Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

無限・諸科学の統合・良いお年を

今年最後の「新・山形月報!」は、スゴ本であるところのデイヴィッド・ドイッチュ『無限の始まり』(インターシフト)を大紹介。他にハーバート・ギンタス『ゲーム理論による社会科学の統合』NTT出版)、ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』早川書房)、そして年明けに刊行される山形さんが訳した、ポール・シーブライト『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』みすず書房)にも触れられています!



やっと今年最後の出張から帰って参りましたが、日本は寒い! 南国に慣れた体にはいささかきつうございます。

さて今回はいろいろ……と思っていたけれど、前回予告した本の1冊に引っかかって、他がまったく読めなかった。その1冊とは、デイヴィッド・ドイッチュ『無限の始まり』(インターシフト)。

無限の始まり : ひとはなぜ限りない可能性をもつのか

無限の始まり:ひとはなぜ限りない可能性をもつのか

この本は異様にわけのわからない本だ。そもそも科学理論とは何か、というところから始まって、宇宙における人間の存在意義に話が飛び、そこから進化と遺伝子の話に入って、普遍性を論じつつデジタルコンピュータに話が飛び、宇宙論をかすめつつ量子力学と多世界理論の話に飛んで、哲学と物理学の理論構築の問題をうにゃうにゃ語ったかと思うと、社会選択理論を丸ごと踏みにじり、そこから突然、美の持つ普遍性の問題を論じ(人間にとっての普遍性、なんていう甘いものじゃない。この宇宙や現実の存在そのものにおける美の意義と普遍性が語られ始める)、そして各種決定論を滅多切りにして、そして最後は人類と文明と知能の無限の発展、無限の可能性を高らかに歌い上げて終わる。

……これが1冊の本に詰まっている。いやはや。

本コラムをお読みの方々ならご存じだけれど、ぼくは多少の節操のなさで驚いたりするような読者ではない。自分でもやたらにあれこれ手を広げたがる人間だし、いろんな分野を縦横無尽に逍遥する、無謀で元気で大風呂敷まみれな本はむしろ大好きだ。そして最近では、いろんな分野でそれができるようになっているので嬉しい限り。

ハーバート・ギンタス『ゲーム理論による社会科学の統合』(NTT 出版)は、題名の通りゲーム理論を通じて、進化論、経済学、認知科学なんかをまとめあげようとする試みだったし、この本以外にもNTT出版の「叢書≪制度を考える≫」というシリーズは、そういう無謀な試みがだんだん結実しつつある成果をいろいろ紹介している。どれもえらく高くて分厚くて難しいけど、まだまだ試みとして始まったばかりだから仕方ない。

これ以外にも、脳科学、進化論、経済学あたりをだんだん統合するような動きは出ているし、ちょっと宣伝めいて恐縮だけれど、来年早々に拙訳で出るポール・シーブライト『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』みすず書房)は、協力の発達というテーマを核に、進化論から霊長類学、経済学を経て、都市論から軍事、資源などやたらに風呂敷を広げた楽しい本になっている。が、そういうかなり広いテーマを扱う本でもたいがいは、社会科学をまとめましょうとか、そこにちょっと生物学的な基礎をつけましょうとか、手に負える試み にとどまっていることが多いのもまた事実。

けど、このドイッチュの本は、そういうレベルをはるかに超えた、とうてい正気の沙汰とは思えない代物だ。だって……さっきの粗筋を読んで、これがどんな理屈でこれだけとんでもない範囲の代物を結び合わせようとするのか見当がつくやつは、まずいない。ぼくですらこの話の飛躍ぶりというか強引なまとめぶりには唖然とした。えーと、cakesはきちんとした媒体なので直接は出せないと思うけれど、ここでポルナレフAAを是非貼ってほしいところ。ああいう種類の戦慄を久々におぼえた。

簡単にその理屈をまとめると、次のようになるかな。科学理論とは現実についての説明だ。進歩とはすべて、もっとよい説明を求める活動だ。説明の改善を阻むものはすべて悪でダメでろくでもなく、試行と仮説でよい説明を追求する活動はすべてよい。人類はその知識創造を通じて、あらゆるものを創り出し構築する普遍化する存在であり、それが宇宙における人間の意義だ。地理決定論や歴史決定論は、過去の経緯だけを見て新しい道筋を作り出すという人間の知識創造を反映していないからまったくダメであり、社会選択理論はそもそも前提となる選好だの価値観だのが一定だと考えてその中でうじゃうじゃやってるから無意味。問題はすべて解決できる。解決できないのは問題がそもそもまちがっているから。確定していない前提を確定したことにしてしまっているから。今後人間は、不合理な死も解決し、資源問題だのエネルギー問題だのも絶対に解決し、無限に発展し続ける。今こそはその無限の始まりなのだ!

