Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

マッカーシー遺作、護身術バリツ、財政金融政策

ずいぶん間が空いた山形月報ですが、今回は文学好きの間では話題ながらも難物と言われるコーマック・マッカーシー遺作2部作を中心に、ホームズの格闘術と、財政金融政策の話。文学にネタのような真面目な格闘術、さらには経済話といつもながらバラバラですが、さて、どんな話になるでしょうか!

 

 

ずいぶん間が開いた (一年以上かよ!)。いつもながら、採りあげるつもり満々の本が一冊あって、それをどう料理しようか考えるうちに、ずるずる先送りになってしまうというありがちな話ではあります。

で、今回扱うのは、それではない。

コーマック・マッカーシーの遺作となる2部作『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』だ。

通り過ぎゆく者

マッカーシー『通り過ぎゆく者

 

コーマック・マッカーシーは、現代にあって、本当の意味での文学を書けた数少ない作家の一人だ。そして、それは文学というものの意義が変わってきた現代では、決して容易なことではない。

村上龍はかつて (14歳のナントカ、だっけ)、文学というのは基本的には社会経済の近代化に直面した人間のジタバタを描くものだ、と看破していた。ヨーロッパ、ロシア、米国、日本などはそれに応じて、一時は優れた文学を生み出した。村上龍自身もその一人だろう。ラテンアメリカ文学も、そうした環境の中で生まれてきたものだ。近代化がある程度いきわたったところで、たぶん「未来はすでにきているけれど、平等に行き渡っていないだけだ」というウィリアム・ギブスンの言葉のように、その各種分布のでこぼこ (つまりは格差) が主要な課題となるけれど、そのぶんだけ一般性は下がる。やがてそれすら均されてくると、むしろ「問題」を見つけて/捏造して何かお話をこじつける、最近の多くの小説みたいなものになるんだろう。そこに到る頃にはもはや、風俗小説の類でしかないんだけれど。

それ以外の道として、20世紀の文学は何を書くかという問題と並行して、どう書くかという技法追求に向かい、だんだんタコツボ化していった (それがもたらした成果は否定しようがないけれど)。でも、そうでない方向性もあった。近代化、資本主義との葛藤よりもさらに大きな、この世界とは何なのか、人間とこの世界そのものとの関わりとは、という問題を本気で考えるような役割も文学にはあった。そして、それをずっとストレートに展開してきた一人が、コーマック・マッカーシーだ。その意味で、彼の小説は、ある種のアナクロさすら漂わせる。が、一方でそのアナクロさこそが、彼の小説の持つ力の源泉でもあるのだ。

その彼は、2006年の名作『ザ・ロード』以来ずっと沈黙を続けていた。それが2022年に、この2部作を発表し……そしてその翌年に他界した。

そして遺作となったこの2部作は、いささか変わった小説だ、と言わざるを得ない。たぶんいま述べた、この世界とは何か、人間と世界の関わりは、というのを本気で考えようとして、普通の文学的な営為を超えたところに行こうとしているからだ。彼はこの2部作で、数学/物理学的な世界をもとにした、世界と人間の関係を描こうとしているのだ。

 

ステラ・マリス

マッカーシー『ステラ・マリス

 

ステラ・マリス』は、天才数学者アリシアが、自ら望んで入った精神病院で、医師の問診を小馬鹿にしつつも、数学的な現世否定の世界観、一方で現世への絆となるがいまや事故で生死の境をさまよう兄への報われぬ愛を語る。

『通り過ぎゆく者』は、『ステラ・マリス』の物語のしばらく後に、その妹をめぐる自責に呪縛された兄が、墜落した飛行機のサルベージ作業をきっかけに政府に追われ、現世的なつながりを次第に絶たれる中、残された人々との絆をたどる放浪を通じて自分と世界との関係を思索しつつ、妹の呪縛に深くはまりこむ/脱出する物語となる。

さて、一般には (訳者も含め) この2部作のうち『通り過ぎゆく者』から読むのが常道のように紹介している。でも、ぼくは個人的にはそうは思わない。というのも『通り過ぎゆく者』はちょっと——いやかなり——わかりにくいからだ。

出版社による本書の営業コピーでは、墜落飛行機をめぐる謎の物語が主要なプロットとして紹介されている。サルベージダイバーである兄が調査した墜落飛行機は、ブラックボックスもない。さらに乗員一覧にいない人物が乗っていたらしい。それについて政府関係者を名乗る謎の男たちにつきまとわれるようになる一方で、その墜落自体も一切報道されない。

だがこの謎が解決されることはない。主人公が政府らしき存在に追われるのは、何かこの墜落や謎の人物と関係があるようなんだけれど、途中からそれらはまったく出てこなくなる。彼はかつては物理学を志していたが途中で脱落し、レーシングドライバーとなるが事故で引退、その後はダイバーとして生計を立てていた。その主人公が己の過去をたどりつつ、あちこちうろうろして人と妙に哲学的な問答を繰り返すのも、あまり必然性が感じられない。それどころかしばしばその場面がどこで、話し相手がだれなのかもわからなくなる。日本語の役割語のおかげで、話しているのが男か女か、若いか年寄りかくらいはわかるため、翻訳のほうが場面は把握しやすいくらいだ。なんだか変な幻覚の小人さんと話をしたりしはじめるが、それも一読しただけでは、どういう存在なのかよくわからない。そして、それ以上のストーリー展開はない。彼の小説はもともと内面描写がなく、厳しい風景の中を極度に濃縮された会話や行動だけで話が進む。本作はそれがさらに強まっている。たぶん多くの人は、一読して煙に巻かれたような気持になるだろう。

その意味では、姉妹編『ステラ・マリス』のほうがわかりやすいはずだ。『通り過ぎゆく者』と比べこちらは場所も話し相手もまったく変わらないので、話の中身に集中しやすい。精神病院で医師相手に語られる中身は、数学的な世界の成り立ちをめぐる各種数学者の思想、その背後のプラトン主義的なイデア/観念の世界、それを告げる幻覚の小人さんとの対話、そして兄との関係だ。

各種の数学観念——そしてそこから派生する厭世主義——は、もちろん極度に観念的なものだ。でもその現実との関わり (またはその不在) という主題は、各種の哲学小説や、SFのルディ・ラッカーとかバリントン・J・ベイリーとか、あるいはイーガンやテッド・チャンなどになじみのある人なら (さらにゲーデルがどうしたとか通俗的な数学話がある程度はわかっていれば) そんなに違和感はないと思う。

さらにストーリー的にも、『ステラ・マリス』のほうが時系列的に先にくる。そしてその最後が、『通り過ぎゆく者』冒頭の雪のシーンにそのままつながり、流れが少しわかりやすい (正直、二度目を読むまでこの冒頭の場面そのものがまったく意識に残らなかった)。そして、妹の兄に対する愛 (と兄による拒絶)  というテーマが意識しやすくなり、墜落機の行方不明の乗客というマクガフィンにあまり気をとられなくて住むようになる。幻覚の小人さんも、妹の抱いていた妄想が兄の世界に入り込んできているのだということがわかるので、そんなに戸惑うこともない。

で、これのどこに、世界とは何か、人間と世界の関係は、という問題があるのか?

それは読む人次第ではある。この兄と妹の父親は、かつて原爆製造と関連した研究に携わっていたという。それを重視する読み方もあるだろう (実際、ちょうどアカデミー賞を取った『オッペンハイマー』とあわせてそういう見方をする短評も見かけた)。

だが、ぼくはもう少し別の見方があると思う。それは、この遺作が2部作となっていること、そして兄と妹の、お互いに惹かれつつ結ばれない関係にポイントがある。

妹は数学的に世界を理解しようとする。その世界理解は、この世の物理的な実体を否定するものとなる。兄は物理学者として、この世の物理的な存在は否定できない。その一方で、現代の物理学がますます、妹の暮らす観念的な数学理論に支配されるようになっているのも充分承知している。

兄が物理学を捨てるのも、その違和感によるものだ。その後彼が就くのは、物理世界の実物に深く関わる仕事ばかり。だがそこに、次第に妹の世界の影が色濃くなる。謎の墜落サルベージをきっかけに、職場を追われ、パスポートが取り消され、銀行口座が凍結され、資産が差し押さえられる中、兄は次第に現実世界との関わりを希薄化させ、妹の幻覚小人までが彼の現実に入り込む。それは、数学的な世界観と物理学的な世界観との、相容れないようで依存し合う関係の表現でもあり、そしてそれらの世界観が持つある種の危うさを示すものでもある

でもその中で、二人がこの世界へのつながりとしてすがったのは、人間関係ではあった。妹は兄との関係、兄は、妹とその他多くの過去につながりのあった人々との関係。それは、無慈悲で人間など意に介さない世界の中の人間という、マッカーシーのこれまでのテーマの継続でもある。世界にいくら翻弄されても残る、人の心と絆と思いがある。こう書くと本当にやすっぽくなってしまうのだけれど、そこにこそ人間の最後のよすががあるのだ。

世界とは何か、世界と人間との関わりは——かつては神学や哲学がそれに応えようとしていた、とぼくが今手すさびで訳しているアーサー・ラヴジョイ『大いなる存在の連鎖』は1940年頃に述べている。それが20世紀の最初あたりに、神学が脱落し、哲学もその役目を放棄して、いまやその任は科学——特に数学と物理学に委ねられてしまった、と。それが当時の認識だった。

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でもいまや、その数学と物理学も、世界の完全な記述や万物理論だの究極素粒子だのといった遠大な目標を本気では考えていないようだ。ぼくが大学生くらいの頃は、クォークと四つの力と統一場理論で、この物理世界のすべてが説明できるんじゃないかといった説明が、通俗解説書レベルでは一般的だった。それがだんだんややこしくなり、超ひも理論だのM理論だのは、何やら11次元の亀の子だわしのお化けのような代物と化し、それでもまだケリがつかない。それは、世界/宇宙は人間の美意識などおかまいなしに存在する、という実例でもあるのだけれど。では結局、人は世界のなんたるか、そしてその世界との関わりをどう考えればいいのか? 答はもちろん出るはずがないのはわかっている。が、それにどう取り組めばいいのだろうか?

 

(その後一ヶ月ほどしてからの加筆。まったくの余談になるが、この妹=数学的観念的/異世界的世界観、兄=物理学的現世的世界観という対立と相互関係というのは、このラヴジョイ本で言われている、プラトン以来西洋哲学を捕らえてきた二つの世界観をなぞるものでもある。完璧な他に何も必要としない神様 (異世界) と、現世の不完全でダメな各種存在を作らずにはいられない神様 (この世性)。この両者は、どっちも同じ神様に基づいているはずで、どちらも相互に依存していてずーっと、何とか両立させようと学者どもが必死の努力と詭弁を重ねてきたけれど、最終的には相容れることがあり得ない。この二部作は、ある意味でそれを引きずったものでもある)

 

ザ・ロード』の後の長い沈黙期間に、マッカーシーはあの複雑系研究などで有名な、サンタフェ研究所にフェローとして在席していた。本書の数学理論や素粒子理論の話は、その成果ではあるのだろう。それにもともと、物理系を志していたが挫折して作家に転身したそうだし、決してこの分野に暗いわけでもなかったらしい。そして、それを自分の小説世界に取り込んで、「世界とは何か」という思索に正面切って取り込んで自分のテーマを拡大しようとしたのはすごい。かつてトマス・ピンチョンが「エントロピー」や『重力の虹』で理系作家と言われたときには、彼がこうした物理学や数学的な世界観を含めた文学的な世界を切り拓いてくれるのでは、という期待があった。そのピンチョンがもはやローカル作家に堕す一方で、そんな試みとはまったく縁遠い印象すらあったマッカーシーが、90歳近くになってここまで野心的に取り組んでみせるとは! 

その一方で……

万人に勧められる小説ではない。つらい小説だとさえいえる。まだ材料を並べただけ、という感じは否めない。数学理論や物理学理論はあまりにむき出しだ。数学や物理学の世界観を、もっとうまく小説の中に取り込むこともできたんじゃないか、とは思う。最後も、単に泣いておしまいかぁ……

その一方で、マッカーシー自身も自分の寿命を悟っていたのだろう。未消化でも、とにかくまとめておかねば、と思ったのかも知れない。あと5年あったら、もう一段まとまった作品もあり得たかも……とはいえ、それは無い物ねだりだ。

同じマッカーシーでも、初めて読むなら、『ザ・ロード』や『すべての美しい馬』のほうがいいだろう。でも、主要作品を読み終わったら、本書を読んでマッカーシーがどこへ向かおうとしていたのかを考えて見るのも一興。それはひょっとしたら劉慈欣『三体』シリーズみたいなものになった可能性も……いやそれはないか。そしてもちろん、本書はこんな読み方以外にもいろんな解釈があるはず。他の人は本書をどう受け止めるんだろうか (と書いたけど、この本をまともに書評できそうな人って、ほかに数えるほどしか思い浮かばないんだよなー。円城塔藤井太洋なら、本書をどう読むだろうか?)

 

 お次の本は、そんな遠大な文学とは全然関係ない本。シャーロック・ホームズのファンならご存じの——というかホームズのファンしかご存じないと言うべきか——格闘術バリツの公式解説書、バートン=ライト『シャーロック・ホームズの護身術バリツ』だ。

シャーロック・ホームズの護身術バリツバートン=ライト『シャーロック・ホームズの護身術バリツ

 

ホームズが、宿敵モリアーティ教授と対決するライヘンバッハの滝で、もともとは相打ちにしてホームズを打ち止めにしようと思っていたコナン・ドイルだが、その後読者の要望に負けてホームズを復活させるにあたり、「日本の護身術バリツでモリアーティを投げ飛ばした」という苦しい説明をくっつけた。本書はそれを本気で解説した本 (というか雑誌記事集) の翻訳となっている。

いやあ、あんなのドイルが思いつきで書いただけで、そんなものがホントにあるわけないじゃん、と最初はあくまでホームズファンのネタ本だろうと思っていた。いやそれ以前に、最初はありがちなインチキ本で訳者がねつ造したんじゃないかとさえ思った。でも、もとになった雑誌記事はちゃんと実在するようだ。恐れいりました。そしてその記事をかつて書いた、バートン=ライトも実在し、本当に日本の柔道を学んでそれを応用した独自武術を開発していたとのこと。うひょー。そのあたりの事情は、監修者の解説にとても詳しい。

この拍子にあるイラストを含め、杖を使った戦いだのスーツを着ての対決方法だの、英国紳士の護身術として、マジですか、という感じだが本当に大真面目で書かれている。本当にこんなので護身ができるのかはわかりませんが、ビジュアル的におもしろいし、ネタとして読むもよし、本気で練習してみるもよし。

ちなみに、この手のネタが大好きなマシュー・ヴォーンの映画『キングズマン』の冒頭パブでの戦いにも、このバリツ/バーティツが採り入れられているとか (いや本当ですかね)。一読しておくと、ホームズだけでなく、こんな映画を見るときの味わいも深まる、かもしれませんぞ。

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さて、最後は飯田泰之財政・金融政策の転換点-日本経済の再生プラン』 (中公新書 2784)だ。

財政・金融政策の転換点-日本経済の再生プラン (中公新書 2784)

飯田泰之財政・金融政策の転換点-日本経済の再生プラン』

 

……と書きかけているうちに、日本銀行がYCCをやめ (というか幅を広げ) るにとどまらず、マイナス金利を解除して、本当に金融政策の実質的な転換に着手してしまった。が、本書で述べている「転換点」とはそういうことではない。いま、日本の経済が決して悪くはない状況にあり、いろんな部分であと一歩ではある。あと一押しで日本経済を停滞させてきたデフレを脱し、やっと失われた数十年を脱出できそうな希望が出てきた。そういう意味での転換点だ。そこで、確実にいいほうに転換させるにはどうしたら良いのか? 本書は財政、金融の両面でそれを検討した本となる。

本書のいいところは、財政政策と金融政策の基礎からきちんと教えてくれることだ。多くのネット論者 (いやマスコミに識者と称して出てくるあちこち企業子飼いの経済評論家も) は、そもそも財政金融政策の中身や、それをめぐる主流理論なんか知らない。本書はそのレベルから、簡潔に教えてくれる。

そして本書はフェアだ。財政破綻論だのハイパーインフレ、子孫にツケを残すな、といった主張はよく耳にする。ぼくも含め多くの論者は、ついそういうのをバカにして一周一蹴してしまいがちだ。でも本書はそれをいちがいに否定せず、そこにある理と適用条件をていねいに説明する。一方で、リフレ派にありがちな、日銀と政府を統合政府で扱えば国の借金なんか消えるから無問題、といった乱暴な議論も諫める。日銀の政策についても、YCCの幅の拡大の背景を説明してくれるし、また本書が出てから起きたマイナス金利解除についても、本書を読めば意味合いはわかる。

そして本書の基本的な結論は、財政と金融が変な独立性のポーズにこだわらず、協調性を持って政策運営しなければならないというものだ。そしていま日本経済が転換するためには、あと一歩、財政と金融の両方が大きな一押しをしなくてはならない。そしてそれにより、本書は今後の日本が目指すべき高圧経済について述べる。需要を高め、失業が消えて賃金が上がるだけでは足りない。人が積極的に転職することで、経済や産業全体の構造まで変わる状況を作ろう! 過去の停滞がもたらした安定が息詰まっている現在、新しい仕組みを作り上げよう!

