が遍在する悪を描き、奴隷制の罪深さを告発するものなのだ、と解説で述べている。アマゾンのレビューなどを見ると、その記述にひきずられた人も多いようだね。でもぼくはそういう印象は必ずしも持たなかった。奴隷制は確かに登場して、主人公たちが奴隷商人と対決してその鞭を奪ってくる話なんかもある。南アフリカでもアメリカでも、奴隷制がいたるところにあると言って2人が嘆く場面もある。それは各種のアイテムの中で重要ではある。でもそれが中心的なエピソードというべきかというと、そうでもない。また、フランクリンやワシントンが邪悪な感じだ、と柴田は書くけれど、そういう印象もやはりぼくにはない。

本書は、むしろピンチョンがアメリカをそれ自体として描き出そうという試みなんじゃないかとぼくは思っている。本書の大半を占めるアメリカ紀行。そこでメイスンとディクスンのコンビは、奴隷制だけでなく異様な商業活動、合従連衡、地方豪族のような傍若無人、怪しげな陰謀論、インディアンとのやりとり、中国 人や北欧人など各種の移民、迷信、宗教、希望、絶望、酒場、その他ありとあらゆるものに出くわす。それがすでに述べたように、まったく構造化されない形でごちゃごちゃに投げ出される—それはまさにアメリカの原型そのものだ。ピンチョンは、それを整理しようとか何かに着目しようとかいう意図もなしに、同じ平面の上にすべて並べ立てる。それがまさに、建国時のアメリカというものだったんだから。

その混沌と活力の中に、イギリスからやってきたこの2人(片方はアメリカ人だけれど、いったんイギリスに渡りイギリスの命を受けてやってきている)は、まっすぐな線をひき、境界を明らかにし、整理をつけようとしてやってくる。かれらがアメリカに蠢く混沌に翻弄される様子というのは、そうした整理と境界作りの試みの失敗を物語るものなんだろうか。それとも、この試みを通じてこうした混沌がいまや失われていることを嘆くものなんだろうか。それもまた、どちらとも言えない形で読者の前に投げ出されている。

それでも最後、アメリカでの仕事を終えたメイスンとディクスンがそれぞれ別の道を歩み、そしてその子供たちのアメリカに対する希望に満ちた独白で終わる本書は、ピンチョンのアメリカに対する(多少ひねくれているとはいえ)愛情の宣言ともなっている。

「星が凄く近くて、望遠鏡が要らないんだよね。」
「魚が腕に飛込んで来る。インディアンたちは魔法を知っている。」
「僕達は其処に行くよ。僕達はそこで暮らすよ。」
「僕達は其処で釣りするよ。そして貴方(とうさん)も。」

ぼくたちは、その子供たちが向かう先、そしてそのさらなる先も知っている。それでも、ある意味でおめでたいほど無邪気な、一方では素直な独白をどう理解するかも読者の自由ではある。でもこれだけひねくれた作品がたどりついた、この実に素朴ともいえる希望のメッセージは、読者の胸を打つ、と思う。

ということで、すばらしい作品です、是非お読みなさい……と言えないのが本書のつらいところ。原著50ページで挫折したとさっき書いたけれど、この邦訳についても何度挫折しそうになったことか。明確な構造があるわけではなく無限に断片的エピソードが羅列されるので、通読するのが非常に苦しい。そして読んだあとに、すごいカタルシスがあるわけでもない。最後の希望のメッセージも、かなり唐突に投げ出されている。うーん。力作なのはまちがいない。史実と妄想とデタラメをないまぜにして、異様な調査をバックに持っている小説なのは明らかだし、それをここまで凝った書きぶりでまとめあげた力量もすさまじい。でも、これをもう一度読めと言われたら……ぼくは10年先までは遠慮しておくだろう。

訳者あとがきでは、むずかしいと言われているけどおもしろいから読んでみなさい、と書かれている。が、それにだまされて読んだ人は、恨むと思う。おそらく、本書は古典にはなるだろう。でも、同じ古典でも、古いだけで敬遠されているが、実は読めばむちゃくちゃおもしろいディケンズとかバルザックやデュマなどに比べると、「実はおもしろい」古典になるとはとても思えない。

