Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

錯視・アウトサイダー・諜報戦

今回の「新・山形月報!」(月に2回連載してますから、この連載名はやや変ですけど……)が取り上げる主な本はこちらです。ディーン・ブオノマーノ『バグる脳』河出書房新社)、ゲアリー・マーカス『脳はあり合わせの材料から生まれた』早川書房)、ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器』誠信書房)、スティーヴン・L・マクニック、スサナ・マルティネス=コンデ、サンドラ・ブレイクスリー『脳はすすんでだまされたがる』角川書店)、ジョージ・エインズリー『誘惑される意思』NTT出版)、コリン・ウィルソン『アウトサイダー』(中公文庫、上下)、飯田泰之『思考の「型」を身につけよう』朝日新書)、ロバート・サーヴィス『情報戦のロシア革命』白水社)、デイヴィッド・ミッチェル『クラウド・アトラス』河出書房新社、上下)など。気になる本がないか、ぜひ探してみてください!



1月ももう終わりで、年末から続いているぼくの連続海外出張もそろそろ落ち着きそう。やれやれ。本は重いので、出張のときに興味あるものを何でもかんでも持ってくるわけにはいかないのがつらいところ。しかも、なんだかんだ言いつつ、半分くらいの本は外れなので……。

その中で、ディーン・ブオノマーノ『バグる脳』(河 出書房新社)は、なかなかおもしろかった。脳はいろいろ情報処理をはしょっているので、しょっちゅうかなりいい加減な結果を出す。いちばん簡単な例は錯視 とか錯覚、あるいは付和雷同したがるクセとかだけれど、それ以外にもいろいろある。行動経済学をかじった人なら、損失回避というのを知っているはず。人は 期待値が同じでも損をするのを異常にいやがる、とか。広告なんかはそういう認知のゆがみにつけこんで、いろいろ売りつけようとする。本書は、そういう変な 現象を引き起こす脳のメカニズムを簡単に解説した上で、今挙げたような簡単な例から、果ては宗教までを解説する。

この種の本はすでにいくつかあって、ゲアリー・マーカス『脳はあり合わせの材料から生まれた』(早 川書房)は、まさにこうしたバグの原因となる脳のあまり整然としていない構造を重点的に解説してくれて、おもしろい。そこから出てくるいろんなバグのあら われ方については、各種の行動経済学の本などがあるし、その広告への応用についてはこの本でも名前が出てくるロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器』誠信書房)を是非お読みあれ。またそれがマジックで活用されている様子は、スティーヴン・L・マクニック、スサナ・マルティネス=コンデ、サンドラ・ブレイクスリー『脳はすすんでだまされたがる』角川書店)など。

で、そうしたバグはできれば直したほうがいい……のかな? 直せるのかな? 実は立命館大学北岡明佳教授の「北岡明佳の錯視のページ」は、 まさにその脳のバグが眼前に繰り広げるすごい光景を縦横に見せてくれるページで、これを見るとバグにはバグの意味があるのかもなあ、と思ってしまうし、さ らに重要な点として、ぼくたちはこのグニグニ動く変な図形を見て、それが錯覚で脳のバグだと知ってはいるんだけれど、どれでも錯覚はいっこうに消えず、画 像はグニグニ動き続けるのだ。北岡教授のいろんな本は、それを説明してくれて、どれもおもしろいんだけれど、やっぱこの図像自体のすごさには負けてしまう のがつらいところかなあ。

が……そういう錯視はともかくとして、やっぱ直したほうがいいと思える脳のバグは多い。不合理な思い込みやまちがった信念へのしがみつきがなくなればどん なにいいことか。そのバグの一形態は、目先のものはやたらに大きく思えて、少し先のものはかなり小さく思える、というものだ。そんな仕組みがあるからこ そ、ぼくたちはいろんなことをついつい先送りにしてしまい、締め切り間際で(あるいはそれを過ぎてから)慌てふためき、後悔する。というようなことだ。計 画性のある、慌てず後悔しない生活を送れればどんなにいいことか…… 本書も、最後はこうしたバグをいかに直しつつ、補正しつつ生きるか、という話で締め る。

でも一方で、完全に合理的に後悔も何もない行動ができるようになっていれば、人はそもそも意識なんてものを発達させる必要はなかっただろう。機械的に チャッチャッと何でも処理できて迷う必要なんかなかっただろうし、したがって迷うための意識なんていらなかっただろう。ここらへんの(必要以上にややこし く異常な)分析は、ぼくの訳したジョージ・エインズリー『誘惑される意思』NTT出版)にも詳しい。ある意味で、脳のバグこそは人間を人間たらしめている。そのバグを補うために、人は感情を発達させたり、社会を作ったりしているんだから。

そうしたバグの発現を、もっと文学哲学的にあれこれ考察したと言ってもいいかもしれないのが、コリン・ウィルソン『アウトサイダー』(中 公文庫、上下)。まさか復刊されるとはね。ぼくたちの日常的な普通の社会がインサイダー。でも、その外側に生きる存在がいる。それは狂人(自主検閲用語な ので仮名漢字変換ではすぐ出てきてくれないけど)だったり、芸術家だったり、そして果ては犯罪者だったり宗教家だったりする。彼らは日常的なインサイダー 生活に飽き足らないか、あるいは何かの拍子にその外側を見てしまった。それを抱えた人々はどう生きるのか?