本書の枠組みから考えて、植田日銀の方針は決してこうしたよいほうの転換に資するものではなく、むしろ逆行するもの。ちょっとよくなったらすぐブレーキを踏み、いつまでも本当の転換点を迎えられないという日本経済に対するこれまでに批判を、むしろ裏付けるものとなってしまっている。日本経済が少し調子よさげだとはいえ、そこまで強気に出るほどではなく、むしろここは慎重になってほしかったところではあるんだが……財政と金融が協調しろというのも、協調して引き締めろなんて話ではないんだがなあ。

 

といったあたりで今回はおしまい。他にもあるけど、あれこれ入れるとまた遅れる一方だ。書きかけだったレビューも、たぶん近々まとまるんじゃないかとは思う。ではまた!

 

九龍城塞・スマートシティ・民主主義

復活も一時の思いつきかと言われていた「新・山形月報!」、さすがに2回目くらいは続く模様。今回は香港の魔窟と言われた九龍城砦をめぐる本とスマートシティ、さらにはプーチンの戦争と民主主義についてあれやこれや。さて、どんな話になるでしょうか!

 

以前は、毎年二、三回はでかけていた香港も、2019年からの逃亡犯引き渡し反対運動に端を発するデモの騒乱、さらにはその後のコロナで、もうまったく行かなく/行けなくなってしまった。最後に行ったのは2019年の末か……

そんな香港に、この4月あたりに久しぶりに行けそうなんだが、楽しみな一方で恐いような。2023年春のいまは、もう渡航制限は解除され、すでに完全に往き来できる状態になっているのだけれど (ただし入るときに抗原検査の結果は見せねばならない)、この数年でもう都市としての位置づけが完全に変わってしまった。かつては、香港というのはそれに隣接する深圳との対比で、制度がちがえば都市の形も雰囲気もここまでちがうのかという、民主主義対準専制政治の都市像の差というのを如実に示す場所だったけれど、いまやほぼ完全に中国本土に屈服させられてかつてのアイデンティティすら失ってしまい、その雰囲気まで変わってしまっているのでは……

 

その香港の中で、1997年の返還前にいつか行かないと、と思いつつ結局最後まで実物を見ずに終わってしまったのが、あの有名な九龍城砦。香港の啓徳空港近くにあった、コンクリートの塊とも言うべき異様な建物群だ。その中は昼も暗く、完全な治外法権で麻薬取引、売春、ギャング、その他ありとあらゆる違法活動が展開されていて、いったん入ったら出てこられない (迷子になって出てこられないか、あるいは切り刻まれて臓器販売に回されるとか) とか、いろんな伝説があった。

ぼくも1980年代末になんとなく噂には聞いていて、その頃ペヨトル工房から出た宮本隆治の写真集で「うわー」と思った。ちなみに、そのときに帯にあったウィリアム・ギブスンの販促コメントを電話で交渉したのはぼくでした (一行程度のコメントにお金なんかいらないから、出たらその写真集を五冊くらいよこせ、ということで交渉成立したはず)。当時大きく盛り上がっていたサイバーパンクの世界では、そうしたアウトロー集団のスラムじみた空間が非常に珍重されていたこともあり、ギブスンのコメントが求められたのもそういう文脈だ。そしてミーハーな貧乏旅行者として行こう行こうと思いつつ、ついにそのチャンスもなく……

九龍城砦
宮本隆司九龍城砦』リマスター版。
山形が交渉したギブスンの帯文句はこれではない。

いや、それはウソだな。もちろん空港がかつての恐怖の啓徳空港からいまの赤鱲角に移ってしまうと、近くを通ることさえなくなってしまったというのはある。でも、なんでもそうだけれど、いけなかった、というのはウソで、いかなかった、というのが正しい。

その理由の一つは、単純に何かおっかなそうだと思って尻込みしていたから。そしてもう一つは当時、写真を見て喜んではいたものの、ちゃんとその説明を読んでいなかったから。確かにすごいけれど、でも重慶マンションなど香港のいたるところにあるぐちゃっとした高層密集建築と、そんなにちがわないんじゃないかと思っていたのだ。九龍城砦の「城砦」というのは、単なるイメージでついたあだ名なんだと思っていた。

だが、九龍城砦は、本当に城砦/城塞だったのか! (そんなことも知らなかったのかバカめ、と言う人もいるだろう。はい、すみません) そしてここは、歴史的にも位置づけ的にも、香港のその他の部分とはまったくちがう。その歴史を、発端から取り壊し前夜まで解説したのが魯金『九龍城寨の歴史』(みすず書房) だ。

九龍城寨の歴史

魯金『九龍城寨の歴史』(みすず書房

このように、全くの認識不足で手に取ったぼくが当初期待していたのはその怪しい魔窟としてもてはやされるようになった時代の話だったのだけれど、それはあまり出ていない。博打場、ストリップ劇場、ポルノ小屋の発展経緯についてはちょっと出ているけれど。ポルノビデオがストリップ衰退の引き金だったんですねー。でもそこは最後のほうの、ほんの数ページになる。

むしろこの本は、本当に九龍という名前の発端から始まる、もっと長い歴史の話だ。かつて香港がいまほど埋め立てられていない頃には、ここは監視台であり砲台として使われていた。まさに海を見下ろす絶好の立地だったからだ。そしてここにはずっと中国の官吏も駐在していて、この地域における一つの拠点だった。その後、香港がイギリスに租借されるときにも、その戦略的な立地のためにここだけは租借対象外として、中国の一部ということになり続けた。

つまり、中国の中の、香港という治外法権的な場所の中の、さらに治外法権という変な場所が、この九龍城塞だった。治外法権入れ子構造! そしてそれはこの場所が持つ軍事的な位置づけによるものだった。

だからここが無法地帯になったのは、成り行きでギャングが縄張りを作って警察が怖がって手を出さなかった、という話ではない。そうなった歴史的、制度的な理由があった。だからこそ、本土からの逃亡者がここに逃げ込めば、イギリス配下の香港政庁は手が出せないという状況になっていた。このために違法滞在者の集まりと化し、犯罪の巣窟となった。そしてそうなる以前の植民地列強の白人たちですら、自分たちの支配地では禁止されている決闘や博打をやりにここにきていた、といったエピソードは、いまとなっては微笑ましいというべきか。

全体としては写真や図なども限られ、淡々とした歴史書で、書き方も地味。だが、九龍城砦の写真集などを見て、一見さん以上の興味を持っていた人々は、一読して損はない。あの変な固まりにこめられた歴史、制度の重なりなどが如実に感じられると思う。

ちなみにみんなおどろおどろしいイメージで印象づけようとするけれど、実際にはここも普通の生活の場ではあった。そこらへんに関してはジラード/ランボット『九龍城探訪』(イーストプレス) や九龍城探検隊 『大図解九龍城』(岩波書店) を見るとわかるだろうか。

九龍城探訪
ジラード/ランボット『九龍城探訪』(イーストプレス) 。これも原題は「City of Darkness」で、おどろな雰囲気で売りつつ、中を見ると結構ふつうに一般生活している感じが出ていて、コントラストがおもしろい。

もはやここも取り壊されて公園になってしまっているのだけれど、こうしてかつてあった変な場所を回想するという行いが、いまや香港そのものにも次第にあてはまりそうな雰囲気になりつつあるのは、歴史の皮肉なのか必然なのか。

 

さて都市の話といえば、しばらく前までは何かとスマートシティというのがもてはやされていた。日本もインフラ輸出の目玉の一つとしてスマートシティをやたらに挙げていた。ただ、正直いって具体的に何をしたいのか、というとまったくピンとこなかったように思う。実際に日本の先進事例と称するものを見学にいったときも、かなりやっていることがショボく思えた。その不満については、「スマートシティって結局何なのよ」(2018) に書いたことがある。

その一方で、一時はやっていた完全自動運転を通じてモビリティが完全にサービスと化して (MooSだっけ←ちがうわ、MaaSだ)、都市のありかたが変わるとかいう一時聞かれた話も、最近はあまり聞かれなくなった。エストニア電子政府的な取り組みも、もてはやされたけれどその後あんまり聞かない。都市のデータプラットフォーム化みたいな期待もあったが、その後の様子はよくわからない。そうしたあまりにでかい大風呂敷に対しては、まあそれなりに反動も出るはずで、そのあたりのバランスを知りたいと思って手に取ったのがベン・グリーン『スマート・イナフ・シティ: テクノロジーは都市の未来を取り戻すために』(人文書院) だったんだが……

 うーん。

スマート・イナフ・シティ: テクノロジーは都市の未来を取り戻すために
ベン・グリーン『スマート・イナフ・シティ: テクノロジーは都市の未来を取り戻すために』(人文書院)

言いたいことはわかるんだ。これは、一時グーグルがどこかの町や開発を完全に請け負って人流、物流、データ、環境、その他のデータを常に見つつ最適化し〜、といった能書きに対する疑問として書かれた本だ、というのはわかる。ハイテク企業の安請け合いにだまされてはいけない、自動運転とかビッグデータによる犯罪捜査の合理化とか、そう簡単にできるもんじゃない。いろいろ細かい落とし穴がある。きちんと考えつつ市民的な合意を形成しつつ導入しないと。はいはい、その通りだとは思う。

が……

本書はそれだけで終わってしまうんだ。

あれもだめ、これもダメ、これもこんな問題がある。決して簡単ではない。はいはい、それはわかります。でもそれなら、あなたの考える「イナフ」の部分って何なの? スマートも、ちゃんと使い物になる十分 (イナフ) なところまで進めればいいのだ、と本書は言う。ではその十分なところって何?

ちゃんと組織の間の協力体制を確立してからデータを考えましょうとか、市民参加の都市計画において求められるデータをきちんと提供しましょうとかいう話は出てくる。でもそれは、既存の仕組みを前提として、そいつらにとって便利なものを作ってそれでおしまい、ということだ。

でも、それだけなんですか? それではいままでの都市計画や運営に毛が生えた程度のものでしかない。結局のところ、これだけ情報機器もあり、データも取れていろんな可能性が出てきたように見えるのに、それがすべて無意味で、会議の資料が電子化されましたといった程度の話しか使い物にならないんですか?

自動運転などは、まだ発展途上で問題が残っているのはわかる。が、本書に出てくる取り組みの一つに、市民の要望にすぐ応えるためのアプリを作る、かつて日本で話題になった「すぐやる課」みたいな試みがあった。市民は何か問題 (道路の陥没とかゴミの回収とか) をアプリで伝えてそれが素早く対応されるというわけ。

さて、これは結構いいのでは? 行政が市民の要望にすぐ対応できるようになって、いいんじゃないの……と思うと、本書はそれもダメという。アプリを使いこなせる豊かで知的能力ある人だけに有利で、しかも対応が近視眼的になって、これまでのグズグズした行政プロセスで生じていた、総合的な見方や他の問題とのからみあいの視野が失われるから、なんだって。

あのさあ……

それってほとんど揚げ足取りの域に達してない? 政が市民の要望にきちんと対応するのは、決して悪いことじゃない。これまでだって、行政リソース活用して施策を実現させるなんて、どのみち豊かで頭のいい人たちに偏ってしまうのだ。アプリなら少しはそれが改善すると思わない? そして総合的な見方とやらも、いずれそのアプリで拾った問題の分布を分析したりして、対応する道筋も出てくるんじゃないの?

確かにいろいろ電子化や自動化することで、負の面も出てくるだろう。おっしゃる通りです。スマートシティと称して行われているのが、実は総監視社会みたいな恐ろしい代物というのもありがちなこと。

でも一方で、まったく可能性がないはずもない。自動運転だって、部分的には導入されて、変な事故が発生したりする一方で、少しは使い物になりそうだ。犯罪の話だって、即応を可能にしたうえでもとのデータの人種的な歪みを矯正するにはどうすべきかを考えるほうが生産的じゃないの? テクノロジーは都市の未来を取り戻すために」と副題にある。オッケー。でも本書は、その都市の未来を取り戻すテクノロジー利用について、ほとんど教えてくれない。仕組みも形も完全にいまのまま……いやもうちょっと能書きあるはずだと思うんだ。

愚かでだらしなくて怠惰でうっかりものの市民たちを、少しはサポートしてくれるようなスマートシティを考えることはできるはずだと思う。それは最終的には「あんたらプライバシーは少し妥協しろよ、そうすればこんないいことできるぜ」といったものになってしまうかもしれない。「自動運転いいだろ、ただし交通ルールにしたがわない人間はちょっと犠牲になるけど、それを認めたらこんなのできるぜ」といった提案になるかもしれない。あるいは、「スマートシティって結局何なのよ」で書いたような、人の接触を細かいナッジでコントロールする話も、技術的にはできるのかもしれない。自動車が都市のあり方を変えたように、情報環境が人の動きと都市の形をどう変えるのか、みたいなことを考えねばならないと思うし、スマートシティを考えるというのはいつかそこに行き着かねばならないと思ってはいるんだが……

 

さて、2023年春となれば、どうしてもウクライナ侵略をめぐる話題にやってきてしまう。で、いくつか見て前回も少し触れたんだが、悪い意味で気になったのが原田泰『プーチンの失敗と民主主義国の強さ 自由を守るウクライナの戦いを経済学から読む』 (PHP新書)だった。

プーチンの失敗と民主主義国の強さ 自由を守るウクライナの戦いを経済学から読む (PHP新書)
原田泰『プーチンの失敗と民主主義国の強さ 自由を守るウクライナの戦いを経済学から読む』 (PHP新書) 

この本の主張は、まあ題名通り。プーチン弱いぞ、それはロシアが民主主義じゃないからだ。軍事にお金をつっこんでも、それを効率的に運用できないから弱いぞ。民主主義の国は経済発展するし強いぞ。汚職もなくせるぞ! あれもできるぞ、これもできるぞ!プーチン専制主義だからウクライナごときを倒せないし、今後も勝てないぞ!

うーん。

いや気持はわかる。ぼくも西側民主主義の手先ではあるので、こういう議論には賛成したくなる。そして確かに、特にリーマンショック金融危機以降、プーチン専制的な運営が軍事的にも経済的にもロシアの発展の脚を引っ張ってきた面はある。

でも正直、民主主義だから成長します、民主主義だから軍事も強いです、というほど単純であるわけはない。

たとえばコロナ初期などにはまったく逆の議論がたくさん見られた。中国その他、専制的な国はコロナに対してすぐにロックダウンなどの対策が取れたし、人権など無視したトラッキングも実施した。それによりコロナの死者数がかなり抑えられた。これを受けて、マリアナ・マッツカートは政府主導で産業政策するのがいいのだ、と言い出したし、歳寄りは切腹して自殺しろと言ってのけて2023年初頭に有名になった成田悠輔はそれをネタに「民主主義の呪い」なる論文も書いて、その結果をコラムなどに使っていた。民主主義指数と経済成長や初期のコロナ死者数の相関をとっただけという、安易極まる代物ではある。が、そういう議論はできなくはない。

が、その後民主主義国のほうもワクチン対応などで盛り返し、一方でかつて旗色のよかったところが、かえってそのためにその後の対応が遅れてオミクロン株にやられてしまったりして、状況は一変している (ちなみのその民主主義の旗色が悪かったころに書かれた各種の本が2022年あたりに出てきて、アナクロ感満載になっていて主張もボロボロなのは、可哀想ながら自業自得)。成田の説も、その論文の話を単行本に入れるときには言い逃れが加筆されて、ごまかされている。

この本も、言いたくはないけれど、逆の主張とはいえそれと大差ない議論になっているのではないかと思う。本書で言われている成長とか軍事的強さとか、本当に民主主義のおかげと言って良いんだろうか?そして本書で挙げられているような個別の事例をいくつか並べただけで、そこまで一般化できるんだろうか?

