Cakes連載『新・山形月報!』

経済、文学、コンピュータなどの多方面で八面六臂の活躍をする山形浩生さん。その山形さんが月に一度、読んだ本、気になる現象について読者にお届けする密度の濃いレポートです。

イノベーションのための空間・AKB48・リスク科学

今回の山形さんの書評連載では、スコット・ドーリー&スコット・ウィットフト『メイク・スペース』(阪急コミュニケーションズ)、エリック・エイブラハムソン、デイヴィッド・H・フリードマン『だらしない人ほどうまくいく』文藝春秋)、アレハンドロ・ホドロフスキー『リアリティのダンス』(文遊社)、R・A・ラファティ『昔には帰れない』(ハヤカワ文庫)、濱野智史『前田敦子はキリストを超えた』ちくま新書)、中西準子『リスクと向きあう』中央公論新社)がどどっと論じられています。それに加えて、ホドロフスキー監督の一風変わった映画『エル・トポ』も取り上げられていますよー。



皆様年末のお忙しい時期、お元気でしょうか。当方前号の記事を書き終えてから、ほとんど日本にいないので、日本でどんな本が出ているのかほとんど把握できていない! 11月末に日本から持ってきたものしか手元にないので、今回は前回に比べて短めなのでお許しを。

さて1冊目は、スコット・ドーリー&スコット・ウィットフト『メイク・スペース』(阪急コミュニケーションズ)。スタンフォード大学のデザイン研究所(本書内では「dスクール」)が、慎ましいスタートでろくな場所を与えられていなかった頃から、どんな形で空間構成を考え、その場のとっさのアイデアを記録してそれを中心に活動を組織し、人々の共同作業をはぐくむように考えていったかを記述し たもの。

MAKE SPACE メイク・スペース スタンフォード大学dスクールが実践する創造性を最大化する「場」のつくり方

MAKE SPACE メイク・スペース スタンフォード大学dスクールが
実践する創造性を最大化する「場」のつくり方

ホワイトボードを間仕切りにも使うと同時にいろいろなものを書き留める場として、共同作業の核としても活用するとか、さらにはそのホワイトボードの壁や間仕切り自体を作るやり方等、自分たちの研究所の空間構築の手法から、それをさらに活用して学校やオフィス、家庭まで、集中と発散、活動と落ち着きをもたらす場の作り方など、あれこれまとめたのが本書。

挙げられている発想はおもしろそうだし、いかにも楽しげな空間ができているので、作業のあり方にあわせてその空間の質がうまく変えられているのには感心する。当然、図版もものすごく豊富でいい感じ。自分の働く空間がどうも無機質で味気なく、息苦しいと思っている人は、この本を読むといろいろ刺激されると同時に、うらやましく思えるはず。思いついて、実際に形にしてみて、という作業場所と会議場所、オフィス的な空間がシームレスにつながり、そのつながりを自在に変えられるという発想は魅力的。

その一方で……これはイノベーションの起きやすい空間設計、というコンセプトなんだけれど、本当にこういう場でならイノベーションが起きるのかというと……個人的にいろいろいい着想が思いついた場所というのは、飛行機の中だったり、退屈な会議での退屈さのなかでだったり。本書に挙げられている場所は、もちろんデザイナーもどきたちのプレゼンテーションでもあるので、非常にかっこよくスタイリッシュになっているんだけれど、実はそういう場所だからイノベーションが起きるとは言えないんじゃないか、という疑問は昔からある。イノベーションにつながりやすいクリエイティブな空間というのが本当にあるのか、それとも実際のイノベーションはむしろ、居心地の悪さの中からの苦肉の策として生まれるのか—そんなことも、この本を読んで考えてみてもらえればと思う。

ちなみに、この本の主張と一対一ではないけれど、空間を美しくきれいに能率的にとか、そういう発想に対するアンチテーゼとしては、少し前の本だけれどエリック・エイブラハムソン、デイヴィッド・H・フリードマン『だらしない人ほどうまくいく』文藝春秋)をどうぞ。ぼくみたいなだらしない、身辺常にごちゃごちゃして整理のつかない人にはとってもうれしい一冊。片付けや整理にも手間暇かかってコストもかかるし、いいことない(場合も多い)という本。自分の怠惰を正当化してくれる本は常にうれしいもの。

クリエイティブな点では人後に落ちないのが、あの異様な映画『エル・トポ』の監督、アレハンドロ・ホドロフスキー。どう異様かというと……もぐらが太陽を求めて穴を掘り……いや拘束したがりの母親が……いやそれはサンタサングレだっけ? とにかく、まったく説明しようがないわけのわからない、でもすごい映画だったことしか覚えていないや。その監督の自伝『リアリティのダンス』(文遊社)は、本当にめちゃくちゃというかなんというか。カルトな映画監督だから、美術っぽい素養があるだろうとは思っていたけれど、小説も演劇も、役者も人形つかいも、タロット研究も、心理療法家までやっているという常軌/上記を逸したマルチぶり。

伝記も、まずは最初から延々と展開される、自分の家族に対するぎょっとするような空想、著者自身の明らかに正気でないエピソードの数々。読んでいて、爽快な気分にしてくれたり世界を澄み渡らせるような明るいクリエイティブな力の発露などはほとんどなく、異常な人の元に異常な人が集まり、凡人のぼくなどには 思いもよらない異様な世界を作り上げていることがうかがえて、空恐ろしい気分にすらなる伝記だ。

