2013年4月2日
年度末でバタバタしております。さらに分厚い本をいろいろ読んだりしているもので……。その分厚い本の1冊目がジェイムズ・グリック『インフォメーション』(新潮社)。これは情報の歴史、といってしまえばそれまで。人類はずっと、情報と共に生きてきた。そしてさまざまな情報技術——それは通信技術もあれば、情報を蓄積する技術、情報を計算して処理する技術すべてを含む——の発展と共に文明は興亡を見せてきた。
本書は、その歴史を描く。トーキングドラム、枝木通信、モールス信号、百科事典といった古いものから始めてはいるが、基本はもちろん現代のコンピュータと インターネットにつながる各種の技術だ。もちろん、コンピュータの歴史などすでに腐るほどあるけれど、本書はまず、名前は有名だがビクトリア時代にコン ピュータの原型となる解析機関なる装置を設計したくらいしか知られていないバベッジについて、かなり詳しい記述があり、また情報理論の父の1人たるクロー ド・シャノンについて非常に詳しく書かれているのが特徴といえるかな。
そしてこの手の本は、通常は「だんだん扱える情報が増え、通信速度も上がりました」というだけの代物になりがちだ。でも本書はもう1つ、そこに重要な流れ を付け加えている。情報処理の形式化、自動化、機械化という流れ。その過程で、本書は類書であまり見られない重要な指摘をする。情報処理技術の発達におけ る画期の一つが、人間にとっての情報の「意味」というものが希薄化したことだ、という指摘だ。
シャノンの情報理論の重要性もそこに出てくる。シャノンは、「情報量」という概念を定式化した。たとえば、11111111.... と100回1が続くデータがある。でも、これは実は100文字分の情報量はない。1が100回、と書けばはるかに短く同じ内容を表現できるからだ。そして 通常、ぼくたちが文章を読んだりして「これは情報量が多い」と感じるとき、ぼくたちにとって意味のある内容が多い、という意味で使っている。だから、通常 は「情報量」と「意味」をほぼ同義だとぼくらは思っている。が……実際は、この両者はちがうものだ。ぼくにとって、アラビア語で書かれた文は意味を持たな い。しかし、それでもその情報量は計算できる。意味は、それを受けて理解する主体を必要とする。情報量は、だれもそれを読まなくても存在する。
もともと人間にとって、情報というのは意味を伝えるものとして重要だった。媒体と情報とその意味は不可分だった。紙(媒体)に書かれた文字の集まり(情 報)により、その意味が伝えられる。人間が情報をいじくろうとするのも、まさにその意味のせいだった。でも、情報技術の発達でそれが変わった。
まず、媒体と情報が切り離された。文字は紙に書かなくても、画面で表示されたり音読されたりディスクに記録されたりするようになる。そして次に、情報は意 味から切り離される。もはや情報を伝えるのに、それがどんな意味を伝えるかは問題にならない。ぼくたちはインターネットの上を流れる情報についてはあれこ れ語るが、その意味については——ポルノでもない限り——どうでもよい。というか、ぼくたちは自分にとって意味あるわずかな情報を探すために、意味とは関係ないすさまじい量の情報を発生流通消費させているわけだ。
さらに意味から切り離されたことで、情報はそれを受ける相手がいるかどうかに関係なく、すさまじく増加できるようになった。形式化され、機械化・自動化さ れたことで、いまや大量の情報が勝手に作られる。その多くは、情報量はある。でもだれかにとって意味があるかどうかはわからない。もはや情報は、人間を必 要としない。人間は、情報を勝手に作り流通させる機械を、導入改良メンテナンスするだけの存在となる。そしてそのごほうびに、「意味」というエサを投げて もらえる。それはたとえば人間にとっての大腸菌のような存在だ。
そうなった「情報」はどうなるのか? 人間にとっての意味を持たない情報とは? 1つには、それは遺伝子のような形で物理世界と関われる。それは人間を 作った。そしてそしてもっと先には、情報宇宙論のように、宇宙すべてが情報の巨大な集積でしかないという世界が待っている。そこに到るどこかで、人間はも はや情報に必要されなくなるのだ。ぼくたちはいままさに、情報の歴史が人間と決別しようとしている地点にいるのかもしれない——本書は(特にエピローグで)そう語る。その語り口は、ちょっと悲しい。たぶん著者も、そんな結論に達するとは思っていなかったんじゃないか。