ぼくが開発援助の業界にいるので、この手の議論に少し苦渋を飲まされている恨みもあるんだろう。1990年代から2000年代初頭にかけて、世界銀行ダラーやイースタリーといった経済学者がこの手の相関をちゃちゃっと取って「就学率と経済成長は相関あります!」「民主主義と(同上)」「汚職と(同上)」「ジェンダーと(同上)」とか安易な論文が山ほど出た。そのたびに「だから途上国発展戦略ではXX重視を!」みたいなのが多発して現場は大迷惑。

いずれも、関係なくはないんだろう。少しは貢献するだろう。でもだからといって、民主主義/ジェンダー平等/教育水準上昇さえあれば、すぐに経済成長しますというほど世の中単純じゃない。特に民主主義について言うなら、なんだかんだで時間軸や場所の取り方次第で何とでも言えてしまう、というのが実情だ。

いろいろ見ると結局のところ、民主主義だとよくも悪しくも決めごとに時間かかるので、即応性は弱いけど独裁者ご乱心で急に悪い方に行く危険も低めで、極端によくも悪くもならないのが強み、という程度の話になるんじゃないかとは思う。

さらに民主主義と法治が強いのは、ある種の自由や権利が恣意的に侵害されにくいという保証があるので、新しい試みや事業に安心して取り組めるという面もある。それは、意志決定に手間がかかって遅いという前の話の裏返しだ。逆に、何か既得権ができてしまい、古い仕組みが固定して新しい動きの余地が狭まると、なかなかそれを変えられない。

その一方で、専制主義は上昇期には膠着した仕組みを破壊することで自由度を高め、社会や経済の発展を生みやすくなる。その意味で、専制が成長やその他よいことに貢献する場合もある。まさにそうした既得権破壊によるポピュリズムこそが、専制主義の基盤なんだし。が、体制がやがて固定してしまうと、その硬直ぶりがヘタな民主主義とは比べものにならないくらいひどくなり、ついでに独裁者が恣意的な運用をして、人の物を横取りしたり投獄したりしはじめると、どうしようもなくなる——なんかその程度の一般化しかできないのでは、とは思うのだ。

だから結局はどんな体制もやがては硬直して停滞し、次の体制はその停滞を打破しようとするから最初はよいが、またやがて……の繰り返しになるという。なんか中国の五行説まがいですな。そして専制と民主をそれぞれ平均するとどっちがいいか、という議論は……個別性が強すぎてとても一般化できない。したところで意味がない、という話になりそうだ。

ちなみに別の論文によると、民主主義が経済成長をもたらすのは、民主主義化したときに成長のためのインフラがすでにできていた場合だけで、そうでないときには影響しない、とのこと。これまた、単純な「民主主義はいい/悪い」よりは納得感があるものの、成長のインフラがあれば成長する、という同語反復でしかない気はする。

すると、民主主義は〜、みたいなあまりに振りかぶった議論はつらいので、もうちょっと個別に見て、この環境においては民主主義も貢献しているね、とかこの環境では民主主義が裏目に出ているよね、というふうな言い方をするしかないんじゃないだろうか。

その意味で、この本の主張はちょっと乱暴すぎだと思う。民主主義だからウクライナ勝ちます、なんていう安易な話であるわけがない。もしそうなら、頑張って支援するまでもない。むしろ、プーチンを勝たせるわけにはいかない、専制的な侵略は勝てないという実績を作るために西側は一生懸命支援しているというのが実際のところだ、とぼくは思っているんだが。本当に、それがうまくいってくれるといいんだけれど。

 

香港も、理性的に考えるなら、その制度が変わったからといってすぐに都市の雰囲気が変わったりはしないだろうとは思う。行けば、あの店はあるだろう。スターフェリーも動いている。人々はふつうに生活しているだろう。民主主義だから発展します、それが危うくなったのでもう経済は停滞するしかありません、などという話ではない。それは、頭では十分にわかっているのだ。が、それでもねー。まあ、実際に見ればそういう印象もたぶん変わるとは思うんだけれど。次回、そんな話もできるかもしれない。ではまた。

 

神殺し・社会主義モダニズム・ウクライナ

なぜかいきなり復活した「新・山形月報!」、今回はバルガス=ジョサ『ガルシア=マルケス論:神殺しの物語』、『ソビエトアジアの建築物』、小泉悠『ウクライナ戦争』です! 半世紀ぶりに刊行された幻の名著にリアルタイムの戦争分析と社会主義モダニズム建築についてあれやこれや。さて、どんな話になるでしょうか!

お久しぶり。2022年はじめ、この新・山形月報が終わるとき、なんとか間に合わないかなと思って待っていた本があって、それがこのバルガス=ジョサ『ガルシア=マルケス論:神殺しの物語』だった。

バルガス=ジョサ『ガルシア=マルケス論:神殺しの物語』

この本、知る人ぞ知る史上最初期 (1971年刊) にして最強のガルシア=マルケス論として名高い一方、その後バルガス=ジョサとガルシア=マルケスが特にそのキューバをめぐる政治的見解の相違から仲違いして、その後バルガス=ジョサがガルシア=マルケスをぶん殴る事件が起きたのを機に、翻訳も含め刊行が認められなくなり、半世紀にわたり名のみ高いがなかなか読めない伝説となっていた、曰く付きの本だ。

ところがそのスペイン語版がしばらく前に解禁となったようで再刊された。ぼくは軽薄なのでいそいそとそれを入手して (だって半世紀も世に出なかった伝説の本と言われると読んでみたいではありませんか) 翻訳ソフトの力を借りて (ごめん、スペイン語そんなに読めない) 読み始めたとたん、なんと日本語訳も許されたので近刊、という話を耳にしたのは、ウクライナ戦争開戦前だったはず。その後それが『街と犬たち』の訳者解説で予告されている話は、ここでも紹介した通り

が、この連載が終わった後も一向に音沙汰がない。また著者から物言いがついて、やっぱ出しちゃダメとかその手の話になったのか……と思っていたら、11月頃に出ました。が、ぶ、分厚い。二段組み500ページ以上。ただでさえ分厚い本ばかり書くバルガス=ジョサが、若くて体力の余っていたときに力任せに書いた本だからなおさら分厚くなります。

で、こんな本だから少しは話題になるだろうと思っていて、その後ときどきネット検索してみたんだが……まったく反応がない。あの伝説の本がやっと出たぜ、といった奇書愛好家の反応もない。賢しらなマニアや研究者が、一応は義務的に触れるくらいでもコメントあるはずだと思ったけれど、それもない。なぜ? ひょっとして、よっぽどつまんないの? 半世紀たってもう完全に陳腐化して、言わぬが花状態だったりする?

というわけで、ちょっと不安だったのでしばらく寝かしてあったが、やっとまとまった時間をとって通読しました。

いやあ、杞憂どころじゃない。なんだよ、やたらにおもしろいじゃん!

ガルシア=マルケスの個人的な伝記から入る本書は、小説は作者の体験をベースに構築される、という、ある意味で古くさい見方をする。 「作家がテーマを選ぶのではなく、テーマが作家を選ぶ」という、帯にある引用はそれを述べたものだ。ある体験を通じて得たイメージ、ビジョン、世界観その他なんでもいいが、そのテーマが作家に作品を書かせる、という。

これだけ聞くと、ある種のリアリズム宣言のような印象も受ける。現実の体験を受けて書く、ということなんだから。が、そうではない。そこに出てくるのが、本書の副題「神殺しの物語」だ。

神殺しというと、この半世紀でちんけなファンタジー小説の定番設定と化してしまった。この用語で検索すると、本当に (弱っちい) 神さまと勝手に自称している存在を、チート能力で殺すような話がやたらに出てきてしまい、誤解を招くかも知れない。こんな感じ。

が、この本での「神殺し」というのは全然ちがう。神の作ったものとは、このぼくたちが生きる現実だ。それに対して作家は異議をとなえ、現実にかわる別の世界を作り出す。だから作家はしばしば孤独で、ひねくれ者で、この現実を受け入れない偏屈な世捨て人にならざるを得ない。だがその作家が作り出す別の世界が完備性と完全性を備えれば、それはこの現実を否定し、ひいてはそれを作った神すら殺せる。それが神殺しということだ。

これは言わば、現実に対峙する虚構の世界、というような話ではある。ただ、かつてバブル時代に特にSF界隈で、筒井康隆の小説 (中でも『虚航船団(新潮文庫)』など) を中心に、虚構と現実との関わりがどうのこうの、といった議論が流行ったことがある。でもそうした議論は、実に安易にひ弱なポストモダン小説の正当化に使われることがあまりに多かった。というか、そういうポモ的虚構論が流行って、筒井がそれに便乗したというべきか。虚構性というのが何か、抽象性のことであるかのような誤解が生まれ、実際の物質世界を離れた語呂合わせや言葉遊びを「虚構」と言いたがる向きが多かった。何かこの「現実」とは関係ないもの、ということだ。

でもバルガス=ジョサが語っているのは、そんなふわふわした話ではない。この現実に対抗するだけの、別の強固な「現実」を構築しなければならない。吾妻ひでおが、「ウシのような強固な現実ですら一撃で倒す妄想力」を誇っていたが、むしろそれに近いかもしれない。そのためには、人も、場所も、政治も、歴史も、その他あらゆる要素を自ら構築し、徹底した具体性を持たせて、それを組み合わせることで本当の力を持った世界を作り上げねばならない!

そしてその一方でこれは、ファンタジー小説にありがちな「異世界構築」というものでもない。思いつきの設定/能力に何とか表面的なつじつまをあわせようと、変な設定を次々に塗り重ねるような話でもない。というか……それだけではない、とでも言おうか。現実世界とは別のある全体性、完全性が、その矛盾や亀裂も含める形で降臨する、とでも言おうか。すべての小説は、ある意味でそうした異世界を目指してはいるのかもしれない。でも、それが本当の形で実現する例は希有だ。たいがいの小説は、それを何かできあいのパターンに押し込めることで、ほどほどにつじつまをあわせるだけですませることが多い。

だがバルガス=ジョサは、ガルシア=マルケスがその小説世界において、いかにそれを実現しているかを詳細に分析する。まったく知らないこと、意外な視点、変わった分析、そういうものは必ずしもない。むしろガルシア=マルケスの小説に描かれる舞台、人物像、世界観や描かれ方について非常にストレートに、愚直といっていいほど説明してみせた本だ。そしてそれをバルガス=ジョサは、彼のデビュー以来 (いやそれ以前) のあらゆる小説についてやりはじめる。その詳細ぶりは、ちょっとうんざりしてしまうほどではある。アレは大した作品じゃないしそんなに詳しくやらんでも、と思うようなものについても、延々と説明が続くのは本当に体力勝負のバルガス=ジョサならでは、なんだけどね。

でも、それを我慢して読み進むと、第2部の第7章 (ものすごく長い)、ガルシア=マルケスの大傑作『百年の孤独』の話にやってきて……そしてそれまでのすべてが報われる。この傑作で、これまで他の作品で描かれてきた各種の要素がいかに統合され、歴史的にも地理的にも人物的にもすべてが融合しているかが細かく説明される。個別に作られてきた世界の部分が、信じられないほど周到に組み合わされ、その後進的、抑圧的な部分すべて含めて世界が一気に作り上げられる——そこで生まれた完全な一つの世界が『百年の孤独』であり、この世界の神を殺したかどうかはさておき、それに挑みおおせた偉大な作品となっている——バルガス=ジョサはそう主張する。

結局この本は、ガルシア=マルケス論ではあるが、何よりも『百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)』論ではあるのだ。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

個人的には、中でも420ページあたりの、『百年の孤独』最後の数ページにおける時間と話者の処理をめぐる話がすばらしい迫力。語り手が最後に作品の中に回収されて、時間も空間も物語も己自身の中で完結し、完全な世界が形成される様子の分析 (というかそれをまとめあげるバルガス=ジョサの語り口) は圧巻。

でもだんだん読んでいるうちに、バルガス=ジョサは『百年の孤独』を非常に理知的に分析解読して見せるけれど、これだけの変数をガルシア=マルケスが意識的にコントロールして作品を構築したわけがないのがわかってくる。彼は明らかに、直感にしたがって物語を紡いでいるだけで、たぶん意識的にこれを構築するのは無理だろう。ウラジーミル・ナボーコフは、インデックスカードに文章を書き付けつつそれを並べ替えて作品を構築したらしいけれど (『ローラのオリジナル』参照)、そういう作り方では『百年の孤独』は書けない。バルガス=ジョサは、もっと理知性に寄った作家で、彼が長大な作品を書けるのは、体力があって脳内の一時記憶のキャッシュが極度にでかいからだけれど、それでもガルシア=マルケスには及ばない。その自分にすら無理な作品構築のやり方に対する憧れと畏敬が本書にはあふれている。

そして何よりも本書でよいのは、これを読むと「あ、『百年の孤独』読み返さないと」と思ってしまうこと。ぼく自身の文章での反省でもあるんだけれど、ときどきうまい評論はその対象作品をうまくまとめすぎて、「あ、これならもう実物読まないでいいや」と思わせてしまうことがある。いま書いているこの書評も、そんなところがあるはず。でも『神殺しの物語』は、その神殺しの物語という主題をドンと打ちだしつつ、あれもある、これもあるの物量勝負で、「そんなのあったっけ、読まないと」と思わせてしまう。うまいなあ。

ちなみに、『百年の孤独』はあまりに名作なので、なんか自分の中ではまず『百年の孤独』(1967)が突然あらわれ、それに刺激されて他のラテンアメリカ文学の傑作が花開いたようなイメージがあったんだが、実はフエンテスアルテミオ・クルスの死 (岩波文庫)』(1962) やコルタサル石蹴り遊び (フィクションの楽しみ)』(1963)のほうが先なのか! 言及があることにすら気がつかなかった。

本書の分析の一つの大きな特徴は、徹底して書かれたものの分析に終始しているということ。何かの表現の裏の意味を読もうとか、書きぶりの背後にある意図を読み取ろうといったものは一切ない。とにかく、表層に書かれているものだけ。蓮実重彦がかつて『表層批評宣言 (ちくま文庫)』なるもので、表層だけにこだわるんだー、と言いつつも普通の意味での表面よりは、むしろ言葉尻にこだわるような批評を展開していたけれど、そういう表層ではない。本当にもっと普通の意味で、こんな比喩が使われている、あんな話が出てくる、といった羅列になっている。そしてそれが、この本が半世紀たってもいまだに力を持ち得ている理由でもある。依拠している思想や手法の流行り廃りには影響されない分析になりおおせているからだ。

これに対しては、新しい文芸批評手法を無視しているとか、あと社会問題的な言及がないといった批判があったそうなんだけれど、むしろガルシア=マルケス的な作風についてはむしろそういう分析が向いていない、というのを本書が明らかにした、というのが真相じゃないかとは思う。細い単一の理知的な分析では太刀打ちできない作品はある。また社会問題について、何か文明批判をしろとか、女性差別を批判しろとか、そういうわかりやすい話ではどうにもならないこともある。それがまさに、この世界とは別の完成した世界を作る、という話ではあるのだ。完成した、というのは完璧とか欠陥がない、ということではない。それはひどい、残酷な世界で、それでもその世界としてのまとまりが衝撃をもたらす。別に虚構の世界は、こっちの神さまが作った現実世界を批評するものではない。倉橋由美子ならそんな考え方を「奇跡的な誤解のなさりようですわね」と嘲笑するだろう。それでも、その世界はある——それが存在しているすごさは、むしろ本書のような泥臭いところさえある分析が有効だし、そうした読み方が未だに力を持つことを教えてくれるのも、ガルシア=マルケス作品の醍醐味ではあるし、本書の教えでもある。

一つだけ不満。ぼくは、本書が半世紀出なかった原因の、バルガス=ジョサがガルシア=マルケスをぶん殴った事件について、もうちょっと種明かしがあると期待していたんだが、それは真相はわからないとのこと。政治的な対立とも言われ、不倫の怒りともいわれ、もっとゴシップ的な話が聞きたかったとは思う……が、それはないものねだりか。そのあたりは以前の『疎外と叛逆ーーガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話』で詳しかったので (そうそう、自分でもその話は書いてるじゃないか)、それ以上のネタはないってことなのかね。あと、中にいっぱい該当ヶ所のページ番号が書いてあるが、これはどのバージョンのページ (原著? 邦訳? それでも何種類かあるからどの版?) なのか、どこに説明されてるんだ?