アウトサイダー(上) (中公文庫)

アウトサイダー(上) (中公文庫)

なぜこれが今復刊されたのかはよくわからない。原著が書かれたのは1950年代末。ちょうど世界(特に欧米)は、第二次大戦を終えて急激な復興と発展を遂 げ、物質文明絶頂期。そしてそのとき、物質的な繁栄に飽き足らない人々が出現しはじめていた。もっと心が重要じゃないかとか、西欧とは別の未開人とか東洋 とかの叡智があるんじゃないかとか、ドラッグでの精神変容とか。この『アウトサイダー』は、そうした時代の要請に見事にあてはまり、当時まったく無名だった著者コリン・ウィルソンは、本書をきっかけに時代の寵児になり……そしてその後何一つまともなものを書かずに生涯を終えた。

ちなみに原著が書かれたとき、ウィルソンは土管に暮らして大英図書館に通って本書を書き上げたという伝説がある。解説とか解題は、こうした小ネタを含め、 当時の時代背景とかについてもう少し俯瞰的に説明してほしいと思うんだが、内田樹が今回つけた「解題」なる代物はくだらない卑近な身辺雑記回想に終わって いて、まったく役立たずなのが残念。とはいえ、1カ所だけいいところがあって、それはウィルソンがネタを集めてくるのは得意だけれど、それを分析したり思 索を深めたりするのは全然ダメ、という指摘。まさにその通りで、この後のウィルソンは『オカルト』河出文庫、上下)で頭の悪いビリーバーぶりをむきだしにしてみせて、『アウトサイダー』で培った名声をどんどん取り崩していった。

この『アウトサイダー』での、もっと高い存在段階を希求するアウトサイダーという姿が、単なるインチキ手品師と催眠術に堕落する様子はあまりに悲しい。でも、そうなる前に彼は少なくとも直感的に何かを感じ取っていた。いま『アウトサイダー』を読む意味といえば、その「何か」を少し感じることかな。でもその後、ウィルソンがインサイダーの手駒として批判していた科学が、脳科学なんかを通じて人間のアウトサイダー—いわば人間精神のバグ—にまで迫っている様子を見ると、結局その「何か」に意味はあったのか—でもそれも、本書を読みつつ考えてみたりするとおもしろいんじゃないか。

アウトサイダー(下) (中公文庫)

アウトサイダー(下) (中公文庫)

ウィルソンは、そのアウトサイダー性というのを自由だと考えている。日常生活の抑圧に対し、精神の自由とその苦しみにアウトサイダー性というのがあるの だ、という。でも……実は人が自由だと思っているものは、実はそんなに自由ではない。どろどろした不満足な常識にとらわれただけの、不自由な思考だったり する。それを指摘したのが、手堅い二塁打的な良書を連発している飯田泰之『思考の「型」を身につけよう』朝日新書)。

何もないところから我流できちんとした思考ができる人なんか(ほとんど)いない。格闘技の型と同じで、ものを考えるにはまずある型を身につけて、それを元 に考えていったほうがずっと遠くまでいける。経済学はその最たるもので、経済学は物事を単純化しすぎるとか、もっと総合的な思考が必要だとかケチをつける 人はいるけれど、でもその「総合的」がぐちゃぐちゃした単なる思い込みでは意味がない。問題をどう切り分けるか、何を何と比べるのか—そうした基本的なやりかたを身につけるべきだという本。

いやまさにその通り。片手間で経済学を学ぼうとする人は、しばしばこの基本的な考え方のいくつかにつまずいて挫折する人も多いので、一度この本を読むことでそこらへんの足下を固め直せるかもしれないよ。ウィルソンなら、これぞ邪悪なインサイダー思考と言うだろうけれど—。

さて、まただんだん長々しくなってきたし、ベトナムに抱えてきた本もあとは落ち穂拾い。前回、ロシア革命の話をしたけれど、ロシア革命本ってついレーニン とかトロツキーとか、当時のロシア内部の話が主体になってしまいがちなんだが、それをもっと広い世界の諜報戦の中でとらえたのがロバート・サーヴィス『情報戦のロシア革命』白水社)。ぶあつい本なので気軽には読めないけれど、社会主義革命も時代の必然なんかではなく、欧米列強に利用された、あるいは見逃してもらった面が大きいことはよくわかるし、スパイの諜報合戦もおもしろい。でもよほどこの分野に興味ある人以外は尻込みすると思う。

で、いま読んでいる気楽な小説がデイヴィッド・ミッチェル『クラウド・アトラス』河出書房新社、上下)。まだ途中だからわからないけれど、いまのところかなりおもしろい感じ。次回は最後まで読んで結果報告できると思うので、こうご期待。