Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

ミャンマー・下請け・仏像

今回の「新・山形月報!」は、前回に論じた、ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』早川書房、上下)の下巻をきっちりレビューです。他に川上桃子『圧縮された産業発展』名古屋大学出版会)、周達観『真臘風土記』平凡社東洋文庫)にも触れて、さらにはミャンマーでの山形浩生さんの見聞記も載っていますー。



日本は暑いそうで、ご愁傷様です。目下これを書いているミャンマーは、いまは朝から昼過ぎまで雨が降り続き、結構涼しいのだ。もちろん例によって開発援助の仕事できていて、今回は電力がテーマだけれど、長期的にはこの国をどう発展させようかという話ではある。

ということで、話は前回の続きダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するか』早川書房)の下巻にうつる。といっても、下巻に入っても話はあまり変わらない。やっぱりこれを読んでぼくは、結局国が発展するのは偶然任せしかあり得ない、制度は大事ではあるのだけれど、その制度は結局のところ勝手に変わるのを待つしかない—という主張だとしか読めないのだ。本書の末尾の部分は、国の持続的発展に必要なものを以下のようにまとめる。

社会の幅広い階層が政治を変えるために行動を起こして協調するときのみであり、党派的理由や収奪的構造をより包括的構造へ変えようと するときだけである。そうしたプロセスが進んで権限移譲への門戸が開放され、最終的に持続可能な政治改革に到るかどうかは、これまで多種多様な例で見てきたとおり、政治/経済の歴史と、関わりのある多数の小さな相違と、偶然に大きく左右される歴史の成り行き次第なのである。(p.276)

歴史の成り行き次第、ですか。日本が発展したのも、たまたま中央集権がゆるくて、外様の薩摩とか長州とか有力なライバルがいて、それが将軍に対する対抗勢力を作れたからにすぎないんだって。歴史も、偶然も、ぼくたちにはどうしようもないものだ。するとこれは、要するにどうしようもありませんよ、という主張でしかない。著者たちは、これは歴史決定論ではないというんだけれど(偶然が作用するから、だって)、ぼくに言わせればこれは立派な歴史決定論なんだが。

国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源(下)

国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源

さらにこの書き方だと、たとえば「アラブの春」みたいな動きは、著者らの主張とマッチしているように見える。実は本書の上巻もまさにエジプトの民衆蜂起の話から始まっているほど。すると著者たちは、あの動きには希望を持っているんだろうか?

ところがそうでもなさそうだ。実はちょうど執筆中に、エジプトがまた荒れていた。これに対して著者たちは本書のサポートブログで「だからまあちょっとてっぺんをすげかえたくらいじゃ何も変わらないよねー。エジプトもこの先長いよ」といった話を言うだけ。

でも、それって何も言っていないに等しいでしょう。それしか言えないなら、この本は結局実用性がないってことじゃないだろうか。せめて、エジプトが今後成功するための条件とか、バカみたいにあの広場で騒ぐだけの連中に何らかの示唆を与えるとか、あるいは著者の1人アセモグルの故郷トルコの動きをどう見るの か、そういった話が抽象的であっても出てこないと……。

そしてその意味で、やっぱり悲観的ってことになるんじゃないか。この点の質問について、アセモグルは「いや日本みたいな成功例もあるじゃないですか」と言うんだが、日本の成功も単に歴史の偶然によるものだと本書で言ってますよね?

そしてもしそうなら、ぼくがこのミャンマーで今やっていることも、あまり意味はないことになる。ぼくは基本的には、途上国に発展の仕方を教えにきている。でも、本書の主張では、途上国が成長しないのは無知のせいではないという。充分わかっているんだって。政治エリートの思惑で制度的にそれが活用できないだけなんだって。でも、実際にはそうは思えない。知識のギャップは明らかにあるし、政治エリートにとっても望ましいはずの知識も必ずしも充分ではない。本書 の主張は、かなりざっくりとしていて、どのレベルの議論をしているのかをもう少し明確にすべきだと思うんだが?

と思っていたところで気を取り直して読んだのが、川上桃子『圧縮された産業発展』(名 古屋大学出版局)。副題は「台湾ノートパソコン企業の成長メカニズム」だ。いやあ、これはおもしろかった。いまや台湾は世界のハイテク中心の1つで、ノー トパソコンの一大拠点だ。エイサー/エイスース(本書は、ASUSの読み方論争以前に書かれたようでアスースになっている)をはじめ、いまやブランドとなったメーカーも多い。かつては単なる下請け組み立て国だったのが、ぐんぐん力をつけて世界有数の地位を占める。ところがかつて台湾企業を下請けに使っていた日本企業は、世界を制覇していた東芝のラップトップを始めかつては世界に冠たる存在だったのが、いまや見る影もない。なぜそれが起きたの?