ということで、もっともっとみんな、この本を読んでほしい。決して無駄にはならないし、泥臭いストレートな感想文的批評の持つ力も改めてわかるはず。なんでもっと絶賛コメントがネット上に出てこないんだい。サボってるんじゃないよ。文芸関係者はこれを読まずにどうする! もっと話題にせずにどうする!

 

さて全然脈絡なしに、本屋でたまたま見つけて実におもしろかった本がコンテ/ベレゴ『ソビエトアジアの建築物 ソ連時代の中央アジアを巡る記録』(グラフィック社)。

ソビエトアジアの建築物 ソ連時代の中央アジアを巡る記録

ソ連社会主義圏には、実にソ連っぽい各種の建築群がある。本書は、旧ソ連のアジア各地に残る、そうしたソ連モダニズム様式ともいうべき建築を集めた写真集。

たぶん、その独特の愚直な感じすらする力強い意匠は、次のレーニン像なんかでは顕著だけれど、それ以外でもいろいろ懐かしい感じ。

こうした様式は旧ソ連やそのアジア諸国に限ったものじゃない。かつて社会主義圏はどこにでもあった。東欧にもたくさんあるし (テレビ塔みたいなのはまだ結構残っている) ぼくが開発援助ででかけた、ベトナムやモンゴルやキューバ、さらにはカンボジアラオスにも、これとそっくりの建物がたくさんある。以下の写真をツイッターにあげて「これってカンボジア中央市場だよねー」と書いたら、「あそこにもあった」「ここにもあった」と懐かしむ声がかなり聞かれた。そうなんだよー。どこにでもあった。

タシケントのマーケット建築

でもこういう、コンクリ打ちっぱなしではないにしても、そのままパネルとかを貼らずに使うモダニズム建築は、安藤忠雄黒川紀章でもそうだけれど、できたてのときは本当に力強くて美しいけれど、メンテ費用をけちるとすぐに劣化していきなりみすぼらしくなる。そして旧社会主義圏は、どこもメンテにお金かけないんだよ、これが。

さらに、同じことだけれど、モダニズム建築の常としてピカピカの状態だとかっこいいけれど、掃除を怠ってゴミがたまったり、薄汚れたり、さらには用途を変えたりして生活感が出てきたりすると、とたんにダメになる。次の写真でも、実にかっこよかったはずの集合住宅入り口ホールの空間が、左の洗濯物干し一本に負けて、なんだか濁った空間になっているのがわかる。

洗濯物に負けるモダニズムのエントランス空間

この写真集は、単に建物を撮るだけでなく、どこまで意識的かわからないけれど、その現状のもの悲しさ、時代錯誤な感じまでうまくとらえていて、非常に楽しい。そのうちこういうのも、伝統的建築物みたいな話になって、保存対象とかになるのかねー。建築が好きで、旧社会主義圏にでかける予定がある人は、是非眺めていくと「お、これ出てたよね!」という楽しい経験がいろいろできるはず。楽しいよ。

ちなみにかつて社会主義に力があった頃は、こうした様式もある種のあこがれの的だったはずだ。1970年の大阪万博の各種パビリオンを見ると、こうしたデザインの影響があちこちに見られる。いまはちょっとアナクロな過去の遺物的な雰囲気でも、かつてはまったくちがった意味合いを持っていた。黒川紀章なんか、若き日にモスクワ詣でしてこの手の建築を参考にしてたはず。そういう影響は、たぶんだれかがちゃんと調べていると思う。

最後はちょっと時事ネタで、小泉悠『ウクライナ戦争 (ちくま新書)』(ちくま新書) だ。

ウクライナ戦争 (ちくま新書)

もちろん、題名通りウクライナ戦争に関する本。今をときめく小泉悠だし、そこらのいい加減な粗造濫造本をけちらす、ウクライナ戦争についての決定版だと期待していたんだが……うーん、むしろ今回の侵攻についてだけの、リアルタイムの動向整理、という感じ。決定版とはいえない。まあ仕方ないか。現在進行形の戦争についての本だ。それについて距離を置いた分析と評価をするには、まだはやいのかもしれない。

きわめておもしろいのは確かだし、客観的ではある。いまや世界のヒーローのようなゼレンスキー大統領だけれど、実は開戦前までのゼレンスキーは、まさに東部のドネツクとルアンスク州への対応をめぐってかなり右往左往でロシアに転がされ、国内ではすごく低評価だったとか、ミリオタならではの詳細な兵器能力解説とかはたいへん勉強になるし、各種の人事が持つ意味についての説明は非常にわかりやすい一方で、まだはっきりしない部分が多すぎて、憶測レベルにとどまっている印象も一分にはある。

こっちの期待を勝手に押しつけてもアレなんだけれど、クリミア併合とのつながりとか、長期的な視点は薄い。というか、そういうつながりは見ないらしい。クリミアについては以前に書いたから繰り返さないという話と、あとどうもクリミア併合はプーチンがワンチャンでやった単発の事象として完結しているという位置づけが結構主流らしいのよ。そうなのかなあ。今回の侵略があったことで、かつてのクリミアの評価も見直す必要がどうしてもあると思うんだけど。まあ、現時点 (というか執筆時点) ではまだそういう風潮になっていない、ということなのかもしれない。

戦争はもうしばらく続きそうだし、今後「ウクライナ戦争2」とか「ウクライナ戦争3」とかも出ることになるんだろう。そこでの記述はどうなっているのか、引き続き注目はしたいところ。いずれ、当然ながら戦争が終わったときにすべてを振り返って、これがどういう評価になるのか、そしてそのときウクライナもさることながら、ロシアとプーチンがどうなっているかも気になるところ。

 

連載が終わって、読んだ本についてきちんとまとめる場がなくて自分でも少し困っていたところ。やはり本を読んだら、それについて自分なりに整理して評価を書いておきたいよね。今後、2、3か月に一度くらいでも、こんなふうに読んだ本についてまとめていけたら、とは思って下ります。まあどうなりますやら。

才能、意識、そして読書

2022年7月28日 
「新・山形月報!」、今回は高野文子『黄色い本』、マシュー・サイド『才能の科学』、谷淳『ロボットに心は生まれるか』などを取り上げ、考えることと読書をめぐって綴ります。そして、今回がついに最終回なんです。お名残惜しいけど、さようならー。皆さん、良い読書と人生を!
 
 

さて、今度こそ最後かな。

引っ越しで荷物整理をしていたら高野文子『黄色い本』講談社)が出てきた。そうそう、以前に『ドミトリーともきんす』中央公論新社)を扱ったときに、ついでに言及しようと思って、その準備として昔に読んだロジェ・マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』白水社、1~13)を少し再読して、ウゲッと思い、結局書かずじまいになってしまったんだった。


黄色い本 (KCデラックス)

『チボー家の人々』は、フランスのあるブルジョワ一家が二十世紀初頭の時代に翻弄される様子を描き、そしてそれを通じてある時代の様相とその変遷を描き出そうとした小説ではある。チボー家の二人の兄弟とその友人が中心として、その思春期、性的なめざめ、己の社会的地位(つまりは父親)への反発と葛藤、革命への憧れ、第一次世界大戦に向かう世界と反戦、といったテーマが扱われる。たぶん、多くの人はその中でも、ちょっと反抗的で、自分に敷かれたレールを拒み、作家になって革命運動だの反戦運動に身を投じ、というジャックくんに感情移入しつつ読んだんだろうとは思う。彼の部分だけをまとめた『チボー家のジャック』という本も出ている。

そして……いま読むと、それが非常に青臭い。しかも、あまりにありきたり。ジャックくんの悩みの、なんとぜいたくで、なんとお坊ちゃんで、なんと鼻持ちならないものか……と30年ぶりに読んだときにはそう思えてしまったのだけれど、たぶんそれはぼくの歳のせいなんだろう。たいがいの人のたいがいの若き日の悩み—それは各人にとっては実にユニークで深遠で迷いと恐怖に満ちた一回限りの重要なものなんだけれど、でもそのほとんどは、だれもが何らかの形で経験する、つまらない、どこにでもあるものでしかない。でも、まさにそれこそが『チボー家の人々』の流行った理由だったんだろうね。

みんな、本当はつまらないどこにでもある「悩み」を真剣に考え、そしてそれを (自分より社会地位のかなり高い)ジャックくんと、本当に個別のものとして分かち合えたような気持になる—そしてそれが時代の雰囲気にも呼応したからこそ、『チボー家の人々』は売れもしたんだろう。そしてその時代が変わったとき、もはやかつてほどの迫力を持たなくなった、ということなのだろうね。

『黄色い本』は、その本が日本の1960年代に持っていた力を描きだしたマンガだ。田舎の女子高校生・田家実地子が『チボー家の人々』を読みつつ育ち、就職して、そしてその中でときどきジャック・チボーに思いを馳せたりする。主人公は、ジャックくんのようなかっこいい革命運動や資本主義批判にあこがれつつ、自分が日常にとらわれていることを嘆き、むずかしげな革命思想を口走っては見つつ、就職して自分が普通の世界に活きるしかないことを悟り、でも最後にこの全5巻の本を買おうか考えつつ、図書館の中でそれが置かれた場所の重みが残り続ける—それだけ。

しかし、おそらく1960年代の多くの人は、まさにそういう気持を共有していたはず。うちの母親も、この全5巻を持っていいて本棚に並べていた。母もたぶん、和歌山から出てきて当時の60年安保時代の雰囲気を少し抱きつつ、共感とあこがれを抱いてこの本を読んだはず。母が、結婚してから—あるいはこどもが生まれてから—一度でもあの本を読み返したことがあるかは知らないけれど、ぼくが中学時代に好奇心で読んでみたときのホコリのかぶり具合からして、たぶんなかったんじゃないか。それでも、その本とそれを読んだときの自分の心が、物理的な場所として本棚にある—それが本を読んだり、買って(読みもせずに)すっと持っていたりする意味、でもあったりする。

そんなことを、いま引っ越しのために大量に本を処分しつつ思ったりするのは、本というものにそうしたセンチメンタルな意味が、少なくともこのぼくにとってはつきまとうから、ではある。

はじめて感情移入というものを教えてくれた『ないたあかおに』、自分の知らない遠くの世界に思いを馳せることを教えてくれた『エルマーとりゅう』、SFと民主主義を教えてくれた『ノーチラス号海底二万哩』と『十五少年漂流記』、おっかない謎の世界があるのだと教えてくれた(でも実はほとんどウソだった)真樹日佐夫『世界怪奇スリラー全集 世界の謎と恐怖』、ゴミ置き場から拾ってきて以降SFの主要作品を読む際のアンチョコになった半村良『亜空間要塞』、少女漫画の世界を一気に拓いてくれた萩尾望都『精霊狩り』と『十一人いる!』、そこから光瀬龍萩尾望都百億の昼と千億の夜』、それを現代社会とからめて論じることがそもそも可能なんだ、ということを教えてくれた橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』、受験勉強しているはずの図書館で見つけて、いまの自分と全然ちがう世界と生き方があり、それを自分で体験することもできると教えてくれた清水潔『インド・ネパール旅の絵本』、高校時代の青臭い世間への斜に構えた(誤用なのは知ってます)態度を肯定してくれるように思えた岸田秀『ものぐさ精神分析』と、それに影響されて伊丹十三が始めた雑誌『モノンクル』、村上龍コインロッカー・ベイビーズ』……

いまにして思えば、大したことないもの、インチキだったもの、もっといい本があったもの、その他いろいろで、他の人に「あんたもこれを読め」と薦められるわけではない。でもそのとき、そのタイミングで、たまたま出会ってぼくにとっては重要だった本ではあり、そうしたものについてチマチマ書いてみたいような気もするものの、他方で、高野文子『黄色い本』ほど、個別的であり、その人だけのものでありながらも普遍的な読書体験というものを描き出すのは、たぶん不可能だろうとは思う。

その一方で……そういうのにこだわっているばかりだと、懐古趣味になるばかり。それはゴミ屋敷の人々が捨てられない理由でもある。

カンバーバッチ主演の『シャーロック』を観たり、ハリス『ハンニバル』なんかを読んだりした人ならご存じの通り、記憶をある物理的な場所と対応させることで体系づけ、大量に記憶を行う記憶術がある。本の多く、物理的なモノの多くは、そうした物理的なプレースホルダーとしても機能している。だからこそ、紙の本というのはなかなか捨てがたい。そして、あらゆる場所その他と同じく、それはどこでも何でもいいわけじゃない。やっぱりよく使うものの場所、アクセスしやすい場所というのはある。記憶のよい場所を占拠しているものを放置しておくと、他のものの入る場所はどうしても減ってくる。だからどこかでそういうのを適度に整理しつつ、捨てるものはあっさり捨てる必要はあるし、それをしないと新しいもの—新しい知識、新しい技能—の場所がどんどんなくなる、というのをぼくは信じてはいるのだ。というわけで最後はちょっと宣伝になるけれど、最近の訳書を二冊ほど。

一冊目は、マシュー・サイド『才能の科学』河出書房新社)。これは昔出ていた『非才!』の改訳/改題版だ。この中心的な話は、天才というものはなく、すべては訓練時間次第、というもの。マルコム・グラッドウェルが普及させた、「何かに熟達するには一万時間(説によっては二万時間)の練習さえすればいい」という話の敷衍でもあるし、その他サイドの他の本で扱うテーマがいろいろ見られるので、お得ではある。どんな名人、達人、天才も、調べて見ると人知れず (あるいはまったく自分で意識することなく)たくさん練習しているし、また練習のない人でそういう達人の域に到達できた人もいない、という。反対に才能とかがあると思ってしまうと、練習の成果が見えなかったりすると自分は才能がないからと思ってあきらめたりする。失敗を認めたら才能がないと思われてしまうのでは、と恐れて、失敗を認めてそれを改善するという効果的な練習に必要なプロセスが機能しなくなってしまうのだ、というわけ。


才能の科学;人と組織の可能性を解放し、飛躍的に成長させる方法

これはむちゃくちゃおもしろい本だ。がんばりさえすればなんでもできる、と元気が出るのはまちがいない。が、ある意味でいやな主張ではある。ぼくやあなたがオリンピックに出られないのもアベンジャーズに入れないのもショパンコンクールで優勝できないのも、ダイエットできないのも英語の成績があがらないのも、すべては努力が足りない、練習不足、というわけ。そして、1万時間というのはどう考えても、かなり高いハードルではある。1万時間やればできる、という一方で、1万時間もやらないとモノにならないのか!

