Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

建築ビエンナーレ・ブラジリア・マヤコフスキー

ヴェネチア建築ビエンナーレから帰国されたばかりの山形浩生さんによる「新・山形月報!」。今回取り上げる本は、中岡義介、川西尋子『首都ブラジリア』鹿島出版会)、菊地原洋平『パラケルススと魔術的ルネサンス』勁草書房)、ゴードン・M・シェファード『美味しさの脳科学』(インターシフト)、ジェフ・ポッター『Cooking for Geeks』オライリー・ジャパン)、Nathan Myhrvoldほか『Modernist Cuisine』(Cooking Lab)、ヴラジーミル・マヤコフスキー『ズボンをはいた雲』(土曜社)、小笠原豊樹『マヤコフスキー事件』河出書房新社)などですよ!



こんにちは。数日前にイタリアのヴェネチアから戻ってきたばかりで、まだ時差ぼけが抜けません。実はぼくは2014年ヴェネチア建築ビエンナーレ日本館の、エグゼキュティブ・アドバイザーというご大層な肩書きをもらっているのだけれど、この建築ビエンナーレが6月頭にオープンだったもので、前回の記事を書いた直後からヴェネチアにでかけて、いろいろ展示の準備とか、オープニングのイベント仕切りとかをやっておりました。もっとも、ぼくは肩書きにも関わら ず、ほとんど何もしなかったので大変心苦しい限り。ちなみに日本館というのは、こんな感じ。

ヴェネツィアビエンナーレ日本館

 

多くの方は、ヴェネチアの建築ビエンナーレなんてあまり興味がないかもしれない。ビエンナーレはイタリア語で2年に1度の意味で、アートビエンナーレと交互に行われているのだ。そしてこれまでは各国を代表するスター建築家を選んでその作品展や新作展みたいなものが展開されていたのだけれど、これではアートビエンナーレと同じだ!と今年の総親分レム・コールハースが一念発起して、自国の過去100年のモダニズムをふり返るという共通テーマを各国に与えて、そ れにそってみんな展示を考えた。

あまり詳しい話をしても、関心のない人多いだろうけれど、日本館では、そういう近代の見直しみたいなネタは1970年代に結構やられているし、その当時から出てきたおもしろい建築的な試みをごちゃっと集めて、お蔵出しの倉みたいなのをやろうというコンセプトを、歴史工学が専門である早稲田大学中谷礼仁教授を中心にやっていた。結果は以下の写真。

2014年ヴェネツィア建築ビエンナーレ日本館内部。全景

2014年ヴェネツィア建築ビエンナーレ日本館内部。写真中央は安藤忠雄「住吉の家」コンクリ模型

2014年ヴェネツィア建築ビエンナーレ日本館内部。写真中央は分離派の天文台かなにかの石膏模型

2014年の11月末までやっているので、イタリア方面にお出かけで、少し建築なんかに興味がある方は、ちょっとごらんあれ。グランプリは取れなかったけれど(グランプリはお隣の韓国館が取りましたが、正直いって北朝鮮をかなり大きく出した時事性だけで取ったように思う)、個人的には日本館はいちばんおもしろいし、楽しい館だったのではないかと思っているのだけど。

で、そんな建築展にいたこともあって、少し都市建築がらみの話。今回も、モダニズムという問題を提起するにあたり、コールハースはそれがいろんなところに画一性をもたらして世界をつまらなくしてるんじゃないか、という問題意識を匂わせていた。どこへいっても、似たような団地とオフィスビルばかり。そしてモダニズムの根拠になっている合理主義は、非人間的なものだとケチをつけられることが多い。モダニズムで合理的に作られた団地はすぐに無機質だの自殺が多いだの、果ては殺人鬼を生み出すだのと言われるし、合理的な都市計画に基づいて作られたつくば学園都市も、さんざん悪口を言われてきた。

世界的にみても似たようなもので、合理的な都市計画の最大の例として挙げられるのが、計画都市のブラジリアだ。いまワールドカップをやっているので、たぶんこれをブラジリアで読んでいる人もいるんじゃないかな(ブラジリアでは試合はあるんだっけ?編注:あります!)。人工的な都市計画に従って作られたこの都市は、非人間的だの人々の生活実感に合わないだの、単純化されすぎているだの、したがって荒廃しているの不気味だのとさんざんに悪口を言われてきた。実は建築ビエンナーレのブラジル館ですら、自分たちのモダニズム的な試みのしんがりとしてドーンとブラジリアを提示し、それが持つアンビバレントな意義をなんとなく漂わせることで展示を成立させていた。

ところが、帰ってきて本屋をのぞいたら並んでいたのが、「モデルニズモ都市の誕生」の副題を持つ、中岡義介&川西尋子『首都ブラジリア』鹿島出版会)。実はブラジリア、行ってみるとそんな殺風景な非人間的都市ではないんだって。豊かでかなり気持ちのいい空間ができている。その計画だって、一般に誤解されているほど単純なものではないそうな。完璧ではないけれど、決して捨てたものではないし、むしろ優れた都市計画と空間設計になっているそうな。そうなんですか!!!

この本、写真は多いけれど、もちろん観光ガイドではなくちゃんとした研究書。その構想、建設、発展の歴史を詳しくたどり、むしろモダニズム都市の傑作としてブラジリアを見直し、不当に(反近代的イデオロギーにより)貶められているこの都市を再評価しようという立派な試み。そうだったんですか!!

