Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

コペルニクス・占星術・レオニドフ

今回の「新・山形月報!」は、山本義隆『世界の見方の転換』みすず書房)、本田晃子『天体建築論』東京大学出版会)の2冊を集中的に論じます。他にディヤン・スジック『巨大建築という欲望』紀伊國屋書店)、アンドレイ・シニャフスキー『ソヴィエト文明の基礎』みすず書房)、ミハイル・ブルガーコフ『犬の心臓』河出書房新社)や『巨匠とマルガリータ』河出書房新社群像社ほか)への言及も。じっくりお読みください。



お久しぶりです。カンボジアからこんにちは。今回はすでにいろいろ出した予告を片付けていきましょう。というわけで、まずは山本義隆『世界の見方の転換』みすず書房)の2巻3巻から。

そうそう、まず書いておくと、このシリーズ—『重力と磁力の発見』『十六世紀文化革命』と本書— はどれも三巻本で、しかもその3冊とも分厚いのでびびってしまうけれど、特に今回の『世界の見方の転換』では索引や参考文献が膨大にあるし、各巻には主要議論に関する幾何学的な説明が補遺として数十ページにわたりついている。だから、本文は見かけの厚みの3分の2くらい。思ったよりはやく読めるので、あまり物怖じせずに手に取ってほしい。

で、第1巻は千年以上も天文学を支配してきたプトレマイオスのモデルが、ドグマチックでいい加減な代物と思われているけれど実はそうではなく、データに基づいて自然を 解析しようという精一杯の努力の結果なのだ、としたうえで、それでもそのモデルへの疑問が噴出してきたところまでだった。今回はそれに続き、第2巻コペルニクスの話となる。

世界の見方の転換 2 ―― 地動説の提唱と宇宙論の相克

世界の見方の転換 2 — 地動説の提唱と宇宙論の相克

コペルニクスはもちろん、「コペルニクス的転換」といわれるように、天動説から地動説への一大転換をなしとげたというのが一般的な評価なんだけれど、一方ではそれをあまり評価しない声もある。運動は相対的なので、天動説でも地動説でも、実はそれ自体としては大きな差ではない。またプトレマイオスらと比べて、コペルニクスのモデルは、そこまでしっかりした説明を行ったわけでもない。だから大したことないんじゃないの、というのが批判だ。これに対しよく聞かれるのは、プトレマイオスの天動説モデルがツギハギを重ねて収拾がつかなくなっており、コペルニクスの地動説モデルはずっとすっきりしたものになっていて、その後改良の見通しもあったというもの。でも実はこれはかなり眉唾。

本書は、そこらへんの論争をかなりていねいに追って、コペルニクスの主張で何が重要だったのか、その背景に何があったのかについて明らかにする。基本的にはそれは、地球というのが特別なものではなく、天体の一つなのだという認識にあった。もちろん、各種の惑星などが、軌道上の何もないところを中心にさらに円軌道を描いているという、非常に気持ち悪い(といまのぼくたちに思える)周転円を使わずにすむ、という利点もあった。

でも、それもデータ的な裏付けがなければ、信念上の問題になる。重要なのはやはり、地上の(卑しい)世界と、天の(神に属する不変の)世界とが完全に分かれていて、別の法則に属しているという発想を一変させ、すべてが同じ法則にしたがっているという見方を導入したことだったそうな。その意味で、前回に少し触れたアメリカの小説家ヴォルマンの見方は正しかったわけだ。一方で、コペルニクスはデータを必ずしもきちんと解析してはいない。自分に都合のいいデータを取捨選択したり、古い不正確なデータを恣意的に使ったりしていることもこの巻では指摘されている。

そして第3巻コペルニクスの見方を裏付ける大きな天文学的事件が起きる。彗星と新星の登場だ。それまで、天は神の領域で不変のはずだった。でも新しい星ができるというのはまちがいなく変化が起きているということだ。すると、天を特別扱いするのはまちがっているようだ。コペルニクスの見方のほうが正しいのではないか。しかも彗星の尾は常に太陽と逆方向を向いている。太陽が何か力を及ぼしているのでは? そうした認識の変化を背景に、登場したのがティコ・ブラーエとケプラーだった。これが第3巻の主人公二人となる。

ぼくには、このティコ・ブラーエの話が一番おもしろかった。ケプラーの伝記などを子供の頃に読むと、ティコ・ブラーエはケチな意地悪で、観測データをなかなかケプラーに渡さなかったエピソードでしか触れられていない。でもこの人は、貴族の出身ながらも実測データの重要性を確信し、各地の王様に取り入って、 自分の島をもらってそこに君臨し、ものすごいお金をかけて、従来とは比較にならない精度の測定機器を作らせた人物で、ケチかもしれないがただ者ではない。そして、意地悪だったかもしれないけれど、ケプラーを自分の後継者として指名するだけの見識はあった。さらに、意地悪の結果としていちばんたちの悪い火星のデータをまずケプラーに分析させたことが、円軌道から楕円軌道への切り替えを強制させた。