この本の訳者解説では、この説がちょっと言い過ぎで、やっぱ天才はいるらしいし、またこの本のもとになっているデータも一部疑問視されているという話は書いた。が、それ以外に書き損ねたことだけれど、1万時間というのは、最初の研究でもオリンピック級の超一流トップになるための必要時間ではある。それがグラッドウェルらにより「熟達するためには」「うまくなるには」「身につけるには」という伝言ゲームを経て、一万時間やらないと何もモノにはならない、みたいな話になってしまっているのは、やや誤解のもとになっている。

別に多くの人は世界チャンピオンになろうとしていろんな活動をするわけじゃない。そこそこ楽しめる程度になりたいだけだ。将棋でも、テニスでも、ダンスでも、楽器でも語学でも。それには一万時間なんか必要ない。それに、収穫逓減の法則もある。1万時間の5千時間以降の進歩は微々たるものだ。一方で、最初のうちはかなり急速な進歩が期待できる。だからツボさえ押さえてやれば、20~30時間くらいで普通に楽しめる水準には到達できるという説もある。そして自分の経験からしても、そんなものかもしれない。

ただみんな、最初のうちはつまらないし思い通りにならず、その程度の時間もやらずに終わってしまう。逆にその最初のうちのフラストレーションさえ乗り越えれば何でもできる、と主張する人もいる。その程度なら、だれでもできるはず。そして楽しくなれば練習も改善も容易になる。というわけで、この本に書かれていることをきっかけとしつつ、それに縛られずに、もっともっと多くの人がいろんなことに気軽に挑戦できるようになってくれれば……

というところで、次の本が谷淳『ロボットに心は生まれるか』(福村書店)。この本は、英語版を山形が日本語化したものを、著者がかなり加筆や改訂を行ったもので、だからぼくは翻訳協力という形になっている。


ロボットに心は生まれるか 自己組織化する動的現象としての行動・シンボル・意識

で、これはめっぽう面白い本だ。ぼくたちが持っている意識というものの本質を、ロボットの実験を通じて解明するという、何とも野心的な本だ。それによると、意識というのは単純にトップダウンで命令をこなしているときには必要ない。一方で環境の刺激に反応するだけの生命体/システムにも意識は必要ない。意識は、その両者が一致しないときに決断を下すために生じるのだという。

この考え方は、同じく拙訳のアントニオ・R・ダマシオ『自己が心にやってくる』早川書房)の結論とまったく同じもので、それ自体としてきわめておもしろい。そして谷淳のすごいのは、哲学や脳科学、計算機科学、ロボット工学など様々な分野の検討から得られたその仮説を、ロボットにより実際に検証し、意識の実際の「形」ともいうべきものを実証してみせるところだ。

それによると、意識や決断というのは決定論的カオスとして生じる。決定論ということはつまり、少なくともこのロボットたちに関する限り (でもひいてはひょっとするとこのぼくたちにも)、自由意志というものはない。すべては外部のインプットと肉体的な条件にあわせてあらかじめ決まっている……のだけれど、それはカオスでもあるので、具体的にそれがどう決まっているのかはだれにも予測できない。当人たちにも突然、どこからともなく決断が生じたように感じられてしまう。その意味で、自由意志は幻想だ、というすごい結論が実証的に得られてしまう!

意識なんて、かなり複雑なシステムじゃないと生まれようもないし、本書で使われている非常に単純なレベルのロボットなんかで実証的に検討しようがないのではと思いこんでいたので、本書のあらゆる部分が驚きの連続ではある。そして、その結論をどうとらえるか—自由意志は、あるように見えるだけで実際にないと言われたとき、あなたはどうするだろうか? すべては決まっているんだから、努力なんかするだけ無駄、といったことを言う人もいるし、また努力するかどうかも決まっているんだからそもそも自分からがんばる必要もないという人もいるし、その一方で決まっているのがどんなことなのかはわからないのだから、やるだけやってみよう、と考える人もいる。そしてこれをどう考えるか、ということすらあらかじめ決まっているのだから……

それを考え始めると無限後退に入ってしまい、自分が結局何をするかはわからない。何が決まっているのかを考えるだけ無駄で、やれること、やりたいことをやるしかない、というつまらない結論になってしまうのだけれど。このコラムでも、ぼくは自分がおもしろいと思った (またはつまないと思った)本をひたすら紹介し続けてきたけれど、あなたが何を読むかは—そして何を読まないかは—実はあらかじめ決まっている。それでも、その決定論的カオスに使われる刺激として、ぼくの書いた入力が少しでも役に立ったら—あるいは足を引っ張っていたら—書き手としては幸甚。

前回も述べたように、このコラムのバックナンバーはすでにこちらに移転した。このコラムも、ここcakesが消えると同時に、そちらで読めるようにするつもり。

一応はこれでおしまいのこのコラム、ひょっとして気が向けば、そこで勝手に続きをやることもあるかもしれない。では、またどこかで!

小説の値打ちと脱成長論の愚をめぐって

「新・山形月報!」、今回はまだ最終回ではないはずです!? 取り上げられたのは、リチャード・フラナガントマス・ピンチョンドン・デリーロ、バルガス・ジョサ、マーク・トウェインなどの作品……。さらにマイケル・ヤングの『メリトクラシー』、柿埜真吾の『自由と成長の経済学』にまで話は及びます。



だんだん終わりが近づいてきました。この「連載」は不定期もいいところで、一年半も間が空いたりとか、定期購読されていた皆様にはたいへん申し訳ございませんでした。いろいろ書きかけて、他の仕事にかまけているうちにタイミングを失ったような原稿は結構あって、今回はそういうのを少しお蔵出し。

前回の最後で、ウラジーミル・ソローキンの小説を紹介した。珍しく時事ネタとからめられたので書きやすかったけれど、通常だと小説はなかなか扱いがむずかしい。単独性が強くて、なかなか他の本と関連づけて紹介しづらくて、何かうまい見せ方があれば……と思っているうちにいろいろ過ぎて、タイミングというか、「これについて書きたい!」という気持の盛り上がりが衰えてしまう。

そうした中で、ずっといつか触れておきたいと思いつつ果たせていなかったのがリチャード・フラナガン『奥のほそ道』白水社)だ。 ぼくが読者としてすれっからしになってきたせいもあるんだろう。もう小説がなかなか単純に楽しめなくなってきている。このコラムでは、ウラジーミル・ナボコフの話をたくさんした。彼の小説は技巧的で冷酷で読者も登場人物も突き放して嘲笑する独特の距離感があって、とても好きな一方で、往々にして小説そのものよりもある種の表現技法の誇示と、そしてそれを駆使できる己の能力自慢ばかりが前面に出てきて、小説自体がいつのまにか、どうでもよくなっているような部分がある。

奥のほそ道

奥のほそ道

一方、ノーベル賞も含め最近評価されている「ブンガク」の多くでは、何かそのとき流行りの社会課題があって、それをうまくメロドラマにからめて、現代的な風俗(ブログとかネットとか)で味付けをすればいっちょあがり。小説そのものよりも、何か意識の高さを示すチェックリストで評価が決まるような、そんな安易さ。じゃあ「小説そのもの」って何? というのはむずかしくて、自分でもよくわからない。でも、この話が小説以外ではありえず、これが小説として書かれねばならなかった、という必然性が伝わってこないと。各種技巧も、それ自体のためにあるんじゃなくて、そういう書き方をしなければならない必然性がないと。そして、そこで描かれる中身が、ストーリーなり主題なりと分かちがたくからみあっていないと。

20世紀の特に後半には、こうした考え方自体があまり流行らなくなってはきた。もはや小説で書ける新しい中身なんかなくて、主題とか考える必要さえなく、もはや書き方とか技巧とかエログロのショックバリューだけしか小説はあり得ないような思想が幅を利かせていた。それはポストモダン的な皮肉と冷笑と衒学主義と「大きな物語の終焉」みたいな話と通じるものでもあり、同時に冷戦後の世界構造としてもはや軍事や経済的な豊かさなどを意に介するまでもないどころか足蹴にしてよく、環境とかLGBTQなどのような細かい主題を議論していれば世界はまわるのだ、といった発想ともつながっていたろう。

でも今や、それがそろそろ転回点を迎えているような気はする。みんなが軽視した軍事とか基本的なエネルギーといったテーマが世界全体に復讐しにきている。そして次第に、スティーブン・ピンカーなどを筆頭にかつての古い啓蒙主義的な思想を復活させねば、という機運も出てきたし、変なお題目のために経済発展を止める愚かさも見えてきた。つい数年前まで幅をきかせていた、21世紀はまったくちがう社会経済体制の新しい資本主義が生まれ、みたいなお題目も、目先の電力や食い物や安全保障が危うくなった瞬間に一気に崩れた。

今後21世紀の半ばまでは、20世紀の(特に前半から半ばの)教えを再認識し、復活させるのが人類の大きな課題になるだろう。そしてその中で、小説なども変わってくる。娯楽大作のはずの映画までずいぶん説教臭くなり、変なポリコレメッセージを必ず入れてどんどんつまらなくなり、『トップガン』続編のような、何も考えずひねらない(ように見える)ものがかえって新鮮に見えて純粋におもしろい---これは決して、この世界的な傾向と無関係ではないと思うのだ。

えーと、なんだっけ。そうそう。フラナガン。彼の作品は、そういう時代の変化にはまったく影響されていない。邦訳された『グールド魚類画帖』『姿なきテロリスト』(ともに白水社)、そして『奧のほそ道』。いずれも、強いて言うなら植民地主義や人種差別、テロリズムとか、ある種の現代的な意識の高いメッセージと関連しているとは言える。でも、いずれもそうしたものは、脇役でしかない。人々が、いまここで抱えている深い苦悩や諦め、そして日常---その背後にある歴史の広がり、それもまったくちがう探究の背後に見え隠れする別の時代の別の意識。フラナガンの本は、過去のそうした歴史的しがらみが現在に通じ、そしてそれが社会的なお題目にとどまらず、個人の意識のありかた、世界とのかかわりにまで浸透する。

技巧の面でも見事。でもその技巧はすべて、目的があり、必然性がある。社会的テーマやメッセージも、それを訴えるために登場人物たちが動くわけではない。彼らの行動の中からそうしたメッセージが読み取れなくもない---あるいはそれは、異常な状況における異常な人のふるまいにすぎないのかもしれない。世界も人の行動も、そんなわかりやすいものではない。ナントカ主義に背中を押されたら、決まった行動をするような、そんなものではない。

『奧のほそ道』は、かの映画『戦場にかける橋』で有名な泰緬鉄道の過酷な建設現場に戦争捕虜として駆り出された、著者の父親の地獄のような体験をもとにした物語だ。それに携わった様々な人々の運命、それが変えた運命と現代もなお続く傷痕と空虚、そしてその救済じみたもの/あるいは救われない様子を描き出す、きわめて重たい物語となる。 戦争は悲惨だとか、そういう話ですらない。ただ、人は、そして世界は、どうしようもない体験や異様な事件を抱えつつ、それをひたすら抱え込んだまま現在、そして未来へと続く---それだけの話だ。つらいとか苦しいとか、イヤだったとか謝罪をとか、そんな話を一切外に出すこともなく、出しても何もならないと知りつつ世界が流れ、いつのまにか歴史らしきものが生じるけれど、それは各個人と関係あるようで、実はないのかもしれない。これはそういう小説なのだ。そして、それは特定個人だけの話ではない。世界全体の話でもあり、読む者にもわずかながら関わりがある---そういう物語となる。

翻訳の渡辺佐智江は、いつもながらあまりに上手い。彼女はアルフレッド・ベスター『ゴーレム100』国書刊行会)やキャシー・アッカー『血みどろ臓物ハイスクール』河出文庫)などの超絶技巧翻訳が目についてしまうけれど、このフラナガンの翻訳で見せる、原文の重厚な抑制を見事に再現した訳文は、まったくケチのつけようがない。彼女がフラナガンのすべてを翻訳しているのは、日本の読者にとって実に幸運なことだ。たぶん今後、さっき書いたような世界の変化がさらに進んでも、彼女が訳したフラナガン諸作の価値は、一切下がることはないはず。簡単に読みなさいと奨めるのがためらわれる重厚な作品ではあるけれど、いつか、このコラムの読者だった人々は、気力と体力があるときに是非読んでほしい。

それに比べ……と落とす必要もないんだけれど、他に書きかけて放り出した原稿が、トマス・ピンチョン『ブリーディング・エッジ』 (新潮社)。これはかつて原著が出た際、「お前くらいならおもしろがれる」と言われたこともあって読んで、まあまあ楽しめたんだが……なんというか、その書評草稿でえらくほめるのに苦労している自分が見える。そして、その理由が今だとなんとなくわかる。ある時を境に、かつてあれほど世界文学の巨人に思えたピンチョンが、急速にローカル作家に変わっていったからだ。


トマス・ピンチョン全小説 ブリーディング・エッジ (Thomas Pynchon Complete Collection)

1970年代の衝撃のデビュー作『V』から『競売ナンバー49の叫び』『重力の虹』のピンチョンは、すごかった。世界のすべてを巨大な小説に詰め込む力量と世界観を持っていたように思えた。いまにして思えば、それは単に時代のせいだったのかもしれない。当時から、彼はアメリカだけのローカル作家だったのかもしれない。でもその頃は、アメリカの話を書くことが、世界の問題につながった。彼の描く変な裏世界が表世界のアメリカをあやつる—それは世界に波及する話だった。

でもその後、印象が急に変わった。『ヴァインランド』以来の作品すべて、アメリカ人が米国ローカルな話を書いているだけとしか思えなくなってしまった。かつてこのコラムで彼の『メイスン&ディクスン』をほめたけれど、いま一つ歯切れが悪かったのはそのせいでもある。アメリカの奴隷制はよくなかった—はいはい、了解です。で? 『逆光』はがんばって読んだけれど、世界の謎を散りばめつつ、力点のかなりの部分はアメリカの労働争議での惨事。『LAヴァイス』はヒッピー文化のノスタルジーと幻滅。『ブリーディング・エッジ』も、ぼくはネット企業がらみで楽しめるけれど、ピンチョンに期待していたのはこんなローカルな話ではなかったはず。

それはおそらく、アメリカの存在感と先進性が世界的に薄れてきたせいなんだろう。ある時代のアメリカを書くことが、そのまま世界全体のあり方にもつながる、そんな時代が終わってしまったせいなのかもしれない。ある意味、世界に追い越された、とでも言おうか。

同じことは、ドン・デリーロでも感じる。『アンダーワールド』(新潮社) とか、9.11テロを予測していたと騒がれたりしたけれど、どの作品もテレビや新聞で現代的な「課題」を仕入れて、当事者意識なしに登場人物が自意識過剰のモノローグをする口実に使っているだけ。そしてその対象は、グローバルな事件にも触れてはいるけれど、アメリカから一歩も出てこないのだ。しかも、『マオII』(本の友社)などを見ると、小説家は革命家やテロリストにも似たご大層な存在だという思い上がった誤解をなにやらしているらしい。書き方も、ほのめかしと、ドラマに頼らず安易な結末を避けた曖昧性、結論をぼかすお上品さ、核心のまわりで展開される思わせぶりなモノローグ、どれもご立派なお文学の作法や修辞を教科書的に上手にこなしているけど、しょせん教科書。非常に安心できるし、たぶん大学の創作講座の教材にはしやすいんだろうけど…… 。

おそらくそういう現代的な意識とはまったく無縁に書かれたがゆえに、ずっと現代性を持ち続けているのがマーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』(研究社)。これはもう、読めとしか言えない。cakes用に昔書きかけていた草稿では、上で渡辺佐智江をほめたのと並んで、別のタイプの翻訳者として柴田元幸のこの翻訳を絶賛しかけている。いやホント、ちゃんと書き上げて出た時にほめるべきだった一冊。『ハックルベリー・フィンの冒けん』の何たるかをここで説明する気はないけれど、アメリカ小説、いやほとんどあらゆる小説にとっての一つの原点ともいうべき小説だし、他の翻訳で読んだ人も、原文のちょっと変な感じを再現した柴田元幸の翻訳(しかもそれが、わざとらしい読みにくいものにならず、普通に読める!)は絶品なので是非。


ハックルベリー・フィンの冒けん

小説っぽい話を一通り片づけてしまおうか。かなり最近書きかけていた草稿では、レイナルド・アレナスについて書こうとして、逡巡している。 アレナスはおそらく、映画化された自伝『夜になるまえに』(国書刊行会)で最も有名だろう。彼は、同性愛者で、そこからキューバの体制に迫害され、アメリカに亡命し、でもそこでもなじめずにアメリカ資本主義を呪い、孤独なままニューヨークのゲイシーンを徘徊するうちにエイズになり、ライフワークだった長編五部作をギリギリ書き上げて他界した。同性愛に対する偏見、全体主義政府からの迫害、西側での疎外、エイズで死亡という、被害者としての側面があまりにも多い作家ではある。

そして彼が優れた作家であるのはまちがいない。初めて読んだ彼の作品は『めくるめく世界』だったけれど、マジックリアリズムの後継者めいた異様な歴史遍歴物語のパワーとおもしろさには舌をまいた。だから彼がキューバ政府に弾圧されずにもっと自由に創作に励めていれば…… と書きかけたところで、ぼくの草稿はためらっている。というのも……彼が輝いたのは、まさにキューバ政府に弾圧されたおかげではないか、という気がしてならないからだ。というより、彼は自ら不幸と迫害を求めて突き進み、どこへいっても不満と独善を投げ散らかして、敢えて自分からつまはじきにされに行く、そんな作家に見えるのだ。彼はどこにいっても、落ち着いて心穏やかに創作などできない。いや、心穏やかでないことこそが、彼の創作力の根源だったりする。そして、その弾圧のおかげで何か社会派っぽいイメージすら少しあるんだけれど、実は社会なんか何も関係ない。彼の受ける弾圧はすべて個人的なものでしかない印象さえある。