最後に著者は人類を、ボルヘスの「バベルの図書館」——あらゆる文字の組み合わせの本があり、したがって文字で書けるすべての情報が存在するという図書館を描いた小説——をさまよう読者になぞらえる。ぼくたちは、情報の海を、意味を求めてさまよう。人間にはそれしかできない。でもそれはもはや、どうでもいいことなのかもしれない——それはつまり、この本を書いているグリックの活動も、実はどうでもよくなってしまったのかもしれない、という悲しい認識でもあるのだ。
そういう認識を小説にした、前出のボルヘス「バベルの図書館」は『伝奇集』(岩波文庫)に収録されている。また、機械がもはや人間を離れた情報処理に突入した話としては、スタニスワフ・レム『虚数』(国書刊行会)に収録の「ゴーレムIV」などをどうぞ。哲学的な思索の好きな人なら絶対楽しめるので。
同じく分厚い本だけれど、情報の歴史の中でも本当にコンピュータだけにしぼったおもしろい本としては、ジョージ・ダイソン『チューリングの大聖堂』(早 川書房)をどうぞ。これも、本当にいろいろな話が満載で、コンピュータの歴史に興味ある人なら新ネタがいくらでも仕入れられる。特にぼくがおもしろいと 思ったのは、第二次大戦前にナチスに追われたヨーロッパのものすごい学者たちが活躍する場となった、プリンストンの高等研究所、という場所の話。
チューリングの大聖堂: コンピュータの創造とデジタル世界の到来
その創設者の一人であるエイブラハム・フレクスナーという人物が、その研究所の意義を説明した「役立たずな知識の有用性」という文章があって、これがすば らしい。研究というのは有用性なんてことを考えていてはいけない。いま有用とされる数々の技術だって、はるか昔に何ら実用性がないものを、えらい学者が好 奇心の赴くままに研究していたからこそ芽が出たものだ。電気なんて人をおどろかすおもちゃでしかなかった頃に、ファラデーやマックスウェルは電気をおもし ろがって研究したし、それがいまやすごい役にたっている。
でも、いずれ役にたつ、ということで研究を正当化するのもダメだ、とかれは言う。好奇心の無意味な追求は、人間を有用性という足かせから解き放つ、自由の 称揚なのだから、それ自体として肯定されねばならない、とフレクスナーは語る。本書ではちょろっと紹介されているだけのこの主張があまりにおもしろそう だったので、探し出して自分で訳してしまいましたよ。[フレクスナー「役立たずな知識の有用性」 (1939) pdf, 54kB]
もちろん本書において、高等研究所はただの出発点で、現代コンピュータの歴史はそこからだ。『インフォメーション』の後では重複する部分も多いけれど、これまたちがった視点での情報技術史としてご一読あれ。
人間と情報や機械との関わりということでは、エリク・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー『機械との競争』(日 経BP社)が人間の役割の終わりについて触れた本としてちょっといいかな。経済学者はこれまで、機械が人間の職を奪っても、その分別のところで新しい職が 生まれるから大丈夫、と語ってきた。でも本書は、いまや機械の発達がはやすぎて、人間が駆逐される一方になっている、と指摘する。長期的には大丈夫だ、と 言いつつも、短期的にはそれが問題になるのだ、と。指摘としてはありがちながら、それをきちんと裏付けたところがおもしろいといえばおもしろい。
が……これについては、別の経済学者がおもしろい指摘をしている。1人は、複雑系経済学者として名高いW・ブライアン・アーサー『テクノロジーとイノベーション』(みすず書房)。これは、イノベーション——つまり技術と情報のかけあわせ——が人間を置き去りにしている、という指摘でおもしろい。でもそのとき人間の立場は? それを述べたのがポール・クルーグマン『良い経済学 悪い経済学』(日 経ビジネス人文庫)所収の「機械の復讐」。ブリニョルフソンは、人間はクリエイティブな少数のエリートとそうでない単純労働者に分化すると述べるけれど、 クルーグマンは、そのクリエイティブなエリートだって実は大したことしてない、と指摘する。人間が本当に得意なのは、お掃除とか細かいメンテとか、そうい う雑用なのだ、と。
だから機械が世界の主役になっても、人間の仕事はあるのだ、と。それは機械を使いこなす仕事(ブリニョルフソンはそれに期待している)ではない。機械に使 われる仕事なのだ、と。これはグリックの、意味をえさに情報に使われる人間、という見方と共通していて、ぼくはすごく気に入っているのだけれど、あなたは いかがだろうか?