Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

売春・デフレ脱出・電子書籍

年内最後の山形浩生さんによる書評連載です。年末年始のお供となる本をぜひ見つけてくださいね。取り上げる本は、ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』早川書房)、友野典男『行動経済学』光文社新書)、浜田宏一『アメリカは日本経済の復活を知っている』講談社)、荻上チキ『彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力』(扶桑社)、飯田泰之『思考の「型」を身につけよう』朝日新書)です。また、電子書籍の話も出ていますよー。そして、2013年も良い本や濃い本をこのコーナーでは山形さんが紹介していきますので、ご期待ください!



今年もそろそろ終わり……というのはこれを書いている時点での話。年内にアップロードされるはずだけれど、皆さんの中には年が明けてから読むことになる人 も多いかもしれない。こちらは先週に日本に戻ってから本屋をあれこれ漁って必死こいて読んでいるところで、今回はおもしろそうなタイトルを流すだけになっ てしまうけれど、遅ればせながら年末年始の読書の参考になれば幸い。

で、やはり本として注目すべきなのは、ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(早 川書房、上下)。行動経済学の雄としてノーベル経済学賞まで取った心理学者ダニエル・カーネマンの集大成だ。行動経済学については、最近はいろいろ概説書 が出ている。人間が完全に合理的ではなく、100円の得を求めるより、100円の損を何倍も嫌がるとか、金銭的には同じ判断でもそれを一年先のこととして やる場合と、目先のこととしてやる場合では判断がちがってくるとか。

本書は、カーネマンがいかにしてそうした問題に関心を持ち、驚くほど簡単な実験を組み立てて仮説を実証したか、そしてそこから何が言えるかについて、本人 がていねいに語ったもの。高度な内容もあるけれど、とてもわかりやすいしその意義も明解だ。上下巻にわたる長くて分厚い本だけれど、とっても楽しいので紅 白歌合戦を見る暇があったら是非ともこいつを読んでほしい。

いや、他に出ている概説書とちがうことが書いてあるわけではない。でも、創始者がどういう問題意識でそれに取り組んでいたかというのは、ある学問分野の成 立にまで踏み込む体験。ビジネス系のサクセス本を読むよりも臨場感ある、新分野開拓の現場を感じられると思う。どうしても長い本はいやだというなら、友野 典男『行動経済学』光文社新書)などでその結果だけを読むこともできる。でもせっかくお正月で時間もあることだし。

彼女たちの売春(ワリキリ) (SPA!BOOKS)

 彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力

さて、もう少しシリアスな(多少は陰気な)本が荻上チキ『彼女たちの売春(ワリキリ)』(扶 桑社)。最近の若い者はけしからんとか、風紀が乱れておるとかいった、年寄りの印象だけの感想文とは全然ちがう。大量のインタビューと統計データに基づい た、きちんとした社会学的な分析。売春といっても出会い喫茶での売春だけで、ソープその他は入っていないけれど。調査としても実にしっかりした力作で、い ろんなインタビューを通じて売春をする女性たちのみならず、それを余儀なくさせている社会のありかた、セーフティネットの危うさにまで分析が及ぶ。

著者はメルマガの「αシノドス」などでいろいろなインタビューを披露しているけれど、その聞き上手の才能(あるいは場数)が本書でも十分に発揮されている し、決めつけや予断のない調査の積み重ねが強い説得力を持つという、社会学研究のお手本みたいな一冊。お正月に読むのは……暗くなるかもしれないけれど、 年明けに学校や仕事が始まってからでも、いつか必ず読んでほしい。

そうした日本の社会的なセーフティネットが脆弱になってきた大きな原因の一つは、もちろん過去20年強にわたるデフレ不景気だ。年末に成立した安倍政権はその克服を全面的に打ち出し、強力な金融緩和を日本銀行に求めて経済成長を実現させようとしている。

その政策がどんな考えに基づくもので、どんな結果が期待できるかについては、安倍政権の経済政策ブレーンの一人、浜田宏一『アメリカは日本経済の復活を知っている』講談社)を読んでおこう。もちろん、これまでこの欄でも紹介してきた各種のリフレ系の本(連載第三回第五回) と書いてあることはきわめて似通っている(というかほぼ同じだ)。政府としてインフレ目標2%強をうちだし、日本銀行と協力してそれを実現していく。それ は十分実現可能なものだし、理論的にもきわめてストレートで素直な政策だ。たぶんこのコラムの読者諸賢には目新しい話はないだろうけれど、それでも目を通 しておく価値はあると思う。

