2014年9月2日
ご無沙汰です。その後、前回予告したハンス・ヘニー・ヤーン『岸辺なき流れ』(国書刊行会、上下)を読んでいるが、な、ながい……まだ上巻すら読み終わらない。おもしろいんだけれど、それを「おもしろい」と表現するとピントはずれに思えてしまう。ヤーンのおもしろさというのは、わくわく血湧き肉躍る楽しさではなく、明確なイメージすらないかもしれない、ビジュアルというよりは肌触りというかぬくもりみたいな世界が、脈絡があるような、ないような形で連なる印象。
ヤーンの小説はきわめて読者を選ぶので、人に安易に薦めるのはためらってしまうんだけれど、もし興味があるなら——新刊では手に入らないけれど、まずは同じヤーン『鉛の夜』(現代思潮社)を図書館ででも借りて読んで見てほしい。すごく短い小説だ。
「きみをここに置いていく。これからさき、きみはひとりでいかにゃならん……」
そう始まり、夜の無人とも思える町をなぜか一人で歩く男の物語は、やはり具体的なイメージがあるようでない、淀んだ暗闇が読んでいるぼくたちに真綿のように密着してくる小説だ。『鉛の夜』を読んで何か琴線に触れる部分があったら、この『岸辺なき流れ』に手を出してもいいんじゃないかな。
ぼくにこのヤーンの魅力を教えてくれたのは、川又千秋『夢意識の時代』(中央公論社)と『夢の言葉・言葉の夢』(奇想天外社/ハヤカワ文庫)で、明晰な分析を加えているのは前者なのだけれど、ぼくは後者のほうの、何か時代精神と川又千秋自身の青春時代の乱雑な断想の中にあらわれる、『鉛の夜』への言及のほうが未だに記憶に残っている。そしてまさに、ヤーンというのはそういう作家だ。何か時代や思想を明確に表現するよりは、読者の心をそのまま包み込むような、そんなところに秘めやかな、でも泥沼のような誘惑を備えている。
同じく読む人を選ぶ作家としては、ジョン・クロウリーがいる。アメリカのSFファンタジー系の作家、と呼ぶにはでかすぎる存在ではあるのだけれど、他に表現しようがない。そのクロウリーの短編集『古代の遺物』(国書刊行会)がでた。
とはいえクロウリーが読む人を選ぶというのは、ヤーンが読む人を選ぶというのとはちがう。ヤーンは、ある種の感性の有無で読者を選ぶ。でもクロウリーはむしろ、レトリックの技法を読み取れるかで読者を選ぶと思う。つまりは、読者としての経験値が問われるわけだから、きわめて玄人好みの作家なのだ。この短編集も、歴史上の出来事と神話とがからみあい、人びとの中にふと入り込んできたあの世や神話的存在が、実にさりげなく描かれる。それも明示的にではなく、ほのめかしのような形で。そのほのめかしに敏感に反応できたら、その人はクロウリー世界の虜になるだろう。そうでなければ——何が起こっているかよくわからないまま読み終わることになるだろう。
本書もそんな小説ばかりが詰まっているので、それをほめるのは、自分のスノッブぶりを告白しているのに等しい。それに、そのほのめかしを説明してしまったら、それはクロウリーの小説の魅力をかなり殺すことになってしまうので、もどかしいところ。でも、好き。なかでも収録されている「異族婚」の、神話世界が SFになったと思った瞬間に、現代のふつうの物語へと切り替わる感覚といったら。いや、切り替わらないのだ。それが同じものとして続きながら、まったくちがう意味合いになる、というよりも神話とか現代の物語とかいう枠組みのほうが一変する感じ。いま、ぼくたちが実際に生きているものとして、神話なり歴史なりが立ち現れてくるといおうか。
あまりマニアックな小説ばかり紹介するのもアレなので、別の系統の本として紹介したいのは横手慎二『スターリン』(中公新書)。これは非常におもしろかった。
スターリンというともちろん、20世紀の歴史の中で、ヒトラー、毛沢東とならぶ極悪虐殺魔だ。権謀術策でレーニンから無理矢理後継者の地位を奪取し、大粛清で手当たり次第に人びとを捕まえて強制収容所にぶちこみ、コルホーズなどの集団農業化で国民に無数の餓死者をだし、文化的にもどうしようもない社会主義芸術ばかりを称揚し、左翼嫌いな人には彼こそ共産主義や社会主義の真の顔だと罵倒され、他方で共産主義のシンパたちにとっては、あんなの社会主義じゃない、オレたちはずっとスターリニズムに反対してきたといって、とにかく距離をおかれがちな存在だ。