だけど、このデータをきちんと調べ、それをすべて説明できるように理論を考えるというプロセスには、従来の天文学や物理学とはまったくちがう考え方がある。従来の科学—または自然学— は、何らかの理念があって、データはその理念を裏付ける限りにおいて使うだけだった。そもそもデータなどというもの自体が卑しく、えらい学者様はそんなものを自分で計ったりはしないのが常だったのだ。でもティコ・ブラーエやケプラーはまずデータを重視し、そのデータを説明するために理念を変えた。そして、もちろんそのデータは、楕円軌道を円軌道と区別できるだけの精度が必要だ。16世紀の技術は、それを可能にするだけの水準に達していた。

が……ケプラーも実は、現代から見ればずいぶん変な考え方を持っていた。実はかれもまた、あらゆるものには根本的な原因がある—そして原因の原因の原因、という具合に遡っていくと、それは神様に到達するという信念を持っていた。ケプラーにとっては、あらゆる惑星を動かす力が何か一つの中心から発しているという絶対的な信念があった。だから太陽を中心にあらゆるものが楕円軌道を描くというモデルが、ケプラーには説得力を持っていた。ケプラーの、宇宙のいろんな惑星が正多面体の組み合わせとしてモデル化できるとか、宇宙が何やら音楽的に理解できるとかいう面妖な思想は、オカルト好きな人には有名だ。

しかし、そういうオカルトに通じる変な信念が、ケプラーの真に偉大な発見につながり、現代の科学につながる決定的な流れを生み出した。ちょうど、ニュートンが「万有引力」を考えるにあたり、魔術的な遠隔力を参照し、ギルバートが地球を磁石として考えたときに、地球がなにやら生きているという変な生気論を根拠にしていたように!

また第3巻で は、ケプラー占星術観が補遺についていておもしろいよ。当時の天文学者はすべて占星術師として糊口をしのいでいて、ケプラーも例外ではなかった。でもかれは、ふつうの意味での占星術なんか全然信じていなかったのだ。その一方で、占星術がなければ天文学をきちんと研究する費用も庇護も得られなかったことは熟知していて—そのあたりの複雑な気持ちが解説されていてついニヤニヤしてしまう。

長い長い本だし、読んで何か実用的な知識が得られるわけでもない。でも昔小学生時代に偉人伝で読んだ、天才が驚異的なひらめきや超人的な努力の結果、突然のブレークスルーを得て現代科学が成立したわけではない、というのがよくわかる。あらゆる社会、文化の結集として、コペルニクスケプラーの発見はある。

印刷術の発見、市民社会の発達と商人(帳簿の計算に伴う数学の進歩)や印刷術の発展、金属加工技術の発展など、様々な基盤があってそれが可能になったわけだ。たまたまケプラーがそこにいたわけではない(もちろんケプラーがいなければ、科学の発展は遅れただろうが)。ケプラーが中国にいたら中国で科学が開花した、というものではないのだ。科学が持つそうした必然、西洋文明との連続性をあらゆるレベルで感じさせてくれるところに、この本の醍醐味はある。本当は、本書に詳しく書かれた、プトレマイオスをはじめとする各種天体モデルの幾何学的な説明もきちんと手で追うべきなんだろうが、今回はちょっとそこまで手がまわっていない。実はニュートン方程式からケプラー法則を導くのも、やろうと思っていて大学からずっとやっていない……。

さて、前に取り上げると予告も出していた、「レオニドフとソ連邦の紙上建築時代」の副題を持つ、本田晃子『天体建築論』東京大学出版会)。レオニドフというのはスターリン時代に活躍した、というか活躍しそうだったのに活躍できなかった建築家だ。実作はほとんどないに等しく、ほぼすべて紙の上だけの設計となる。当初はロシアアヴァンギャルド的な流れを受けて、当時のラジオや映画といったメディアに敏感に反応し、なかなか先鋭的でおもしろい設計をしている。特に意味のない球が浮いていたりとかね。でも、社会主義初期には様々に許されていた建築の自由度が、スターリニズムの進捗に伴ってだんだん縮小されていくなかで、ソ連の建築業界からも窓際に追いやられるような扱いを受けて、不遇のうちに他界した。

天体建築論: レオニドフとソ連邦の紙上建築時代

天体建築論: レオニドフとソ連邦の紙上建築時代

この本は、そのレオニドフの作品を時系列的に見て、それがどんな背景で出てきたのか、何が表現されているのかを説明したものだ。そしてもちろん、それが受け入れられなかった理由を考えるには、当時何が受け入れられていたかを知る必要がある。本書はそれもしっかり説明してくれる。そして、それは非常におもしろい。レオニドフの建築が、ではない。そのアンチテーゼとして提示されている社会主義スターリニズムの建築、いや建築よりも、その背景となっている思想のほうが圧倒的におもしろいのだ。