それを示すのが彼の遺作『襲撃』水声社)。全体主義弾圧国家の走狗として検閲と弾圧に邁進する人物のほとんどコミカルな物語だ。が、それが最後にいきなり母親憎悪に完全にシフトしてしまう (ネタバレだけれど、これを知ったところで何がわかるわけでもない)。ストレートな全体主義批判に見えたものが、全然そうではない個人的な遺恨と執着の産物—そしてそれが見えてしまうと、彼の作品の多くが、急に矮小なものに思えてしまうのだ。 そうは言いつつ、アレナスを語るときにキューバの政治状況についての話を無視することはできないんだけれど。そして、その私的な部分がキューバでの弾圧も含めた社会状況とうまくからみあった『ハバナへの旅』(現代企画室)は本当にすばらしい作品集だと思う。が、これと『めくるめく世界』以外は、本当に読む人の感性次第のところがある。他のラテンアメリカ文学の諸作よりは、むしろ私小説っぽい雰囲気さえ持つ小説だとは思う。

あと、小説ネタの草稿ではコーマック・マッカーシーの話を書きかけているなあ。コーマック・マッカーシーは、感傷を排した淡々とした描写が常にすばらしい世界を創りあげる作家で、現代文学の軽薄な流行りとは無縁ながら、それ故に見事。映画化作品も多いし、読んだ方も多いと思う。なぜ彼の小説の話をしようかと思ったかといえば、確か彼の処女作の翻訳が出て、喜び勇んで読みつつ書き始めたが、いま一つだったから、だったように記憶している。そういえば最近は……と思ったら、彼の新作が今年2022年秋に二作まとめて出るらしい (なんだか今はサンタフェ研究所にいるとのことで、何をしてるのかさっぱりわからんけど)。翻訳もすぐ出るだろうし、楽しみ。このコラムで取り上げられるとよかったんだけれど。

そしてもう一つ、近刊ネタといえば、最近出たバルガス・ジョサ『街と犬たち』光文社古典新訳文庫)の訳者あとがきで、寺尾隆吉がさりげなく、バルガス・ジョサによるガルシア・マルケス論『神殺しの物語』が近々訳出されるという、驚きの話を書いている。これはバルガス・ジョサの博士論文であり最高のガルシア・マルケス論の一つと言われつつ、その後キューバ体制をめぐって二人が決裂し、以降は翻訳等の許可が一切出なかった、といういわくつきの代物。これは、今回のコラムまでに出るかと思って待っていたんだが、残念ながらもう少しかかる模様。出たら、どこかで感想を書くようにいたしましょう。

 

yamagatacakes.hatenablog.com

 

 

さて、ノンフィクション系の原稿がもっとあるかと思ったが、意外にない。いろいろあちこちでうまく再利用できているものがほとんどで、ここで改めて紹介することもない感じ。唯一、触れておきたいと思ったのがマイケル・ヤング『メリトクラシー』講談社エディトリアル)。 これはずいぶん古い本で、邦訳も60年代に出たっきり。それがなぜか2021年になって復刊された。マイケル・サンデル能力主義批判の文脈でかなり言及したから注目されたのかな、と思ったんだが、出版社も自費出版系だし、解説者の復刊に自ら手を尽くした話を見ても、どうも自費出版なんだよね。翻訳書の自費出版は珍しいし、まして他人が訳した本をわざわざ自費出版で復刊させるとは。


メリトクラシー

が、これはとてもおもしろい本ではある。本の中身はもちろん一度商業出版されたものだし、まったく危なげない。かつて元の邦訳を出した至誠堂の流れを汲んだとでも言うべき一冊。至誠堂は、『パーキンソンの法則』の大ヒットに気をよくして、皮肉っぽい嫌みなイギリスユーモアの社会評論本をいくつか続けて出した。そのうちの一冊がこの本だ。中身は題名通り、イギリスが社会主義アメリカの影響を受けて、階級社会から脱して能力主義メリトクラシーを導入したら、とんでもないことになりました、というのを未来から振り返って語るという、一種の歴史改変小説みたいなものだな。

そして、そこでの主張は、能力主義の導入によってかえって階級分断が進む、というもの。昔は世襲の階級があったおかげで、貴族でもバカという連中がたくさんいたし、賢い平民も労働者もそれなりにいた。だから場合によっては、階級を超えて頭良い連中が連帯したり、ということも起こった。それにより社会の一体性と秩序が保たれていた。 でも、能力主義になったら、トップの連中はとにかく有能、そうでない連中はあらゆる面で無能で恵まれないという状況がますます強化される一方となり、それに耐えかねてイギリスで大暴動が起きましたよ、というもの。

この本に気がついたのは、現在鋭意翻訳中のトマ・ピケティ『資本とイデオロギー』で大きく採り上げられていたから。ピケティはサンデル同様に本書について、現在のメリトクラシー/能力主義なるものの欺瞞をいちはやく指摘した慧眼の書だと持ち上げている。が、その書きぶりだとこの本が、能力主義の偽善を指摘してあるべき平等社会の方向性を示しているように読めてしまう。でも実際にはむしろピケティとは正反対で、かつてのイギリス階級身分社会を懐かしむ非常に反動的な本だ。真の平等に到る方法を考えようとした本ではない。この再刊に尽力したらしき解説の人は、むしろそうした反動的な物言いの部分に感動したようで、うーん。でもおかげで、おもしろい本が復刊されたのはよしとすべきかな。

あと最後に柿埜真吾『自由と成長の経済学』PHP新書)の紹介を書きかけた原稿が出てきた。これはとてもよい本で、あのどう見てもろくなものとは思えない、斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書)をこと細かに批判し、そこで展開されている議論がいかにトンチキな世迷い言かをきっちり説明した本。個人的に斉藤本は、まったく読む気が起きなかったが、なんだか人気があるみたいだし、それを真面目に読んで、真剣に批判するという報われない仕事を他の人がやってくれるのは、本当にありがたいことだ。

本書を読めば、斎藤本なんか読む必要がなくなるし、またその他の各種「人新世」だの脱成長論だのといった主張の愚かしさはよくわかる。話は冒頭で述べたところに戻ってくるけれど、おそらく現在のウクライナ侵攻や、それに伴う資源、食料などのリスク顕在化により、これまでのお気楽な脱成長論の愚かしさははっきり見えてきたと思う。そして特に環境を掲げて脱成長を論じる人たちが、ウクライナ侵攻で温暖化問題が忘れられるのが心配といった、スケール感も時間感覚も、距離感もまったくない発言をすることについての違和感も、だんだん出てきたはず。その意味で、こうした脱成長論も当分はなりをひそめてくれるのかもしれない。

でも、必ずこうした議論は蒸し返される。そのときに、それに対する反論ができるようになっておくのは重要なこと。そのためにも、この『自由と成長の経済学』にざっと目を通しておくのは、決して損にはならないはず。20世紀の教訓を再び学び直し、みんなが当然と思って忘れていた、安定した成長ある社会とその基盤を実現するためにはどうすべきか—そんなことを考えるためにも、是非ともどうぞ。

なお、このコラムのバックナンバーは、8月末をもって見られなくなってしまうそうなので、こちらでバックアップを作りました。デザインもそれっぽく再現してみました。これまで有料だから読まなかったケチなみなさんも、是非ともどうぞ。こうして改めてまとめて読み直すと、自分が結構鋭いまともなことも言っている一方で、バカなこともあれこれ書いていて、皆さんがこれをどういうふうに読んだのやら。でも、決定的にまちがったことは書いていない、とは思う。

あと一回、ひょっとしたらあるかな、ないかな。気が向けば、ということで、期待しないでお待ちを!

プーチン本はどれを読むべき?

今回は、ウクライナ侵攻で世界の注目を集めるロシアのプーチン大統領に関連する書籍を解説! 『プーチン、自らを語る』『プーチンの世界』『ウラジーミル・プーチンの大戦略』、そしてウラジーミル・ソローキンの『親衛隊士の日』!? ぜひお読みください。
 
 

さて、実質的に前回の続きとなる。前回は実は、今回のやつの前振りみたいな感じで書き始めたら長くなってしまったのだ。

結局のところ、いまのウクライナ侵攻はプーチンの胸先三寸で、終わりもプーチン次第ということらしい。すると、どうしてもプーチンの頭の中についてもっと知りたいのが人情だ。何を考えてこんな勝ち目のない攻撃を……と今になって思うのは後知恵で、当時は3日ほどでウクライナが潰れるとかなりの人が思っていた。それでも、ストレートな軍事侵攻などという思い切った手に出ること自体、多くの人には予想外だった。彼はどういう計算のもとで動いたんだろうか? 前回話題にした、ロシアで何やら幅を利かせているネトウヨめいた愛国大ロシア思想も、最終的にプーチンがそれを本気で信じているのかによって、どこまで真面目に考察すべきなのかも変わってきてしまう。

ということで、がんばっていろいろプーチンの伝記に類するものを読み始めたんだけれど……でも多くは似たり寄ったりだった。もちろん、この数ヶ月で雨後のタケノコのように湧いてきた「プーチン」を題名に冠する各種のお手軽本は言うに及ばず。

なぜか? 結局のところは一次資料が全然ないから、ということに尽きる。生い立ちに関しては、当人自身のいくつかのインタビューと、せいぜい当時の学校の先生や同級生、コーチたちのインタビュー。KGBに入ってからの話も同様で、公式記録はないも同然。公職についてからも、だいたい裏方で動いてきたのであまり記録がない状況。当時の関係者は、いないかプーチンのお仲間になってしまっているかで、これまたストレートに話が聞けるわけではない。

そして、もちろん大統領になってからは、実際の行動、各種演説や談話などを見るしかない。が、当然そうしたものは全部、公式発表ばかりで、すべて計算や歪曲や隠蔽がてんこ盛りだ。だれも知らない裏事情などはなかなか出てこない。つまり、どの本を読むにしても基本的な材料は同じだ。あとはその材料をどこまで真に受け、どこまで裏取りするか、あるいはそれを変な形に演出過多に盛り上げるのかという話になる。

だから、まずは基本的な資料を読むのがいちばんいい。その点ではプーチン&ゲヴォルキア『プーチン、自らを語る』『プーチン、自らを語る』(扶桑社) が他の追随を許さない。この連載では絶版の古い本はなるべく採りあげないように言われているけれど、これは仕方ない。世にあるプーチンの伝記的な本のほぼすべては、これが元ネタになっている。


プーチン、自らを語る

本書は、基本的にプーチンがいきなりエリツィンの後継者として首相/大統領になったときに、「こいつは誰だ?」という世界的な疑問に答える形で発表された連続インタビューだ。幼少期、KGBに入る経緯、ドレスデン配属になってベルリンの壁崩壊に直面し、その後サンクトペテルブルクの副市長となり、それからエリツィンに取りたてられる経緯、そして大統領として直面している各種課題への考え方。

もちろん、公式インタビューなので計算ずくのウソもあるけれど、大統領になりたてで、悪いことは(まだそんなに) やっていない。このため、隠す必要もあまりなく、かなり率直にいろいろ語っている。ジャーナリストの扱いなどでインタビュアーと対立するやりとりなど、いまではあまり考えられない光景だろう。チェチェンの分離独立派の「便所まで追い詰めてぶち殺す」といった生々しい発言も見もの。コンパクトだし、細かい話に入り込まないので (まだ何もしていないから) わかりやすいうえ、妻や娘にも話をきいて人間像も出そうとしているので、読み物としてもおもしろい。

英訳をもとにしているので、特に日本のロシア研究者などはそれをネチネチ論難したりするけれど、英語版はロシア語で削除された質問も入っていてむしろ内容的に充実しているとのこと。扶桑社さんは、すぐにこれを再刊してほしいんだよねー。

ただし、これは現状で手に入れるのもむずかしい。もう少し入手しやすくて、お奨めしたいのは、現状でバランスがよく取れているヒル&ガディ『プーチンの世界 「皇帝」になった工作員』 (新潮社)。伝記的な事実やその後の行動をもとに、プーチンの持つ様々な側面を描き出す。この本では「国家主義者」「歴史家」「サバイバリスト」「アウトサイダー」「自由経済主義者」「工作員」という側面に注目して、そうした側面が伝記的なエピソードでどう裏付けられるか、そしてそれが国内政治、軍事、国際関係、経済運営、メディア等々の、ロシアの重要な課題においてどのように影響するのかを、ほぼ時系列に沿って詳細に分析してみせる。


プーチンの世界

ぼくたちがプーチンに興味があるというのは、結局はその側面がどのように政治や軍事、経済の運営に影響するか、というのを気にしているわけなので、この本での整理は非常にありがたい。著者たちは、多くの研究者やウォッチャーがプーチンにたびたび驚かされてきた、というのを出発点にしている。だからこれでプーチンを読み切れた、とは思っていない。その多面性は理解しなければ、という謙虚な立場からの記述になっている。「これぞプーチンの実像!」みたいな書かれ方になっていないので、せっかちな人は苛立つかもしれないけれど、それぞれの部分はきちんと考察されて説得力がある。

中でもクリミア併合を正当化するために繰り広げたプロパガンダがそのまま残り、その後の拡張主義への火種を残しているという分析などは、いまのウクライナ侵略を考えると慧眼。とはいえ、その彼らですら、プーチンが経済を犠牲にしてまで暴挙に出るとは思っていなかったようだが……でも開始時点では、経済は犠牲になるまい、戦況は即決して西側の足並みも絶対そろわないという見方が強かったから、それも仕方のないことではある。

ちなみにプーチンやロシアについての文献で、日本以外ではあまり顧みられないことも多い北方領土についても、この本ではきちんと言及がある。ロシアにとっては、中国メインだが保険をかける意味で、その他ワン・オブ・ゼムとしていい顔をしておく、とだけの話らしいね。

ところが、監修と解説の畔蒜泰介は本書の記述を無視して、プーチンは言ったことは守ると書いてあるぞ、だからプーチンは平和条約して北方領土返すぜ、とトンチンカンなことを書いている。うーん。その言ったこと、というのは外交的な口約束の話ではなく (そんなのウソも空約束も山ほどある)、ロシアの大きな方向性についての発言のことだし、その「守る」やり方も結構エグイ、というのが本書の教えで、そんな慢心した読み方を容認する書き方にはなっていないと思うんだが。

こうした態度って、本当に日本のロシア研究者や関係者の典型的な病状ではある。これを書くにあたり日本のロシアの専門家と称する人たちが書いたものもある程度は目をとおしている。でも前回紹介した小泉悠など一部を除くと、ほとんど見る価値がない。この北方領土をエサに、プーチンに完全に手玉に取られてしまっているからだ。

とにかく日本の対露外交は、北方領土返還だけが課題になっている。だからそれに少しでもつながりそうな話をひたすら拾ってくるのだけが外交課題だ。プーチンが平和条約を結ぼうと言い、「柔道はヒキワケ精神が重要だ」と言ったことで、これは北方領土も二島返還を意図しているはず、という結論に勝手にとびつき、そこから一歩も出てこない。

その後はプーチンの一言半句を「これは北方領土返還の兆しか」と曲解するばかり。ロシアがヨーロッパ方面やアメリカとの関係で何かあれば、「この動きはアジア重視につながるから日本との関係を強化したがるはず」。ロシアが中国と手を組めば「アジア重視だ、日本との関係も強化してくれる」、そして中国と揉めれば「中国対抗で日本重視が進む」。何をやっても日本のチャンス。あとはそうしたプーチン様のご機嫌を損ねないよう、ひたすら忖度する—それが政府や外務省の基本的なスタンスになっていて、それをロシア専門家と称する人たちが追認する、というかそれを追認する人々だけが、「専門家」として重用されるような仕組みがあるようにすら思える。

だから日本の論者のほとんどは、プーチンの国際的な立ち回りがヤバいかも、という話は絶対にしない。クリミア併合を含めて何をしようとも、うやむやにしつつNATO拡大が悪い、アメリカがプーチン様に配慮しないのが悪い、という話だけ。特にプーチンの軍事的な展開については極力ふれてはいけないし、特に北方領土周辺ではそれについて言及すら御法度だ。