そんなわけで、スターリンの伝記や紹介というと、その残虐ぶりや極悪非道ぶりを強調したホラー小説もどきになりがちだ。さらにロシア革命から両大戦を経た激動期の人なので、きちんとやろうとするとえらく長くなるのは避けられない。でも本書は、スターリンを文句なしの悪者に仕立て上げるのではなく、別の見方をしようとする。スターリンは、実は現在のロシアでは部分的にせよ再評価の動きもあり、常に一定の人気を保っている。それはなぜだろうか? 著者はこの問題意識を中心におく。
そして、その問題意識を元に、生い立ちにしても革命家への道にしても、ロシア革命での役割にしても、一部の伝記が主張するような、生まれながらの極悪人でもなかったし、また無能な小役人などでもなかったことを本書は各種の資料や最近の研究成果をもとに指摘する。これまでの伝記は、スターリンはガキの頃から粗暴だったにちがいない、という先入観があって、それにあう証言を無理にもってきたり、スターリンに遺恨のある人物(たとえばトロツキー)の発言を鵜呑みにしたりしている。でもそれはフェアではないだろう。
では、そのフェアな扱いの結果として、どんなスターリン像が出てくるのか? ここらへんはむずかしい。幼少期から革命期については、昔から残虐粗暴とか、単に党内組織力学だけで成り上がったというようなイメージは変わる。それなりに頭のいい子だったのは確かだし、また組織内でもそれなりに有能だった。レーニンに重用されたのには、十分な理由があったようだ。
だが、肝心の大粛清や強制収容所は? ここらへんになると、ぼくはそんなに目新しさを感じなかった。というか、著者の主張がちょっと重箱の隅つつきに思える。大粛清で処分された人びとの中には、直接スターリンの政敵ではなかった人びともいたとかいう話から、大粛清はスターリンの直接の意志ではなかったかも、という説を持ち出したりするのは(その後でそれを一応形式的には否定するんだが)、あまり説得力がない。さらに、強制収容所の話がほとんど出てこないのにもちょっと驚いた。まあ、短い新書なのですべてを入れるわけにはいかなかったんだろうけれど。
でも、特に最後のほうは駆け足になりつつも、他の長ったらしいスターリン伝に比べて、非常にコンパクトでわかりやすいし、視点も明解。未訳だけれどロバート・サーヴィスのスターリン伝とかは、この伝記とかなり似たスタンスだと思うんだけど。バランスの取れた記述は納得のいくものだし、また終章でのスターリン評価の推移を述べた部分は非常に有益。ソ連史や社会主義史に興味がある人は、是非読んでみるといいと思う。
こうした堅い話とはまったく関係なく、偶然本屋で手に取ったのがナガタユイ『サンドイッチの発想と組み立て』(誠文堂新光社)。みんなが普通に食べている各種のサンドイッチを、きわめて構築的な形で分析し、パンの種類、具、それが提供されるシーンと、さらに文化的背景まで含めて解説していて、非常におもしろい。パンと具のバランス分析や、季節ごとの具のとらえ方、世界各地の代表的サンドイッチと、その人気を支えている構築上のポイントが非常に手際よく整理されているし、もちろんそれぞれのサンドイッチの作り方も詳細に示され、たかがサンドイッチにひそむ奥深さを存分に味わえるようになっている。すばらしい。
もちろんこんな本を読んでも、家でつくるサンドイッチは、そこらのありあわせのものを、ありあわせのパンにはさむという世界を一歩も出ないのだけれど(そしてぼくはそれこそがサンドイッチの王道だと思う)、それでも具ごとの味付けは以前よりすこーしバリエーションも増える。同時にホテルニューオータニ監修『本当に旨いサンドウィッチの作り方100』(イカロス出版)も読んで、こちらもそれなりにおもしろいけれど、ぼくは(理屈っぽいたちでもあるので)「発想と組み立て」のほうが好きかな。こんな本を読むと、食生活もちょっと豊かな彩りがでる——こともあるかもしれませんぞ。
で、あとは小説の棚を見ていると、ホセ・ドノソの傑作と呼ばれる『別荘』(現代企画室)が出ている! おお……と思ったら、また寺尾隆吉訳。彼はよく仕事してるなあ。あとアマゾンでチェックしていたら、フリオ・コルタサル『八面体』(水声社)が出ているそうなんだが、これまた寺尾隆吉訳。なんという仕事量。翻訳する作品の難易度x分量でいうと、少なくとも今年に関する限り、このぼくを上回っているかも。ドノソは分厚いので、『岸辺なき流れ』が読み終わったとしても次回には絶対間に合わないけれど、コルタサルのほうは触れられるかなぁ。ではまた。