圧縮された産業発展―台湾ノートパソコン企業の成長メカニズム―

圧縮された産業発展-台湾ノートパソコン企業の成長メカニズム-

著者はこれを、たんねんなインタビューとデータをもとにまとめる。話は簡単。下請けの過程で、いろいろなメーカーから仕事を受ける中でそのノウハウを吸収したから。同時に、インテルがラップトップ向けチップセットを完備させたことから、日本メーカーが独自性を出せる部分がどんどん減ってきた。台湾企業は、日本企業やアメリカ企業から吸収したノウハウを使い、インテルチップセットにあわせた新しい製品を自ら開発し、逆に日本企業に提案できるようになった—ということ。でももちろん、それは自然に起こったわけではない。台湾企業がまずは日本企業の要求に応えるべく、粗雑なラジオの組み立て屋から必死の努力をして情報優位を確立した。そして中国の製造業への門戸開放も即座に利用し、注文に応えられるようにしていった。

ここにはもちろん、歴史的な背景があり(ラジオ組み立てに経験があったとか)、歴史的な偶然もあり(中国の門戸開放とか)、インテルのチップ戦略など予想外の要因もある。アセモグル&ロビンソンなら「歴史と偶然」で片付けそうだ。でも、歴史だけで決まったというわけではない。そこには台湾の産業人たちの意志があり、それが歴史を活用していったプロセスがある。産業の発展、ひいては国の経済の発展について、『国家はなぜ衰退するか』よりはるかに示唆的じゃないかな。

もう少し知りたいのは、国の産業政策(ハイテク団地みたいなのを台湾はいくつか作ったでしょう)がどう作用したか、という点だけれど、これはまあないものねだりか。本書の知見なら、このミャンマーにも充分使えそうだ。下請けに甘んじている国はたくさんあるけれど、それがどのように主導権を取って下克上を実現するか? この通りやればいいってもんじゃない(というか個別性がありすぎて無理)。でも示唆は充分に得られるし、特に外国からの直接投資や下請けをどう利用して発展するか、という戦略性が重要なんだというのはよくわかる。

読み物というよりは少し固い研究なんだが(お値段も4800円と、薄いのに高い)、研究としても実にきっちりしている。特に日本の結論でありがちなのが、研究の前提と手法と結論がごっちゃになってしまって、とりあえずぐちゃぐちゃまとめて結論はなにやらとってつけたようなものが降ってくる、というパターン。本書はそういうところがみじんもなく、実に明解。先行研究の整理とその不足点の指摘もきっちり行われており、ポイントの裏付けも危なげない。ちゃんとした研究とはこうありたいもの。いろんな意味で多くの人が読むべき本だと思うので、本コーナーを読んでいるみなさんも是非どうぞ。ちなみに、もっと詳しい内容レビューはこちらのブログに書いたのでご参照あれ。

ところで、前回、アンコー ルワットは昔はけばけばしく彩色されていたんじゃないか、という話を書いたけれど、やっぱり本当にそうだったみたい。13世紀末、ちょうどアンコールワット前世紀のカンボジアに出かけた中国人商人の記録があって、それによれば少なくともアンコール・トムのバイヨン寺院の塔のうち、真ん中のものは金ピカだっ たとのこと。周達観『真臘風土記』平凡社東洋文庫)がその旅行記で、建物もさることながら、それを作った当時のクメール人たちの活力、創造性なんかにしきりに感心しているのが印象的。かなり短いので食い足りないけれど、国の発展とか活力とか、考えさせられること多し。

ちなみにいまいるミャンマーでも、お寺は金ピカのストゥーパ(日本では五重塔とかになったものの原型で、お釈迦さんなどの聖遺物をおさめているとされる)が中心。その塔のまわりにある建物に、日本的な感覚からするとケバい、白くてニンマリ笑った仏像がたくさん安置されている。アンコールワットもそんな美学でできていたんじゃないだろうか。

その仏像の後光の部分は、最近はLEDを使って極彩色にピカピカ発光させるのが東南アジアでは流行なんだが、世界七不思議の一つとされた、ヤンゴンの巨大なシェンダゴンパゴダの仏像もそれだらけ。

シェンダゴンパゴダで、LED後光つき仏像

日本的なセンスからすればけばけばしいし、安っぽいような印象がある一方で、これはここの人たちが仏教を、単に古いからというだけでありがたがっているのではないという証拠でもあると思うのだ。仏像にハイテクを使ってなぜ悪い? 仏像自体はもちろん仏なんかではない。ただの象徴だ。テレビのようにそれを通じて何かを見るものだ。テレビを変えるように仏像も変えてよいのでは? なんかこういうのをきっかけにミャンマー発の仏像イノベーションの波とかが起こっ たりしないもんかとも思うんだが、まあそれはないか。