これについては前回紹介した小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』ちくま新書) にも出ていて、防衛白書ヒアリングを受けたときにロシアが北方領土で軍事演習をたくさんやっているのを指摘しても、防衛省は頑として認めず、二度とヒアリングにもこなかったとのこと (pp.239−240)。ウクライナ侵略で「ロシアの言い分もきけ」「一方的なロシア批判はいかがなものか」と言っているのは、この系列の人たちと思っていいらしい。この人たちの立場は、クリミア併合でプーチンの軍事的な野心もおさまり、いまやプーチンは安定と繁栄を目指しつつ後継選びに腐心し、というのが定説だった模様。

ここらへんの内外のろくでもないプーチン関連本 (いや、日本だけじゃないんだけど) については、読む端から怒りにまかせてレビューをブログにあげているので、興味のある方はご覧あれ 。いまもどんどん追加中。そこで紹介しているほとんどの本は読む価値はないものだけれど、そのダメさ加減や方向性から見えてくるものもあるので、そういうダメさのあり方を理解しておくのは決して無駄ではないとは思う。

特に腹の立つ、ろくでもない本でありながらも、決して無視してはいけないな、と思ったのがアレクサンドル・カザコフ『ウラジーミル・プーチンの大戦略』東京堂出版)だ。本書はプーチンの伝記ではない。プーチン配下の親ロシアのイデオローグの論文集であり、ロシアすごいぜ、ロシアえらいぜ、アメリカや西洋なんかもうダメでオレたちの時代がくるぜ、という、主張としてはしょうもない大言壮語ではある。が、それらを (我慢して) 読むことで、前回紹介したご大層な大ロシア思想だの、前世紀初頭の三流ロシア愛国デマゴーグ思想だのが、どのように実際のプーチンロシアの政策につながっているのか、というのが非常によくわかるのだ。


ウラジーミル・プーチンの大戦略

今読むと、非常に胸くそが悪くなる本ではある。そこで展開される理屈は、ひたすら我田引水、ロシアの自画自賛、西側への侮蔑、東洋思想だのイリイン思想だのをふりかざす衒学趣味だ。それがロシアの拡大主義を正当化し、クリミア併合も当然のこととされる。また他国のナショナリズム批判の論文もあり、ナショナリズム孤立主義=排外主義=ナチズムというすごく強引な理屈が展開されるけれど (今回のウクライナ侵略で「ネオナチが〜」としつこく言われている文脈がよくわかる)、そこで言いたいのはつまり、おまえらロシアの支配を受け入れろ、という話。そしてまさにこの著者は、ドンバスで現地の親ロシア工作をやっていた、ロシア拡張主義の実働部隊だ。

そうした野心や拡張主義正当化のために、前回紹介した変な大ロシア思想やイリインの思想が持ち出される。そこでの描かれ方を見ると、明らかにプーチン自身にそんな変な思想があったわけではない。だから同じく前回触れたティモシー・スナイダー『自由なき世界』慶應義塾大学出版会)が描くような、思想がまずあってプーチンがそれを実現しようとしたのだ、といった捉え方はやっぱ倒錯なんだね。

プーチンは当初から、国としてある程度の規模を維持しないとロシアの国力や影響力は維持できない、とは感じていたようだ。これは『プーチン、自らを語る』でも明言されている。そして旧ソ連復活はさておき、それが小泉悠も紹介していた、ロシアの重視する「勢力圏」なるものの漠然とした構想につながった。それを正当化するためにソ連時代の広がりや、それ以前のロシア帝国の話をこじつけで持ち出し、それをこのカザコフのような取り巻きたちが肉付けして「理論化」していった、というのが実情らしい。それがプーチンに気に入られ、著者も彼の「大戦略」なるものの構想に採り入れられて次第に図太くなっていく様子も、本書に収録された10年強の論文の書きぶり変化から感じられる。そして最後には仮定法のふりをして、ロシアがいずれウクライナを小刻みに完全吸収併合するつもりだというのさえ公言されている。ある意味で恐ろしい本ですらある。

この本の解説を書いているのは、佐藤優だけれど、そういう恐ろしさについてまるで指摘しない。佐藤は著者とマブダチとのことだが、日本のロシア関係者 (特に外務省系) の典型として、本書に書かれた内容とクリミア併合との関わり、軍事的な野心、「ロシアの『帝国』は共存共栄のよい帝国」といった主張のヤバさには一切触れない。西だけじゃないぞ、東にも勢力を広げるぜ、という本書の宣言を見て、ほらこれは日本重視だから北方領土返還のチャンスだー、と煽ってみせる。クリミアの様子を見て、ヘタに勢力広げられたら日本も侵略されたりしないのか、という方には一切頭が動かない。北方領土というエサをちらつかせられただけで、それ以外のことがまったく考えられなくなった、日本の一部関係者という姿を赤裸々に示すものとはなっている。

もちろん、プーチンに対する興味の高まりは日本に限った話ではない。実はこの点で、ぼくはちょっとみなさんよりも優位性がある。出版直前の、決定版と言っていいプーチン伝をすでに読んでいるから。著者は『毛沢東』(上・下)や『ポル・ポト』(ともに白水社)など、この手の独裁者の伝記で有名なフィリップ・ショート。彼が、プーチン伝を書いているという話は前から聞いていた。そして8年にわたる調査の末にそれがついに完成し、800ページ超のプーチン伝の最終ドラフトが手元にきたのが……なんと今年2月の冒頭。いやあ、タイミングがいいというべきか悪いというべきか。営業的には、これほどプーチンへの関心が高まっている時期はないわけではある。が、結論をどうしましょうか。存命中の人物の伝記を書くときの定番として「これからXXはどこへ向かうのか。最終章はまだ書かれていない」なんていう、カッコつけた終わらせ方があるけれど、いやはや書かれていないどころじゃない。こんな血塗られた花道をプーチン自らが用意するとは。

もちろんウクライナ侵攻を受けて、すぐにショートは最終章を大幅加筆。今後の展開次第ではさらに加筆も、しないわけにはいかないよねえ。で、不肖ワタクシめが翻訳することになり、早速取りかかってはいますが、どこまで急ぐべきかは本当に迷うところ。どう考えても翻訳に半年はかかるし、訳し終わる頃までには戦況もプーチンの未来も見えてくるはず……と思いたいところ。原著はすでに入稿済でPutin: His Life and Times と題し、6月末刊行予定だが、どうなりますやら。

世界的にも、みんな考えることは同じだ。みんなプーチンの本性を知りたがっていて、先日でかけたオランダでも、書店のウィンドウの半分くらいは新旧のプーチン関連本だった。イギリスの『エコノミスト』でも、プーチンとロシアを理解するため、と称していろいろ本が紹介されていたのだけれど……その記事で一番の大プッシュを受けていたのは、なんとウラジーミル・ソローキン『親衛隊士の日』河出書房新社)。えええっ???


親衛隊士の日

ソローキンといえば、もうエログロに言語実験的なイカレた作品ばかり次々に出しているすごい作家。この本は、ロシアの独裁者直属の親衛隊が、国民を弾圧しつつ我が物顔にふるまって汚職恫喝酒食乱交にふける様子を描いた小説。記事では、これこそがプーチン配下のロシアの精神的な雰囲気を最も見事に予想している、と主張されていた。うーん。いやあ、そういう面もあるが、ベストに挙げるのはどうかなあ。

小説だし、同書を読んでも、プーチン支配下のロシアについて何か具体的なことがわかるわけではない。が、小説としてはめっぽう面白い。そしてもちろん、文学作品に政治的な洞察や世界観を求めるような時代はとっくに終わったとはいえ、やはりここには鋭い洞察があることは否定できない。

ちなみに、ソローキンがその後に書いた『テルリア』河出書房新社)では、ロシアはタリバンの襲撃によっていつのまにか消え去り、ヨーロッパとは「壁」で完全に分断され、モスクワを中心としたロシア正教共産主義のぐちゃぐちゃ融合物国家をはじめ、天然資源も枯渇して貧困と狂信がはびこる中世的スラム世界の群雄割拠戦国時代になっている。そこで人々は死と隣り合わせのドラッグのようなテルルに走り……。昔読んだときには単なる奇想扱いしていたけれど、いまやそれが現実の可能性として浮上してきてしまっている。案外、そこに描かれたウクライナ侵略後の「ロシア」の方向性は、侮れないものかもしれないよ。

もちろん、だからといってプーチンやロシアの未来を知りたい人に、これを読めとはなかなかお奨めできない。そこに登場するのは、変な言語実験や、アレン・ギンズバーグをはじめとする文学のパロディとエログロ妄想だもの。現代文学に耐性のない人は手を出さないほうがいいとは思う。が、そういうのを楽しめる歪んだ心性の持ち主は、小説としても変で異様でおもしろいので、一読あれ。

さて、このcakesももう後がない、とのこと。このあまりに不定期な連載も、今回で最後……というのも惜しいので、手がまわればこれまで書きかけたけれど原稿にならなかった断片をまとめて羅列したりするかも。では。

侵攻の背後に見え隠れするロシアの思想、軍事、エネルギーと環境問題

 
共訳書であるヨハン・ノルベリ『OPEN(オープン)』(NewsPicksパブリッシング)が発売目前の山形浩生さんによる書評連載「新・山形月報!」。今回は、ウクライナ侵攻を踏まえて、イワン・クラステフらの『模倣の罠』やティモシー・スナイダーの『自由なき世界』という大著2冊を皮切りに、小泉悠の話題作やスティーブ・クーニン『気候変動の真実』などを論じます。

 

 

2月末からずっと、ぼくと同じようにウクライナ侵攻の様子をツイッターなどで、ほとんどリアルタイムで日々追い続けている人は多いと思う。戦闘自体の惨状もさることながら、その背後から出てくる、ロシアの本当に得体の知れない考え方—自分たちは不当に奪われた大ロシアの一体性を当然の権利として奪還しているだけで、ウクライナを助けてやっているのであり、侵攻も虐殺も一切していないという、目の前の現実すら否定する発想—が明らかになるにつれて、過去100年ほどの様々な進歩だと思っていたものが、突然のように崩れ去っていくような、まったく別の時代に連れてこられたような、信じがたい思いを抱かざるを得ないのは、ぼくだけではないだろう。

もちろん、どの国でもイカレた夜郎自大な改変歴史思想を本気で信じている人はたくさんいる。エライ政治家が愛国おとぎ話を真に受けている例は身近にもある。でも、それはあくまで周縁的で個人的な話だ。ロシアも国民動員のプロパンガンダ利用くらいはされていても、まさか国是としてふりかざされるとは思っていなかった。2020年のロシア憲法改正で「我が国はそもそも千年にわたる歴史を持ち〜」なんて文言がマジに追加されて目をむいたとはいえ、それも大衆向けリップサービス程度の話かと思っていた。

それが、侵攻直後の勝利宣言予定稿や、それ以前の取り巻きの書いた、ウクライナは歴史的にオレたちの属国だぜという文章などを見ると、ウクライナとの歴史的な一体性とか、大ロシアの帝国主義は民族融和の共存共栄モデルでした〜、などの世迷い言を、いささかのためらいも留保もなしに、どう見ても本気で主張している。そのあまりの異様さにちょっと感動して、勝手に翻訳までしてしまったくらい。こいつら(というかプーチン)、どこまで本気なの? なんでこんな発想がいつの間にか、でかいツラをするようになったわけ? いろんな本を見てみても、この捉え方は一定してない。

まずクラステフ&ホームズ『模倣の罠 自由主義の没落』中央公論新社) は、プーチンやロシア上層部は決してそんなことを考えてはおらず、19世紀以前との考え方の類似性も表面的なものでしかないのだ、と述べている。変な歴史改変ファンタジーへの傾倒は、表向きでしかないということね。


模倣の罠—自由主義の没落

この本の主張は、ソ連崩壊で欧米自由主義一元論がいい気になっていたけれど、それを形式的に真似てもうまくいかない/そもそも真似る気のない世界各地が、様々な形でアンチ自由主義を強めていて、それは西側自由主義自体の偽善ぶりや上から目線のせいも大きいんだよ、というものだ。その中でプーチンの各種活動は、偉そうな西側自由主義への嫌味やあてつけや妨害となる攻撃的な模倣で、「オメーらだってダメじゃん」「ほれ、選挙すりゃいいんだろ」「人道の旗ふれば侵略してもいいんだよなwwww」という感じのものなのだ、という。

うーん、そういう面はおそらくあるんだろう。エドワード・スノーデンがロシアに逃げたとき、言論の自由だの人権だのをふりかざしてみせた、プーチンのあてつけがましい物言いはまさにそうした攻撃的な模倣ではあった。

が、それは原理的な思想や世界観ではなく、西側とやりあうときの戦術レベルの話でしかないんじゃないか? 結果的にそんな雰囲気になってきています、というのはわかる。また西側自由主義の反省点としては傾聴すべきだろう。でも、反自由主義全般や、ロシアと中国の全体主義的な動因の説明としては弱いと思うのだ。特に中国が、かなり決然と意図的に西洋式の価値観ややり方を拒否しているのを、模倣として解釈するのはあまりに強引すぎる。さらに訳者解説でも触れられているけれど、これでロシアのクリミア侵攻を説明はできないし、まして今回のウクライナ侵攻において、この話は背景情報の一つではあっても決定的なものではないと思う。(あと、通常は扉の裏とか目次の後とかにある原著の書誌情報がないんだよねー、この本。原著が何年に出たのか探すのにえらい苦労した。2019年の本か。)

これに対してティモシー・スナイダー『自由なき世界 フェイクデモクラシーと新たなファシズム』慶應義塾大学出版局、上・下)は、プーチン民族主義の三流デマゴーグ理論に次第に傾倒して、それがロシアの政策にはっきり影響するようになってきたと指摘する。そこで紹介されている、プーチンお気に入りの20世紀初頭ロシア愛国思想家イヴァン・イリインの思想は、確かに最近のウクライナ侵攻を正当化するロシアプロパガンダそのもの。マッチョな独裁者に強権支配されたロシアこそが世界を統べて秩序をもたらす救世国家となるのだ、という話だ。ちなみに、このイリインをプーチンに紹介したのは、あの映画監督ニキータ・ミハルコフだったという……。


自由なき世界 上:フェイクデモクラシーと新たなファシズム

そして、その思想を取り入れつつ、プーチンが新しいファシズム体制をロシアで築き上げる様子が非常に説得力ある形で描かれ、それがクリミア併合の暴挙を経て、さらに各地のナショナリズム運動に塩を送って(ときにはそれを操って)世界に魔手を伸ばす様子までを見事にまとめあげる。2018年の本だけれど、ウクライナ侵攻中のいま読むとなおさら迫力がある。そして、ぼくは陰謀論とか変な思想が大好きなので、ここに書かれたイリインの思想とか(のくだらなさ)には本当に大喜びした……が。

その一方で……ぼくはこの本の書き方に強い違和感がある。この本の書き方だと、まずイヴァン・イリインの思想があって、それをプーチンはじめ信奉者たちが実現すべく暗躍しました、みたいな話になっているからだ。20世紀ロシアを裏から操っていた暗黒イリイン教団があって、それがゼーレや妄想フリーメーソンみたいに裏からすべてを牛耳り、プーチンもそのイリイン思想に操られてその実現に尽力し、やがてイリインの予言は一世紀の時を経てほぼ完全に成就し……いや、そんなはずはないだろう、とぼくは思う。

インチキ思想が流行るには、それなりの背景と環境があるはずだ。プーチンだってバカじゃない。そんな変な思想を採用するには何か得があったはず。インチキ愛国思想が広まったからロシアがファシスト的になっていきました、というのは倒錯だ。むしろプーチンファシスト的な体制を作るのに都合がよかったから、そのイリインの三流ファシズム思想を持ち上げて見せたんじゃないの? でも、そういう考察がきわめて薄い。そのため、本書はほとんど陰謀論すれすれの主張になってしまっている。

さらに下巻になると、プーチンが他国の極右ナショナリズム思想、特にトランプ当選のためにいろいろ工作した話になる。要は、イリインの思想がさらに広がりアメリカまで侵食して民主主義は破壊されてしまった嗚呼おそロシヤ、という話だ。でも……確かにソ連がいろいろ工作して賄賂送ってネットでボット使って暗躍したのは事実。でもさ、それってどこまで有効だったの?