最後のあたりでは彼の心理療法の話がたくさん出てくるんだけれど、こんな人に他人を治療させていいのかと怖くなるくらい。でも、それがまさにあの『エル・トポ』でも感じた気味の悪さそのものだというのもわかる。そしてまさに、それがホドロフスキーの想像力/想像力の源なのだ、ということも。こういうのを読んでしま うと、場所の間仕切りやらホワイトボードでどうにかなるようなイノベーションだのクリエイティブだのは、ひょっとしたら最もどうでもいい種類の代物なんじゃないかと思えてしまい、絶望する一方で、自分がこんな異様な世界に暮らしていないことを感謝したくもなるんじゃないか。天才とナントカは紙一重というけれど、それを実感するには是非どうぞ。よくも悪しくも、戦慄すると思う。未見の方は、まず『エル・トポ』を観てほしい……かなあ。デヴィッド・リンチの映画と同じ、いやそれ以上に見る人を選ぶ映画ではあるんだけれど。

読者を選ぶという意味では、R・A・ラファティ『昔には帰れない』(ハ ヤカワ文庫)も読者を選ぶ。好きな人は心底入れ込むけれど、そうでない人はまったくツボが理解できない作家の一人。ぼくはもう20年以上前から大ファンで、マイナーなファン出版ばかりから出版される彼の作品を、アマゾンもペイパルも、というかそもそもインターネットすらない時代に必死で買い集めたもの だ。彼の本が日本で出るのは本当に久しぶりで、今更感すら漂うんだが、その一方で彼の小説は時代とはまったく関係なく存在し続けるものなので、特に問題はないともいえる。

昔には帰れない (ハヤカワ文庫SF)

昔には帰れない (ハヤカワ文庫SF)

その中身は……これまた説明しにくいんだけれど、自分でも、洞窟時代のホラ話の末裔を名乗っていた作家ではあり、つまらない道徳観にとらわれない登場人物たちの、まさに神話的なお話が次々に繰り出されるといおうか。神話的というのは、荒唐無稽な話かもしれないけれど、でもそこにこの世界のある本質ともいうべきテーマがある、ということだ。それは原型的な人間関係かもしれず、圧倒的に抗しがたい自然の力かもしれず、人間の倫理や道徳とはまったく別種の理不尽ながらふしぎに筋の通った理屈や行動原理かもしれない。神話とはそういうことなんだが、身の回りの一般的な行動原理にはまった小説を求める人にはまったく受け入れられない。自分にそういう感性があるかどうかは、これは読んでみないとわからないけれど、世界のいろんな神話、たとえば日本の神話なんかをおもしろがれる人なら、たぶんいけるんじゃないか。

ちなみに最近、濱野智史『前田敦子はキリストを超えた』ちくま新書)という本が出た。AKB48を宗教としてとらえる試みなんだけれど、この著者には神話や宗教というものへの感性や意識がまったくないことがよくわかる非常に残念な本になっている。著者個人がAKB48を崇拝して貢ぐのは当人の勝手で、そういう信仰告白はありだろう。でもそれを社会一般に敷衍しようというのはまったくのお門違い。宗教ってそんな甘いものじゃありませんから。それは、ラファティの小説がもつ神話性と対比してもらえれば何となくわかるんじゃないかとは思う。読む必要なし。

最後は、中西準子の半生記『リスクと向きあう』中央公論新社)。中西準子は、リスク科学の人で、上下水道処理の研究から既存の広域上下水道の問題を指摘し続けると同時に、リスクをゼロにしろ、と言いたがる理不尽な市民運動も平然と批判する立派な学者。水道水のトリハロメタンダイオキシン問題などでは、一方で行政の不手際と対応不十分を否定しつつ、あるところまで改良が進めばそれ以上を要求することを拒み、市民活動家などから裏切り者扱いされたりする。でも、世の中いろんな危険があって、それをゼロにするのは不可能か、可能でもすさまじいコストがかかる。だったらほどほどのところで止めるのは一つの見識だ。

本書の前半は、その発想を原発事故以後の放射線汚染問題に適用している。食べ物からちょっとでも放射線が検出されたら大騒ぎするのは不毛で、ある程度以上まで抑えたら、それ以上の対応を要求するのはコストばかりかかってまったく意味のある結果がでない。それをきちんと理解してもらうために、チェルノブイリの場合とのちがいをていねいに説明し、今後の放射線対策のありかたについても提言を行う。

そして、後半の彼女の半生記は、中西準子のこれまでの活躍を知らない人にはちょっと興味の外かもしれないけれど、でもこうしたリスクへの考え方がどうはぐくまれてきたか、そしてそれを普及されるために彼女がどこまで奮闘してきたかがわかって、ぼくには感動的だった。ぼくはちょうど、彼女が東大の都市工学科で迫害されてきた時代にその様子を見ていたもので。でも、それとはまったく関係なく、放射線をどう考えるべきか悩む人みんなに読んでほしい。もちろん、放射線を過敏に怖がる人は、こんな中西の主張を「御用学者」と罵倒するだろうけれど、自伝部分を見れば彼女がとうていそんな人間ではないことは、よくわかる はず。

さて、日本に帰ったらどんな本が待っているやら。それではまた次回。