スターリニズム建築は、無駄にでかくて無意味にギリシャ古典様式なんか入れたりするダサい建築という印象がある。そして、それは決してまちがいではない。ただ、その物理的な実体もさることながら、それが作られるプロセスがおもしろい。何かを作るのにコンペをさせて、でも優勝者はアナウンスせずにあれこれ講評だけ出して、今度はチームを作らせて設計をやりなおさせて— それはあるスター的な建築家の存在を否定して、その地位を貶め、無名化するプロセスなんだ、という指摘は実に見事だと思う。民族問題への対応やレーニン神格化、そしてレーニン崇拝を最早必要としないスターリンの時代と、それぞれの時代の政治的要求が、非常に細かく建築デザインにも入り込んでくるというのも 刺激的な話だ。そこには確実に、ある時代の光景が描き出されていて、読んでいて実にワクワクする部分。

ところが、一方のレオニドフについての説明は……あまりピンとこないのだ。著者は、レオニドフの作品に出てくる球やグリッド(格子)に深い意味を読み取ろうとする。確かに、そういう解釈はあり得るだろうけれど、絶対にそうなのか、と言われると別にそういう気もしない。そして、その解釈がときには強引だ。レオニドフはあるとき、黒地に白で図面を描いていた。著者はそれが、すべてを消し去り、新しいものをそこに投影しようとする意志のあらわれで、黒い背景は当時発展しつつあった先進メディアである映画のスクリーンやプラネタリウムの投影天球なんだ、と主張する。

でも……映画のスクリーンって白いんですけど。プラネタリウムの投影面も白じゃなかったっけ? その読み自体がちょっと変じゃありませんか? 黒川紀章は、学生時代に赤い紙に白インキで製図していたそうだけれど、それは単に気取り屋だったからだ。だからそういうのをあまり深読みするのはどうよ。レオニドフが当時発展しつつあった放送メディアや映像メディアを重視していたのは確かにわかる。でも、図面に登場する形態をいちいち深読みしてみせようとするのが、かえって裏目に出ているように思う。

正直言って、レオニドフってすごく有名ってわけでもないので、ぼくもいくつかは見覚えあるくらい。それを正面に据えて取り上げるなら、なぜレオニドフを問題にしなくてはならないのか、という観点が必要だと思う。別に何か後世にすごい影響を与えたわけでもない、かなり単発的な作家だ。作品としてすごい、迫力がある、というならその作品の図面をもっとたくさん見せてくれないと。それを検討することで、これまで思われていたソ連建築史の見方が変わる、というなら それを説明してくれないと。でも本書はレオニドフの作品を追うだけで終わってしまう。月面図をヒントに作品を作ったかもしれない、という話や、宇宙からの俯瞰じみた図面がどうした、なんて話はそれ自体としては面白い。でも、それ以上にはならない。「なるほどおもしろい人ではありますが、それがどうしましたか」という感じにとどまっているのが残念。

レオニドフ以外の不遇な建築家も何人か漁ってきて、そこからスターリン主義建築—そしてその他独裁者建築—の思想を追ってくれたりするとよかったかも。そういう本としてはディヤン・スジック『巨大建築という欲望』紀伊國屋書店)とかあって、なかなかおもしろいけれど、本書のアプローチを使うともっと深く掘り下げられそうに思うのだ。

アンドレイ・シニャフスキー『ソヴィエト文明の基礎』みすず書房)はそれに近いことをやっている。主に文学作品を通じて、ソヴィエト時代の文化と社会を律する考え方を描き出している本だ。必ずしも驚くべきことが描いてあるわけではない。ソヴィエト革命がある程度は宗教的な要素を持っていたこと、その司祭としてスターリンレーニンがいたこと—これはソ連だけではない。あらゆる社会主義は概ねそういう様相を示している。中国は未だにその呪縛から脱し切れていない。

またそれが新しい人を作りだそうとしたこと、出身階級で人の優劣をつけようとしたこと等々—それが文学作品で示される。この「新しい人」という、中流階級的な慎みや礼儀、遠慮などをすべて欠いた、下層階級出身の下劣で欲望に忠実なほとんど機械的な人間存在を示しているのは、しばらく前に再刊されたミハイル・ブルガーコフの大傑作『犬の心臓』河出書房新社)など。

そうそう、そのブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』(河 出書房新社、群像社ほか)について、官僚主義のはびこるスターリン時代のソ連をあざわらい、巨匠の原稿を救いだす「悪魔」という(通常は自由をあらわす善玉と思われている)存在が、実はスターリンのことだ、という本書の指摘は驚かされるけれど、言われてみると実に鋭い。

ただ、古い講義記録が元になっているなので、内容に今さらめいた部分はある。また当時の時代背景について必ずしも説明豊富ではないので、予備知識は必要。でも社会主義ソ連は人類史上で類を見ない異様な実験として、いろんな形で検討に値するものだと思うので、本書のような試みも重要じゃないかな。もっと早く出ていればなおよかったんだけれど……。

今回はいい加減長くなったのでこんなところで。まだまだ前に予告したまま消化し切れていないのが何冊かあるけれど、それはまたいずれ。帰国したらまたいろいろ仕入れなければいけない本もあるし……。