ひょっとしたら、通読しようとせずに、二度目はあちこち適当に開いて、散漫なエピソードを個別におもしろがっていればいいのかもしれない。それならまだ行けるかもしれない。でもそれをおもしろがるにもある程度の背景はいるし。

とはいえ、罰ゲームでもいいから一度はがんばって読んでも悪くないとは思う。特に、柴田元幸が10年かけただけあって、翻訳としてもお見事。柴田元幸は、もちろん優れた翻訳者だし、きちんとした小説を端正に訳すことには長けている。でも、かれは渡辺佐智江のように、異常な文章を異常に訳せる天才的な翻訳者ではない。だからこういう凝りまくった、敢えてわかりにくくしてある文章をうまく訳せるんだろうか、という疑問はあった。

でも本書の翻訳は、原文の誇張された擬古文調を少しは抑えつつも、その読みにくい違和感はうまく残しながらこの長大な小説を仕上げている。本当の古い日本語になっていないと論難する意見も一部で見かけるけれど、原文も誇張入っているし、本物の古い英語というわけでもない。その雰囲気を再現できれば、ぼくは上出来だと思う。そして訳しながらおそらく当の柴田元幸自身も、これがかなり読者を選ぶ小説で、多くの読者を期待することはできないとわかっていたはずなんだよね。自分の作業があまり報われないと知りつつむずかしい本を訳すのは、結構消耗するんだけれど。

それでも、訳しながら自分なりの面白さをあちこちで発見できる部分はある。そして本書の翻訳を見ると、柴田自身はかなりおもしろがってやったらしい痕跡は見かけられる。力のある読者が、読みながらそうした痕跡を少しでも拾ってあげられると、この原作も翻訳もどちらも労多くして報われぬ力作が、多少は救われるとは思うのだ。

さて、さすがにこの本だけではアレなので、関連書も紹介。レオポルド・マウラー『ミラーさんとピンチョンさん』水声社)。木を切り倒しながら測量を続ける2人組、ミラーとピンチョンの珍道中、と書けばわかる通り。これは『メイスン&ディクスン』のパロディマンガなのだ。こちらも同じように、淡々とエピソードの羅列で進むけれど、それでもまだわかりやすい。巨大チーズのエピソードとか、『メイスン&ディクスン』を読んだ人しかわからない小ネタもあちこち。これを読んだからといって、『メイスン&ディクスン』の理解が進むわけではないし、またマンガといってもヨーロッパのグラフィックノベルというやつなので、すごい萌え絵満載というものではない。でもさっと読んで、クスッと笑える、ちょっとスノッブなマンガなので、ピンチョンに疲れたら是非。

ミラーさんとピンチョンさん

ミラーさんとピンチョンさん

ちなみに脱線だけれど、測量っていまはどうなっているんだろうか。ぼくが大学の実習で習った頃の測量は、「長さを正確に計るのはむずかしいが(熱膨張や材質の伸縮があるので)、角度なら正確に測れる」という原理に基づいていた。でもいまは、長さのほうが正確に測れるはず。すると測量は革命的な変動を余儀なくされてるはずだ、と思うので、そこらへんを最近の測量学の本で調べてここに何か書こうかな、と思ったんだけど……ちょっとその余裕ありませんでした。だれか詳しい人、教えて!

大作を読み終えて次に取りかかっているのは、ロレンス・ダレルアヴィニョン五重奏』(河出書房新社、1~5 )。先日、その最終巻『クィンクス』が出たので、いい機会だから第1巻の『ムッシュー』から通して読み返しはじめております。なんでもぶちこみ全てが並列に羅列されているピンチョンのあとで、このダレルの見事な風景描写と情感に満ちた構造化された文章を読むと、すべてが心に染みこんでくるようで涙が出そうになります。ある描写が次の描写に見事に折り重なり、それが積み重なって作品世界が自分の四方八方にまるで映画のように華麗に現出する—次回のこのコラムまでに、第5巻を終えられるだろうか? 乞うご期待。そのときにピケティの話なんかもしましょうか。それでは。