本書の記述だと、トランプはロシアに金もらって鼻薬かがされて女あてがわれてエロ写真撮られたロシアの傀儡だ。巧みな袖の下と情報工作により、アメリカはいまや(というのは本書執筆時のトランプ時代のことだが)大統領以下、政界もメディアもSNSもすべてロシアの意のままに操られているとのこと。でも……そんなはずはないだろう。ロシアの工作はみんなが思っているよりも浸透しているかもしれない。ただ、トランプ躍進の背景にはアメリカが抱えている基本的な国内問題があって、もともとかなり僅差だった。ロシアはそれを少し煽って、ダメ押ししたただけではないの? それが接戦での雌雄を決した可能性はあっても、すべてをロシアのせいにはできないのでは?

本書はそれを切り分けられず、あそこでもここでも、あいつもこいつもロシアの手下で、と羅列に終始して、最後になってアメリカは金持ち優遇で格差が広がり云々、これはアメリカもロシアと同じナショナリズム金権政治思想に冒されて云々、とクソもミソもいっしょくたにした話に落ちてしまう。邪悪な思想があって、それがロシアから世界に広まっています、というわけだ。ぼくは、思想とはそういうものではないはずだと思う。思想が広まるには、そのための必然性があり、それを採用する人々のニーズがあるのだ。

そうした羅列は、クリミア侵攻のときの各種作戦についても言える。ロシアはそこで情報戦、メディア戦を駆使した、あの放送局、このメディア、こっちの評論家、西側のメディアにも鼻薬をかがせ云々。具体名 (ほとんどは知らないものだけれど) が大量に並ぶと、いかにも重要そうに思え、なんか大規模な工作が展開されたように読者には感じられる。

けれど、それが全体としてどうなのか? 通常の軍事力とどういう連携でどういう比重だったのか? なぜロシアはそこまで周到にいろいろできたのか? そういう話は見えてこない。ウクライナとの関係も、昔は国として尊重していたけれど、イリイン思想の影響もあってだんだんその独立性を否定するようになった、というえらく単純な見方。「思想」とか「ファシズム」みたいなお題目からしか俯瞰できない本/著者の限界が如実に出てしまっている。もちろん、俯瞰には俯瞰の価値があって、読んで損はない本ではあるんだけれど……。

その点、一部でコスメ女子としても知られる小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』ちくま新書)は、非常に周到だし現実の動きをしっかり押さえていてバランスも見事。変なもったいつけた本を読むより、この一冊をまずきちんと読むことを万人に奨めたいところ。 本書は書名通り、何よりもロシアの軍事面での分析だ。そしてその冒頭は、情報戦やサイバー活動、ドローン、経済、政治工作その他すべてを動員した、通常兵力にとどまらないロシアの新しいハイブリッド戦争遂行能力の記述だ。これはクリミア侵攻で異様な成果を挙げた。ここまでなら、スナイダー本でも羅列とはいえ記述されていた。


現代ロシアの軍事戦略

だが、本書はそれを全体の中にきちんと位置づける。これまでの戦争や軍事作戦とどうちがったのか、そこで各種のメディアや情報活動、経済、PMC (傭兵部隊のワグネルとか、知ってるようなふりしてたけど、実はよく知らなかったのよね。へえ、オリガルヒが養っている実質的なプーチンの私兵部隊なのか。経済制裁でロシアの外貨が尽きたらすぐ寝返るかと思ったら、そうはいかないみたいね) などがどうからんできたのか、そのどこが革新的であり、従来の軍事活動の枠組みと比べてどうだったのか。結局、通常兵力の重要性は揺るがないこと、そしてそのハイブリッド戦争も経済力の影響を受けて決して無敵ではないことまで指摘してくれる。

また、イリインとかの具体的なインチキナショナリズム思想自体の解説はないけれど、その位置づけはきちんと出てくる。プーチンが経済成長の停滞の中で、アラブの春/マイダン動乱的な国民反乱を恐れて独裁ファッショ的な方向に向かい、そのなかでナショナリズムの旗印を掲げる必要性が強まった点、さらにNATO拡大に対するプーチン/ロシアの苛立ちや危機感というのが決して理解できないものではないこと、そしてロシアの考える「大国」としての自国とその「勢力圏」の中でのウクライナ、さらにはシリアなどの位置づけまで、非常に明解。 しかもそれが、「こうです」と結論だけあっさり断言されるのではない。

この短い本の中で、どの分析もそれがどのような議論の中で固まってきた見方なのかをいちいち説明し、多角的な見方を提供してくれるのは実にありがたい。単純に「グローバル化の落ちこぼれがネトウヨ化してフェイクニュースファシズムに走りました」なんていう話ではすまないのがよくわかる。

ただ、おそらくこの本を読んだ多くの人も感じることだとは思うけれど、一つ知りたいのは、今回のウクライナ侵攻でのロシア軍が、ここで描かれているようなハイブリッド戦争を見事に展開した軍事組織には見えない理由だ。情報戦、敵の通信ラインの撹乱、電力網のクラッキング—そうしたクリミア侵攻でのロシア軍の画期的な動きとされる攻撃は、今回のウクライナ侵攻ではむしろロシア側が徹底的にくらっているように見える。クリミア侵攻が不意打ちの要素もあってうまく行きすぎただけなのか、それに懲りて西側が手口を研究しつくし、完璧な対抗措置を打ったということなのか、それともピンポイントで動いたクリミアに比べて今回の通常兵力を大規模に広げた侵攻は性格がちがうためなのか? 今後、そういう分析も加えた本は出てくると思うので注目したいところ。

2021年刊ということもあり、タイムリーな本で非常に勉強になっておもしろいけれど、中心が軍事的な話になってしまうのは、そういう本だから仕方ない。細かい兵器や作戦行動の話はいいから、というミリヲタ要素の薄い読者であれば、もう少しウクライナとの関係も含めた歴史的な経緯や地政学的な話、さらにはロシアの「帝国」としてのあり方をめぐる、いやな言い方だけれど文系的な記述が中心となった、同じ著者の『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』東京堂出版)のほうがいいだろう。これも非常に優れた本。ロシアがそもそも、ソ連崩壊以来ずっと国をまとめる理念を見出せずに苦闘してきたことから始まり、ナショナリズム的な思想の位置づけもその中で整理される。これで『模倣の罠』『自由なき世界』の主張がどこにはまってくるか、きわめて見通しがよくなる。

さらに北方領土問題についても、「二島返還とかあまり期待するなよ」と身も蓋もないがはっきりした分析。 逆にミリヲタが脊髄にまで浸透している読者なら、彼の共著書『徹底抗戦都市モスクワ 戦い続ける街を行く!』ホビージャパン/廣済堂) も見よう。ミリヲタモスクワ観光ガイドというニッチもいいところの代物だけれど、そこで得た知見が小泉の他の本にも活かされているのがわかる。やはり現場に行ってブツを見ていると強い!

これらの小泉の本は、ロシアが展開してきた軍事的な話については詳しい。でも、彼らの全面戦争/ハイブリッド戦争や、戦争にいく以前の影響力拡大の活動はもっと大きなものだ。戦争なんて、ある意味でクラウゼヴィッツ流の、別の形での政治の継続なんだから。そして、中でも今回のウクライナ侵攻で如実に見えてきたのがエネルギー/資源による、特にヨーロッパに対する影響力の確立戦術だ。

ウクライナ侵攻への対応で当初、ヨーロッパ—特にドイツ—の足並みがそろわなかった大きな原因は、ロシア産のエネルギー資源への依存だった。ドイツは、その偏狭な反原発政策と現実離れした環境お題目のためにロシアの天然ガスに大きく頼るようになり、ガスプロムシュレーダー元首相を取締役にして政治トップへの怪しげな工作も露呈した。何とあのトランプが2018年にこれをドイツに警告して、ドイツ (とメディア) がそれをバカにしている映像がツイッター上で出回り、認めたくはないけれどトランプも完全にアレではなく、おめでたかったのは良識派を気取っていた連中だったことが4年後に今になって明確になってしまっている。

一方イギリスもロシアの(高い) 天然ガスに大幅に依存しつつ、自分たちの天然ガス井は潰すという、どう考えてもおかしな政策を環境団体の圧力で行っている。このため当初、対ロシア制裁の足並みは大きく乱れたのは記憶に新しいところ。こうした動きを、ロシアが後押ししていなかったとは考えにくい。

今後、こうした活動や、それがウクライナ侵攻とどう関わっているかについて述べた本はたくさん出てくるはず。そのトップで出てきたのが杉山大志&渡邊哲也『中露の環境問題工作に騙されるな! 脱炭素で高笑いする独裁者たち』(かや出版)。温暖化対策も含め各種の環境運動が、実は必ずしも環境とは関係ないプロパガンダで、しかもそれが往々にして中国とロシアへの利益誘導になっていることを指摘する対談本だ。対談だし、当然ながらものすごく急いだ本だから細かい厳密な分析はなく、大ざっぱな議論にとどまるのが難点とはいえる。でもポイントは抑えている。

ただ、資源エネルギー的なロシア依存を高めるのが、すべてロシアの長大な陰謀の結果というのはおそらく言い過ぎだろうとは思う。経済的なつながりを強めて相互依存を強化し、それにより戦争のしづらい世界を創ろう、というのがこれまでの世界の基本的なコンセンサスではあったんだから。

ぼくもそのお題目をもとに中越高速道路のFS(Feasibility Study:収益性や経済性の事前評価)をやったし、EUなんてまさにその理念でできている。ついでに、トランプ時代のアメリカがひどすぎたから、ちょいと距離をおいてロシアや中国と関係を強化するほうがマシじゃないか、というのはだれでも思った (もちろんトランプそのものがロシアの陰謀という見方もあるわけだが、それはいささか極論すぎるし、トランプはロシアを警戒していた面もあることは上の映像からも明らかだ)。

でもそれが諸刃の剣だったことが、今回の戦争により最悪の形でわかってしまった。だから今後の安全保障を考えるにあたっては、エネルギー安保を含めた経済、産業、ライフラインもいっしょに考える必要がある、というのが今回のウクライナ侵攻に伴う混乱の、改めての教訓だろう。そこらへんは、この対談でも外してはいない。

そうなると結局のところ、まず資源エネルギー安保と環境の話に関しては、政治理念やイデオロギー、あるいは理想に基づく既定路線みたいなものに頼らずに、基本にたちかえって見直す、という話にならざるを得ないだろう、とぼくは思う。そして特に地球温暖化の話に関しては、その出発点となる絶好の本が最近邦訳された。それがスティーブ・クーニン『気候変動の真実 科学は何を語り、何を語っていないか?』日経BP)だ。気候変動については、もう科学的に沙汰が下っている、というのがよく言われる話だ。二酸化炭素排出の増大で人為的な温暖化が起きている、このまま行けば文明崩壊、生物絶滅、地球は死の星になり人類滅亡は必定だ、だからそれを疑問視するヤツは対応を遅らせたがる石油業界の走狗で科学否定の野蛮人、ということになる。


気候変動の真実 科学は何を語り、何を語っていないか?

ところが、この本はそれらをほぼ否定する。こうした議論のいずれも、決して盤石ではないどころか、かなり怪しい。二酸化炭素排出は確かに増えている。でも、それがどんな影響をもたらすかは全然わからない。ここ数十年の温暖化も、十分に自然変動の範囲内で、人為的な温暖化が確実に起きているかどうかすら、断言できる状態ではないのだ、と。

いつもなら、「ああ、ありがちな温暖化否定論か」と一蹴されそうな議論だけれど、これがアメリカで出たときには、かなりの衝撃だった。というのもこのクーニンは決して異端のイカレた陰謀論者などではなく、オバマ政権でエネルギー省科学担当次官まで務め、気候科学、温暖化のモデル構築、その問題点や課題、さらには政治的な事情について熟知している人物だからだ。それがここまではっきりと、いまの温暖化議論の根幹にかかわる批判を公にするというのは、尋常なことではない。この現状(温暖化ではないよ、それをめぐる各種の議論のあり方のほうだよ)について、彼がどれだけ危機感を抱いているかは如実にわかる。

単純な話ではある。海、空、陸地、宇宙、雲、あれやこれやのそれぞれについて、データは限られているし、仕組みも完全にわかっておらず、自然の変動もきわめて大きい。それについてものすごく複雑な(それでもかなり粗雑な)モデルをこしらえて、それをさらに全部、無理矢理つなげてもっと粗雑なモデルを作っているのが現状だ。それをもとに未来のことが確実に見切れました、というのは、それ自体がかなり大胆な物言いだ。

これに対して「いや短期のことはわからなくても長期の動向はわかるのだ、明日の天気はわからなくても夏に暑くなるのはわかる」と強弁する人もいるけれど、少しでも長期の予測モデルを作ったことがある人なら、そんなのがウソなのはわかる。だいたい、そんな長期のことのほうが確実にわかるなら、短期金利より長期金利のほうが高いわけないじゃん。

さらに実は、これまで気候変動や温暖化の話で出てくる、世界が水没するだの全生物が絶滅するだの、巨大台風だの熱帯病で人類死滅だの食料危機だのというおっかない恫喝シナリオのほとんどは、気候予測シナリオの中でも最も極端なものに基づいている。でもここしばらくの実際の温暖化推移を見ると、そうした極端なシナリオの可能性はほぼないも同然だとわかり、最新のIPCC報告書でもそれは明記されている。

そもそも、台風も洪水も、その他温暖化のせいで悪化されているかのようにマスコミで喧伝されるほとんどの現象は、ここ半世紀ほどでまったく増えてはいない。山火事が最近になって微増したのは、森林管理の予算を削られたことが大きい。こうした事実をきちんと伝え、そして各種の温暖化をめぐる「科学的」物言いについても、徹底した突っ込みをもっと公式に行うことで厳しい検証をすべきではないか、とクーニンは論じる。

この本を書いたことでクーニンは完全にエコ勢の敵認定されてしまい、変な重箱の隅突きや陰謀論で彼を攻撃する話がやたらに見られる。でも彼の経歴も知見も本当に立派なものだ。気候科学、温暖化の各種モデル、その見方や注意点すべてについて深い識見を持つし、それだからこそ彼は、オバマ政権でエネルギー省科学担当次官になった。科学は事実をもとにすべきだし、また厳しい検証を行うべきだ。「コンセンサス」とやらに同意しない学者を弾圧し、キャンセルしまくったら、そりゃコンセンサスは揃うけれど、でもそんなものに何の価値もない、と著者は、実質的に自分のキャリアをかけて本書で訴えている。

この本の結論を信じるかはもちろん読者の考え方次第だ。でも、序盤あたりにある、そもそも気候モデルがどんなものか、そこにどんな不確実性がこめられているのか、そしていまの科学の限界がどこらへんにあるのか、という話は一読しておいて損はない。それを知らずに、誇張された脅しばかりで右往左往しても、百害あって一利なしだ。

ちなみに、先ほど紹介した対談本の杉山大志が、本書の解説を書いている。杉山はIPCCの委員も務め、この問題については権威の一人だ。最近、彼も『脱炭素は嘘だらけ』産経新聞出版)で、ほぼ類似の主張をしている。こちらはレジ袋有料化 (いやあ、あれが義務化ではなく単なる「強い推奨」だったという最近の報道にはびっくりした) も含めたもっと日本特有のトピックに即したもので、一般読者にはこちらのほうがとっつきやすいかもしれない。

でも温暖化危機論者はいまだに、温暖化で地球滅亡の恫喝シナリオから離れるつもりはないらしい。温暖化危機論者として名高いアメリカのジョン・ケリー上院議員は、ウクライナ侵攻の報を受けて開口一番、「ウクライナで、長期的な気候変動の危機が忘れられるのが心配だ」「ウクライナ侵攻が気候変動に与える影響が心配だ」と言い放った。いや、そんな水準のちがう話をいっしょくたにされましても。ケリー個人の問題かもしれないとはいいえ、明らかに物事の優先順位づけがバグっているのがわかる。

今後、ロシアやプーチンの処遇も含め、世界は非常に面倒な仕組みの見直しを迫られることになるけれど、その中でこうした地球温暖化や環境問題も、見直しを余儀なくされる。そのときに、このクーニンなどの本の、結論とまでは言わないけれど、基本的な議論のベースくらいは共有できるようにしておきたいもの。それって実は、もう20年も前からロンボルグやリドレーなどが主張してきたのとまったく同じ話ではあるのだけれど……。