いやあ、自分が都市計画畑の出で、各種人工都市の欠点と失敗についてはよく知っているつもりだったので、こういう本には本当に衝撃を受けます。これを読んでビエンナーレに臨んでいればなぁ。建築ビエンナーレのブラジル館でも、この人たちを呼んで少し話をさせればおもしろいと思う。ちなみに、ブラジル館のコミッショナーは、実は駐日ブラジル大使なんだよね。

さて、前回紹介した山本義隆『世界の見方の転換』みすず書房)は、まさにそのモダニズムに到る道の出発点を描いた本だったけれど、その中に出てきたのがパラケルスス。といっても、あの本ではちょい役で、医学を志す人々に対し、古い権威にすがるな、ガレノスの引用で満足してはいけない、ちゃんと自分で考え、自分で確かめるのが大事なんだ、というアジ演説が引用されていただけ。そのパラケルススについての本が出ていたので、ちょっと読んで見た。菊地原洋平『パラケルススと魔術的ルネサンス』勁草書房)。で、確かに少しはおもしろいんだけど、うーん。

パラケルススは16世紀の人で、だから現代の価値観から「変なこと言ってる」とか「相対性理論を知らない」とか行って見下してはいけません、という立場はわかる。でも本書って、パラケルススの主張をざっと紹介するだけで、確かにかれが独自の考え方を持っていたのはわかるんだけど、なぜそういう考え方になったのか、それをいま知るとどういう意義があるのか、というのが全然書かれていない。パラケルススは、四元素に基づく世界観を持っていたとか3原基に基づく自然観を持っていたとかいう。で? なぜ彼はそんなことを思ったの? 本書ではそれがさっぱりわからないのだ。

実はパラケルスス自身の本を読んでも、そこらへんはよくわからない。当時の本パラケルススやその他の錬金術や魔術の本など—を読むと、「世の中って実は4つの元素でできていて、そうでないと言うやつはバカで無知だから、そんなやつはこっちくんな」と書いてあるだけで、なぜそうなのか説明がない。

ちなみに最近、パラケルススの本がいろいろ邦訳されているけれど、それがすべて、ホメオパシーがらみの変な出版社から出ていて、パラケルススにこそホメオパシーの真理が含まれており云々という頭痛のする能書きがついているのだ。ホメオパシーというのはインチキな民間療法の一つ。あまり読者にそっちのほうに行って欲しくないので書名とかは割愛するけれど、まあ検索一発で出てきます。変な本が出てくれるのは、嬉しいといえば嬉しいんだけどさ。

確かに、パラケルススの発想は風変わりで、おもしろいといえばおもしろい。万物の中にひそむ本質たるアルカンが重視され……とかなんとかいうのはマンガや映画のネタには使えそうだ。でもずっとそれだと飽きる。やっぱ現代との連結—またはその不在—と、その現代的な意味ってもんはある程度は、必要じゃないかとは思う。そうでないと、いま行われているみたいにホメオパシーの教祖に祭り上げられたりするだけで、かえって歪んだ形の受容につながってよくないんじゃないかなあ、とぼくは思うけど……。

ちょっと今回は、ビエンナーレがらみであまりにバタバタしていたため、まともに読めたのはこんなくらい。で、まだ読みかけなんだけれど、紹介しておきたいのが、ゴードン・M・シェファード『美味しさの脳科学』(インターシフト)なる本。

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている

まさに題名通りの本なんだけれど、必ずしも味覚の本ではなく、むしろ嗅覚についての本。それもクンクン嗅ぐ嗅覚よりは、口の中から鼻に立ち上ってくる匂い。よくフグを食うときや利き酒をするとき、鼻に抜ける香りが云々という言い方をするけど、あれ。それを知覚する受容体の研究から始まり、実はそうした嗅覚の点で人間はイヌにも勝る能力を持っているという意外な説明から、だんだん味覚との関係、色彩との関係といった方面に話が進んで、さらにはそれが人類進化にどう影響を与えたかという話に入り込みつつあるところだけれど、ちょっと時間切れ。でも非常におもしろいので、料理に関心ある人は是非ともお読みくだ さい。特に科学的クッキングみたいな分野に興味がある人は是非どうぞ。

ちなみにそうした分野の本としては、ジェフ・ポッター『Cooking for Geeks』オライリー・ジャパン)がお奨め。料理の理屈はよくわかります。いまいち視覚面が薄いんだけれど……。視覚的な説明がほしければ、実はもとマイクロソフト重役が料理に入れ込んで作った化け物本である、 Nathan Myhrvoldほか『Modernist Cuisine』(Cooking Lab)がすごくて、とにかく調理中のあらゆるものを真っ二つに切って、料理されているときの中がどうなっているのか、何故こうするとうまくなるのかを、 科学的、理論的、視覚的にも説明している。ただ、なんせ全5巻の長大な代物で、ちょっと一般人はひるんでしまう。家庭向けの『Modernist Cuisine at Home』も出ているけれどこれも1万5千円以上するし。料理といえば、イタリアにいる間、夜中までみんな仕事をしていたので、食事の8割が出前ピザで、せっかくイタリアにきたのに飯が……まあいいや。

最後は詩集を。ヴラジーミル・マヤコフスキー『ズボンをはいた雲』(土曜社)。マヤコフスキー22歳のときの詩だけれど、若気のいたりと自信と性欲と傲慢さと虚勢と、恋と自負と全能感と希望がとにかく全開ですばらしい。そのマヤコフスキーの成れの果ては、本書の訳者である小笠原豊樹『マヤコフスキー事件』河出書房新社)が詳しい。そうした悲しい末路を知ることで、本書の味わいが深まる面もあるけれど、一方でそうした予備知識一切なしに、ある時代にある天才的な才能を持つ若者が抱いた解放感をストレートに味わえるほうが、幸せなのかもしれない、という気もする。マヤコフスキーが何者か知らない人ほどお読みなさいな。

それにしても、久々に時差のあるところに行ったので、時差ぼけがなかなかなおらない。次回までには回復していると思うけれど……。