これが成功するかどうか、2013年は世界的に日本が注目される年となる。世界の経済で、アメリカはなんとか切り抜けているけれど、ヨーロッパはまだまだ ユーロ危機が続いている状況だ。多くの人は、ニュースが聞こえてこないので忘れているけれど、基本的な問題も症状もまったく変わっていないのだ。これにつ いては安達誠司『ユーロの正体』幻冬舎新書)がわかりやすい。

でも、ここでもし日本がデフレから脱出し、数十年ぶりの経済成長をとげてくれれば— 世界経済を牽引する存在にさえなれる。そしてもちろん、荻上の指摘するセーフティネットや若年失業などの問題解決に向けても、大きな一歩となる。経済のパ イが大きくなることがわかれば、みんな足の引っ張り合いをしなくなるだろう。自分が得するために他人に損をさせる必要はなくなる。生活保護受給者を無用に いじめたりすることもなくなるだろう。弱者に手をさしのべることだって容易になるだろう。

でも、いまだに多くの新聞メディアや評論家や経済学者たちは、経済はそんなに簡単ではないとか、リフレは成功しないとか、リフレ政策は異端の邪説だとか、 果ては経済成長が本当に望ましいことなのか、といった世迷いごとをふりまいて、やっといい方向に動き始めた経済政策の邪魔をしようとする。その多くは、と てもだらしない緻密さのない考え方に端を発している。それを直してくれるのが、最近著書が続いている飯田泰之『思考の「型」を身につけよう』朝日新書)。

もちろん彼が扱うのは、経済学的なものの考え方だけれど、それ以前に問題をきちんと把握し、重要な本質だけに焦点があうように問題を切り分けて単純化し、 検証して考え抜く方法を簡単にまとめている。現実の経済は経済学のモデルより複雑だ、なんてことをしたり顔で言う人がいるけれど、あたりまえじゃん。単純 化してあるからモデルなんだもの。単純化したモデルを使う緻密な思考を否定して出てくるのは、漠然とした曖昧な印象論だけだ。むろん、単純化しすぎる危険 はあるけれど(そして経済学はときにその罠に陥ってしまうこともあるけれど)でもその考え方は理解しておく必要があるし、それは仕事にも役立つものだ。

経済学以外でも、そういう考え方をきちんとおさえ、さらに荻上チキ本のような調査や検証も含めて議論を詰めることはとても重要となる。それを西洋史研究という文脈で説明してみせたのが井上浩一『私もできる西洋史研究』和泉書院)。別に西洋史の話が展開されているわけじゃない。仮想の大学で西洋史講義をすることにして、研究としてどういう問題設定をして、どういうことを考え、どういう調べ物をして研究—講義のレポートでもいい—をまとめあげるかという本で、研究としてのお作法の本だ。

でも会社に入っても多くの人は文書作成で日々を費やすことになるし、その際にやらなければいけないお作法は、実は研究とあまり変わらないのだ。新商品の市 場見通しをどう出すか? あるプロジェクトのリスクをどう捉えるか? それに必要な考察はここで述べられているのとまったく同じだ。研究とかレポートと か、どうすればいいのかわからない、という人は是非どうぞ。正直いって弊社の若者たちにも是非おさえてほしいもんだけれど……。

とまあ、社会科学っぽい本ばかりになってしまったけれど、こんなあたりかな。思えば2012年、ぼくの訳書はほとんど月刊状態で、来年もそれがしばらく続 きそうで手元にゲラが4冊分もたまっている有様ある。さらに1月はほとんど日本にいないという様子で、この欄に紹介できるような本も十分読めるかどうか、 まあそこは仕上げをごろうじろ。

その一方で、そろそろ日本でも電子書籍がモノになるんじゃないか? もちろん電子書籍のおかげでどーんと本がいきなり売れるようになるとは思わない。で も、たとえばぼくのようなやたらに本を読む人間には、電子本のメリットもそれなりにあるし(本を出張先に持ち歩くのは重いんだよ)、じわじわと電子本を使 う場面も増えるだろう。外国で日本の本を入手して読むのがいかに楽になることか。自炊ニーズ(つまり自家製電子本作成ニーズ)があるということは、まちが いなく市場は(大きくなくても)あるということなんだから。爆発的な市場発展を期待するより、どうせ本自体があまり売れていないんだから、それのプラスア ルファで少しでもニッチな需要が掘り起こせればもうけものと考えて、出版社とかにも果敢な取り組みを期待したいところだ。

2013年は、そうした方面でも本のあり方が少し変わる可能性もあるんじゃないかとぼくは期待しているんだが。では、皆様よいお年をお迎えください。