— いかがだろう? いま、こういう手放しの楽観論はなかなかお目にかかれない。むしろ手放しで何かを肯定しないように、留保をつけるのが知識人っぽいポーズだと思われている。人間はいろいろ問題を抱えているけれど、がんばりましょうというのが流行のポーズだし、そこでむしろ、もう人間はおしまいだ、限界だ、理性も合理性も知性も壁にぶちあたり、これ以上発展の余地はない、これから人は滅びるだけ、それを避けるためには、いまいちど人類の幸せを見直し、貧しくても優しさのある社会を……というような悲観論をぶって見せるのが、なにやら思慮深く深遠な思想を語る常道となっている。でも本書はそういうのをあっさり蹴飛ばす。すごい。それだけの知的な自信も、そしてそれを単なる希望や信仰告白ではなく、理屈で論証してしまおうとする無茶ぶりも。

さて……おもしろいと言いつつ、ぼくは本書の議論を完全に理解できたわけではないし、何言ってんのかわかんない箇所が山ほど出てくる。著者は、経験論はダメだという。それと、実証的に検証できないような理論なんか意味あるのか、という実証主義もダメ。その一方で、理論はちゃんと事実に立脚していなければダメだという。うーん。それって実証主義になるんじゃないの? あんたの言ってる「創発」ってなんか世間で普通に言うのとずいぶん意味ちがうんじゃない? そういうことを考え始めると、全然先に進めなくなるのでご注意を。実は前著『世界の究極理論は存在するか』朝日新聞社)も、ドイッチュが「きみたちは隠れ帰納主義者だ」と言っていたいけな読者をびしびし追い詰める怖い章があって、毎回そこまでくるたびに「そうかぁ、ぼくは隠れ帰納主義者だったのかぁぁぁぁぁっ!」とショックを受けて本を閉じてしまうというのを繰り返していて、結局最後まで読み終わらなかったの だ。

(あとから考えると、なんで帰納主義だといけないのか実はよくわかんないんだけど、そのときはなんかすごく恥ずかしい気持ちになるんだよね。)

本書はそれよりはずっとわかりやすい。が、それでもときどきあの堂々巡り感はある。だから途中でひっかかってもあまり深く考えず、とりあえず先まで進んで一通り読んで見ることをおすすめする。それにときどき、ドイッチュの議論はずいぶん細かいことばの定義をいじくって強引に話をつなげているような印象があるし、単なるレトリック上の誇張をマジに反論してみたり、本当に理解するだけでもあと何度か読み直す必要がありそう(まして理解しても納得できるかどう か……)。

それでも、こういう試みがそもそも可能だということさえ、ぼくには思いもよらないことだった。本当にあらゆることをつなぐ変な理論があり得るんじゃないか? その可能性をかいま見られるというだけでも本書はえらく興奮させられる。本当の意味での知的興奮を味わいたい人はどうぞ……と安易に薦めていいのかどうかもわからないのが頭の痛いところなんだけど。読みにくく、面倒な本であるのも事実だから。 だからこそ、この本は、たぶんだれかがちゃんと紹介したほうがいいと思うんだが……いろんなメディアの書評欄とかを考えて見ると、正直いって、これをまともに紹介できるであろう人ってまったくいないのだ。

ちなみに書評も、分厚くて難しくて評価が定まらない本って、みんなとりあげたがらないのね。面倒だから。稲葉振一郎なら書けるかなあ。でもあの人の紹介もまたむずかしいし。そんなこんなで、ぼくみたいな素人が、こんな要領を得ない紹介を書くくらいでデイヴィッド・ドイッチュには我慢してもらわねばならんというのは、日本の文化的な—まあいいや。

ちなみに、こういう話のごく一部に近いものをもうちょっと素人に近い目線でいろんな人にインタビューしてまわった(といってもこの人素人じゃないけど)本として、ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』早川書房)はもうちょっと読みやすくて、『無限の始まり』に挫折したときに読むと、多少はホッとするでありますよ。

ではみなさま、よいお年をお迎えくださいな。